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第十四話『騎士の名はトリスタン⑥』

叔父の近従から寝台には確かに血が付いていたと聞いていた。それが意味することが分からないほど鈍くはない。ブラングウェインの姐さんはイゾルデ様と俺の為にその身を文字通りに捧げたことを察し。

罪悪感で死にそうになっている俺たちにマルク王は無体を働くことはなく。トリスタン殿から聞かされていた通りの性根の優しい方でしたと苦笑し。だからお二方が気に病むようなことはなにもなかったとブラングウェインの姐さんは言う。


ああ、でも。女性にとって酷なことをさせたことに違いはない。パラメデスがこのことを知れば怒るだろう。


好きではない相手と肌を重ねさせて。挙げ句、処女を散らさせてしまったと知ったら。パラメデスは間違いなく俺を殺しに掛かる筈だ。ブラングウェインの姐さんにそこまでさせたのかとその珍しい紫の。アメジスト色の瞳に凍えそうな怒りを滲ませて。


ブラングウェインの姐さんは困ったように。本当にお二方が気に病むようなことはなかったと告げたあと。パラメデス殿は私が処女を散らしたぐらいでそこまで怒るでしょうかと不思議そうに俺たちに問う。


むしろ、たいした忠義だと褒められるのではと。イゾルデ様は目を見開いて。貴女とサー・パラメデスは。恋仲ではないのかと聞いた。


ブラングウェインは恋仲ではないと否定し。私はパラメデス殿の親友なのですと。友と呼ぶまでの経緯を話して胸を張ったブラングウェインの姐さんにイゾルデ様は額に手を当てサー・パラメデスという人を私はずっと誤解していたと後悔した。


なぜ、この方は。ブランというものがありながら私に恋い焦がれているような目を向けるのか。なんと不誠実な方かと疎ましさすら感じて来た。


けれどもサー・パラメデスは不誠実な方ではなかったと。イゾルデ様がパラメデスに抱いていた誤解がそのときに解けたけれども。


俺がブラングウェインの姐さんをパラメデスがどれだけ大事にしているか話すと改めてイゾルデ様は後悔した。性別や身分の垣根を越えて親友と呼ぶブラングウェインの身に起きたことをパラメデスは許すまいと。


ブラングウェインの姐さんは。これは私自身がよくよく考えて実行したこと。ならばパラメデス殿はそれを咎める真似はしないでしょう。


ただ、優しい方ですから。もっと自分を大事にしないかと叱るかもですねと屈託なく笑い。マルク王の寝室に呼ばれるときは私が代わりに参りましょうとイゾルデ様に告げた。


イゾルデ様は口を開き掛けてブラングウェインの姐さんの強い眼差しに言葉を飲み込み。力なく項垂れた。そのイゾルデ様の頭を撫で。ブラングウェインの姐さんは。


取り合えず。イゾルデ様は早急にチェスに強くなって貰わないといけないかもしれませんと真面目な顔で言い。目尻に涙を滲ませながらイゾルデ様は頭に疑問符を浮かべていた。


なぜ、このとき。ブラングウェインの姐さんがチェスに強くなれと言ったのか。その言葉の意図を俺たちが知るのは随分と後になってからのことだった。


婚礼が終わり。初夜も済ませ。叔父のマルクとイゾルデ様は正式に夫婦となった。俺とイゾルデ様は互いに恋心を持っていることを叔父のマルクを欺き続けた。


叔父のマルクは妻であるイゾルデ様を。妻というよりも娘として見ていた。その美しさに。私が彼女の隣に居て良いものか。私では見劣りするのではないかと悩ましげにしつつ。


敵国に。アイルランドから海を隔てたコーンウォールに嫁いできたイゾルデ様を。常に優しく気遣っていて。心許せる者が側に居る方が心休まるだろうと。


イゾルデ様と共にコーンウォールにやって来た侍女たちがイゾルデ様の側に常に居ることを容認しながら。


イゾルデ様や侍女たちが早く此方に慣れるようにと交流を持ち。身分に分け隔てなく。惜しみ無く言葉を掛けて労った。

そんな叔父にイゾルデ様も侍女たちも親愛を抱いて。尊敬の念を返した。


「そうか。イゾルデ殿は熱を出してしまわれたのか。致し方無い。先頃から冷え込みが強く。春先であるというのに雪もちらついた。」


ある日、叔父のマルクがイゾルデ様のもとを訪れたとき。対応に出たブラングウェインの姐さんの言葉に。

元よりイゾルデ殿は御体が弱いとアングイッシュ王から届いた書状にもあった。どうか無理はなされずにと伝えて貰えるだろうかブラングウェイン嬢と叔父は返した。


「ああ、暖房器具は足りているだろうか。石造りの城は冷えるもの。直ぐに幾つか見繕って持ってこよう。」


「イゾルデ様に代わりにお礼申し上げます。イゾルデ様からは熱が下がったならば。是非、庭で散策を致しましょうと言付かっています。此方の城の庭は春となれば鮮やかな花々が咲き誇るとお聞きしました。マルク様との散策出来る日をイゾルデ様も指折り数え。楽しみになさっています。」


「うん。そうであったならば良いんだけどね。ああ、時にブラングウェイン嬢。貴女の髪は艶のある黒髪だな。貴女によく似た人を知って居る。髪色が違うこと以外は貴女そっくりでね。···ブラン嬢は髪を染めたことは?」


「いえ、この黒髪をからかわれたことがありまして。染め粉で色を変えてみようとしたことはございますが。染め粉は肌にあわないらしく。触れるだけで肌が痛がゆくなりますので染めたことはございませんが···。」


「ああ、すまない。ならばやはり別人なのだろうね。それにしても困ったな。イゾルデ殿をチェスに誘うつもりで来たのだが。」


寝込まれているのではな。そうだ、ブラングウェイン嬢。チェスの相手を務めてはくれないだろうか!!


「イゾルデ殿からブラングウェイン嬢はチェスに強いと聞いている。是非、対戦してみたいと予々思っていたところなんだ。一局、一局だけで構わない。私とチェスをしてくれないか?」


「···私などではマルク様のお相手には。」


「陛下、恐れながらチェスは王族の。そして騎士の教養。侍女如きに陛下が満足する一局など打てよう筈がありません。ですので陛下のチェスのお相手はどうか私めに!」


その場の空気が凍りついたのを。偶々居合わせた俺は見た。言葉を発したのは叔父の側近の一人だが。叔父の側近であることを鼻にかけ。身分が下の者に無体を働いていると耳にしたばかりのことだった。


叔父は柔和な顔立ちの人だ。常に笑みを絶やさず。穏やかな物腰で。誰に対しても気遣いを忘れないし怒ったところなど見たことがなかった。


陛下に怒りという感情があるのかと長年叔父に仕える配下の者たちさえも。叔父は誰かに声を荒げることはなく。それを理由に馬鹿にされても困ったように眉を下げるだけだった。


その叔父のマルクはきっと何時ものように困ったように嗜めるのだろう。ならば俺が代わりに諌めなくてはと叔父を見て驚きを覚えることになる。


鳶色の髪と同色の瞳に震えるほどの怒りを滲ませ。常は柔和な笑みを湛える顔からは表情が抜け落ち。温度のない。低く静かな声音でブラングウェイン殿を馬鹿にした側近に問う。


「私はブラングウェイン嬢にチェスをしないかと聞いたんだ。君には聞いていないし。私とチェスをするかしないか。それを決める権利は君にはない。」


それを決めるのは君でも。私でもなくブラングウェイン嬢だ。重ねて言うが。私はね。ブラングウェイン嬢とチェスがしたいんだ。君じゃあない。


「だって、君は。媚びてばかりの詰まらない手しか打たないからね。ああ、君が身分を盾に侍女たちによくないことをしているという話は耳にしている。いや、きちんと言おうか。聞き取り調査は済ませてある。事実確認もね。」


よくないなぁ。その身分は誰のお陰で得たものだい?私の記憶が正しければ君の御父上が戦場で挙げた武功で手に入れたものであって。君自身が労して手に入れたものではない。


「君の御父上は身分が下の者にも偉ぶらない立派な人だったし。官吏としても優秀だった。戦場で負った怪我が元で隠居してしまったけれど怪我も癒えてきたらしいね。」


私としても隠居は早いと思っていたところなんだ。だから、君。明日からは御父上に出仕して貰うからそのつもりで。


「それから君が無体を働いたせいで心身に傷を負った者たちに賠償を命じる。賠償金が払われ次第君には修道院に行って貰う。私が側近だからと言って甘い対応をすると思ったかい?」


叔父のマルクはにっこり笑い。ああ、トリスタンも居たのかい。なら一緒にチェスをしようかとブラングウェインの姐さんと俺を自室に連れていき扉が閉まるとブハァッと息を吐き。


あー、怒るのって難しいねと側近に見せた冷徹な顔から一転して何時もの朗らかな顔に戻り。自分の頬を軽く揉みながら慣れないことをしたせいかな。


顔がなんだか痙攣してる気がすると目を丸くしたブラングウェイン殿と俺に。私は怒るのは苦手だよとキッパリと告げた。


「でもね、なにも非がない相手をあんな風に悪く言う輩にはちゃんと怒るんだ。苦手だけど。王さまだからね、私は。」


叱らなきゃいけないときは叱るようにしてるよとへにゃりと眉を下げ。つい勢いで連れてきちゃったけれど。嫌なら嫌だと言っていいんだ。無理強いをしてまでチェスがしたい訳じゃない。


「だけどブラングウェイン嬢とチェスがしたかったのは本当のことだから。チェスの相手になってくれたら嬉しい。」


そう弱腰に伺う叔父の言葉に。ブラングウェインの姐さんは悩んだあと。一局だけならと叔父に頷いた。叔父のマルクはチェス盤を窓際のテーブルに置くと。ブラングウェインの姐さんに白い駒を渡した。


貴女には白が似合うからと。ブラングウェインの姐さんはハッとして。なにか言いかけたが静かに微笑む叔父のマルクに。困ったように眉を寄せて小さく笑い。


ならば、忖度なく。全力で御相手致しましょうと白のクイーンを手に挑発するように告げ。叔父のマルクは満面の笑みで。今日こそ貴女に勝とうと黒のキングを盤上に置く。


ブラングウェインの姐さんと叔父の一局は丸一日かけても終わることがなかった。

いつの間にか見物客が叔父の自室に溢れ返るなかで。何度となくブラングウェインの姐さんは窮地に陥るも。


冷静に数十手先を読んで切り抜け。叔父のマルクは終始果敢に攻める手を休めず。一度は沈んだ太陽がまた昇り。


辺りが白みだす頃にブラングウェインの姐さんの白のクイーンが黒のキングを討ち取った。チェスに負けた筈の叔父のマルクは。けれども何処か晴れやかな顔をしていた。


「うん。いやー。負けた負けた。でも当然のことだろうね。君は主である人の為に負ける訳にはいかない。その情の深さと覚悟に私は負けたんだブラングウェイン嬢。」


でもね。私が言えることではないけれど。君はとんでもない無茶をする。私だから乗りきれたようなものだ。


「···君は君自身を大事にすべきだよ。我が身を。命を粗末に扱う真似はよしなさい。」


「マルク様。私はよくよく考え抜いてあの場に居ました。例え、貴方が噂と違い。非道な方であっても。私は私自身の為にあの場に臨み。同じことをしたでしょう。」


その結果。貴方が危惧なされたことになっても後悔はありません。けれども未来ある方々に背負わなくても良い自責の念を抱かせずに済んだ。


「それは貴方が。マルク様が噂に違わぬ優しい気性の聡明な方だったからです。今一度、お礼を。マルク様の御厚情に感謝します。」


「私は優しくなどないよブラングウェイン嬢。ただの弱虫だ。」


一度は失ったモノを想いもかけずに取り戻したことで。もうこの手から取り零したくないと喚いているだけの愚かな人間だ。


「本当に聡明な人間ならばこんなややこしい事態にはなっていない。···いや、いっそなにも分からぬ真の暗愚であれば良かったのか。」


叔父のマルクは嘆息してラングウェインの姐さんとなにか通じあっていることに。どういうことかと疑問を浮かばせる俺に苦笑して。彼女がとてもチェスに強いって話さと盤上を眺める。


時にブラングウェイン嬢。チェスは誰に学んだのか聞いてもと訊ねた叔父のマルクに。ブラングウェインの姐さんは。チェスは騎士のなかの騎士。サー・パラメデスに学びましたと笑った。


嬉々としてパラメデスについて語るブラングウェインの姐さんに叔父は目を丸くし。一瞬、面白くないと言外に伝える顔をした。


直ぐ何時もの柔かな顔つきになって。ブラングウェインの姐さんの話に耳を傾けて楽しそうにして。是非、会ってみたいなぁとほわほわと叔父は笑う。


その瞬きの間に。叔父が見せた珍しい顔に目を見張った俺に。叔父は誤魔化すように咳き込み。


よし、次はトリスタンが相手になってくれるかいとチェス盤を直した叔父に頷きながら。普段は笑みしか見せない叔父の見せた知らない顔に俺は驚いていた。

 

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