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チェリーブラッサム

チェリー·ブラッサム


ホテルの薄暗い部屋で私は尚之の背中を見ていた。尚之は床にすわり、ベッドにもたれてテレビを見ている。テレビの画面が逆光になって、彼の肩や頭の輪郭を黒く映し出す。

私はベッドから手を伸ばし、彼の首に腕を絡ませる。彼はテレビを消し、私を抱きながらベッドに戻る。そうして今夜何度目かの甘い陶酔に落ちてゆく。

「あなたが男に引き受けてもらうんじゃないのよ。あなたがこの男を引き受けるのよ。わかる? どうする? この男引き受ける?」

ゆうべ彼女は私にそう言った。彼女の顔の美しい陰影、華奢な肩にかかる長い髪。まるで映画のような場面、と少し酔いのまわった頭で私はぼんやり思った。

彼女は尚之を愛していた。たぶん今の私より少しだけ強く。

そんなこと、あなたの知ったことじゃないじゃない。そう言いたかった。彼女と張り合いたかった。そうしないと崩れていきそうに彼女はあやうげだった。女は時にはこんなにも心をさらして生きるということを男は気づかない。私は裏切られたことよりも、彼女をこんなにさせた尚之を憎んだ。彼女には夫と、二人の子供がいた。

あなたが男に引き受けてもらうんじゃないのよ、か。私は障害者。尚之は健常者。二人が結婚すれば、誰がみても尚之が私の人生を引き受けるという図が出来上がる。私が彼を引き受けるなんて考えつく人は少ないと思う。尚之を支えてあげたいと思いながら、頭のどこかに尚之に引き受けてもらうという意識が私にもなかったとはいえない。

村上尚之と出会ったのは三年前。ある障害者運動の集会でのことだった。彼はその運動に出入りしているボランティア、私は友達に誘われておつきあいという感じでたまに集会に出ていた。私はその運動の趣旨には共鳴できたが、行動があまりにも過激で、何かついていけないもの感じていた。

その運動で出している機関紙に私の詩が載って、その詩について彼が話しかけてきたのが最初だったと思う。

それから顔を合わすと話をしたり、手紙を書いたりした。詩や生き方や恋愛や、あれこれとりとめのないことを話し合ったような気がする。

そして尚之からの唐突な求愛。精神的にすごく弱いところがあって今まで定職を持てなかった彼が、私と話すようになってから安定して働けるようになったという。一人前になるまで待っていてほしい、といった。

私は尚之をそんな対象として考えていなかったので、少しとまどってしまったが、尚之に、

「本当に私でいいの?」

と念を押して、この出会いを展開させてみようと思った。

それから二人の関係は一気に純愛路線を突っ走った。

尚之は私に女の子らしさを求めていた。ショートカットで化粧っ気がなく、いつもパンツ姿の私に、髪をのばせの、化粧をしろの、スカートをはけのといろいろ注文をつけた。私は、少しうるさいと思いながらもそういう無邪気な尚之を楽しんでいた。

私は尚之のいうとおり髪をのばし、スカートもはくようになったが化粧はしなかった。

私の体は脳性マヒという障害で、何かしようとするとき、それに必要な部分だけではなくて体全体が動いてしまう。糸の絡んだマリオネットのように神経の糸が体のあっちこっちでもつれて、例えば歩くにしても足だけが動くのではなくて手や首や顔まで自分の意志と関係なく勝手に動いてしまう。動いているよりじっとしているほうがエネルギーが要る不思議な体。その体を巧みに(やつりながら生きているのである。

だから、口紅をつけても無意識に唇が動いてしまってこすれあい、すぐに落ちてしまう。口紅ぬきの化粧なんてなんだかつまらなくてやめた。


抱き寄せられて気が遠くなるのを感じた。尚之の部屋でなんとなく言葉が途切れた時だった。

「典子がほしい」

耳元でささやいている尚之の低い声が、どこか遠くで聞こえた。ふわりと抱きあげられて、花びらのようなスカートの裾を、感じた。

尚之はまるでだだっ子のように私を抱いて、やがて眠ってしまった。

子供みたいな彼の寝顔を見ながら、私はこの人と生きていけるかな、

と思った。下腹部には彼を受け入れた痛みがまた残っている。

先のことはわからないけれど、尚之が今私を必要としていることだけは信じられると思った。


私はある障害者のための授産施設に入所していた。授産施設というのは一般の社会では就職することの難しい重度の障害者に仕事を与え自活させるという福祉施設である。

何の才能もなく、社会の流れに逆らうほどの気丈さもない平凡な障害者の、決してドキュメンタリーにはならない平凡な生活が、そこにはあった

家族に負担をかけることなく安定した生活ができ、仕事というある程度の生きがいもある。くりかえすことが暮らしというものなら、そこにも確かに暮らしがあった。でも、それは積み重ねられることのない暮らし、そんな気がした。もっと自然な、へいぼん、が私たちにもあればいいのに。いつもいつもそう思った。


尚之の母から手紙が来たのは、尚之との恋愛関係が始まってから半年

ぐらいたったころだった。内容はなんとなくわかっていた。斎藤典子様

という表書きが迷っているように小さく細かった。

尚之はあなたとつきあうようになってから確かにまじめに働くようになった。それはありがたいと思っている。尚之はあなたとの結婚を考えているようだが、あれはあなたを幸せにできる男ではないし、人様の大事な娘さんを不幸にしないかと心配でならない。とにかく結婚はあきら

めてほしい。そんな内容だった。

手紙には書いてなかったが、ねあきらめてほしい一番大きな理由は、私の障害だったと思う。

授産施設の仕事場の窓から満開の桜が見えた。わーっと空気まで染めていきそうに、淡いピンクの花があふれていた。桜というと淡いとかはかないとか弱々しいイメージがあるけれど、私は毎年桜が咲くのを見るたびに、何か力強いものを感じる。つぼみが膨らみ始めると微熱のようなものを枝先に漂わせて、開き始めると堰が切れたようにわーっと一斉に咲く。開花のエネルギーというか、見ているだけで何もなくてもしばらく生きていけると思わせるような、息吹のようなものを感じるのである。

その生気を吸い込むように深呼吸をひとつして、尚之の母に手紙を書こうと思った。先のことはわからないけれど、とにかく今は尚之さんにとっても大切な時期だと思うので、二人のことはしばらく見守っていてほしい、私は自分のことも尚之さんのこともある程度わかっているつもりだし、決して無茶はしないつもりだ、という返事を、私は書いた。

尚之は無邪気なくらい本気で私との結婚を考えて仕事に励んでいた。こんな気持ちになったのは初めてだという。尚之のそんな無邪気さが私には少し苦しかった。

私は正直いって尚之との結婚を実感をもって考えることはまだできなかった。もちろん私は尚之が好きだったし、泣きたいくらい愛しいと思うこともあった。だが、結婚に対する気持ちはどこか主体性に欠けていた。

私を必要としてくれる尚之のそばで、かいがいしく、とはいかないまでも、時間はかかるけれど、一生懸命料理を作ったり、洗濯や掃除をしたり、子供を育てたり。そして尚之と二人で穏やかに年を取っていく、そんな平凡な普通の人生。何もないような、他の同じように平凡な誰かの人生に紛れてしまうような人生。そういうのっていいな、と思う。

障害のために免除されてきた、あるいは不可能とされてきたあらゆる普通のこと、普通の人生で普通にぶつかるあらゆること、受験とか、就職とか、結婚といった、そういうことをきちんと通り抜けてみたいと思う。

そして普通のかわいい妻になり、賢い母になり、そういうのっていいな、と思う。

が、それとは全く違うものを求めている自分が、心のどこかにいた。


小さな駅の改札を抜けると、私は普通の女の子になる。

街で出会うパステルカラーのキャンディみたいな女の子たち。過去も未来もなくて今だけを降ってわいたように生きているまるのまんまの女の子たち。そんな花びらみたいな女の子たちにまぎれてしまうような普通の女の子になる。そんな気がした。

私には、周囲からそうしむけられたのか、自分でそう思い込んでいるのか、体も心もまるのまんま女の子であってはいけない、という感覚があった。障害をもったまま、ふわっと女の子でいるのは、なぜかとてつもなく無謀なことのように思えた。それは本能に近いもので、おしゃれをするにしても、夢を見るにしても、人を好きになるにしても、いつも心のどこかにブレーキをかけていた。

でも、尚之に会うときだけはまるっきりの女の子でいてもいいような気がした。一面に広がるコスモスの群生の中の一輪になったような、そんな感じ。障害をもった分、他人とは違う自分というものをたぶん人より強く感じていた私にとって、それは不思議な解放感であり、新鮮な感じがした。


ああ、あの頃から尚之の心は変わりはじめていたのだな、と、今ならなんとなくわかる。彼のまわりの空気の流れ。つないだ指の感触。それから、私を抱く時の体の動き。彼が目の前にいた時には自分の思いが強すぎて見えなかった彼の微妙な心の動きが、だんだん見えてくる。

ちょっとしたトラブルで会社を辞めたあと、なかなか仕事がみつからなかったあの頃、尚之にとって私はどんな女だったのだろう。周囲の反対。生活への不安。理由はいくらでも思いつくけれど、あんなに激しかった尚之の私に対する思いがさめていったのはどうしようもない事実だった。尚之は、私とは別のものを求めはじめていた。

桜のことを英語で『チェリーブラッサム』という。チェリーの花。日本語で、みかんの花とかりんごの花とかいうのと同じ感じだろうか。英語では桜の花よりもチェリーという果実の方がメインであるらしい。

しかし、あの、派手な咲き方をし、散り方をする花を、『さくらんぼの花』と呼んでしまうなんて、考えてみるとちょっとすごい発想だと思う。そして、何と呼ばれても桜はエネルギッシュに花を咲かせ、甘くほろ苦い実を、りんと実らせる。

花と実と。私の人生にはどっちがメインなんだろう。

もう散り始めた桜の下で、ふと、そんなことを考えてみた。

音信不通だった尚之の手紙が、とんでもなく遠いところから届いた。会社を辞めてから何をしてもうまくいかないまま、突然手紙が来なくなって三カ月が過ぎていた。

尚之はあれから放浪の旅に出て、今、青森のある共同農場においてもらっている、という。

『陽だまり村』というその農場には三世帯の家族が住んでいて、障害をもった人も何人か働いていた。典子にも勉強になると思うし、紹介したいので一度来てくれないか、と書いてあった。落ち着いて働けるところが見つかったのかな、と思いつつ、私は手紙の中の上っすべりな感じがなんとなく気になった。

とにかく会いたかった。いってみようと思った。

夜行列車に一人で乗るなんて、尚之と出会っていなかったら、きっとなかったことだろうな。窓の外を流れていく夜を眺めながら、そんなことを考えていた。

ゴールデンウィークの寝台車は満員で、私は上の段しか取れず、一晩中立っているのを覚悟で乗り込んだ。上の段の寝台にはやっぱりどうしても上れなかった。通りかかった車掌さんにわけを話すと、以外とスムーズに下段に変えてくれた。私の体を気づかっていろいろ心配してくれる親切な車掌さんがいってしまうと、心がしーんとなった。ひとりなんだ、と思った。尚之に向かっている時は、いつもひとり。

変えてもらった寝台に横になって、列車の振動に身をまかせる。ごとんごとんという振動は心地よくて、私はうとうとしはじめた。

青森駅には尚之が信ちゃんという下半身麻痺の友達と一緒に迎えに来てくれていた。私達は信ちゃんの運転する車で『陽だまり村』に向かった

信ちゃんは運転しながら私にいろいろ話しかけてきた。とても気さくな青年だった。

青森市内から1時間ほど走った町はずれにr陽だまり村』はあった。

ここは夏場は有機農業で無農薬の野菜や米を作り、雪にとざされる冬は、収穫した野菜を使って漬物を作ったり、ろくろをまわして茶碗を焼いたりしているそうである。かなり広い野菜畑があって、民家が三つ、事務所兼窯場、家畜小屋、少し離れたところにりんご畑もあるそうだ。

ここに住んでいる三世帯の家族のうち、一世帯は障害者同士の夫婦で、あとの二世帯は健常者の夫婦。みんな私と変わらないくらいの若い人達だった。働きに来るのは、主に、知的障害者と呼ばれる人達。その他いろんな人達がしょっちゅう出入りしていて、みんないい人だった。「ここはいい人の集団だから..。」と怜子さんがいっていたっけ。

怜子さんには、畑の中で土にまみれて百姓仕事をするには似つかない、どこか都会的で華奢な雰囲気があった。『陽だまり村』の一世帯、北村さんの奥さんで、まだ幼い女の子が二人いた。

「典子さん?」

と話しかけられてから、なんとなく気が合って、尚之が農場の仕事をしている間、私はほとんど怜子さんと一緒にいた。

私達は、尚之のこと、私と尚之のこれからのこと、農場のこと、出入りしている人達のことなんかを話したり、料理を教えてもらったりした。

男を介してかかわりあった女同士という関係には多かれ少なかれ、複雑で微妙な、切なさみたいなものがある。私は怜子さんの視線の中に時々鋭くはないけれど、じーんと痛いものを感じていた。

その夜は昼食用の食堂でみんなで食事をしたあと、私は窯場の横の尚之が使っている部屋に泊まった。夜になって降り出した雨は、夜半ごろ、雷を伴った。

尚之はなんだか妙にはしゃいで、饒舌だった。私が帰る時一緒に帰るといい出し、それから何か、論理はすごく正しいけれど、実現の不可能なことばかりいっていた。いちいち反論するのも淋しい気がして、私はなんとなく黙って聞いていた。

部屋の明かりを消してひとしきり抱き合ったあと、私達は窓の外で稲妻が閃くのを見ていた。稲光が走る度に、降りしきる雨が粒の形で光る

「きれいだね。」

尚之が、ボソッとつぶやく。

ここへ来て初めて尚之と言葉が通じた、と思った。

閃光。雷鳴。雨。風の音。そして夜の中の二人。尚之の腕の中で私は美しい夜だと思った。尚之と共有した美しい夜。私と尚之が一緒にいること、そのことがなぜかとても不思議なことのように思えた。

翌日は、ゆうべの豪雨がうそのようによく晴れた。私は、尚之の部屋を掃除して、たまっていた洗濯物を片付けた。北国のまだ冷たい春の風がほほに気持ちいい。私は、なんということもなく、生活,という言葉を思い浮かべた。

農場の人全員でとるにぎやかな昼食を終えて、私は怜子さんの案内で農場の中を見せてもらった。家畜小屋にいってみたり、野菜の仕分けや梱包を手伝ったりした。みんなにこにこしていた。一日や二日でわかったような顔はしたくないけれど、豊かだなあ、と思った。

その日の夕食は北村さんの家に招かれることになった。軽く食事をして、子供達を寝かしつけたあと、北村さん夫婦と四人でお酒を飲んだ

尚之は相変わらず、むちゃくちゃな論理を展開させていた。「おれは一生定職は持たない」とか、「結婚しても放浪はやめない」などという。

北村さんが私をかばって

「あんたはそれでいいかもしれないけれど、典子さんはどうなるんだ」

というと、今度は障害者の自立問題を持ち出してくる。

尚之は弱い男だと、私は思っていた。弱いから論理に逃げ込むのだと。確かに尚之は、考えていることとやっていることとのギャップにいつも悩んでいたし、尚之のそういう気持ちを私もわかる気がしていた。

しかし、いま目の前にいる尚之は、論理でガチガチにかためて物事を強引に自分の思いどおりにしようとしている、私のまるで知らない男だった。

「一人の女と結婚するには、それなりの覚悟ってものが必要なんだよ。わかってるか? どっちが上とかどっちが下とかじゃなくて、一緒に生きてくんだよ。一緒に生きてく同志なんだよ。おれはこいつのこと同志だと思ってる」

北村さんが怜子さんの方を目で示して、いった。

「そう。夫婦って同志なのよ」

と、怜子さんが大きくうなずく。

「同志? こいつとか?」

私の方をちらっとみてうす笑いを浮かべている、この男は誰だろう?


「あなたって、所詮そういう男なのよね。」

あなた、という言葉の響きに、私ははっとした。怜子さんが尚之に対して発した言葉だった。

お酒もだいぶ進んで、北村さんは「もう寝るわ」といって席を立っていた。私もなんだか頭がぼんやりしていた。

気がつくと、尚之と怜子さんが何か言い争っていた。言い争いながらも、二人の間には何か通じ合うものがあるような気がした。

「典子さん、あなた、この男を引き受ける覚悟が本当にあるの?」

いつの間にか私の横にきて、怜子さんはいった。そして私の手をとって話し始めた。何を話したのか、よく覚えていない。ただ彼女の長い髪と悲しい表情が、記憶に貼りついている。何が何だかまだ把握できない

頭の中で、尚之よりも私よりも怜子さんが一番傷ついているということを、私は確信みたいに強く感じていた。

怜子さんは何かつぶやいて、急に泣きながら飛び出していった。私はとっさに、追いかけなくては、と思い、外に出たけれど、体が思うように動かず、彼女はもう見えなかった。

家に戻ると、いつの間にか尚之もいなくなっていた。一人残されたま

ま、私はどうすることもできず、ただ待つしかなかった。

怜子さんのことがなぜかとても心配だった。

一時間程たっただろうか。尚之が戻って来た。

「典子、おいで。部屋へ帰ろう。わけを話すよ」

尚之が小さな声でいった。

北村さんの家を出ようとした時、奥の方で、いつ戻ったのか、怜子さんのすすり泣く声が聞こえた。

そのとき、何もかも急に鮮明にわかりはじめて、軽いめまいがした。

怜子さんは、尚之を愛していた。

部屋に帰ると、私は黙って荷物をまとめはじめた。私が何もかもわかってしまったと思ったのだろう、尚之も何もいわなかった。意識だけがばかに冷静で、自分のものでないように手や体を動かしている。

「明日の朝、帰ろうね」

数分の沈黙のあと、私は、荷物から顔をあげずにいった。

「おれの一番好きな女は、典子だからな。」

尚之が言い訳をするようにいう。

そして怜子さんは『二番目』に指定されるのね...。

『いちばん』という言葉が、なんだかとてもあいまいなものに思えた。

ふりむくと、尚之の顔がぼやけていた。なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。ただ早く尚之と一緒にここを出ていきたかった。

一睡もできないまま、ひたすら夜が明けるのを待った。


翌朝、私が急用を思い出したということにして、私達は帰ることにした。

みんなとても残念がってくれた。

「また来て下さい」

という北村さんの笑顔が、少しつらかった。

「彼女、泣かせるなよ」

尚之に向かって、ちょっときびしい表情で北村さんがいった。

怜子さんはゆうべのことをよく覚えていないらしく、でも、ぼんやりと水でうすめたような笑顔だった。私は少しほっとして

「ありがとう。お元気で」

と笑うと、怜子さんも笑顔を少しはっきりさせた。

『陽だまり村』というその限りなくやさしい場所を、私は複雑な思いで出て来た。

尚之とは、ゆうべからほとんど口をきいていなかった。私は、体を揺らして普通の人よりまどろっこしい歩き方をする。速度も数倍遅いので、尚之と歩く時は自然に手をつなぐようになっていた。こんな時でも.

尚之とバス停までの道を歩きながら、私は少しうつむいてつないでいる手を見ていた。大切な何かを失ったような、何かを得たような、不思議な気持ちだった。

駅に向かうバスの中でも、切符を買って改札を出てからも、私達はお互いに黙ったままでいた。周りに人がいるせいか、それは重苦しい沈黙ではなく、黙っているのがむしろあたりまえという感じだった。

二人で特急列車の座席に並んですわる。座席のうえの網棚に鞄を上げている尚之を見て、これから何時間も尚之と二人でいるのだな、と私は思った。

通過駅をいくつか過ぎた。尚之が、不安な時いつもそうするように、私の手を握ろうとして、やめた。まるで叱られた子供みたいで、おかしくて、一瞬泣きたくなった。

視線を窓の外にずらして、私は尚之の手にそっと手をおいた。尚之が少し驚く気配がする。もう少しだけ恋人のままでいよう、と思った。

二人の間を柔らかな時間が流れはじめた。砂時計の砂がゆっくりと落ちるように、恋が終わろうとしているのを感じた。尚之と一緒にいられるその空間がとてつもなく愛しかった。

乗り換えの駅で食堂に入った。カレーライスを食べる尚之を、スパゲッティをフォークにまきつけながら、私はじっと見ていた。悲しいのではなかった。今までのことを思い返すのでもなかった。いま目の前にいて福神漬やらっきょうをほおばっているまるのまんまの尚之を、ただ見ていたかった。

「道草、しょうか?」

次の列車を待ちながら、ホームのベンチで尚之にいってみた。

「途中下車して、今夜どこかに二人で泊まるの。そのくらいのお金ならあるし。いい?」

「どうしたんだ、急に」

といいながらも、尚之の心がやわらいでくるのがわかる。

「そういう気分なの」

立っている尚之の宙ぶらりんの腕を思い切り振って、私は笑った。

アダルトビデオの女優ってどうしてあんなわざとらしい声を出すんだろうか。ホテルの大きなベットの上で、尚之がつけていったビデオを見るともなく見ながら思った。時々絵と音がちぐはぐになる。その欲望だけを満たすために作られているのはわかるけど、この程度の次元で満たされる欲望って、なんだろう。

濡れた髪を拭きながらバスルームから出て来る尚之を、首を傾げて見る。

左斜めに傾いて、尚之が近づいてくる。

本当の、あの時はもっと切ない。

傾いたままの視界の中で、尚之が冷蔵庫からビールを出している。ガラスのふれあう音がする。

「飲むか?」

尚之がベッドに腰掛けてビールを注ぐ。私は首を傾げたまま黙って尚之を見ていた。

「どうした? 典子」

ナイトテーブルにグラスを置いて、尚之が私の耳元に顔を寄せる。そしてほとんど息だけでささやく。

「典子」

私は尚之の首に手をまわし、シャンプーの匂いのする尚之の頭をそっと抱いた。


「半年たったら、一緒に暮らそうな」

朝のホームで尚之がポツンといった。

「おれ、それまで土方でもなんでもしてお金ためるから。あんなことがあって、えらそうに、ついてこい、なんていえないけどな」

尚之の腕にもたれながら、私は黙って聞いていた。一時的に働いてお金をためて一緒に暮らして、それからどうやって食べていくの? それが問題なんじゃない。私達ずっとそのことを話し合ってきたのよ。

でも、もういいのだ。みんな終ってしまうんだから。

農場を作ろうとか、店を持とうとか、尚之の話は私の考えられる範囲を越えてどんどん広がっていく。

もう、あきらめてしまった、尚之との、たくさんの未来。

尚之の腕に頬をつけて、私は猫のようにじっとしていた。


強い風が吹くたびに、幹のまわりに散った花びらが舞い上がる。あれからもう一年たつんだな。以前とは何も変わらない平坦な生活が続いている。尚之とはあれっきり連絡がつかない。

何もできなかったな、と思う。でも、いったい何をしようとしていたんだろうか、とも思う。いまごろどんな論理で尚之は生きているんだろうか。

桜吹雪の向こうから笑いながらボーイフレンドが松葉杖で歩いて来る。いつもふざけてばかりいる彼が、最近、時々まじめな顔で結婚をほのめかして、ドキッとさせる。

明るい未来、みたいに、彼の笑顔が近づいてくる。ふと、怜子さんのことを思った。彼女はあのやさしい場所で、これからも時々あんなふうにひそやかに心をさらして恋をするのだろうか。

「典子、何ボケーッとしてるんだ? おれに見とれてたのか?」

いつの間にか横に来て、彼がいった。

「まさか」

私達はなんとなく並んで歩き出した。二人とも体を揺らして歩くので、ぶつからないように少し離れて歩いた。

「おれ、この体でこうやって歩くの、好きなんだ」

歩きながら彼がいった。

「普通の人が普通に何気なく歩くのもいいけれど、こう足を踏ん張って、歩くことに集中して歩くっていうのもいいな、と思うんだ。歩いているっていう実感が沸くっていうかさ。人にいうと負け惜しみみたいに聞こえそうだけど、でも、好きなんだよな、おれ」

散り敷かれた花びらの上を、彼は本当に楽しそうに歩いている。

「典子は、そんなこと思う時ってないか?」

彼が足をとめてふりむいた。

「あるかもしれない」

立ち止まってそう答えると、彼はうれしそうに笑ってまた歩き始めた。

彼と歩く人生って、たいへんだけど楽しいだろうな、と思う。でも、その前に...。

そう、その前に自分の中の何かを確かめたい。

しばらくはひとりで歩いてみよう。

花びらを巻き込む風の中で、私は思った。


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― 新着の感想 ―
最後このままこの人と結婚するんじゃないかと、ドキドキしてましたが、そうじゃなくて良かったです。 恋をするってまだ私にはよく分からなくて、不思議だなと感じました。
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