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奇形マーメイドに捧ぐ

作者: 玉川ユキ

 

 高橋春紀は深海魚だ。

 教室という小さな海原において春紀は、空を飛び回るカモメも、水面を跳ねるトビウオも、その一切を認知せず、ただ黙々と海底を這って生きてきた。

 面倒事は嫌い。文字通り波風立たせず、静かに毎日を過ごすことが春紀の望みであり、水面で騒がしく跳ね回る同級生たちとの接触を避けることによって、常にそれは保たれていた。

 時々やってくる嵐も竜巻も、こんな海の底までは届かない。

 一切が自分に関わらず、日の光すら当たらないこの場所は、春紀にとってひどく居心地がよかった。


 高橋春紀は深海魚だ。

 だが、ずっと上の方からかすかに聞こえてくる、同級生たちの他愛ない笑い声を聞いて羨ましいと感じてしまう点においてのみ、春紀は確かに、一人の少女であった。



  *



 廊下の端からけたたましい悲鳴が響き渡ったので、二年一組のリーディングの授業は一時中断された。

 教科書を丸めて持ったまま、教科担任の武内恭平はいったい何事かと教室からひょいと顔を覗かせて廊下の様子を伺う。

 教室の、窓という窓から生徒達たちが頭を出して、思い思いに悲鳴の原因を視線で探っている。相変わらず聞こえてくる悲鳴とも嬌声ともつかない叫び声は、教室中の窓ガラスをガタガタ揺らした。

 学年一帯がちょっとした騒動にざわついている中、高橋春紀だけは、自分の席から微動だにせずリーディングの教科書と向き合っていた。

 春紀は、真っ黒なロングストレートの髪のうち、一房だけ寝癖の取れなかった髪の不規則なウェーブをしきりに気にしながら、教科書に印刷された細やかな英字を追った。

 勉強する手を止めない春紀の向こうでは、とうとう武内教員という防波堤を越え、生徒たちのビックウェーブが廊下へと溢れだしたようだった。

 春紀を除いた、学年すべての生徒が、廊下の行き当たり―――階段の踊り場へと集まっていた。

 その眼下では、セーラー服を着た一人の少女が、茹でられた海老のように背中を丸めて悶絶している。

 踊り場の床に広がる、塩素で赤茶けたセミロングの髪。袖からすらりと伸びる日焼けした腕。

 初夏の熱さに負け、水泳部の存在を差し置いて、誰よりも早くプールの常連客になっていると噂の多田崎日和だった。

 真っ赤なポスターカラーで「ルドルフ号」と書かれたボロボロの段ボール紙が、何故か、腰のあたりを押さえて呻く日和の下敷きになっている。

 ちなみにルドルフとは、有名な政治家か、そうでなければサンタクロースのソリを引くトナカイの名前である。


「ぬおおおお超絶尻が痛えええええ…!! どのくらい痛いかって言うと悶絶躄地レベル…!!! や、やっぱり階段の手すりで段ボールソリなんてやるもんじゃねーわ…」


 春先、草の茂る土手で子供がよくやるあの要領で、段ボールソリをしたらしい。

 「そりゃ痛いだろ…」とか、「毎日毎日手を変え品を変え、本当によくやるわー」とか、「ちょwwwwおまwwwww」だとか、ドン引きしたり、呆れて苦笑したり、はたまた日和を指差し大爆笑したりと、様々な生徒の声が悶絶する日和の上に降りかかる。

 そんな人混みを掻き分けて、一人の男子生徒が最前列に躍り出た。


「おーい! 多田崎、無事かー?」


 すらりと伸びた長身。日に焼けた肌。ワックスで盛り上がった髪。この学校が誇る希代の変人・多田崎日和一番の悪友、椎名極だった。

 日和はそれに屈託のない笑顔で握りこぶしを掲げて「おう!」と返す。

 尻の痛みが引いたのか、勢いよくぴょんっと跳ね起きる。廊下に落ちているボロボロの段ボールを上履きの先に引っかけ蹴り上げると、滑らかな動きで空中キャッチ。一部からは「おおーっ」と歓声が上がった。

 日和は段ボールを持った左手でそれを受け止めると、「皆さんどうも蛙鳴蝉噪お騒がせしましたーっ。アブナイから階段の手すりは登っちゃ駄目だよん」とか何とか、さも何事もなかったかのように人混みの中へ進んでゆく。

 かの有名な旧約聖書には、指導者モーセが海水をまっ二つに割ったという逸話が残されているが、まるでその現場を再現でもするかのように、日和の周りだけ人の波が引いていった。

 廊下の真ん中を堂々と歩く日和の隣に、さっと椎名が寄り添った。


「で、次回はいったい、何をやらかす気なんだ?」

「ふっふっふ。聞いて驚け! 明日はな・なんと、校内ハンググラウダーに挑戦だ!」

「え、何それ、超楽しそうなんだけど」


 段ボールをバキバキ畳んでコンパクトにまとめると、それをゴミ箱に捨てるために日和は手近な教室に入った。

 階段から一番近い二年一組の教室では、ぽつんと一人だけ席に座った春紀が、騒ぎも気にせず黙々と英訳をしている。

 春紀の深海魚としての徹底っぷりに、日和は面食らったようだった。


「ちょ、ちょっと椎名。とてもじゃないけどへなっちょろい現代っ子とは思えない、気宇壮大な天才的集中力を持った神童がいるよ」

「集中じゃなくてシカトだろ。お前みたいなアホに付き合ってる暇はないんじゃねーの」

「えっ、ひどっ。」


 日和は口一杯に梅干しを頬張った時みたいな顔を作ってみせた。手元も見ずにポイと段ボールの塊をゴミ箱に投げ捨てる。

 それからくるりと春紀に向きなおると、一直線にずんずん近づいてくる。


「ねーねー! あたし四組のおー、多田崎日和ってえー、ゆーんだけどおー。」

「……………」


 勿論、春紀は決して、天才的集中力を持った神童なんかではない。

 椎名の言った通り、こんな世にも奇妙でやたらめったら目立つ日和とは、絶対に関わり合いたくないだけだった。

 人を小馬鹿にするような口調で日和が春紀に話かける。流石に春紀もムッとした。英訳をノートに書き写す手が止まる。

 気づけば、日和は春紀の机のすぐ隣にまで来ていた。


「もーしもーし。聞こえてる? きーこーえーてーまーすーかーあ。」

「……………」


 春紀は視線をノートに縫い付けたまま、頑として答えない。

 壊れたテレビを確かめるみたいに、日和は春紀の頭を指の節でコンコンと叩いた。

 日和は春紀のことを知らない様子だったが、春紀は日和のことを十分に知っていた。

 奇天烈な行動から問題ばかり起こす日和は、良くも悪くも学校中の話題メーカーだからだ。


 多田崎日和、二年四組。科学部所属。実験と運動と動物の飼育が好きで、町中の野良猫・野良犬を学校に連れ込んだことがある。変人。割と素直。ものすごく意地が悪い。授業中はもっぱら寝て過ごす。理数系は全国トップ、文系教科は落第レベル。最近四字熟語が好き。進級に関して校長室で土下座したことがある。飛び級をしている。実は一年留年している。舞妓見習い。二枚舌ならぬ三枚舌。性格破綻者。魔女。最終目標は学校でアルマゲドンを起こすこと。機械に弱い。魑魅魍魎。帰国子女。短気。暴力的。


 ―――思くままに、実しやかに飛び交う噂やあだ名を列挙してみる。

 信憑性はないし、明らかに矛盾している噂もあるが、これが、この学校の生徒たちの多田崎日和に対する評価だった。

 春紀が日和に対して持っている一番強烈なイメージを上げるならば、それはまさに「黒魔女」という、日和の二つ名よりも一回りひどいものだった。


 日和はしばらく春紀を馬鹿にした呼びかけを続けたが、春紀の完全なシカトに肩を落として溜息をついた。

 春紀の視界に日和の手が侵入した。日和は、春紀の机に手を置いて、頭を下げて春樹の胸元のネームプレートを覗き見た。

 日和の目線がカチリと春紀の目を捕らえる。春紀の顔は、苛立ちと緊張がないまぜになって凍り付いていた。冷や汗が一筋、頬からつうっと伝い落ちる。

 ふいに、日和がにいっと笑った。それからバネのように勢いよく立ち上がる。


「高橋春紀ね! よっし覚えた!」

「覚えてどうするんだよ」


 椎名が横から口を出す。日和は胸を張って、ケラケラ笑いながら答えた。


「このあたしをシカトするなんていう前代未聞で空前絶後で驚天動地な子、ほっとくわけにはいかないじゃーん」

「というと?」

「むっふっふ。具体的には今日から毎日高橋ちゃんをつけ回します」

「うっわ怖! ストーカー女怖っ!!」


 春紀は濁った目でノートを見つめている。

 漫才のようなやりとりをしながら日和と椎名が教室を出て行く足音を聞いて、春紀はそっと溜息をついた。

 廊下の方からはまだ、日和の傲岸不遜な声が響いている。


(毎日私を付け回すってそんな…。どうしよう…)


 春紀は頭を抱えた。

 たとえ他の誰が来られなくとも、黒魔女である多田崎日和にとっては、春紀の住む深海の水圧なんてなんの障害にもならないのである。

 廊下に出ていた生徒たちが、ちらほらと教室に帰ってきた。

 授業終了まで、あともう五分もない。

 苦々しく二度目の溜息をついて、春紀は教科書を閉じた。



  *



 多田崎日和は何故「黒魔女」なのか?

 その問いに対する答えは単純明快だった。

 春紀の唯一の友人を日和が狂言でたぶらかし網にかけ、暗くて安全な海底から危険極まる海上へまんまと引っぱり上げてしまったからだ。

 その哀れな人魚姫・結城真鈴はといえば、深海から海上へ移る際の気圧の変化に耐えきれず、瞬く間に体内から破裂してしまった。いまや彼女はこのクラスの恥じる不登校児だ。

 黒魔女が人魚姫にいったい何を吹き込んだのかは知らないが、真鈴の尾ひれも歌声も情け容赦なく奪っておきながら、当の日和はいまものうのうと空も海もなく楽しく暮らしている。

 だから日和は、春紀から悪の権化、黒魔女の名を冠されているのである。

 海底と海上では電波状況が違いすぎて、春紀の持っている真っ白なケータイはなかなか人と繋がらない。

 なんと言っていいのかわからないが故に、人魚姫が黒魔女にさらわれてから、春紀は一度も真鈴に連絡をとってはいなかった。

 海は残酷だ。生き物が変わろうとすることを許さない。深海魚が深海から出ようとすれば、自らの身体すら海と共謀してそれを拒むのだ。

 なんて可哀想な真鈴。

 なんて可哀想な、春紀。暗い海底で生まれる魚はみな奇形児だ。生まれ育った海の底の外に、異常な姿を持った深海魚を受け入れてくれる場所なんてありはしない。

 春紀はそのことをよく知っていた。だから逃げるのだ。

 高橋春紀は深海魚だ。

 黒魔女に捕まってはいけない。



 *



 終礼が終わるなり、春紀は一目散に教室を飛び出した。

 廊下に出て確かめると、日和のいる四組はまだ終礼中のようだった。

 春紀はほっと胸を撫で下ろした。これならば、日和につきまとわれることもなく家に帰れるだろう。

 そう思うとまるで鉛の塊を飲み込んだようだった身体も随分軽くなって、春紀はくるりと軽やかなステップを踏んで昇降口へと向かう。


「やっほー高橋ちゃん。さっきぶり!」


 春紀のクラスの下駄箱に背を預け、何故か多田崎日和がそこに鎮座していた。

 確かに四組は終礼中だったはずだ。なのにどうして?

 ここにいるはずのない人物と突然対面し、春紀は絶句した。

 日和がにやっと笑う。下駄箱から背中を離し、日和は大きく胸を張った。

 ち・ち・ち、とメトロノームのように、日和は人差し指を左右に振って見せる。


「バッカだなー高橋ちゃん。手段のためには目的を選ばない、人呼んでザ・見利亡義なこのあたしが、終礼なんてくっだらないこと気にするとか思ったわけ?」


 春紀は相変わらず開いた口が塞がらない。

 とりあえず、心の中で「手段のために目的選んじゃ本末転倒じゃないの?」と日和にツッコミを入れておいた。

 昼間と同じように、日和がずかずかと大股で近づいてくる。それを見た春紀の身体が一瞬強張る。


「んじゃ、ちょっと一緒に晩ご飯でも食べながらお話しよっか!」


 日和は春紀の手を掴んでにっこり笑うと、手早く靴を履き替えてずんずん進んでいく。

 日和に手を引かれている所為でうまくバランスがとれない。春紀はローファーの踵を踏んだまま慌てて日和の後を追った。

 春紀の右手はいま日和に掴まれている。左手にはスクールバックを持っていて、両手が塞がった状態だ。

 手を繋いでいる以上、日和も春紀と同じ条件のはずなのだが、何故か日和の右手はからっぽだった。


「えっと…た、多田崎さん、鞄はいいんですか」

「おー! 高橋ちゃん喋れるんじゃーん! 昼間はシカトだったからいったいどんな手を使ってその口開かせようかと思ってたら、自分から喋ってくれるだなんてひよひよカンゲキ! きゃーきゃー!」

「………………。」

「で、高橋ちゃんの話なんだったっけ?」

「あのー…、多田崎さん、鞄はどうしたのかなって……」


 怒濤の勢いで一方的に話す日和に引きずられるようにして、春紀は声を絞り出す。

 日和はしばらく鞄の行方について記憶を探っていたが、すぐにポンと両手を打った。


「あ、まだ荷物詰めてないから教室だわ!」

「ええ!? 取りに戻ってくださいよ!」

「いーよ別に。椎名が家まで届けてくれるだろうしさー。そんなことより高橋ちゃん、いまの気分的に何食べたい?」


 日和に手を引かれるまま歩くうちに、学校を出てしまった。春紀は、多田崎日和という変人に関わることに対する不安と、千円ほどしか入っていない財布に対する不安とが、ないまぜになっていた。

 掠れる声で「こ、困ります…」と日和に訴えるが、日和はケラケラ笑っただけで一切取り合わない。


「高橋ちゃんが困っているので近場のレストランにしときます。」

「レ、レストランって…!」


 そうこうしているうちに学校の近くの大通りにある、やたら高級なフレンチ・レストランが見えてきた。

 外装はバロック建築、内装は本場からの輸入品、ウェイターは燕尾服だし、客もしっかりとした服装の裕福そうな人ばかりとういう豪華な店だ。

 おいそれと学生服二人で入れる場所ではないのだが、春紀が引き止めるのも聞かず、日和は微塵の躊躇いもなく扉を開けた。

 カラン、と鈴の音が鳴って、身なりのいいウェイターがやってくる。

 そして、セーラー服姿の日和と春紀のを見るなり眉をひそめた。


「えっと…何名様でしょうか?」

「見たまーんま二名様ですが。どっか奥の席空いてる?」

「お、奥ですか? 少々お待ちください」


 言うなり、ウェイターはきびすを返して外のウェイターへと駆け寄る。

 どう好意的に見てもタチの悪い冷やかしにしか見えないこの二人の対応を相談しに行ったのだろう。

 しばらく話し合った後、入り口まで帰ってくると、ウェイターは二人を一番奥の席に案内してくれた。

 「では、ご注文がお決まりになりましたら…」というウェイターの言葉を、日和が遮った。


「じゃ、あたしは水で」


 これ以上ないほどキッパリと言い切ったので、ウェイターも春紀も、咄嗟に自分の耳を疑った。

 もしかしたら「水」じゃなくて、日和は「ミ・ズー」だとか、そういう感じの料理を頼んだのかもしれない。春紀はそう思う事にした。

 だが、ウェイターは「ミ・ズー」なんてメニューには心当たりがなかったらしく、日和に問い返した。


「すいません、ご注文の方、もう一度仰っていただけないでしょうか?」

「だから、水だってば」

「………………。」


 どうやら聞き間違いではないらしい。

 ポカーンと口を開けるウェイター。

 千円以内のメニューを必死に探していた春紀も流石に馬鹿らしくなって、「私も水でお願いします」と言った。

 二人の注文を取り、去ってゆくウェイターの顔には、はっきりと「なんだこいつら」と書いてあった。


 薄暗い照明、ゆるやかに脈打つクラシック。店内を流れる音楽は、まるで胎動を思わせる。

 深海のようなレストランの中で、春紀は確かに、故郷に帰ったかのような気持ちを味わっていた。

 そして、ホームグラウンドに土足で踏み込んでいる、目の前の黒魔女に対して、改めて危機感と嫌悪感を抱いた。


「高橋ちゃん、なんか喋ってよ」

「な、何かって…?」

「なんでもいいから、喋ってよ」

「…………。」


 春紀の二つの眼球が深海を泳いだ。悩んだ後、「四字熟語はもういいんですか?」と訊ねた。

 日和が目を丸くする。「四字熟語?」と逆に問い返してくる始末なので、むしろ春紀の方が慌てた。


「えっと、昼間会ったとき、すごく四字熟語を使っていたから…」


 春紀の言葉を聞くや否や、日和はポンと両手を打った。


「あー! その四字熟語ね! アレはいーの。だっていま椎名いないし」

「椎名さんが関係あるんですか?」

「あるある、大アリよ。あの妙ちきりんな口調はさー、元はと言えば、椎名が『俺の知識が増えるように、お前、日常的に四字熟語使って暮らせ!』っつーからわざわざ調べて喋ってたわけよ。あ、もしかして高橋ちゃんも四字熟語覚えたい?」

「いえ、それは…別にいいです」

「えー。残念無念〜」


 日和が頬杖をついて呻いた。

 先程のウェイターがやってきて、水の入ったグラスを二つテーブルに置くと見向きもせずに去っていく。

 青みがかった純度の高いガラスグラスに日和が口をつけた。


「さてと。場もあったまったことだし、本題に入ろうか」

「本題…?」


 黒魔女の目がぬらり、と光る。それは確かに、捕食者としての色を称えていた。

 深海魚は密かに怯えた。


「高橋ちゃんのお友達、結城真鈴の話よ」

「………!」


 突如として深海に舞い戻った人魚姫が、しなやかに二人の間を通り抜けた。

 深海魚は一瞬、声を失った。

 黒魔女が続ける。


「―――っていうか、正確には『結城真鈴からの話』かな」

「真鈴ちゃんからの?」


 掠れた声で問い返すと、黒魔女は深く頷いた。


「ねえ高橋ちゃん。結城はいま、どこで何をしてると思う?」

「どこって、え、それは、家にずっと……」

「はいブッブー。ハズレー。結城はね、いま、家出してミュージシャン目指してるよ」

「は?」


 春紀は目を点にした。

 この魔女、いったい何を言っているのだろう。


「え、でも、真鈴ちゃんはずっと学校来なくて…それで……」

「東京にいるからねえ。そりゃあ、学校には来れないでしょ」

「東京!?」


 ひどく突飛な話についていけず、深海魚は右往左往した。

 その隙に付け込んで、黒魔女は音もなく深海魚を網にかける。


「なんかさー、結城は前からずっとミュージシャンになりたかったらしいよ。親の反対とか夢を追うリスクをやっとの思いで振り切って、貯金引っ掴んで上京したんだって」

「…………。」


 春紀は、日和の言葉に少なからずショックを受けていた。

 真鈴とずっと仲良くしていたのは日和ではない、春紀だ。

 それに、日和は黒魔女で、真鈴を騙して不幸な目に遭わせた悪者だったはずだ。

 ミュージシャン? 家出? 東京?

 そんな話は一言だって、真鈴は言ってはいなかった。

 春紀の知らない真鈴を、どうして日和は知っているのだろう。

 日和は続ける。


「そんな、夢に向かってまっしぐら!な結城真鈴からの伝言。聞きたい?」

「聞きたい」


 春紀が頷くのと同時に、店内が海底に沈んだ。

 マリンブルーとグレーが視界をやかましく入り乱れる。

 水に揺らぐ視界の向こうで、日和が笑った。

 日和は、まるで誰かの口真似をするように、わざとらしく声色を変えて、言った。


「春紀ちゃん、あのね、春紀ちゃんは本当は、深海魚なんかじゃないんだよ。海底の水圧は、辛いでしょう。あのね、春紀ちゃん。水面に上がってもいいんだよ。ねえ、知ってた? その気になれば、春紀ちゃんは空だって飛べるんだよ。

 いつまでも無理して、一人で暗い場所にいなくてもいいんだよ」


「…………真鈴ちゃん、」


 人魚姫の名前と共に、春紀の口から空気の泡が『ごぽり』と零れた。春紀の目の前では、日和も同じように泡を吐き出している。

 途切れ途切れ伝わってくる、胎動のようなゆるやかなリズムを刻むクラシックを春紀が耳で探すと、それは泡が上がってゆく方向、遥か頭上から舞い降りてきていることに気がついた。

 黒いストレートの、一房だけ寝癖のついた春紀の髪が、水中を自由にたゆたう。

 塩素で赤茶けた日和のセミロングの髪の毛だけが、海底に届くわずかな光をもすべて吸収して、キラキラと眩しいほど輝いていた。


「本当は大分前から伝言頼まれたたんだけどさー、高橋ちゃん目立たないじゃん。それにまさか、華やかな人魚姫のお友達が深海にいるなんて思わないじゃんね」


 春紀の口から、『ごぽごぽごぽ、』と次から次に空気が溢れ出した。

 泡沫は不安定に形を変えながら、光の注ぐ方へ引き寄せられていく。

 呆然とする春紀。

 突然、日和が大声でゲラゲラと笑い出した。


「あっはっは! 『えええ〜!マジ信じらんなあ〜い!』って顔だねえ〜高橋ちゃん。言っとくけど、コレ、ガセじゃないよ。ふっふっふ、実は今、日和おねーさんは結城の宅録CDなんてものを持ってるんだけど、いるかな?」

「え、真鈴ちゃんのCD?」

「そうよん。アオリ文句は『人魚姫・魅惑の歌声!』なんちって! あたしなんか音楽プレイヤーに入れて常時持ち歩いてる次第よ!」


 そう言って、日和の手が椅子の側を探ったが、肝心のスクールバックは学校だった。

 人魚姫の歌声を学校に置き去りにしてきたことを思い出すと、日和は虚しく水中を彷徨っていた右手を引っ込めた。

 ペシリと自分の額を叩くジェスチャーをして、そのまま右手をすっと差し伸べた。

 日和が春紀に訊ねる。


「で、CD欲しい? 要るなら取りに行くけど」

「…………」


 春紀は言葉に詰まった。

 なんと言っても、多田崎日和は黒魔女なのだ。いくら日和の話が真に迫って聞こえても、春紀が真鈴と連絡を取っていない以上、日和の言葉は薮の中だ。

 春紀の中では、ありったけの警戒心となけなしの好奇心が必死の論争を繰り広げていた。

 信用してもいいのだろうか? 春紀の目の前でいまもゲラゲラと笑い続ける、やたら明るくてうるさい、多田崎日和という人間を。

 なるほど、確かに日和は春紀を理解しているかもしれない。しかし、その逆は必ずしも成り立たない。

 自分の中身を握っている黒魔女の口車に、こうも簡単に乗せられてしまっていいのか?

 警戒心が優勢だ。


 口の端から『ごぽり、』と空気の泡が零れた。

 いままで、長い間ずっと押し殺し続けてきた好奇心が、―――人と関わりたいと思う春紀の心が、『でも』と叫んだ。

 ずっと海底に張り付いて生きるのは、辛かったじゃないか。

 もっと明るい所へ行きたいと、気の遠くなるほど昔から思っていたんじゃないか。

 淋しかった。

 やっとの思いで声をかけた、たった一人の友達もいなくなってしまって、それだけで死んでしまいそうなほど、淋しかった。

 だから春紀は、日和のかけたこの網に捕われて、泡沫を追っていくのも悪くないと思った。

 春紀は日和の差し伸べた手の平を見て、それから、震える手でそれを掴んだ。

 日和がにんまりと笑う。


「んじゃ、しっかり掴まっててねー高橋ちゃん。ちょっと乱暴運転するよん」


 突如、海底の静寂が破られる。海流が天に向かって螺旋を描き、春紀の髪の毛とセーラー服を嬲った。

 日和は、春紀の手を強く握り締めると、椅子の上に置いてあった春紀のスクールバックを引っ掴み、駆け出す。

 春紀は日和を追って走り出した。怪訝そうな顔をしているウェイターの脇をすり抜け、店を飛び出した。

 海流は依然として止まない。それどころかますます勢いを強め、二人の周りには幾つもの竜巻が立ち昇っていた。

 これに巻き込まれてはいけない、本能的に春紀はそう悟った。

 日和は春紀を掴んだまま、竜巻の間を器用に縫って走った。


「多田崎さん!」

「大丈夫!」


 いよいよ大きく膨らんで、二人の行く手を阻む無数の竜巻を前に、それでも日和は断言した。

 日和の足元で、水が渦を巻き始める。

 春紀が息を飲んだ。

 春紀を掴む日和の力が一層強まる。


「離すなよ、高橋ちゃん!」


 ぐおん!と音を立てて、二人の身体は竜巻に飲まれる。

 右に左に揉まれて春紀は悲鳴を上げる。無我夢中で日和にすがった。

 身体が急上昇する。気圧の変化についていけない。口から溢れる悲鳴と気泡が、弾かれたように海面へ向かった。

 日和は苦々しい顔で急激に下がっていく気圧を堪える。日に焼けた両手を伸ばして春紀を引き寄せた。

 二人を振り回す渦と泡とが次第に明るくなってくる。海面が近い。


「―――ぷはあっ!」


 水面を割って二人の身体が海上に押し上げられる。日差しが痛いほど眩しい。

 思わず目をきつく瞑った春紀の手を引いて、日和は地上に着地した。

 瞬く間に辿り着いた二年四組の教室には、日和のスクールバックが物も言わず鎮座している。

 ふらふらと頼りない足取りの春紀を誘導しながら、日和は片手を鞄の中に突っ込んだ。

 ごそごそと鞄を漁る音だけが、日の落ちた教室に響く。


「高橋ちゃん、大丈夫だった?」

「大丈夫、だと、お、思う……」

「うん、全然大丈夫じゃなさそうだね」


 息も切れ切れな返事をする春紀は、まさに、陸に打ち上げられた魚のようだった。

 近くの机に身体を預けてぐったりしている。

 日和は、鞄の中からやっと探り当てた音楽プレイヤーを手繰り寄せる。

 プレイヤーから伸びるイヤホンを春紀の両耳にはめて、日和自身もう何度も聞いた、真鈴の歌を再生した。


「―――……」


 春紀の唇が、なにかを言いたげに震えた。

 繋いだ手の平を確かめるように、春紀の指が日和の手の平に絡み付く。

 春紀の耳からかすかに零れる人魚姫の歌声が、夕日の射す教室を静かに漂った。


 『ようこそ世界へ』から始まる緩やかなメロディが、春紀の中に洪水のようになだれ込んでいった。

 それは、まだひどく荒削りで、音楽も歌詞も未熟さの残る曲だった。

 けれど春紀は、まるで水を吸うスポンジのように、その音のすべてが自分の中に溶けていくのを感じた。

 曲が終盤に差し掛かり、ギターが消える。支えを失ったピアノが一人で迷走する。

 『違う、こっちだよ』とでも言いたげに、真鈴のハミングが入る。

 ようやく安定したピアノが、静かにフェードアウトして、この曲は終わった。


「…………」

「どう?落ち着いた?」


 日和は身を屈めて、立ち竦んだまま涙を流す春紀の顔を伺い覗いた。

 日和の目線に、春紀の目がカチリと合う。この時春紀は、初めて気が付いた。

 ああ、真鈴は、悪い黒魔女に騙されて連れていかれたのではなかった。声を失ってなどいなかった。

 日和から二本の足をもらって、自ら陸に上がっていったのだ。

 春紀は手の甲で涙を拭うと、にっこりと微笑んでみせた。

 日和が言う。


「いい曲でしょ。タイトルは『私のマーメイドに捧ぐ』っていうんだってさ」

「『私のマーメイド』…」

「きっと結城には、高橋ちゃんの方こそ、人魚姫に見えたんだろうね」

「…………」


 春紀は沈黙した。

 『マーメイド』と真鈴は言うが、春紀はずっと自分のことを深海魚だと思って生きてきたのだ。

 真鈴のような歌声を持っていない。綺麗な尾ひれもない。

 ずっと深海に住んでいたこんな魚が、人魚姫になれるのだろうか。


「多田崎、さん」


 春紀が、日和の手の平を強く握り締めた。

 日和が「何?」と問い返す。


「私―――、もし、私が人魚姫だったとしても、奇形、ですけど、」


 言葉につっかえながら、春紀は次の言葉を一生懸命手繰り寄せる。

 日和はじっと黙って春紀の声を辿る。


「真鈴ちゃんみたいに、なりたいです」


 その言葉を聞いて、日和がにっと笑った。

 頼りない春紀の背中を、音がするほど強く叩いた。


「いーじゃん。頑張んなよ人魚姫」

「はい、親切な魔女さん」


 お互いの新しい呼び名を口にして、笑みを交わし合った。

 もう日が落ちる。

 空は暗くなってゆくけれど、春紀の世界は眩しいままだった。



 *



 けたたましい悲鳴とガラスの割れる音が学校中に響き渡ったので、三年一組のリーディングの授業は中断された。

 教科担任の武内恭平は、今度はいったい何事かと、窓からひょいと顔を覗かせてグラウンドの様子を伺う。

 グラウンドでは、体育でサッカーの試合中だった一年、テニスの練習中だった二年が、ぽかんとした表情で一様に空を見上げている。

 校舎中の窓という窓から生徒達が頭を出して、思い思いに悲鳴の出所を視線で探っている。相変わらず聞こえてくる悲鳴とも嬌声ともつかない叫び声は、教室の窓ガラスをガタガタ揺らした。

 学校一帯がちょっとした騒動にざわついている中、椎名極は教科書にプリントされた英文と英文の間にヘタクソな魚の絵を書いていた手を止めて、顔を上げた。

 「何だ?また多田崎か?」とざわつく教室の真ん中で、椎名だけは、悲鳴が二人分であることを聞き分けていた。

 ふいに、誰かが「空だ!」と叫んだ。

 クラスの皆が一斉に太陽の照りつける方へ目を向ける。

 真っ青な空を自由自在に飛び回る二羽の鳥を見て、椎名は苦笑した。

 二人目の人魚姫は、どうやら一足飛びに海も陸も越えて、大空へはばたいていったらしい。

 真っ赤なハンググライダーに掴まってはしゃぐ多田崎日和と、高橋春紀の、眩しいくらいの笑顔がそこにはあった。



 (end)

 

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[一言] はじめまして!作品を読ませてもらいました♪ あらすじにあった“人間アルマゲドン”というものがどういったものなのか気になって読んでみたら、物凄いパワフルなお方でしたね(笑) 想うままに気の向…
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