贋作人魚姫
私が初めて王子様と出会ったのはひどい夜だった。疲れ切った彼は空の樽を力なく抱えて波間に浮かんだ。私は唇の紫がかった彼と樽をロープで縛り、さらに反対側を私の胴に結び付けた。私の知らない夜の海で、遠くに陸の光が見えた。
【魚と人魚と夜の海】
私は近所でも有名な娘で、魚のような顔をしている。泳ぎも素潜りも若い衆一上手かったものだから、日曜に漁村に来る神父さまは「神様はお前を途中まで魚としておつくりになられたんだろう」といつも言った。村中が笑った。そのくせ、私はよく魚を食べた。「魚が魚を食べてるぞ」と男衆に言われても、だからなんだと思っていた。
私はとびきりみにくい子だけど、海の中では魚だ。水の温度が体の熱と解け合って、ひとつになるとき私は何もかもを忘れることができた。むっとするような磯の香りが好きで、私は肌がふやけるまで海にいた。
おとうたちは朝早く漁に出る。おかあたちと海に出たおとうたちの無事と大漁を神様に祈り、素潜りで貝や魚を捕りに行く。たくさん捕れれば、少しだけ海の物のほかにも食べられる。海の物を食べれば飢えることはないけど、パンなんかはお祭りのときぐらいにしか食べない。
まだお祈りしかしてなかった子供の頃、夜におばばさまの家に子供たち全員で行って、おとぎ話を聞かせてもらったことがあった。冒険や笑い話、怖い話は私たちを夢中にするには充分だった。子供たちの目は波みたいに光り、焚火の炎を照らしていたけど、見ていたのは夢だけだった。おばばさまは人魚の話もした。「きれいな歌で船乗りを海へ誘い殺してしまう、上だけ人間で下は魚の化物が海にいる。海で死んだ亡者も出るから、夜の海には行ってはいけないよ。引きずり込まれて殺される」と言っていたのを聞いて他の子は震えあがったけど、私だけは夜の海に行きたくなった。人魚は私のような女の子なのかもしれないと思ったから。
おかあたち女衆に交じって働くようになってから、海に泳ぎに行くのを咎められるようになった。服を着たままでは重くて泳げないから全部桟橋の近くに置いていたのが見つかって、おかあにこっぴどく怒られた。「年頃の娘がそんなことをするもんじゃない」と言われ、「水を吸うと沈んでしまうから」と答えたら、「はしたない」とぶたれた。おとうにも「大ばか者」と殴られた。神父さまにも「仕事以外で海に行ってはいけない」と言われたけど、私の心は海水を離れるとカラカラに乾いてしまう。私の肌も潮風でカサカサに乾いていった。
何日か泳ぎに行かなかったある日、私はついに我慢できなくなった。家中が寝静まった夜にロープを持って家を抜け出し、砂浜に行くと着ている服を脱いだ。その日は満月で月光が素肌を照らし、夜風がそうっと撫でていくのがわかった。少しくすぐったいような気がした。私はなるべく音を立てず夜の海に入っていった。初めて入る夜の海はひんやりとして寄せ返す波の音がするだけ。昼間のような温もりや騒がしさのない海は新鮮だったし、人魚に会えるかもしれないと思うととてもいいものだった。桟橋を伝い一番出っ張った柱に家のロープを縛りつけ、片方を自分の胴と括りつけた。そうして全身の力を抜いて浮き上がると満月が近くに見えた。いい気持ちで歌いたくなってくる。私は波に遊ばれながら、声を殺して歌った。誰も何もその声を聞いてはいなかった。それが面白かった。気が済むとロープを手繰り、桟橋から上がった。しばらく身体を乾かしたあと服を着て、何事もなかったように家に戻る。それから夜ごと私は海に潜ったり、ときには離れ島まで渡って帰ったりした。
誰かに見つかれば罪だと言われることが、ちくりと胸を刺した。でも、一層仕事に力が入るようになって漁はより上手くいって、おとうもおかあも兄弟も喜んで月に1度パンが食べられるようになった。変化はそれだけだった。
【きれい】
「あんたちょっと、きれいになったんじゃないかい?」と教会の帰りに会ったおばばさまに話しかけられて、私は少し身構えた。
「こんにちは、おばばさま」
「少しパンを食べるようになってからかい? それとも、好きな人でもできたのかい?」
おばばさまはそう言って笑った。緊張が解ける。私に忠告しようとしたわけじゃなかった。
「いいえ、全然。私はまだ魚みたいな気持ちです」
「ははは、何言ってんだい。色もちょっと白くなって、ちょっとふっくらしてきて、きれいな娘になったよ。泳ぐのを減らしたのがよかったんだろうね」
確かに夜の海は肌が焼けない。パンを食べるようになってからは水に浮きやすくなって、体力もついてきた気がした。
「もうすぐかもしれないね」
「えっ?」
「あんたの嫁入りさ」
おばばさまはそう言って私に手を振り、別れた。
嫁入りなんて考えたことがなかった。海で泳げたら、それでよかった。私がおかあみたいに、お母さんになるなんて考えられない。魚と結婚したい男なんているもんか。サンダルを履いた足で小石を蹴った。
おとうに「町までパンを買ってこい」と言われて、1枚しかないよそ行きを着て靴を履いた。いつもは簡単なワンピースとサンダルだけだから、変な感じがする。それでも、目立たないような格好をしなくてはいけない。おとうに銅貨を渡されて私は家を出た。
パンはおかあや私が町まで買いに行く。町は森を抜けて、馬車の通る道を南へ南へ進んでいくと見えてくる。そこは城下町だということもあって、いつも賑わっていた。町で魚の匂いがするのは魚屋くらいで、村とは全然違う。パン屋に肉屋に工芸屋などいろんな店が軒を並べていて奥にも店屋街がもっとあるらしいけど、そこは高級店ばかりらしく私は行ったことがない。王様御用達のお店もずっとずっと向こうにあると言っていた。
町の手前の方には旅人向けの店が何軒かあって、ガラス細工や王家の肖像画のミニチュアなんかの土産物が売られている。私はお使いのたびに土産物屋を覗くのが好きだった。海の中で目を開けたときみたいに光るガラスも好きだけど、小さな肖像画や織物が見たかった。
肖像画の王様は威厳たっぷりの口髭を蓄えていて、白髪の上には王冠が載っている。隣で微笑む王妃様の髪はブロンドで緩やかにカールしている。寄り添って立つ二人の間に青年と少年が座っていて、こっちを見ている。
「お前さん、相変わらず肖像画を見るのが好きだな。珍しいか?」
「きれいだから」
真っ直ぐ通った鼻筋に海の底みたいな青い目。王家の人たちはとてもきれい。衣装も金糸や毛皮や絹など、おばばさまのおとぎ話に出てくるような見たこともないもので出来ているんだと思う。
「なんか磯臭いな。お前さん、海の人だろ。見るだけで何も買わないしな」
「あっ、今出ていきます」
慌てて店を出ようとすると店主に遮られた。
「いや、そこでお前さんにひとつ話がある。この国の港は何ヶ所かあるが、ここからは全部遠くてな、海の土産物が少ないんだわ。仕入れが大変でな」
店主はあご髭をさすりながら続ける。
「浜には貝殻がそこら辺にぽんぽん落ちてるのか?」
「はい」
「じゃあ、それのきれいなやつをどっさり拾ってきてくれ。そしたら、売りもん見ててもいいわ。どうだ、やるか?」
私が「やります」と言うと、ほいっと薄汚れた布袋を店主に手渡された。
「ガラス細工の職人が材料に使いたいらしいわ。任せた。また2週間後くらいに来てくれ」
「はい」
私は布袋を鞄に突っ込むと、その足でパン屋に行った。私に新しい仕事ができたのだった。
【星屑の降る海】
息をするのはすごいことだと海面から顔を出すたび思う。夜の海の桟橋に貝殻を置いた。乱雑に散らばっている貝殻は全部私がきれいだと思ったものだ。巻貝や二枚貝をよく洗って乾かし、あの麻袋いっぱいに詰めるためだった。
土産物屋の店主はかなりの話好きで「オヤジと呼んでくれ」と言って、町の噂話をたくさん聞かせてくれた。王様や王妃様、二人の王子様の話も。ときどき王子様は舟遊びをするらしい。上の王子様の船は、それはそれは立派なもので船体は金色、船首には人魚像がついているのだという。私が「見てみたい」と言うとオヤジさんは笑った。
「貴族以外が乗れるもんか。お前さんは女だから、船乗りにもなれないしな」
「じゃあ、せめて傍まで泳いで行きたいです」
「船着場から飛び込むつもりか? やめときな、撃たれるぞ」
「もっと離れた場所なら?」
「お前さん正気か?」
「はい。私の村の向こうに離れた小島があるでしょう」
「あの無人島じゃねぇよな? 夜になると女の幽霊が出るらしいわ」
「夜に泳いで行き来しますが、会ったことありませんよ」
オヤジさんは真っ青な顔をした。
「ありゃ船で渡るようなとこだって聞いたがな、お前さんがその幽霊か! いや、もう化物だな。海の人はみんなそうなのか?」
「いいえ、多分、私だけ」
「こりゃむちゃくちゃな話だな」
「男の格好で船着場に行くか、夜の沖で船に近づけば船首像が見えますよね」
「そんな馬鹿なこと考えるな、死ぬぞ」
「たまたま出くわすかもしれないでしょう。私はいつ船が出るのかなんて知りません」
「これだから無茶するやつは嫌いなんだわ。お前さんがいなくなったら、一体誰がここに貝殻を届けるんだ?」
あれから私は時化の日以外は毎晩沖へ出た。おばばさまのお話で人魚は若い女の顔をしていると聞いたけど、それがきれいなのかはわからない。吸えるだけの息を吸って、海の底に潜る。目を開けても暗くて何も見えない。体の近くで魚が通るのを感じながら、水底に手を伸ばす。髪は海藻のようにゆらゆら揺れる。海の一部になったような気持ち。だんだん息が苦しくなって、水から頭を出したとき空が光った。パラパラと音がして、星屑みたいのものが海へ落ちてくる。
あれは何? 私は怖いと思いながら、沈まないように足を動かしていた。口笛のような音がかすかに聞こえたあと、ドンという大きな音がした。そして、またキラキラした丸い大きな塊が小さな星屑になって降ってくる。気がつくと私はキラキラのほうへ泳いでいた。キラキラは何度も海に降ってきて、その音は水の中からでも少し聞こえた。かなりの距離を泳ぎながら、私は今になって星が見えないことに気づいた。キラキラが降ってくる限り、本物の星は見えない。どうやって家に帰ればいいんだろう。戻ることのできなくなった私はただ泳いでいた。
しばらくして、キラキラ光る船が星屑の真下にあるのが見えた。あれがオヤジさんの言っていた船? 私はあんなに豪華な船を見たことがなかった。色が変わった木製の小さな船しか見たことがなかった。私は船の影に隠れて、金色の船体に触れて休んだ。船は海の上で止まっていた。船からはきれいな音楽と楽しそうな話し声が聞こえる。きっと、きれいなドレスを着たお嬢さんたちが踊っているのかな。生まれたままの姿で私は聞こえてくるメロディーを小さな声で歌っていた。
「ねぇ、何か聞こえない? 海の方から。歌? みたいなものが」
「まさかぁ」
「ちょっと見てみましょうよ」
大変! 私は慌てて水中に身を沈めた。そして待つ。いつもは誰も聞く人がいないものだから、完全に油断していた。息が切れて浮き上がると、また女の人たちの声が聞こえた。
「おかしいわね、確かに聞こえたのに……」
「人魚がいるだなんて、あなたお酒の飲みすぎじゃないのかしら」
「まぁ、お姉さまったらひどいわ」
間一髪で逃れた私はひやひやしながらも船体を伝い、船首に移動した。
あった! キラキラに大きな人魚像が照らされて水面にも映った。ブロンドで胸に貝殻をつけた、しなやかで柔らかい肉づきの体。青い鰭の人魚の瞳も青。顔もきれいで見とれてしまう。きれいな若い女の顔だった。キラキラに照らされて、栗色の髪が貼りついた青白い顔の女の子も鏡のような水に映る。私だった。なんだか悲しくなってしまって、私は戻ることにした。空が明るすぎて星がひとつも見えない。やみくもに泳いで、北極星を探そう。そう思って、私は船を離れた。
もう見えないだろうというところで、私は背中を水に預けて浮いた。胸を、腹を夜風が撫でる。その間もキラキラは降り続けていたけど、なんとか北極星が見えた。これで帰れると安心したとき、星屑の音とは比べ物にならないくらいのものすごい音が聞こえた。穏やかだった波が急に強くなって、体が押し流された。そのあとに甲高い悲鳴。船の方向に見えたのは火柱だった。
【火事場より】
私はどうやら頭がおかしくなったみたいだった。腕でざくざく水を切り、船だったものに向かっていく。夜空を炎が赤く照らしている。煙はどこまでもどこまでも上っていく。神父さまがお説教していた地獄はこんな色? 板やら机やらパンやら、今まで船だったものや船にあったものが海を流れてくる。燃えて崩れかける船から、服に火のついた男の人が叫びながら海に飛び込む。豪勢な服は水を吸い、重りに変わるのをあの人は知らない。男の人は重さに負けて、沈んでいく。亡者に足を取られて、人が死んだ。恐怖で半分泣きながら、浮いているロープを捕まえ手繰ると左手に巻き付けた。
「君たちだけでも早く逃げるんだ!」
若い男の人が燃え盛る船の上で大声をあげた。今にも燃え移りそうな小舟にドレス姿のお嬢さんがふたりと、オールを持った身なりのいい男が乗っている。
「こんなのダメよ、あなたが逃げてくださいな!」
桃色のドレスのお嬢さんは泣き叫んだ。
「いいや、女性を置いて私が逃げるわけにはいかない! ふたりを任せたぞ、ヨハネス」
「あなたは王子様なのよ! こんなのってないわ!」
「私には弟がいる! 君の代わりはひとりもいないんだ!」
「あなただって、そうじゃない! 私も一緒にいさせて……」
立ち上がろうとする桃色ドレスのお嬢さんを、緑のドレスのお嬢さんが抱いて止めている。とうとう帆布が燃え出した。
「ダメだ、早く行け!」
ヨハネスがオールを漕ぐと小舟はゆっくり動いていく。ただ、それは見当違いの方向だった。私は小舟まで泳ぎ、身を乗り出した。
「陸は向こうです。北極星を追いかけて」
立ち泳ぎをしながら星を指さして言うと、私を見たお嬢さんふたりは気を失ってしまった。ヨハネスは震えながら方向転換をした。小舟はどんどん離れていった。
王子様は炎を背負い、にこやかに微笑んでいる。船と一緒に沈む気に見えたから、私は流れてきた樽を抱え言った。
「今すぐ脱いで!」
「君は誰だ? 何のためにそんなことを?」
「誰でもありません! 早く!」
私に気づいた王子様はわけがわからないといった表情で、刀を甲板に置き、ジャケットやフリルのついたシャツやズボンを脱ぎ始めた。自分がどうしてこんなことをしているのか、わけがわからないのは私も同じ。何もかも脱いだ王子様に叫ぶ。
「海に飛び込んで!」
王子様が飛び込むと帆柱が焼け落ち、船は焼け崩れた。木片が素肌に当たれば怪我をしてしまう。小さな傷でも水の中に血が落ちれば、体が勘違いして死んでしまう。海面に頭を出した彼に樽を抱えさせて聞いた。
「お怪我は?」
「大丈夫だ」
「泳げますか?」
「大丈夫だろう」
「もし疲れたら力を抜いてください。力まなければ溺れません。いいですか?」
「ああ」
王子様はうなずいた。
「君は人魚?」
「何も考えないで。ただ泳いでください。あの人と生きてまた会いたいなら」
王子様はとても体力があった。北極星を目指して、ふたりで泳ぎ続け私の村の光が見える場所まで来た。
「灯台の光が見えますか? あと少し、あと少しです」
振り返ると王子様は私の近くにはいなかった。あたりを見回すと、後ろへ後ろへ波に流されている。目を閉じ、両手は樽から離れてしまいそうになっていた。私は慌てて戻り、自分の左手からロープを解いて彼の腕と樽を、樽と私の胴を結び付けた。また波が私たちを押し戻そうとする。もう少しなのに。私も疲れてはいたけど、彼にはもう意識がなかった。
【魔法が解けて】
灯台を睨みつける。帰る。帰る! 私は猛然と泳ぎだした。彼の重みで腹が絞めつけられて、痛い。初めて泳ぐのを苦しいと思った。でも。私は人魚のお姫様、人魚姫。海の中の私は魚。そう思うと自然と体が軽くなった。痛みももう感じない。死んでもいい。陸に王子様を生きて帰せたら、私はもう死んでもいい。死に物狂いだった。
やがて、海岸にたどり着いた。見覚えのある小舟が浜に打ち捨ててある。あの人たちも無事戻ったみたい。私はロープを解いて、王子様を波の当たらない砂浜に寝かせた。彼の両腕にはロープの痕が紫色に残ってしまっていた。濡れた体が砂だらけになっているのを見て、やっと何も着ていないのを思い出して今になって恥ずかしくなった。近くの桟橋に私の服が置いてあったから、ひとまずそれを彼にかける。私はふらふらになって隣に倒れた。肌が砂粒でざらざらする。起き上がって、王子様を揺すった。
「起きてください、陸です、起きて」
何度か揺すると彼はゆっくり目を開けた。
「あぁ……、君?」
「あなたの国に着きました。この村には大きなお屋敷はないので、向こうの教会に行ってください。そこでなら泊まれるし、服もあるはずです。明日は日曜なので神父さまが見つけたら、お城に送ってくれるでしょう。それから、あの人たちもここに着いたみたいですよ。運がよければ、すぐにでも会えると思います。大丈夫ですか? ひとりで立てますか? 歩けそうですか?」
返事がない。
「やっぱり無理ですか? 応援を呼んできます」
「待て、君は……」
「私の心配なんていりません、自分のことだけを考えて」
「人間だったのか」
彼は私を見ていた。その視線で私は我に返って海に逃げた。砂が水で剥がれ落ちていく。もう何もかも見られてしまった。
「待ってくれ、私は君を知らない。招待客でも船乗りでもなさそうだ。君は誰だ?」
「ご、ご無礼をお許しください」
「命の恩人を罰したいわけじゃない。君は誰なんだ? どうしてあそこにいた?」
「ここで水浴びをしていたら、大きな音がして空が光ったので何かと思って泳いで見に行きました」
「花火を見て、ここからあんな沖合まで泳いで行ったのか? そんなまさか。いや、ここまで私を引っ張って泳いだ人間だからな、本当だろう」
「そんなことは……」
「証拠はある。君のお腹には紐状のもので鬱血した痕があるね? 君がいなければ、私は海で力尽きていたろう。早く上がっておいで」
私の前にぼろ布が流れてきたから、それを体に巻き仕方なく海から上がった。
「お願いです。どうか、このことは誰にも言わないでください」
「どうして」
私は事の顛末を洗いざらい話した。
「わかった、恩人である君を悪いようにはしない。今日は教会に案内してくれ。それから、その布とこの服を交換だ。君の服は小さすぎてとても私には着られないからな」
教会に着くと祭壇の前で、桃色と緑のドレスのお嬢さん二人組とヨハネスがいた。ドアの音で振り返り、桃色ドレスのお嬢さんが叫んだ。
「あぁ、神様! ありがとうございます!」
王子様は駆け寄り、ふたりは固く抱き合った。緑のドレスのお嬢さんとヨハネスはそれを見て涙ぐんでいたが、王子様が呼んだ私を見た途端お嬢さんたちはまた失神してしまった。あの人魚が人間になっていると思ったのかどうか私にはわからない。私は何事もなかったように家の寝床に潜り、翌朝あの4人は王都へと帰って行った。
1週間してオヤジさんの袋を浜に投げっぱなしにしてきたことに気づき取りに行き、パン屋に行くついでにオヤジさんの店に持って行った。
「お前さん、残念だったな。あの船は難破して、人魚像はもう海の底らしいわ」
「そうですか」
「船上パーティで花火が原因の火災があって沈没したんだが、王子様と婚約者とその姉妹と従者ひとりだけ助かったらしいわ。それがおかしな話でな、人魚に助けられたって口をそろえて言うんだと」
「そうですか」
「いい加減白状しろ。俺がこれを預かったんだ、全部聞くまで渡さないからな」
オヤジさんが指の間に挟み、ちらつかせたのはお城からの手紙だった。
「人魚姫へ結婚式の招待状だってさ。お前さんみたいなのは魚人だろうに。お城に行ったら土産話を聞かせてくれよ」
私は笑顔でうなづいた。
「もちろんです。オヤジさんの噂話と交換で」
「馬鹿言え、ありゃあな、いつもツケだ。ツケ。言っとくが、いくらお城がすごいからって中に海はねぇからな。でっかい噴水に飛び込むなよ」
あの日から私は夜泳ぎに行かなくてもいいようになった。きっとあの夜、一生分泳いだからだと思う。体つきはより女らしくふっくらした。
それから私は王子様の結婚式に参列した。織物や肖像画でしか見たことのなかった王様や王妃様はとても素敵だった。王子様は灰色の礼服、お相手は花嫁衣装で見違えるようだった。私はふたりがぼろぼろの服を着ているところしか見たことがなかったから。
もしもあのとき。そう思うと涙が止まらず、友人でもないただの漁民なのに思い切り泣いてしまった。よかった。生きていて本当によかった。そんな私のことは宮中に知れ渡っているようで、たくさんの人に挨拶をされた。視線が痛いほど。
「お嬢さん、ドレスの着心地は?」
祝賀会で王子様が私を見つけて声をかけてくれた。今、私が着ている海のような青い豪奢なドレスは王子様たちが贈ってくれたもの。
「とても素晴らしいです。ありがとうございます」
王子様が手を取るお姫様も優しく微笑んだ。前のピンクより濃いバラ色のドレスはお姫様自身を表しているみたいだった。
「彼を助けてくれてありがとう。あなたのおかげで、この日を迎えることができたわ」
「いいえ、お姫様が神様に無事を祈っていたからです」
「そうね、それもひとつでしょう。それから、ごめんなさい。あなたを見て2度も倒れてしまって」
「そんなこと、お気になさるようなことではありません」
「なぁ、言っただろう? あの子は気にしてないだろうと」
王子様は優しくお姫様の手を撫でた。
「君に会わせたい人がいる。紹介しよう、私の弟だ」
「初めまして。兄上を助けてくださり、ありがとうございました。あなたに心からの感謝と敬意を捧げます。失礼ですが、あなたのお名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「私、の名前は……」
その青年を見て、私は初めて恋をした。お互いの顔がみるみる赤くなってしまう。王子様はいたずらっぽく笑って言った。
「どうやら君が本当に人魚姫になる日も遠くはないかもしれないね」
これは16歳の夏の話。