ヒロさんのお土産
人はあまりのショックを受けるとかえって冷静になるのだな、とヒロさんは思った。
窓の外ではセミ達が大音量で鳴いている。その中に時々、子供達のハシャギ声も混じっているのが夏らしいといえば夏らしい。
ヒロさんはうつむいて、視線はリノリウムの床の上。
耳は窓の外のセミの鳴き声に注意がいって、先生に肩を揺すられるまで、今年のセミは鳴き始めるのが遅かったな、天候不良のせいなのか? とか、病院の床はリノリウムがやっぱり合ってるのかな、とか、そんなコトを考えている冷静な自分、に思いを馳せているヒロさんでもあった。
「もしもし? 今私の言った事が分りますか? 本来ならご家族にお話をするべきなんでしょうが、お一人との事なので…」
まだ二十代であろう若い医者が、カルテを見ながら淡々と言った。ふち無しのメガネのレンズが、窓からの日差しを受けて、きらりと光っていた。
ああ、この若い医者にしてみたら、これは日常のひとつに過ぎないのだろう。しかし…俺にしてみれば…
ヒロさんはここでようやくハッと我に返った。
「で、これからの事なんですが…お一人というコトなので…」
ヒロさんは今年で六十歳になる。家族に縁が薄く、親戚もいない。おまけに独身、ときてるので、どこからどう見ても、孤独な、一人暮らしの初老の男なのである。
高校を卒業してから地元の中堅メーカーに務め、今ではいわゆる窓際族でもある。出世コースはとうに外れ、それと共にやる気も薄れ、自分よりも随分と若い後輩が上司になってゆくのにももう慣れた。後はこのまま定年まで…と考えていたのだが、人生とはいつどうなるか分らないものだ。何事も無く平穏無事が何より大事、が信念でもあったのに。これまで病気という病気はした事が無かったのに。
長くて半年? まさか? ガンなのはわかった。確かにこの処、ものすごく体が疲れていると感じる。どこかにガタが来ているのも薄々気づいていたけれど。あと半年の命だって?
「終末医療の病院を紹介しますので。それでですね…」
若い医者はヒロさんの目を見ないで続けた。その声は、まるでテキストを読み上げる人工音声のようだ。それ故だろうか? ヒロさんの意識は、自分の意思とは関係なく、また窓の外で激しく鳴いているセミの声、それから、いかにも病院の床を思わせる、リノリウムの床、に行き着いてしまうのだ。
三十分後、部屋を出て行く段になっても、ヒロさんには、たった今自分に起こった出来事が、まるで夢の中で起こった事のように思えてならなかった。それでも、あの医者の宣告を聞いてから余計に体がだるく感じるのは、それが真実であるからなのかもな、とも思える。
病院の近くの小さな公園で、ブランコに乗りながら考えた。昔観た映画にこんな場面があったっけ。確か主人公は歌を歌うんだったな。自分の残した公園のブランコで…
ふふっ、そうか。今になると良く分る。俺も自分の生きた証、が欲しい。人の為に何かひとつでも…
その日、ヒロさんは随分と長い間、ブランコに乗ったまま、色んな事を考えていた。何故か涙が止め処も無く溢れた。辺りが薄暗くなり、セミの声が収まる深夜になるまでヒロさんはブランコに乗り続けた。それから一言「よしっ!」と言うと、ようやく腰を上げたのだ。
その次の日、ヒロさんは会社に辞表を出した。それから銀行に行き、これまでコツコツ貯めていた預金を半分下ろした。次に、前もってネットで調べていた店を何件か回った。持ってきた大きなバッグに、それらの戦利品は収められたのだ。
その週末、ヒロさんの住む町の、暴力団事務所と暴走族のたまり場に、ヒロさんは姿を現した。そこはこの町のダニ共の巣窟でもあった。普段から町の人達に恐れられ、警察でさえ近づかないと言われているその場所に。麻薬密売、恐喝、強姦、強盗、暴力、それらが実体を持って存在しているその場所にである。
ヒロさんのごく普通の、そのおじさん然とした姿に
「何だ? おめえは? 何か用か? じじい?」
そう言って薄ら笑いを浮かべていた荒くれ男共は、次の瞬間から信じられない光景を目にするのだった。そしてそれが彼らの見た最後の風景となったのだ。
ヒロさんは静かに、ごく当たり前の様に男達に近づくと、バックからスタンガンを取り出して、それをやっぱり当たり前のように、男達の首元に次々と押しつけていったのだ。
男達は考える暇も無く、大きな声を出す事すらなく、バタバタと倒れていった。そしてその後は…用意してあったガソリンを撒き、火をつけ、そっとその場を離れた。ウソみたいに簡単に、そのヤクザ事務所と暴走族のたまり場は、一瞬にして町から消えたのである。
次に、調べておいた町の人達の声を頼りに、性犯罪者のところを回った。何度も何度も事件を起こしても証拠不十分で未だに町を闊歩している奴らだ。これにもスタンガンが大活躍した。その後は大型のナイフで…命をとるまではいかないにしても、二度といたずらは出来ないだろう。お前らは新たな道を歩むがいいさ、とヒロさんは思う。
そして最後に、未成年であるが故に、未だに好き放題をしている子供達を成敗した。勿論、極悪非道の限りを続けている奴らだけに絞っての事ではあったが。
方法としては簡単だった。おやじ狩りをしている奴らを逆に狩ったのだ。遊び半分の奴と、命懸けで信念を持ってる奴、が戦ったらこれはもう勝負にすらならなかった。ヒロさんは今では使いなれたスタンガンと眼つぶしスプレー、警棒を使い分けて、彼らを順次撲滅していったのだ。これで当分の間は、いかに大人嫌いな彼ら達でも、大人の言う事を聞かざるを得ないだろう。そうして少しでもまっとうな考えを持つようになればいいのだが…。泣いて許しを請う子供達に説教をくれた後で、ヒロさんはそうも考えるのだ。
月曜日早朝、その足で、ヒロさんは長年住んでいたその町を離れる事にした。事件が知れ、騒ぎが大きくなり、身元がバレるその前に…
これから俺はもっと遠くへ行くことになる。それまでにもっとお土産を…出来るだけ沢山お土産を、これから行くことになる町でも…
ヒロさんは大きなバックをひとつ持つと、少しだけ足を引きずりながら、まだ始発さえ動いていない、駅に向かってゆっくりと歩いて行った。