月夜の出会い
星の光が霞むほど明るく美しい満月が空の頂点にかかり、真夜中の静寂に包まれたオルティス王国を照らし出す。
貴族街の一角にある侯爵邸では、皆が寝静まる時間帯にもかかわらず、図書室の閲覧机に置かれた蝋燭の灯りの下で一心に分厚い文献を読む令嬢がいた。
さらりと下された腰まである美しいミルクティーブラウンの髪を耳にかきあげ、蝋燭の灯りに照らされた淡いラベンダー色の瞳がゆっくりと瞬く。
ビスクドールのように整ったその顔は、まるで本当の人形のようにほとんど表情を浮かべることはなかった。
シンとした図書室の中には、しばらくの間ページをめくる微かな音とペンの走る音だけが流れる。
ゴーン、ゴーン……
真夜中を指す振り子時計の音に、集中していた少女はハッと顔を上げると本を閉じて慌てて片付けを始めた。
(もうこんな時間…。明日の資料、もう少ししっかり読み込みたかったけれど…)
無表情の中にも疲れの窺える顔色で荷物を持って立ち上がり、少女は自分の部屋へ戻るために図書室の扉に手をかけた。ちょうどその時――。
「え?きゃっ」
ガチャリと扉が外側から開き、バランスを失った少女は目の前に立つ人物に倒れ込んだ。
扉を開けたのは、黒いマントを羽織った漆黒の髪の青年だった。
その青年は咄嗟に少女を支えるが、少女を見て驚いたように息をのんで目を見開いた。
窓から差し込む月明かりにお互いの瞳の色が映し出される。
「君は……」と呟いた青年のミッドナイトブルー――真夜中色の瞳が少女を見つめる。
抱き抱えられているような状態に、少女が離してもらおうと「あの……」と声をかけると、固まっていた青年はハッと意識を戻して取り繕うように笑った。
「あー……、申し訳ない、お嬢さん。お怪我はないですか?」
「だ、大丈夫です。ありがとう、ございます…」
青年はすぐに優しく少女を立たせてくれるが、使用人には見えない非常に整った顔立ちの青年――しかも初めて見る人物がこんな時間にこの場にいる事に少女は疑問をもった。
しかし青年が隠すように庇っている足に血の痕を見つけてハッと目を見開く。
「怪我をされているんですか⁈すぐに手当を…!」
「いやいや、お気になさらず!俺は…」
その時、侯爵邸の母家の方から人々の怒涛と足音が響いて来た。
「ウルティオだ!怪盗ウルティオが現れたぞ‼︎」
「あの足の怪我だ!まだ屋内に居るはずだ!急いで探せ!」
ウルティオ――それは、悪徳貴族から宝を盗む義賊として巷を騒がせている変幻自在の変装の達人と言われる怪盗の名前だった。
風に乗って聞こえてきた使用人たちの声に少女が驚いたように振り返って青年を見つめると、彼は諦めたようにヘラリと笑って両手を上げた。
「怖がらなくていいよ。君に危害を加えたりしないから」
「……」
無言のまま青年をじっと見た少女は、おもむろに青年の手を引いて古い資料を保管している書庫の扉を開けた。
「少しの間、ここにいてください」
驚いているのか抵抗しない青年の背中を押して中に入れると、少女は持っている鍵ですぐに扉を閉めた。
(……執事さんから鍵を貰っていて良かった)
侯爵家の人間が図書室を利用することはほとんどない。資料を探しに頻繁に出入りする少女のために毎回鍵を開けに行くのが面倒な執事が図書室の鍵を預けてくれていたのだ。
少女は近くの閲覧机に持っていた本を置くと椅子に座り、さも今まで勉強をしていたかのようにノートを広げた。
その直後、廊下から慌ただしい音が聞こえてくる。
ノックもなく蹴破るように図書室の扉を開けたのは、ウルティオを探しに来たのであろう使用人と衛兵だった。
少女は驚いたように顔を上げる。
「何事ですか?こんな時間に」
「これはリリティアお嬢様!先程賊が侵入したため捜索中なのです。不審者を見ておりませんか?」
「少なくとも図書室には誰も来ていません」
「念のため確認させていただきます」
書棚の間を使用人と衛兵が確認していく。
最後に書庫の扉に手をかけるが、鍵のかかっている様子に諦めたように手を離す。
「図書室にはいないようですね。失礼いたしました」
「いいえ、捜索頑張ってください」
衛兵たちを見送った少女は、足音が遠ざかったのをしっかりと確認してから書庫の扉に向き直った。
いきなり鍵をかけてしまったけれど、閉じ込められてしまったと誤解していないかと心配しながら鍵を開けて中を窺うと、足を庇うように椅子に腰掛けた青年がにっこりと笑いかけた。
「ありがとう、と言わなければいけないね、お嬢さま」
「いえ、いきなり閉じ込めてしまってごめんなさい」
使用人との会話を聞いていたのか、青年が落ち着いている様子にホッとしながら少女は青年の足元に膝をついた。
そして血の流れる傷に躊躇う事なく手をかざして、そっと祈るように目を閉じた。
「光よ、この者に癒しの加護を」
言葉が紡がれると手のひらからあたたかな光があふれ、傷口を優しく包みこんだ。
そして淡い光の粒子が空気に消えていくと、青年の足の傷は小さくなり、痛みもすっと消えていた。
青年は、大きく目を見開く。
「まさか、光魔法……⁈」
「はい。でも、私の魔法では小さな傷しか治せません。この傷は深くて、完全には血も止められませんでした」
少女はそう言うとポケットから取り出したハンカチでまだ血の残る傷口を強めに縛る。
「屋敷の出入り口は厳重に警戒されていると思うので、朝になったら西門近くの使用人用の出入り口から外に出るのが良いと思います。その時間帯でしたら、食材の搬入業者や通いの使用人の出入りがありますから」
そう言って青年を見上げると、彼は自ら手当をする少女を信じられないように見つめていた。
「あ、りがとう……。
……なぜ、俺を助けてくれたんだ?」
「……怪盗ウルティオは、正義の味方だから……」
少女がこぼした小さな返答に、青年は一瞬ポカリと口を開けて呆けた顔をしたが、次の瞬間にはとても楽しそうに笑い声を上げた。
「ははは!貴族のご令嬢にそんな風に言ってもらえるなんて光栄だな。しかも、今盗みに入っている家のご令嬢に!」
目に涙を浮かべてひとしきり笑った青年の様子に、痛みは大丈夫そうだとホッと息をついた少女は、放置していた本を抱えて青年に振り返る。
「さすがに戻らないと使用人が探しに来てしまうかもしれないので私は部屋に戻りますが、ここはもう誰も来ないと思うので朝まで隠れていてください。万が一また衛兵が来ても、いつも鍵のかかっている書庫の中なら大丈夫だと思いますが、一応鍵をお渡ししておきます。出て行く際に、この引き出しに隠しておいてください」
そうして鍵を机に置いて書庫を出ようとした少女だが、「お嬢さん」という青年の呼びかけに振り返る。
青年は少女の目の前までやってくると恭しくその手をすくいとり、まるで姫君に忠誠を誓う騎士のように跪いた。そしてうって変わって真剣な表情で少女を見上げる。
月の光に照らされる真夜中色の瞳に魅入られるように、少女は全身の動きを止めた。
「今日は本当にありがとう。このお礼は、後日必ず」
そして、青年は固まる少女の手の甲に口づけを落とした。
「!!!」
驚いたようにラベンダー色の瞳を見開いた少女はすぐに自分の手を取り戻す。普段はほとんど動くことのない表情が混乱から微かに赤く色づく様を見られないようにパッと背中を向けると、少女はパタパタと図書室を後にした。
天上で輝く月は、少女の後ろ姿をいつまでも見つめる青年を優しく照らし出していた。