∞.清算
ここには何も無い。何も無くなってしまった。
鮮やかに彩られた街も人の姿も、賑やかな喧騒も青い空も、全て、全て。
ここに残っているのは虚栄の軌跡に過ぎない。
誰が想像出来ただろう、
誰が創造しただろう、こんな望まぬ結末を。
ここに未来はない。あるとすればそれは、やがて生き物が途絶えた惑星になるということ。
喜びも悲しみも、一切の魂が消えてしまうということ。
虚無に還ってしまうということ。
こんな行き止まった世界を誰が望んだのだ。
私は嫌だ。きっと彼もそうに違いない。
これは、過ちの記録である。
砂と塵で覆われた荒野。酷い嵐が土を撫でる度に、身の丈以上の塵が舞い上がる。渇きが一面を支配する冷たく、薄暗い空。
地面から突き出たように覗いているのは、かつて人が造り出した建造物の一部。それが元々どんな形や役割をしていたのかも分からない。風と砂にあてられて表面は酷く摺り切れ、触れるだけで崩れてしまいそうな程老朽化している。
生物の気配一つない殺風景な大地の上で一体何度太陽が昇り、沈んだのだろうか。
今や太陽さえも厚く淀んだ雲のせいで遮られていて、空はずっと群青色のまま。昼なのか、夜なのか、それさえも分からないのだ。
一人、低い空を見上げる青年がいた。
ネイビーブルーの髪を後ろに流し、荒野には不釣り合いな黒い装甲とダブルスーツが一体になったような装い。風で舞い上がる砂から目を守る為か、アイウェアを掛けていた。
青年----ロハネは、空を見上げるのをやめ、一面の割れた地面の上を歩きだした。
ここは既に人はおろか、動物や植物も根を下ろさない場所になった。昔に起きた人災によって空気中の酸素が徐々に消え、この他に根差した文明は全て途絶えて久しいという。彼女の話の上で知ったことだから、動物も植物も見たことはないのだが、彼女はそれを慈しむように話してくれたことは鮮明に覚えている。
ロハネが向かった先は重々しく巨大な機材の塊に囲まれた野営場だった。だが、実際は野営場ではなく、たった一人この世界に残された人間の『城』だ。
粗末な布で出来た天幕とは言え、あの中は厚い鉄で覆われたシェルターになっている。彼女がこの砂漠で生きる為に廃材を利用して作り上げた要塞だ。
その周囲は使えるとも知れないガラクタに覆われて足場は最悪だった。毛ほども理解できないが、どれもこれも彼女には必要なものらしい。足でどけただけで彼女は大声をあげて怒鳴りつけてくる。それこそ、何度怒られたのかだって覚えていない。厚いシェルターの中にいるのに、何故動かしたと分かるのだろうかと不思議に思うが。
ロハネは慣れた動きでガラクタの隙間をすり抜け、天幕をくぐった先にある重厚な扉をノックした。
「待って!あともう少しだから!」
扉に付けられた小さな外付けの伝声管からくぐもった声がした。聞き慣れた甲高い音は彼女のものだ。言われた通りに扉の前で待つ。
天幕の隙間から見える空をもう一度仰ぎ見た。今日は煤混じりの煙のような曇天だが、時折雲が途切れることがある。ロハネは晴れた薄暗い空に浮かぶ月や太陽を眺めるのが好きだった。
が、周囲を見渡しながら待てども待てども扉は一向に開かない。今度は強めに扉を叩くと、思い出したかのように中で物音がした。
重厚な扉が蒸気を吐き出し、ガチャガチャと音を立てた後にゆっくりと開く。一歩踏み出した瞬間、
「開けたら早く閉めて!」
扉が開ききってない内に彼女に金切り声で急かされ、さっと入口の隙間に身体を滑らせ、重い扉を閉めた。扉からは再び蒸気が漏れ、重いロックが何重にもかかる音がした。
階段を降りた先に華奢な影が浮かぶ
「で、何か収穫はあったかしら」
そんな声と共に見えたのは、長い髪を一つにまとめ、屋内でも帽子をかぶった童顔の少女だった。錆びた椅子に腰掛け、顔に黒い汚れを付けたまま友人に語りかけるように視線を向けられる。
背丈はロハネの半分より少し上くらい。埃を被ったポロシャツに黒いスウェットパンツ。メカニックに不釣り合いなくすんだ赤い靴。
唯一知る他人であり、人の生き残りであり、博識で賢明な、なんでも知っている少女。
ロハネは首を横に振ったが、彼女はその薄く笑んだ表情を全く変えなかった。
「良いのよ。どうせ貴方が鉄屑を持ってきても捨てる気だったもの。そんなことより、見て欲しいの!」
彼女は立ち上がって両手を広げ、背後にある巨大な機械を仰ぎ見た。
天幕の中央で唸るような駆動音を立て、物々しい鉄屑の塊のような機械が煙を吹き、至る所から蒼い光を放っていた。この訳の分からない大きな機械に比べれば、彼女の姿は両腕を伸ばしていても豆粒のように小さく思えた。
「遂に完成したわ!完成したのよ!私のこれまでの苦労がようやっと報われるわ!」
ここ数千日に見たことがないような、花開くような笑顔。
彼女は、こんな砂の世界に不釣り合いな華だと思う。
「私、ついにやったのよ!この一万日余りの苦労が報われようとしているの!」
ロハネはちらりと巨大な機械を見上げるも、すぐに少女に視線を戻した。
無反応も意に介さず、少女は興奮気味に言葉を綴る。
「時間を遡行する装置がついに完成したの!やっとやり直せる。私達はこの世界をやり直せるの!」
「アルバート」
ロハネは少女の言葉を遮った。
「その為に私に鉄屑を拾わせていたのか。そんなものを作る為に」
少女は笑顔を崩さずに応えた。
「その通りよロハネ。凄いでしょう?これも技術と才能、時間と『魔術』が成せる奇跡なのよ」
ロハネは低い轟音を発する装置を見上げた。
「こんな奇跡が存在するなら、何故お前達は、文明が砂塵に溺れるまで追い詰められた?」
少女はふっと笑顔を消し、何かを思い出したように目を細めた。
人の才智は時間さえも超越する。人にはこんな素晴らしいものを生み出す力がある。なのに、一体何がこの星を、人をここまで追い込んでしまったのか。
人間はもはや、このシェルターの中から出られない。文字通り籠の中だ。少なくともロハネが知る9500日間、少女は一度もこの部屋から一切の外出をしていない。何故なら外は到底人間が生きられる環境ではなくなっているからだ。酷い砂嵐に0度を下回る気温。薄い大気。人が歩けばものの3時間で高地脳浮腫となって死に至る。少女自身はこの境遇をどう思っているのかはわからない。ただ、一度も彼女は「外を見たい」とは望まなかった。
この9500日間、気が遠くなる日数を経ても尚、
彼女は表に出ず表を見ようともせず、このシェルターに閉じ篭ったまま文明の残滓を利用してこの機械を創り上げたのだ。
成長をせず、少女のままで
少女は勿体ぶるように椅子に腰掛けた。
「貴方は貴方という意思が誕生して以来、私の一部となって外を見てくれたものね。答えましょう。貴方が知りたいのは地が枯れた理由?」
「いつからお前はここにいる」
「忘れたわ。でも、この装置を作り始めたのは10952日前で、貴方を完成させたのは9505日前。分かりにくい数え方でごめんなさいね。空が塵に覆われて何ヶ月も晴れないなんてことはよくあるし、季節もなくなってしまったからもう暦なんてどうでもいいの」
彼女は彼女自身がデスクに付けた無数の傷を撫でた。数はデスクのみに留まらない。彼女が腰掛ける椅子。デスクの足、壁や床に至るまで傷が走っている。時計が2周する毎に、彼女が経過日数を数える目的で掘られた傷。
「その30年余りの昔に、ここには誰がいた」
「誰なんてものじゃないわ、ここには城塞都市があったの。貴方には想像も及ばないでしょうけども、何万人もの人が暮らしていて、緑は豊かで空は青く、皆、幸せそうな顔をして街を歩いていたのよ」
そうやって昔を語る彼女の顔は、やっぱり満ち足りていて、幸せそうで、
本当に、心の底から胸の内で思い描いている景色が好きだったんだと思う。
ロハネがその景色に好奇心を寄せたのも、彼女が見た世界の話や、残された本を読んでいたお陰だった。
まるで彼女の頭の中にある大きくて鮮やかな別の世界の一端に触れているようで、聴いているこちらまで楽しくなる。残存した書物を読み終えてからは語り聞かせて貰う事が多くなったが。
彼女の話を聴いていると、触れたこともない世界の話なのに不思議と懐かしい気分になる。彼女の語り聞かせが上手いからだろうか。
少女は一転して表情を曇らせながら俯く。
「でも…どれもこれも昔の話。地上から生物を生かす気体は失われた。全くのゼロに至っていないけれど、既に人が生きていける大気ではないわ。この施設は地中の化合物を分解して気体の酸素を作り出す事で私を生かしている。けど、もうそれも長くはない。大気の酸素は凄まじい勢いで消えていってる。あと数年も経てば、やがて地中や水からも失われ、全てが風化し、人が生きた痕跡は消えて無くなる」
そんな未来、人の誰も望んではいなかったでしょう。と彼女は付け加えた。
「だからこの装置と貴方が必要だったの。私は時渡りをしてはいけないから。その前にこの装置に人間が入ったら電圧で爆散するかも」
彼女の目的を理解する。同時に何か、同じトーンで大きなものを叩きつけられた気がする。
この世界が荒野に包まれて数年が過ぎた頃に自分という意思が生まれた。改めて聞かずとも、自分が彼女と同じものではない事は分かっていた。
彼女と同じ人の形をした、何かであることくらい。
「私も鉄屑で出来ているのか」
「いいえ。鉄屑ではないわ」
「なら幽霊か」
「貴方が幽霊の存在を信じるの?」
それ以上の言及はない。彼女はくすくすと笑うと押し黙ってしまう。
一を聞けば十まで答える彼女が、聞いた以上の返答をしなかった。
「もう鉄屑や生き残りの人を探せだなんて退屈な事は言わないわ。
過去へ行き、この私を殺しなさい。
これが最後の命令よ」
あぁ、残酷だ。これまで私に知識を与え続けていたのも、喜びや悲しみを理解させたのも、ずっと私が、彼女が、何者かを明言せずにいたのも、過去の光景を語り聞かせて羨望を植え付けさせたのも、全てこの為だったのだろう。
これを拒否してしまえば、彼女はすぐにでも私を『分解』するに違いない。いや、そうさせない為に私をマインドコントロールしたのだ。これを私に自覚させるまでの自我を与えたのは、彼女にとっても誤算かもしれないが。
ロハネは真っ直ぐに少女を見つめていたが、やがて静かに頷く。それを見た少女は安堵の笑みを浮かべ、椅子から立ち上がった。
向かいの研究机に無造作に置かれたガラクタの中から、一振りの武器を取り出す。
軍刀と呼ぶには金属質で、剣と呼ぶには反りがある、真っ黒な鞘と柄の、『カタナ』と呼ぶに相応しい無骨な武器。
それを両手に持ち、ロハネに差し出しながら言う。
「簡単な事じゃない。たった一人を殺めるだけで万人の命も、城塞都市アルタマイルも救われる。この悲劇の顛末を塗り替えられるの。夢みたいな話よね」
このカタナは古くから存在するものだ。柄や鞘は金属だが、刀身は不可思議な鉱石を織り交ぜた鋼で造られている。これがいつ創られたものなのか、彼女は教えてくれなかった。
差し出された武器を受け取る。今まで幾多の武器を彼女に持たされたが、これが最も扱い易く体に馴染む。
「それじゃあ装置に入って頂戴。貴方を送り届けるわ」
彼女の目を見た。その瞳には悲しみさえ映っていない。私を見る時、彼女はまるで使い捨ての鉄屑を見るような目をしている。そんな瞳の奥に複雑怪奇な感情が渦巻いているのは分かっているが、彼女に下手な詮索をするのはいつも気が憚られる。だから何も知らないフリをしてしまう。何も気づいてないフリをしてしまう。
言われるがままに、ロハネは導かれたコフィンに足を踏み出した。入った瞬間から既にヒリヒリとした磁力に肌の表面を焼かれているような気がした。いるだけで髪が逆立つ磁力を感じる場所だ。確かに人が入って無事で済むような代物ではない。これだけ仰々しい大きさと見た目をしているにも関わらず、この機械が起こす『奇跡』に安全などないのだろう。
ふと、手元の機材を指で叩く彼女の顔を見る。何も言われずとも直感で分かる。ここを潜った先、二度と彼女に会うことは無い。
目が合った。思わず視線を背ける。
「そんな顔しないで。私達は必ず会えるわ」
そう言って貼り付けたような微笑みを浮かべた少女に対し、相槌すら打たなかった。
装置が起動し、一際強い光と音を発する。身動きが取れなくなる磁力が身体を縛り付け、地面から電流が迸る。掛けていたアイウェアにヒビが入った。
「お別れね。何か言いたいことはある?」
音として耳に届いたのか、読唇だったのかは自分でも分からない。だけど、そう聞いた少女に対し、ロハネは答える。
「お前が憎い」
少女は低く唸るような彼の言葉を聞いて満足げに微笑んだ。
「それでいい。私は貴方が大好きよ」
視界が光に包まれる。少女の姿が見えなくなっていく。枯れ果てた世界が遠のいていく。
たった一人少女を残し、過去へ落ちていく。いつまでも彼女は自分を見ていた。意識までもが白ける刹那まで、悲しげな笑顔で、ずっと、ずっと。
一体何を悲しんでいる。何が悲しいんだ。別れか?それとも、もっと別の何か?
私が理解するには遠く及ばない。最後までお前が脳裏に描く世界も、思考も、全てを理解することはなかった。
同じ地に立ち、同じ場所で幾日を肩を並べて過ごそうと、
どれだけ寄り添っていようと、
結局私はお前の『清算』の道具でしかないのだろう。
「さようなら、私のアヴェル」