実力行使
「え、警察に連絡してないんですか?」
「ああ」
しのぶ会の翌日、杉原に呼び出された私と石花はもう一度、不審者についての説明を行った。一度目は警備員と杉原が駆けつけた時に行っていて、終わり次第帰宅を命ぜられたため後処理がどうなったのかは知らない。てっきり警察に相談したものと思っていた石花は驚いていた。
「確かに不審者が居たんだろうけど、何も盗まれてない」
「でも不法侵入ですよ?」
「その辺は大学が監視カメラで調べてる。部外者が建物にどう入ったのかは調べないと」
杉原は私たちに向き合うことなくパソコンで作業をしながら回答する。どうやら大事にするつもりはないらしい。そう分かって石花は珍しく不満気だった。黙って聞いているだけのつもりだった私は仕方なく口を開く。
「建物であれば誰かが扉を開けた時に一緒に入るということができます。実際、そんなところを何度も見ていますから。ですけど、居室に入るためには鍵が必要です」
昨日警備員が来るまでに調べたところ、居室と実験室の窓や扉に異常は見られなかった。施錠を忘れていた場所から侵入したとも考えられるが、事件がしのぶ会と被ったことを偶然と片付ることはできない。
「それもまだ分からないけど深刻になる必要はない。ノート見られただけなんでしょ?」
「実験ノートですよ?」
「それでアイデアを盗んでも意味がない。こっちが先に論文を出してしまえばいいんだから。もし先に出されたとしてもその研究室の誰かが犯人だって分かる」
杉原はそう無理矢理に納得させようとしてくる。単純な研究競争しか知らないためにこんな言い草になっているのか。そう思った私だったが隣の石花を見て違うと分かる。石花はまだ食い下がるつもりでいた。しかし、その後すぐ二人して教授室から追い出されてしまった。
「絶対おかしいよね」
「そうですね」
「先生、何考えてるんだろう」
石花は怒った顔のまま居室に戻る。中は元通りとなっていて、土曜日にもかかわらず数人の学生が仕事をしている。その中には北山もいた。
杉原が何か不都合な事実を持っていて、それを隠すために警察沙汰を嫌がっているのか。私はヘルメスとの繋がりを疑ってみるが現実的な考察ではなかった。ヘルメスの狙いが石花の研究内容だったとしても、杉原ならば簡単にその情報を手に入れられる。仮に闇実験という形で隠されたデータを手に入れるためであっても、不審者として振る舞う理由は一つもなかった。
「杉原先生、面倒なことは全部後回しにする癖あるからね」
席に戻ると北山がそんなことを教えてくれる。それが学生の安全に責任を負っている者の考え方かと文句を言いたくなるが、大学には研究以外のことに全く興味を示さないという人間も多い。ただ、それにしても無責任な態度だったことに腹を立てた私が勢いよくパソコンを開くと、北山が続けて話しかけてきた。
「それで聞いた話なんだけど、高橋さんが紅葉さんを庇ってくれたんだって?」
「え?」
「不審者と出会っちゃったときにパッと腕を引いて遠ざけてくれたって。紅葉さん、ああいう人を彼氏に欲しいって言ってましたよ」
「ちょっと何話してるの」
話を聞きつけて石花が割り込んでくる。その顔は少し赤くなっていた。ただ、感謝される資格など私にはない。石花が危険に晒されていることを知っていながら、ライナス財団は自らの思想を優先して警告を見送っているからだ。
「でもありがとうございました。あの時、誰かいるって気付いてもそれが危険な人だなんて私には分からなかったです」
「電気が消えて流石におかしいと思っただけですよ」
「誰だ、って叫んでたのも格好良かった」
「へえ高橋さんが。物静かな人だと思ってたけど、そう聞くと僕も見てみたかったな」
北山は面白いもの見たさにそんなことを口走る。ただ、私の仕事は命のやり取りに直結しているため面白おかしく話すことではない。知らないのだから仕方ないが、牽制するように横目で視線を流すと北山は苦笑いした。
「じょ、冗談ですよ?」
「分かってます。この測定結果のことで聞きたいことが」
私は研究の内容に話題をそらす。まだヘルメスが諦めたとは限らない。むしろこれから過激さを増していくことも十分に考えられ、呑気な話をしている余裕はなかった。
この日は夕方に研究室を離れることになったが、それからも外から石花を見守っていた。ヘルメスが次にどんな行動に出るか分からない中、常に最悪のシナリオを念頭に置いている。石花が帰路についたのは午後9時を回った頃だった。
私は石花と距離を保ちつつその後ろをついていく。キャンパスは小高い丘にあるため、目の前の道はなだらかな下り坂となっていてそれが平地の国道まで続いている。この時間になると他の歩行者や車はほとんどなく、虫の鳴き声だけが響いていた。
国道に出ると石花は信号に引っかかって足を止める。空き地の物陰に隠れた私は周囲に目を光らせて不審者を警戒した。石花のアパートはここから国道沿いに数分歩いた先にある。今日も大丈夫そうだと思っていると、信号が赤から青に変わった。
そうして石花が横断歩道を渡り始めた時だった。下ってきた坂の上から一台の軽トラックが走ってくる。目についた理由は車道が街灯で明るいにもかかわらずヘッドライトをハイビームにしていたからだった。進む先は赤信号だが甲高いエンジン音が大人しくなる気配はない。石花も異変に気付いて坂の上を見つめる。その足は止まってしまっていた。
「石花さん!逃げて!」
軽トラックを見つけてすぐに物陰から飛び出していたものの、車両の方が圧倒的に速い。次の瞬間、車体は横断歩道に突入していた。人がはねられる音は初めてだった。大きな衝突音とともに舞い上がる靴を見て息が出来なくなる。私は拳銃を抜いた。
「高橋さん駄目だ!」
インカムから大山の声が響く。しかし、止められなかった。私は軽トラックのリアガラスに見える運転者めがけて発砲する。二発撃ったところでトラックはレンジ外に出ていく。両方とも命中してガラスに穴はあいたが、軽トラックはアクセル全開のまま国道を逃げていった。
「発砲!繰り返す!発砲!石花さん!」
石花は横断歩道から数メートル離れた歩道の上に倒れていた。頭部から出血があり、特に左半身に多数の骨折が疑われる。呼びかけても反応はなかった。
「大山!救急車!」
「もう呼んでます!高橋さんはそこから離れてください!自分が引き継ぎます」
「心肺停止!CPR!」
私は心の中で謝罪しながら心臓マッサージを始める。無意識に唇を噛み切ってしまい血の味が口の中に広がる。一分もしない内に大山が駆けつけた。
「高橋さん代わります」
「お願い」
私は場所を明け渡してその場で立ち呆ける。手のひらについた血が冷静さを失わせ、激しくなる呼吸を制御できなくなった。ただ、大山の声で強引に現実に引き戻される。
「高橋さん!急いで!」
「分かった。お願い」
私は大山を残してその場を後にする。日常を共にしていた分だけ衝撃は大きい。石花の笑顔が脳裏に蘇ると、かつてヘルメスに相棒を奪われた瞬間がフラッシュバックして吐き気に襲われた。まだ仕事が残っている。フラフラと走る私は何度も自分にそう言い聞かせながら石花のために祈った。