魔獣の子
―――ニンゲン?
―――ニンゲンって、なに?
それは、『彼』が三歳の頃の記憶。
薄暗い森の中で、歳の離れた姉の胸に抱かれていた時の事。
「人間っていうのはね、私達とちょっとだけ違う生き物の事だよ」
ゆさり、ゆさり、と優しく揺れる木製の椅子の上。
そこに座る少女は、胸に抱いた『弟』を愛おしそうに見つめて、静かに笑う。
「ちょっと、ちがう?」
「そ、ちょっとだけ。でも、同じ世界に住んでるの。家族みたいなものかな」
かぞく……と、『少年』は姉の言葉を繰り返しながら、その意味を思い出す。
それは以前、彼女に教えてもらった言葉だった。同じ場所に住み、一緒にご飯を食べ、互いに支え合う生き物の事を『かぞく』と呼ぶのだ。
だけど。
「じゃあ、どーしてニンゲンは、ここにいないの?」
「それはねー。私達と人間が会っちゃうと、喧嘩しちゃうからなの」
「けんか?」
「うん。ちょっとだけ仲が悪いんだー、私達」
困ったみたいに眉を寄せる少女を見て、『少年』は首を傾げる。
「……ニンゲンって、こわいの?」
「んーん、ぜーんぜん怖くないよ。人間はとーっても優しいの。私も何度も助けられてきたんだから」
「ほんと? じゃあ、なんでニンゲンと、ぼくたちは、けんかしちゃうの?」
「それはねー」
幼い『弟』からの質問に、少女は一拍考えてから言った。
「まだ、お互いの事をよく知らないからかな」
「……?」
「いつか分かるようになるよ。『 』がもっと大きくなったらね」
少女は『弟』の名を呼びながら、その頭を優しく撫でる。
「大丈夫だよ。なんにも心配なんていらないんだから」
「だいじょーぶ?」
少女の真似をして、『彼』も同じ言葉を口にする。
それを微笑ましく見つめながら、少女も繰り返す。
「そ、大丈夫。いつかお姉ちゃんが、全部なんとかしてあげるからね」
「……だいじょーぶ」
「うん」
あの頃の『彼』にとって、彼女の言葉は全てが魔法だった。
頭を撫でられながら、彼女の「大丈夫だよ」という声を聞いていれば、本当に大丈夫なのだと思えた。
「大丈夫、大丈夫だよ」
彼女の言葉を、心の底から信じていた。
幼かった『彼』にとって、それは当然の事だった。
***
―――ねえ、おねえちゃん。
―――ニンゲンに会ってみたい。
それは、『彼』が五歳の頃の記憶。
木漏れ日が差す森の中を、少女と手を繋ぎながら散歩していた時の事。
「え、人間に?」
散歩の足を止め、少女は驚いた顔で『弟』を見つめた。
彼女のその反応に、『彼』は少しだけ驚いて顔を伏せる。もしかして、何か悪い事を言っちゃったのかも……そんな風に思ったのだ。
そんな『弟』に、少女は、
「あ! ごめんね、違うの。ちょっとびっくりしちゃって」
そう言うと、彼女はしゃがんで、『弟』と目線を合わせる。
「大丈夫。怒ったりしないから、会いたい理由、言ってみて」
「……ちかくの町でね、ニンゲンがおまつりやってたの。だからぼくも行きたい」
「お祭り? ……『 』はそのお祭りで、人間達と一緒に遊びたいんだね」
俯いたまま、『彼』は小さく頷く。
それを見た少女は、一瞬考えるみたいに黙り込むと、すぐに『彼』の髪を撫でながら、
「……私達、まだ人間とは遊べないの。ごめんね」
「ううん、だいじょうぶ」
森の端から、人間達が楽しんでいる姿を見ているだけの毎日だった。
自分も彼らと一緒に遊びたい。あの輝く光景の一部になりたい。……そんな事ばかりを考える日々だった。
そして、それが無理な願いだという事も、頭のどこかでは理解していた。
「大丈夫だよ」
「おねえちゃん?」
不意に、少女の腕が『彼』の背中に回される。
引き寄せた『弟』を、彼女はさらに強く抱きしめる。
「大丈夫、お姉ちゃんが何とかする。絶対に『 』を、人間の友達にしてみせる。喧嘩なんかしないで、皆が助け合えるような世界にしてみせるから。……ね、『 』は人間と、友達になりたい?」
「ともだち?」
それも以前、彼女から教えてもらった言葉だった。
家族ではないけれど、同じくらい大切な存在。一緒に遊んだり、一緒に笑ったりして……いつも一緒にいたいと思える相手。それを『ともだち』と呼ぶのだ。
人間のともだち。
もしもそんな存在に、自分がなれるとしたら。
「……なりたい」
「分かった。じゃあお姉ちゃんが、人間と友達になれるようにしてあげる」
「え、でも」
不安がって声を細める『彼』に、それでも少女は、
「大丈夫」
魔法の言葉と共に、大きな笑顔で『彼』の頭を撫でる。
「お姉ちゃんが絶対に、『 』のお願い、叶えてみせるから」
「……おねがい、かなうの?」
「そう、叶うの。叶えてみせる。だってお姉ちゃんはとーっても強いんだから。なんでもできちゃうのよ」
なんでも? と尋ねる『少年』に、少女は「うん、なんでも」と頷いた。
「だからね、何も心配しなくていいんだよ」
「……うん」
唯一の家族のその言葉に、『彼』は小さく頷いた。彼女がそう言うのだから本当に大丈夫なのだと、素直に信じようとした。
でもそれは、彼女を信頼していたからではなかった。
ただ単に「彼女を疑ってしまえば、他に信用できる存在がいなくなってしまう」という事が分かっていただけだ。
独りぼっちになるのが、怖かっただけだ。
「大丈夫。大丈夫だよ」
―――魔法のように繰り返されるその言葉は、いずれ自分を裏切るのだろう。
―――自分だけじゃない。その言葉はいずれ、彼女自身をも裏切るのだ。
あの頃の『彼』には、それがなんとなく分かっていた。
分かった上で、彼女の言葉を信じようとした。
目の前の現実から目を逸らし、あり得ない希望を信じようとした。
だからそれはもう、立派な罪だった。
***
―――お姉ちゃん?
それは、『彼』が七歳の頃の記憶。
引き千切られた姉の死体を、ぼんやり眺めていた時の事。
「お姉ちゃん」
地面に転がる少女の残骸に、何度も何度も声をかける。
でも、彼女の表情は変わらなかった。
いつものように、優しい笑顔を見せてくれる事もなかった。
そして、「大丈夫だよ」と言ってくれる事もなかった。
「お姉ちゃん」
涙は出なかった。
それどころか、悲しいという感覚すら薄かった。
――――ほら、やっぱり。
――――結局こうなるじゃないか。
そんな諦めの感情だけが、ずっと胸の奥で渦を巻いている。
やっぱり自分は人間ではないのだと、嫌でも実感してしまう。
「…………」
『少年』は顔を上げ、ゆっくり周囲を見渡す。
そうして初めて、大勢の人間が自分を取り囲んでいる事に気が付いた。
森全体を埋め尽くすほどの、何十何百という人間の群れが、その瞳に強烈な感情を宿して、自分を睨み付けている。
その頃の『彼』には、彼らが抱いている感情を、本当の意味で理解できていた。
憎しみ、恨み、怒り。
敵意、悪意、殺意。
そしてその感情の矛先は、自分であるという事も理解できていた。
――――ごめん、ごめんね……お姉ちゃん、間違えちゃった。
ふと『彼』の脳裏を過ったのは、つい昨日の出来事だった。
彼女は、何度も何度も謝って、泣いていた。
――――『 』のお願い、叶えられなかった。私、たくさん間違えて、たくさん悪い事しちゃった。……ごめん、ごめんね。
何を間違えたのか。どんな悪い事をしたのか。
そもそも彼女が何をしようとしていたのかも、『少年』は知らなかった。
――――『 』は、生きて。
ただただずっと。
彼女の言葉だけが、『少年』の耳の奥で響き続けている。
――――あなたに出会えて、私、幸せだったから。私の全部は、あなたに救われたから。だから今度は、あなたが皆を救ってあげて。私にはできなかったけど、『 』は私より強いから、きっとできるよ。……だから、大丈夫。
唯一の家族の、最後の言葉。
それを思い出しながら、『彼』は目を閉じる。
「今までありがとう。さよなら、『フェグルス』」
直後だった。
大勢の人間が、たった一人の『少年』に押し寄せた。
***
その日、人類は『魔獣』への総攻撃を開始した。
これまで一〇〇年近くに渡り、謎の有害生物・魔獣によって生存圏を脅かされてきた人類。しかし、自然現象へ意図的に干渉する『魔法』技術の発展に伴い、人類は徐々に反撃の狼煙を上げてきた。
そして一〇年前。
ついに人類は、魔獣の殲滅を目的とした大規模侵攻に踏み出した。
その戦いは後に『魔獣大戦』と名付けられ、人類史初の種族間戦争として記録される事になる。
しかし実際のところ、魔獣大戦は人類側の一方的な害獣駆除作戦であった。
すでに著しい発展を遂げていた魔法の技術力は、もはや魔獣の力など脅威としなかったのである。
順調に作戦が進めば、ほとんどの魔獣は半年もあれば一掃できるはずだった。
だが意外にも、その戦争はたったの一ヶ月で終わる事になる。
魔法の技術力が魔獣の力を大きく上回った結果、当初の予定より早く魔獣の殲滅に成功した……というわけでは、しかしなかった。
多くの魔獣の討伐には成功したものの、その討伐数は予定していた数の三割にも満たない。
それでも魔獣大戦は、終わらざるを得なかった。
その理由として、魔獣大戦を記録した当時の文書には、こう明記されていた。
ある日、魔獣殲滅に赴いた全勢力の九割が、一夜にして壊滅したのだと。




