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セレンディップの化学者たち  作者: 配線トルーパー
3/7

石花紅葉

 杉原研究室に来て三日目の午後、私は思いもよらないタイミングで石花と二人きりになる機会を与えられた。ある測定機器を使うにあたって石花が付き添ってくれることになったのだ。石花と会話を交わすことはこれまでにも何度かあった。しかし、いつも近くに誰かがいたため事件に関する探りは入れられなかった。調査が停滞していた私は新事実の発見に意気込む。

 「北山君、忙しいみたいですね」

 「そうみたいです。すみません、お手数をおかけします」

 「全然。NMRの測定自体はしたことありますよね?」

 「はい」

 「であれば、うちが使ってるソフトの使い方さえ覚えられれば大丈夫だけですから」

 杉原研究室ではこの装置を他の研究室と共同で使用している。測定室の場所は既に北山から教わっていたが、実際に操作するのは今回が初めてだった。昨日から始まった実験の最初の分析であり、教えてくれるはずだった北山が実験で忙しくなったため石花が代役を買って出てくれている。

 「石花さんはお忙しくなかったですか?」

 「気にしないで。私は夜型だから明るいうちはスローペースというか」

 エレベーターホールまで歩いて石花がボタンを押す。二人きりになっても気まずい雰囲気は流れない。石花は笑顔を絶やさない性格の持ち主で、私は一歩踏み込んでも問題ないと判断する。

 「北山さんから研究室の人のことを色々と聞いた時、石花さんは天才なんだと言っていました」

 「あはは、そんなことないよ。北山君は買い被りすぎるから」

 「ここに来る前に論文を拝見しました。数が多いのにどれも中堅以上の雑誌に投稿されていて凄いなと。幾つかはハイインパクトファクターのところに出されていましたし」

 エレベーターが到着して乗り込む。扉が閉まった後、石花はそれは関係ないよと首を横に振った。

 「成果は運の要素も多いです。最初に貰うテーマとか適切な助言を受けられるかとか。論文だって全部が私だけで思いついたアイデアじゃない。皆のおかげなんです」

 「他の研究室の人とも議論があったりするんですか?」

 「ありますよ。うちの先生、顔が広いからそのおかげで色んな先生と話す機会があって。最近は悲しいこともあったけど」

 「悲しいこと?」

 私は表情を変えることなく、心の中で食いついたと叫ぶ。これは梅津のことで間違いない。石花と梅津の関係性を調べる絶好の機会を迎える。

 「梅津先生っていう那古大学で教授されてる方がいるんですけど、二週間くらい前かな、突然お亡くなりになってしまって。杉原先生と出身研究室が同じということもあって特に仲が良かったんです。この前の五月にもそれぞれの研究室メンバーが集まって合同ミーティングを開いたばかりでした」

 「名前を窺ったことはあります。事故かなにかで」

 「自殺だったって聞いてます」

 「そうでしたか」

 エレベーターを降りて廊下を歩く。石花の雰囲気が暗くなっているのは私のせいだが、それを悪いと思う前に表情の変化ひとつ見逃すまいと横顔を観察する。私が知りたいのは二人の間に同じ畑の研究者ということ以外の関係性があったかどうかである。

 尋問であればこの時間を有効に活用しなければならない。相手を思い悩ませることで情報が引き出しやすくなるのだ。しかし、石花の沈痛な面持ちからは親しい人を失ったという感情しか読み取ることができなかった。何も得られなかったことで酷なことをしてしまったと少し後悔する。

 「その方のためにも研究進めないといけませんね」

 「はい。杉原先生も同じことを言ってました」

 測定室の前で石花に笑顔が戻る。私はどうしてこんな人がと疑問に思いながら靴を脱いで先に入室した。部屋に入ると複数のNMR装置が壁沿いに並んでいる。私が予約をしていた装置の前では今も一人の男が作業を続けていた。

 「石花、ごめん。ちょっと押してる」

 「うん。多分大丈夫、ですよね?」

 「はい」

 「あれ、その人は?」

 パソコンの画面上には測定終了まで残り1分とある。石花は私に測定準備の手順を教えながら答えた。

 「うちに最近来た企業の人。反応と実験操作の勉強に」

 「そうなんだ。自分は石花の同期の鈴木といいます。同じ有機系だけど全合成やってます」

 「初めまして。宇田化学の高橋といいます」

 社交辞令で挨拶をすると、ちょうど測定が終了して結果のスペクトルが映し出される。鈴木は簡単にそれをチェックした後、装置から自分の試料を取り出した。鈴木が離れると、今度は私は試料をセットする。

 操作手順を石花に教わり、実際に測定が始まると終わるまですることがなくなる。その間、石花と鈴木は雑談を交わしていた。同期ということもあって仲の良い雰囲気を感じ取ることができる。仕事上、石花に接近する人間には注意しなければならない。ただ、鈴木は最近になって石花と知り合ったというわけではなく、事件との関連性は低そうだった。

 その後、鈴木は自分の研究室に戻っていき、私たちも測定が終わると実験室に戻る。その途中、石花は隣の研究室に留学生として来ているアメリカ人に捉まって、私は先に一人で戻ることになった。英語のコミュニケーションも石花はそつなくこなすようで、聞こえた会話の冒頭はまた同じフロアの学生で飲み会をしようという内容だった。

 「ごめんなさい。反応回してたのすっかり忘れちゃってて」

 「いえ」

 実験室に入ると手を合わせた北山が謝りながら寄ってくる。自分の作業は一段落したようだった。

 「ちゃんとモノはできてました?」

 「これから確認しようかと」

 「じゃあ一緒に見てみますか」

 実験室に試料を置いて、二人で居室に入る。今は全ての学生が出払っていて、こちらの部屋には誰もいなかった。測定データはサーバー上にアップロードされるため個々の端末から確認することができる。席についてファイルを開いてみると、スペクトルの結果が表示された。

 「あ、上手くいってますね。良かった」

 北山は結果を見た瞬間にそう判断して笑顔を漏らす。ただ、私がこうしたスペクトルを解析していたのはもう五年以上も前のことであり、そう簡単に判断することができない。困っていると北山がノートの構造式と照らし合わせながら補足してくれた。

 「ここがここのプロトンでしょ。それで、ここがこれで。積分してみて」

 「はい」

 言われた通りに解析を進めていく。そうして北山と同じ視点にようやく立つことができた。私がその結果を実験ノートに記入していると、隣で北山が不思議そうな顔をする。何を言いたがっているのかはすぐに分かった。

 「仕事ではもっと簡単な解析しかしないので」

 「そうなんですね。でも、薬学部出られてるんでしたよね。その時には?」

 「会社よりは複雑なことを。けれど、生体分野に寄っていたというのと、大分昔の記憶なので思い出すのに時間がかかって」

 「まあ、大丈夫ですよ」

 「すみません。部長が思い立ってとんとん拍子だったもので」

 北山はこの研究室に来た割に私の知識が乏しいことを疑問に思っているのだろう。私は怪しがられないように存在しない人間に責任を背負わせて追及から逃げた。実際、上からこの指示があった時は抵抗があった。しかし、手掛かりが少なかったため背に腹は代えられなかったというのが本音である。

 「構いませんよ。うちとしてはこれが貰えれば。別に困ってるってわけじゃないけど」

 北山はそう言いながら右手でお金のハンドサインをする。確かに、私の受け入れに当たって名目上は架空の宇田化学から協力金が支払われている。唐突に決まった話だったため、それなりの金額を積んだという話を鷺川から聞いていた。

 「お手数をおかけします。北山さんも自分の実験お忙しいのに」

 「忙しくなる時間があるだけで、一段落すれば暇になるので。今だって」

 「順調に進んでるんですか?」

 「まあ、それなりに」

 「確か石花さんの助言があってと言ってましたっけ」

 私は椅子に座ったまま、着ていた白衣を脱いで背もたれにかける。今日の私服はデニムパンツにグレーのシャツという構成となっている。全て鷺川に決めてもらったものだ。

 「あまり大きな声で言えないけど、今やってるのって実は闇実験なんです」

 「いわゆる内緒でやる実験ですね」

 「そう。メインでやってることから派生すれば、こんな面白いこと出来るんじゃないって紅葉さんに言われて。半信半疑だったけど紅葉さんが言うならと一回やってみたら面白い結果が出ちゃった」

 白衣を着たままの北山は背もたれに体重をかけて椅子が軋む音を楽しむ。具体的にはよく分からないが、その発見も石花だからこそできたのだろう。北山の顔に悔しさはなく、純粋に尊敬していることが見てとれた。

 「それが天才の所以ですか?」

 「それだけじゃないけどね。紅葉さんが今やってる研究はもっと凄いよ。何しろ、なんか大きな予算取ってきちゃったから。先生もそれにめちゃくちゃ期待してて」

 「思いつくものなんですね」

 「本当に不思議。僕のやつは何がきっかけだったっけな。ああそうだ、確か年度末の学会で面白い話を聞いて、帰って来てから紅葉さんに土産話がてら雑談で話したらぱっと思いついちゃって」

 「でも実験してたら周りの人、闇実験してるって気付くんじゃないですか?」

 「いやいや、人が仕込んでるのなんて見たって何してるか分かんないよ。そもそも興味ないし。でも、結果出ちゃったから次のミーティングでは大々的に報告だろうな」

 「先生にもまだ」

 「まあね。でもよくあることだよ。大抵の闇実験はお蔵入りになるんだけど、上手くいったときはこんなのやってみたら出来ちゃいましたって言って。先生もおおそうかって喜んで終わり」

 恐らく石花や北山にとって研究は天職なのだろう。私はこんな道を選ぼうとも思わなかったため、楽しそうに話す北山を見ていて羨ましく感じる。しかし、復讐心だけでライナス財団に入ったことを後悔しているわけではない。

 そうして話していると、伊勢が実験室から戻ってくる。伊勢と北山は同期だが、この数日の観察で二人の仲があまり良くないことは掴んでいる。理由は分からないが、闇実験の話もそこで終わった。

 「それじゃ、洗い物しちゃいますか。それで、明日の実験の準備して終わりって感じで」

 「分かりました。ノートを作ってからします」

 「おっけー。それじゃ僕は向こうに戻ってるね」

 北山はそう言って実験室に戻っていく。私は詳細にノートを作りながら本来の仕事の進捗について考える。今のところ、ヘルメスが石花に接近している兆候はない。ただ、こちらにも現状を打開する策は何もなかった。

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