口封じ
早朝の張り込みはいつも睡魔に襲われる。セダン車の助手席に座る私は欠伸を噛み殺して道路を挟んだ先のマンションを睨み続けていた。隣には相棒の大山がいてこちらは大きく口を開いて目尻に涙を溜めている。ランニングや犬の散歩で誰かが近くを通る時は、倒してあるシートに横になって体を隠す。徐々に辺りが明るくなってきてそんな回数が増えてくると起き上がること自体が億劫になってきた。
「それにしても大学の教授となるといいところ住んでるんですね。この梅津さん」
「みたいね」
大山がポケットから一枚の写真を取り出し、一瞥するとすぐに戻す。その写真には私たちが動きを追っている梅津という男が映っている。大学のホームページに載っていたものらしく、笑顔が似合う恰幅の良い初老の男性だった。見張っているマンションは15階建てで、全面がガラス張りのエントランスは一般人を寄せ付けない高級感がある。このマンションだけでなく、ここの地域全体が高級住宅街となっていて目に映る自家用車の多くが外車ばかりだ。ボサボサ髪でヨレヨレのスーツを着た女が近づくだけで通報されるかもしれず、迂闊に車から出て体を伸ばすこともできなかった。
「ん、車だ」
サイドミラーを見ていた大山がそう言って身を伏せる。体を倒しながら確認すると、やって来たのは白の軽バンだった。私たちの車の横を通り過ぎながら減速を始め、ハザードを付けてマンションの前に停車する。中から出てきたのは黒の帽子を深く被った二人の男だった。スライドドアを開けて一人ずつ段ボールを手にした後、会話を交わしながら移動を始める。
「一応、撮っておきますか」
大山は後部座席に手を伸ばしてカメラを取る。顔をはっきりと撮影するためにこのカメラには大きな望遠レンズが取り付けられている。車内が狭いため、大山は体を助手席側に大きくくねらせて撮影を始めた。二人の男はまっすぐマンションのエントランスに消えていった。
「鷺川さん、大山です。写真データ送ります」
大山は早速撮影したデータを本部にアップロードして、装着しているインカムからオペレータの鷺川に報告を行う。大山はカメラを再び後部座席に置いて腕を組んだ。
「こんな時間に荷物の配達なんてあるんですかね」
「さあ。大手の宅配業者じゃないみたいだけど」
「私服でしたもんね。でもアマゾンとかああいうのなら私服か」
時計を確認するともうすぐで6時という時間である。確かにこんな早朝の宅配は普通ではなかった。しばらくすると二人のインカムに鷺川の声が入る。
「照合の結果、あの二人は以前にもヘルメスの傭兵として雇われていた男でした。急いで止めてください」
「まじか」
報告する鷺川の声は淡々としていたが、それを聞いた大山が車内で叫ぶ。状況が緊迫化したことで睡魔は一気に吹き飛んでしまい、腰のホルスターをスーツの上から触ってから降車する。道路を横断してマンションの敷地に入ると、出勤の早いスーツ姿の中年男性とすれ違った。
「鷺川さん、エントランスの暗証番号は」
「アスタリスクの次に1081と押してください」
大山は指示通りにインターホンを操作する。ガラス製の自動ドアが開くと、二人は広いエントランスホールに迎えられた。小さな庭やソファーまで設けられており、エレベーターは一番奥にある。
「大山君は階段で」
「分かりました」
「鉢合わせたら逃げてください」
「はい」
大山は階段の扉を開け放つと二段飛ばしで駆け上がっていく。二基あるエレベーターのうち一つはすでに一階に止まっていたため、ボタンを押すだけで扉が開く。9階を押して扉を閉め、上昇中にホルスターの留め金を外して心の準備を終わらせる。到着するともう一基のエレベーターの位置を確認し、その後に階段を使ってさらに上の階に移動する。まるでホテルのような内廊下には赤い絨毯が敷かれており、足音を気にする必要はなさそうだった。階段口からメインの通路を窺うと、一人の男がある部屋の前でピッキングをしている様子が見える。もう一人はエレベーターを監視していた。
見えている部屋の番号から数えるとそこは梅津の部屋で間違いない。廊下の反対側は非常用の外階段に繋がっている。扉が開き次第、男は部屋に侵入するつもりだろう。一刻の猶予もない中で大山の到着を待つべきか考えていると、先に男が玄関の開錠に成功して扉がゆっくりと開く。私はホルスターから拳銃を抜いた。
「動くな。警察だ」
声を張ってこちらの体を見せつける。二人の男は同時に反応してこちらに振り向いた。そして、エレベーターの前にいた男は背中に手を回し、もう一人は扉の裏に隠れる。背中に回った手が黒い物体を握っていることに気付くと、私は躊躇うことなく二回発砲する。右肩と右太ももに被弾した男はうめき声を上げてその場に倒れ込んだ。
「発砲。繰り返す。発砲」
インカムで鷺川に報告を入れる。その後、銃を構えたままゆっくりと前進し、男が持っていた銃を遠くに蹴とばした。
「両手を見せて出てこい」
扉に隠れた男はなかなか姿を見せない。そう思った矢先、銃口だけが顔を見せて発砲を受ける。私は滑り込むようにエレベーター前のくぼみに体を隠した。その時になって大山が合流する。
「大丈夫ですか」
「ええ」
「ライナスの馬鹿ども!銃を捨てろ!死人を出したいのか」
「一人はもう動けない。観念しろ」
「死ね」
銃撃が止む気配はない。今度は後ろで大山が声を張り上げた。
「開けないで!危険ですから鍵を閉めて出てこないで!警察です!」
廊下に面した一つの扉から住人が顔を出している。大山の指示を聞くとすぐに扉を閉じて施錠する音が響いた。
「こりゃすぐに警察来ますよ」
「私が前に出る。援護して」
「はい」
梅津を襲撃に来た男はもはや目的を達成できないだろう。しかし、ヘルメスからの指示はそう簡単に投げ捨てられるものではない。無茶と分かっていても必ず姿を見せると私は踏んでいた。
しかし、そんな予想に反して男はもう一度銃撃を行った後、外階段に向かって逃走を開始した。
「追って」
「了解」
銃を構えた大山が走り抜ける。男はすでに外階段に繋がる扉を開けて姿を消していた。ひとまず安全が確認されたことで私は梅津の部屋に向かう。中を窺っても人の気配はないが、リビングと思われる奥の部屋に電気がついている。
警戒しながら近づいてすりガラスの扉を開ける。すると、寝間着姿の男がソファーにもたれ掛かって倒れていた。写真の顔と一致していて梅津だと分かる。口から泡を吐いており、近くにはあいたままの水のペットボトルとカプセル状をした何らかの薬が落ちていた。
「梅津さん」
銃をしまって肩を叩いても反応がない。そのことを鷺川に連絡しようとしたところ、僅かに目が開いてすぐに閉じた。
「すまない」
「え?」
「石花紅葉さんに、申し訳ないと」
「誰?石花紅葉?」
そこまで言葉に出して梅津は意識を失ってしまう。慌てて脈を確認するも感じ取ることはできず、呼吸も止まっていた。
「対象が心肺停止。蘇生を行います」
「本部から高橋へ。警察がすぐに到着します。ただちにその場を離れてください」
「でも」
「命令です。五分以内ですから蘇生の可能性はあります。大山も追跡を断念し、地点イに集合してください」
鷺川の声は冷たく、まだ梅津の手は温かい。恐らく間に合いはしないだろう。それでもライナスの掟を思い出した私は唇を噛んで気持ちを切り替え、部屋を飛び出すと階段で地上を目指した。
「高橋さん、梅津は」
「また後で」
遠くからサイレンが聞こえる。それが姿を見せる前にエントランスではなく裏側の駐輪場を通ってマンションを出た。目の前で人が死ぬのはこれで三人目になる。悔しさを感じずにはいられないが、今は新しく手に入れた石花紅葉という名前について考えることにした。