北山の葛藤
今日も早朝から雨が降りしきっていた。じめじめとした空気は不快感を生んで、最悪の気分と合わさって鉛の重しでも結びつけられたかのように心は深く沈む。月曜日の最初から研究室の全員を集めた杉原の表情もいつになく硬かった。
「もう話は伝わっていると思いますけど、土曜日の夜9時頃、石花さんが坂を下った国道との丁字路で交通事故に遭いました。横断歩道で軽自動車に轢かれたのだろうということです。だろうというのは、ひき逃げ事件に発展していて衝突の際に散らばった破片から軽トラックだと特定されたみたいです。断言はできないですけど、石花さんのことなので向こうが信号無視したのだと私は思っています」
「ひき逃げ?ひき逃げだったんですか?犯人は?」
北山が声を荒げて杉原に詰め寄る。研究室のメンバーに共有された第一報では石花が交通事故に遭って意識不明のまま病院に運ばれたという内容だけだった。不幸な事故に巻き込まれた石花に想いを馳せていた北山は途端に怒りで顔を歪ませる。
「目撃者がいないから警察の捜査を待つしかない。幸い、事故の音を聞いた通行人が駆けつけてくれたおかげで石花さんは直ちに病院に搬送されたそうです。ただ、皆も知っての通りこの辺は夜になると極端に人通りが少ない。もしその人が居なかったら」
「それで紅葉さんの意識はまだ?」
「手術は終わって峠は越えたと保護者の方から連絡がありましたが、意識はまだ戻っていないようです。頭部を強く打っているのでいつになるか先生にも分からないと」
「なんで」
現実を突きつけられて北山が頭を抱える。私は言葉を掛けられずに唇を噛む。丸一日が経っても後悔は心の中を渦巻いていた。全てが裏目に出た。ヘルメスは石花の口封じに成功し、私たちは石花を犠牲にした末に何も得られなかったのだ。
石花が一命を取り留めたのは奇跡といっていい。救急隊員が駆け付けるまで大山によって心肺蘇生が続けられ、それが功を奏した。発砲の事実は再び隠されることになった。ライナス財団でも逃げた軽トラックを追っているがまだ発見には至っていない。犯人の特定は困難との見方が有力だった。
「今日以降、実験はなるべく早く終わらせて帰るようにしてください。帰宅が遅くなり過ぎるといつ同じことがあるか分からないので」
杉原の提案は本質な解決に寄与するものではない。しかしながら、こうしたヘルメスの行為を受けてなお、ライナス財団は沈黙を選択したため仕方がなかった。財団にとって石花は単なるヘルメスとの繋がりだった。従って、私に求められたことも回復を祈ることではなく調査の継続である。
「くそ、なんで紅葉さんが」
話が終わって解散してからも北山はぶつぶつとそんなことを呟いてとても仕事が出来る様子ではなかった。研究室の配属から石花にお世話になっていたと話していた。そんな人が生死の境を彷徨っているのだから無理もない。
「大体おかしいだろ。この前、不審者が入ったばかりだ。そいつが見てたのはほとんどが紅葉さんのノートだったんですよね?」
「はい」
「関係あるんじゃないの。紅葉さん、誰かに狙われてたんじゃ。だからあの時にちゃんと警察に相談しておけば。こんなこと防げたかもしれない」
「不審者の対応は間違っていたかもしれません。ですが、今回のひき逃げと関係しているかどうかは」
「そうだけど、納得がいかない」
北山はこの二つの事件に関係があると気付きつつある。立て続けに起こったため直感的に結び付けてしまうのは当然と言える。もはや隠匿するための根回しは意味を成しそうにない。私は自らの正体が疑われることも覚悟して問いかけた。
「そうまで言うなら、石花さんのどの研究が狙われたのか思い浮かびませんか?」
「うーん。あるとしたら最近やってたプロジェクトくらいしか。でもあれは予算が大きくて共同研究の規模も桁違いだから、進捗は頻繁に報告されてた。狙われるデータなんてなかったはず」
「では闇実験の可能性は?研究内容が他のどこかと似通っていて利益相反になっていたとか」
私はしのぶ会で小耳に挟んだ会話を思い出す。梅津はそんな学術界の汚点に悩まされていたという。しかし、北山は首を横に振った。
「紅葉さんは別に何もないと思います」
「紅葉さんは?」
「僕が闇実験しているのは言ってましたよね。実はそれ、始まりは梅津研の人から聞いた話だったんです。根幹のアイデアを思いついてくれたのは紅葉さんだったけど」
「梅津研のアイデアを模倣したということですか?」
唐突に梅津研究室との繋がりに関する内容が北山の口から飛び出てくる。私が膝を乗り出して質問すると、北山は激しく手を振ってその疑いを否定した。
「違いますよ。前にも言った通り、うちと梅津研では住み分けができてる。向こうの具体的な手法は知らないですけど、とある立体が制御された環化物の合成を狙っていると聞いたんです。確かにそれはこれまでに合成例がなくて、新しい反応剤の基礎骨格に使える。石花さんは僕の二核錯体を少し改良することで同じ生成物が得られるんじゃないかって気付いたんです」
「ゴールは一緒だけど、合成のルートが違うと」
「普通のことです。知られた構造をより簡単に作る。それが反応開発の醍醐味の一つなんですから」
北山の説明を受けて私はそういうものなのかと納得する。有機合成の研究では反応の過程に重きを置くこともあれば、有用な生成物の合成を目指すこともある。そんな話を聞いて私の頭に一つの可能性がよぎった。
「そうした実験をしていると誰かに話しましたか?」
「前にも言った通り、闇実験だったので誰にも。どうしてそんなことを?」
「石花さんは?」
私はさらに問いかける。北山は不思議そうな顔をした後に思案を始めた。
「聞いたことはないですけど。あればもしかすると研究ノートに書いてるかもしれません。紅葉さん、学会とかで話したことをそこにメモしてることが多いので」
石花の机はまだ修理されておらず、引き出しに鍵はかかっていない。一度躊躇った北山だったが、そこから研究ノートを取り出すとパラパラと確認を始めた。
「こうやって紅葉さんは色々と書き留めてるんです」
「まるで日記みたいですね」
「アイデアは日付と一緒に書いておかないと、後になってどっちが先に思いついたかってことで揉めた時に主張できないですから。えっと、三月末以降のページを見ていけばいいから」
情報の捜索は北山に任せる。そうしてしばらくすると何かを見つけた。
「5月末に記述があります。多分、産学官のフォーラムに参加していたときだと思います」
「何が書いてありますか?」
「どこかの企業の人が偶然同じような環化生成物の話題を出してきて、それで少し話したと」
「誰だか分かりますか?」
「さあ、企業の人としか。合成の目途が立ちそうと話したら興味を持ってくれたとありますね。確かにあの頃にはもう基礎はできてました」
北山はその後も石花の研究ノートを読みふけって感傷に浸る。私はそんな北山の隣で新しい不安に悩まされていた。それは、北山の闇実験こそがヘルメスの狙う研究ではないかということである。石花が思いつき、石花のみがこの研究について対外的に発信する機会を持っていた。これだけを見れば石花の研究だったと思われてもおかしくない。しかし、研究室に侵入した不審者は石花の実験ノートを調べると同時に他のメンバーの机も漁っていた。ヘルメスが真の重要人物に気付いたということも考えられなくはなかった。