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セレンディップの化学者たち  作者: 配線トルーパー
2/7

杉原研究室

 「前に言ってましたよね。今日から一か月間うちに実験を学びに来た宇田化学の高橋さんです」

 「よろしくお願いします。高橋です」

 居室の入り口近くには五人の学生が集まっている。少し眉をひそめた杉原によって紹介された私は彼らの前で小さく頭を下げた。今の時間は午前10時過ぎ。この時間が杉原研究室の始業時間らしいが、ネームプレートは今も半分ほどがひっくり返されていない。居室を見渡してみると机が所狭しと並んでいて、席によって整頓具合は異なっていた。

 「じゃあ、下の学年から自己紹介お願い」

 「はい。修士1年の上野です。よろしくお願いします」

 「修士2年の佐藤です」

 自己紹介といっても名前を告げるだけのイベントである。私は毎回会釈をしつつ、顔と名前を一致させながら覚えていく。決して風貌が派手な学生はいない。それでも言葉で言い表しにくい個性的な雰囲気が記憶の助けになってくれた。

 「博士2年の伊勢直哉です」

 「同じく北山です」

 「この北山君が高橋さんの実験補佐をしてくれることになってます」

 「よろしくお願いします」

 北山も街中を歩いていれば目立つことのない種類の人間だが、この中では一番陽気な雰囲気を感じ取る。ただそれは、世話係を任せられたために無理をして愛想よく振る舞っているからかもしれなかった。ワックスで髪を固めているのかと思ったが、よく見てみるとただの寝癖だった。

 「私は博士3年の石花です。よろしくお願いします」

 この中で紅一点だった石花が最後にお辞儀をする。博士課程3年ということはよほどのことがない限り最低でも27歳となるが、石花はその童顔のためか少し幼く見える。第一印象といえばそれくらいで、ヘルメスファミリアのような犯罪組織と関係しているようには感じられなかった。

 私が身分を偽って杉原研究室に来た理由はまさに石花を調べるためである。ライナス財団は必死に梅津とヘルメスの関係性を明らかにしようとしているが、当人が死亡したこともあって現在のところは難航しているという。唯一握っている手掛かりは私が死の間際に聞いたあの言葉だけで、それが今回の潜入捜査に繋がっていた。どうして石花紅葉だったのか。何を謝っていたのか。目の前に立つ石花がその謎を解いてくれることを期待する。

 「それじゃ解散ということで。北山君、後はお願いね。何かあればこっち来てくれたら対応します」

 「はい」

 教授という役職はやはり忙しいのか、杉原は北山に全てを任せると足早に教授室へと戻っていく。この少し前に杉原と滞在中の方針を話し合うタイミングがあったが、そこでも軽い雑談ばかりで具体的な話は何もしなかった。杉原がいなくなると学生も各々の作業に戻っていく。私は北山に手招きされて圧迫感のある居室を移動した。

 「ここの席使ってください。ノートパソコンはこれで、必要なアプリとか解析ツールが入ってることは昨日確認しておきました。座ってください」

 「はい」

 もともと空席だったと思われる机の上には少し古い型のMacが置かれている。右隣は北山の席で机の上は書類やファイル、白衣などでごった返していた。石花の席はというと、後方の通路を挟んだ向かい側で非常に整頓されている。本人は既に白衣を身に纏って隣の実験室にいた。居室と実験室は壁で仕切られているが、その上半分がガラス張りになっているため中の様子を確認することができる。行き来は中央の扉から出来るようになっていた。

 「二核錯体の反応全般を網羅的にって先生に言われてるんだけど合ってますよね」

 「そうです」

 不意に問いかけられて私が短く返事をすると、北山は困ったように苦笑いを浮かべる。その手にはファイリングされた大量の資料があった。

 「いや、先生それだけしか言ってくれなくて。でもそれだと実験計画立てられないので。だから高橋さんに決めてもらおうかと」

 「私にですか」

 「うん。この中から」

 そう言われて私は大量の資料を受け取る。ペラペラとめくってみると難しい反応式と実験手順が書き連ねられていた。内容については全く頭に入ってこない。

 「明日までに決めてくれたらいいです。今日は来てばっかりだし、午後は実験室と測定室を案内しようかなと思ってるので」

 「分かりました。見ておきます」

 「それじゃ、僕も少し実験してきます。パソコンも勝手に使ってください。検索とか」

 くしゃくしゃの白衣を羽織った北山はそう言い残して実験室に向かう。私はそれを見送ってから資料を一枚目から眺めることにした。

 ヘルメスファミリアという薬物犯罪組織と対峙するため、化学についての一通りの教育はライナス財団で受けている。それに加えて、私はもともと薬学部出身ということもあり、大山や他のエージェントに比べて化学に精通している。そんな背景もあってこの仕事を任されることになったわけだが、同じ化学といっても畑違いだったためその景色は見慣れない。

 どれを選べばいいという基準を持っていなかった私はひとまず石花が使っている金属触媒と同じものを探すことにする。下調べとして石花が筆頭著者となっている論文にはある程度目を通してあり、そこに記載されていた構造と同じ触媒を選ぶという作戦だった。その傍ら、作業をしている石花の様子を窺って人物像の把握にも努める。

 そんなことをしているとあっという間に時間は正午近くになった。決まった休憩時間はなく、各々が手隙になり次第休憩を取っていく。勝手に動くこともできずにいると、北山が食堂に連れていってくれることになった。

 「スーツ暑くないですか?」

 「いえ、別に。変ですか?」

 「まあね、もう7月ですし。初日だからいいんですけど、明日から私服の方が良いですよ。スーツに白衣は絶対しんどいんで」

 「分かりました」

 スーツを着ているのは慣れているためというのが一番の理由だが、もう一つは拳銃を隠し持ちやすいからである。この仕事をしている限り、いつ命を狙われてもおかしくない。ヘルメスは武装した傭兵を雇うことが多いため、武器の携帯は必須だった。ただ、不審がられることは避けなければならず指示に従うことにする。

 「一つ質問があるんですけど」

 「なに?」

 研究室から5分ほど青空の下を歩いて食堂に到着する。丁度昼食時ということもあってそこには行列ができていた。二人で最後尾に並んだ後、北山に問いかける。

 「石花さんってどんな方なんですか?」

 「紅葉さん?あれ、教わるの紅葉さんの方が良かったです?」

 「いえ、そうではなくて。研究室のパブリケーションの欄を見てたんですけど、石花さんだけ断トツで数が多かったので」

 「ああ、そういうことか」

 北山はなるほどと相槌を打って笑う。私も大学の研究室に在籍していたことがあるため、学術論文を通すことの大変さはよく知っている。博士課程3年ということは研究室配属から6年目ということになるが、石花が筆頭著者の論文の数は優に10を超えていた。これは並大抵のことではない。

 「先に言っておくけど、いわゆるサラミとか後輩の成果を吸い取ったりとかじゃないよ。どれもそこそこのところに出てたでしょ?」

 「ええ」

 「紅葉さんは正真正銘の天才だから。そういう身内ネタじゃなくてまじもんの天才。本当に凄いよ」

 北山は私と目を合わせて本当だからとさらに念を押してくる。天才には定義がないため太鼓判を押すことは難しい。しかし、北山の穏やかな口調を聞いていると自然と納得してしまった。

 「僕の直属の先輩でもあって今日までずっと教えてもらいっぱなし。僕が今やってる研究だって、きっかけは紅葉さんの発想だったし、本当に頭が上がらないよ」

 「やっぱり凄い人だったんですね」

 「自分ではなんてことないって言ってるんだけどね。皆、新しいアイデアを思い付いたらまずは紅葉さんに聞いてもらうんだよ。先生だって新しいテーマの所感をこっそり聞いてるらしいし」

 石花は教授が一目置くほどの頭脳を持っているという。それが今回の事件と何か関係しているのではないかと私は安直に考えてみる。例えばその頭脳が狙われているという可能性や、ヘルメスが流通させている薬物の秘密を運悪く知ってしまったという妄想など。しかし、どれも現実性に欠けていて、結局は方針通り梅津と石花の関係性に焦点を戻すことにした。

 現在までに分かっていることは二人が同じ研究分野に属しているということである。自殺した梅津もいわゆる有機金属化学と呼ばれる分野の研究者だった。杉原とも親交があったと分かっている。ただ、その筋から本格的に調べるのはもう少し時間を置いてからでなければいけない。

 梅津が謝罪したということから、石花がヘルメスに狙われている可能性は高い。つまり、ヘルメスの息がかかった人間がどこかに潜伏しているかもしれず、そんな中で派手に動けば石花を危険に晒す恐れがあった。ライナス財団は決して人命保護を優先して活動しているわけではない。事件解決のためにも焦りは禁物だった。

 午後は北山から研究室の案内を受け、残った時間で翌日の実験内容を決めた。そうして一日目が終わり、日が落ちても当然のように居残り続ける学生を横目に私は研究室を後にする。ただ、これで仕事が終わったわけではない。建物から出ると人気の少ない駐輪場に向かって大山に電話を掛けた。

 「お疲れ様です。学生に戻った気分はどうでした?」

 「冗談はいい。どうだった?」

 「今のところ不審な点はないですね。石花紅葉は一度昼食を買いに出ただけで、残りの時間はずっと研究室で過ごしてました。キャンパス内で無作為に撮影した顔写真も現時点ではデータベースとヒットしてません」

 「そう」

 相棒の大山は私が杉原研究室に潜入している間、バックアップ要員として外で待機している。万が一、ヘルメスが実力行使に出た場合は救援に駆け付ける算段になっていた。

 「梅津の方は?」

 「二週間経ちましたけど、あっちも何も出てこないみたいですね。高橋さんが撃った男もまだ集中治療室にいるみたいで警察も話を聞けてないみたいです。梅津とヘルメスの関係も手掛かりゼロです」

 「分かった。あと、鷺川に連絡して明日までに私の拠点に私服を準備するよう言っておいて」

 「私服ですか?」

 「スーツは目立つから。今日中に報告書は出す。それじゃ切るよ」

 大山との電話を半ば強引に切断した私はバス停に向かう。今日の進展は石花と知り合ったことだけである。一日を通して普通の大学院生にしか見えず、先行きは不透明だった。

 それに慣れないことをして体が疲れていることを実感する。明日からは毎日こんな生活が続くため、今日は早めに休むことにした。

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