番外編『マルク王の驢馬の耳①』
トリスタンの叔父であるその人は言った。トリスタン、王というものほど孤独な人間は居ないのだと。
私は誰からも愛されるお前とは違って。酷く凡庸で。とてもつまらない人間だ。
そんな私の唯一の取り柄と言ったら王であることぐらいだが。王だからこそ私は常に孤独だったと言えるだろう。
ああ、それでいて欲しいと願うモノさえも。ろくに手に入らぬものなんだ。王さまなんだからなんでも手にはいる訳じゃない。
真実、王である私が強く望めば周りが望みを叶えてくれるだろう。例えばそう。今日の夕飯は鹿肉のワイン煮込みが食べたいと私が言ったとしようか。
すると私の配下は鹿を捕らえに狩りをする。狩りをするにはまず下調べが必要だ。森のどこに鹿が居るのか。狩りに必要な物資は足りているか。そもそも狩りには何日掛かるか。その下調べの為に人員を割かなくてはいけない。
そしていざ狩りをしようという段階になると。猟犬の手配と罠の配置なんかもする必要が出てくる。
勿論、猟犬も罠も。それを飼育する人間。仕掛ける人間が居る訳だ。当たり前のことだけど必要だから用意してくれといって簡単に用意出来るものじゃない。
猟犬だったら育てなきゃいけない。罠なら一から作る必要がある。たった一言のせいで大勢の人間が動かざるおえない。
いや、動くのは人間だけじゃない。私の些細な言葉で。多額の金が流れるし。物が動く。それは何故かと言えば私が王であるからだ。
もしも私がただの村人であったならば。こんな風に誰かが動くことはないし。周囲に及ぼす変化も微々たるものだ。
けれども私が王であるからこそ。周囲に及ぼす変化は。影響はどうしたって大きくなる。王さまだからこそ。おいそれとアレが欲しい。コレを手にいれたいなんて言えないんだ。
私のくだらない一言のせいで誰かが不利益を被り。泣くようなことがあったら。そう思うと私は手が震えるんだ。目の届かないところで誰かが。
善良な人たちが苦しむようなことがあってはいけない。けれどもね。私がそう思っていても周りは違う。誰かが。民が不利益を被り。血を流して苦しんでも。自分たちが担ぎ上げた王が健在であればそれで良い。
少なくとも。自分たちに利益をもたらす間はご機嫌取りになんだって叶えてやろうと。そう考える人間は多くてね。
そんなことを考える人間に。胸の内を晒けだせるかと言われたら無理というものさ。だって彼らは自分に利益をもたらすなら。王さまは誰であっても構わないんだ。
私はご覧の通り。容姿は十人並だし。剣術は下手すぎて指南役にすら匙を投げられるような人間だ。凡庸で凡骨。頭だけはよく回る。そんな私だけど誰かの傀儡になる暗愚にはなりたくない。
己の利益しか考えない輩の言いなりにもなるものかと。王さまになったときに誓ったんだ。凡庸なりの意地みたいなものだよ。だから私は仮面を被ることにしたんだ。
朗らかで。おおらかで。お人好しで。誰に対しても誠実な。温厚で優しい。それこそ驢馬のような人間の顔をするようになった。実際、私は驢馬みたいな人間だと揶揄されてきたから。
王として。そういう風に振る舞う私を訝しむ人間はいなかった。滑稽なぐらいに温厚な優しすぎて民のことばかり気に掛けしまう。ちょっと頼りなくて。支えが必要な驢馬の王さま。
その仮面の下で私がなにを思っているのか。誰も知りもせず扱い易い王だと。
周囲は。配下の大半は考えているだろう。そして君たちが頼りだと笑う私に。自分たちは私から信頼されていると思う。
王になってから誰にも私は心を許したことなどないのにね。例外はトリスタン。お前だった。妹の子であり。森の世捨て人たちに育てられたことで真っ直ぐに。
融通が効かないぐらい誠実な人間に成長し。嘘、偽りを嫌う高潔なお前にだけは。私も胸の内を僅かながらにも晒け出せたし。愚直なまでに叔父である私を慕うお前を可愛がらずにはいられなかった。
それでも臆病な私は本心を。胸の内すべてを晒け出せずに居た。そんな私が初めてこの胸の内を明かしたいと思った相手が出来た。心の底から欲しいと強く求める人間が居た。
トリスタン、お前になら私は私が持つすべてのモノを惜しみ無く与えたいと思っている。
けれども彼女だけは。ブラングェイン嬢だけはお前であってもきっと譲れない。
ああ、だって。彼女が私の初恋なんだからと柔らかに笑う叔父のマルクはトリスタンの目にはまるで少年のように見えたのだ。
コーンウォールの王マルク。人が私という人間を語る言葉はそれだけだ。
優れた武功、来歴がある訳ではない私を語ろうとすればその言葉だけで事足りてしまう。
ああ、いや。私を語る言葉はそれだけではなかったかな。私の身内は。揃いも揃って優秀で華やかな人間ばかりだった。
父はウーサー・ペンドラゴンの従兄弟に当たる人間であり。配下でもあった。
ウーサーがサクソン人の計略で毒殺されて亡くなった直後。各諸侯が次のブリテンの王となるべく動き出すなかで我が父はウーサーから死に際に託されたとしてコーンウォールに入り。ティンタジェル城を占有するとコーンウォールの王を名乗った。
実際のところウーサーにコーンウォールを託されたというのは口から出た出任せだろう。ウーサー亡き後。動乱を迎えるブリテンにあって。一時とは言え蛮族を退け。
ブリテンを統一したことで平穏をもたらしたウーサーの名は王としての正当性を示すには使い勝手が良かったのだ。
数多の諸侯がブリテンの王の座を巡って争うなかで。父はコーンウォールの統治に注力して民の支持を得ていった。
諸侯たちの争いが膠着状態になった時には。父はコーンウォールの王として知られていた。息子である私から見ても父は才気ある人だった。
獅子のように勇ましく戦場で挙げた武功は数知れず。
そんな父の傍らには何時も一人の美しい貴婦人が居た。父と世話役の侍女たちはその女性のことをレディ・ティンタジェルと呼んでいた。
私はその女性を母親だと思っていた。けれども父は私の疑念を直ぐに否定した。
私の母は私を産んで直ぐに流行り病で亡くなったのだと語る。
確かにその通りなのだろう。親子なら多少は似ている筈だけど。私と女性はまったく似ていなかったからね。私は不器量ではないけれど平凡な鳶色の髪と瞳の精彩を欠く凡庸な容姿。
対して彼女は見事な金糸の髪と美しい翠眼を持ち。背筋が寒くなるほどの美貌。私と彼女に血の繋がりがないことは誰の目から見ても明らかだった。
ではあの女性は何者なのかと興味を持つのは当然のことだった。父も侍女たちも。女性が何者なのか語らない。だから私は女性を観察することにした。
女性は。彼女は常に夢と現の狭間で微睡んで居た。微かな笑みを口元に湛えながら私の父が与えたという幼い子供の姿をした人形を腕に抱き。
窓辺や城の庭で目を伏せながら。時おり子守唄を歌っている。意思疏通は出来ず。周囲に世話を焼かれているときも。ぼんやりと此処ではない何処かにその意識は向いていた。
だが常は夢と現の狭間で微睡んでいる彼女がふと目覚める時がある。そのとき彼女は私の父をゴルロイスと呼び。常とは反対に甲斐甲斐しく父の世話を焼きたがった。
その間、父は彼女の好きなようにさせていた。彼女が望むまま。ゴルロイスという人物のように振る舞い。この時だけは彼女を妻と呼んだ。
そしてまた夢と現の狭間に戻り。微睡む彼女を見る父の目は複雑な色をしていたことを私は覚えている。
彼女を憐れみながらなにかを後悔し。そして彼女を慈しむ。
酷く複雑で。子供の私からしたら難解な感情を詰め込んだ目だった。私は訊ねたよ。彼女になにがあったのか。そして一体何者なのかと。父は語った。この人は心を壊されてしまったのだと。そしてこの御方こそがこの城の本当の主だと。
その言葉と父や侍女がレディ・ティンタジェルと彼女を呼んでいたことから。私は彼女が何者なのかを察した。先のコーンウォール王ゴルロイス。
そしてウーサー・ペントラゴンの妻たるイグレーンであると。
何故、彼女の心が壊れてしまったのか。どうして父が彼女の面倒を見ているのか。詳しいことはわからない。けれども父は彼女。イグレーン王妃に特別な感情を抱いていることは感じていた。
私が五歳のときに彼女は。レディ・ティンタジェルと呼ばれたイグレーン王妃は病で死んだ。その腕に玉のように美しい赤子を抱いて。
イグレーン王妃は私の父の子供を宿し。産み落とした。イグレーン王妃が産んだその子は愛くるしい顔立ちをしていた。それこそイグレーン王妃そっくりの。血の繋がりと濃さを示すような顔だ。
名をブランシュフルールと名付けられた私の妹は五歳になったときには母親似の愛らしい容姿でありながら父に似た聡明な子供に成長していた。
才気活発。少しばかりお転婆なところはあるけれども。ブランシュフルールは誰からも愛される子だった。
ただ酷く病弱な質で。私も父もブランシュフルールには過保護だった。
当のブランシュフルールはそれにちょっと面倒臭さを感じてはいたんだと思う。とうさまもにいさまも過保護が過ぎるとブランシュフルールに叱られたことは数知れない。
取り分け。父は彼女によく似たブランシュフルールが。良くない男に目をつけられやしないかと酷く神経を尖らせていた。
父はきっと不安だったんだろうね。ブランシュフルールが不幸になりはしないかと。文字通りブランシュフルールは彼女から託された子供だった訳だから。
父としては絶対に守り通さなくちゃいけないと気負ってもいたことは。大人になった私は理解できる。でも、当時の私は十歳そこらの子供で。
段々と妹との扱いに差が出来てきて。見るからに妹と私に接するときの父の態度が露骨に違うことにね。少しずつ腹立ちを覚えていくようになる。自分だって父の子供なのに。父は妹ばかりを贔屓するってね。
ブランシュフルールは可愛い。大事な妹だ。病弱な質でろくに外を駆け回れないブランシュフルールを可哀想だと思う気持ちに。嘘、偽りはない。
でも、私が次代の王だと厳しく育てられ。時に叱咤されるなかで父に溺愛されるブランシュフルールを見ていると。
どうして妹ばかりが愛されるのだろうかと腹の底がずしりと石を飲み込んだかのように重く冷たくなった。
つい純真無垢に自分を慕うブランシュフルールに冷たい態度を取ってはそれを父に見咎められて叱られて。私はそれに臍を曲げ。またブランシュフルールに冷たく素っ気ない態度を見せて更に父に叱られるという行為を繰り返すようになり。
よくない流れだなぁと自分でもわかっていたのだけれど。自分では腹に溜め込んでしまった苛立ちをどうすることも出来ずにいた。うん、今となっては幼稚だったと省みられるけれど。当時の私はあまりにも子供だった。
ある日。父と大喧嘩をしてしまったんだ。切っ掛けはなんだったかな。覚えていないぐらいだからきっと些細なことだったんだろう。覚えているのは。叩かれた頬が熱かったこと。
その癖、身体の芯が凍りつくような寒さを感じたことかな。きっと。分別のない子供の私は。なにか父の逆鱗に触れることを言って。酷く怒らせてしまったのだろうね。
私を思わず平手打ちした父は見るからに狼狽えていた。父は滅多に激昂することはなかったし。冷静な人だから。まさか自分が子供に手を挙げるとは父自身も思ってもみなかったんだろう。
だが頬を打たれた私も父に負けず劣らず相当な衝撃を受けていた。どんなに厳しく接されていてもね。汝、王となるならば寛容たれ。忍耐強くあれと父から教えられた通りに振る舞ってきた。
でも父にぶたれたときに私がこんなに頑張る必要はあるのかなと思ってしまったんだ。
別に王になりたいと思っていなかったのも悪かった。というよりね、私は真面目に見えるだけで。結構、ちゃらんぽらんというか。能天気な人間なんだ。
王さまなんて自分には向いてないって本当はずっと思ってたからねぇ。むしろなれるものなら養蜂家になりたかった。それはともかく。父と喧嘩した私は考えた。
私ばかり冷たくするのはきっと父にとって大事な子供は妹だけだからなんだってね。
ぶたれた頬を押さえながらキッと父を睨んで。そんなに妹ばかりが可愛いなら。今日を限りに私のような可愛いげのない子供とは親子の縁を切れば良いと怒りに任せて言い放って城を飛び出してしまったんだ。
その時期。コーンウォールの各地で豊穣と夏至を祝う祭が開かれていた。
長い冬が明けて命の息吹が力強く感じられる春とこれから来る夏至の到来を喜ぶ祭りがね。