涙をはじく雨合羽があれば
涙をはじく雨合羽があれば
勇一は激しい雨の中、自転車に乗っていた。家に帰る途中だった。
秋の終わりの雨は、冷たく、ぶどうのように大粒だった。その大粒の雨が、勇一の前方から斜めに吹く、暴力的な風の悪友となって、勇一の体の前半分に強く当たっていた。空は黒に近い灰色だった。雨が目に入って、眼球がしみた。
勇一の制服は雨に浸り、彼の体にぴったりと張り付いていた。勇一は傘もささず、合羽も着ていなかった。ヘルメットもかぶっていなかった。それでも、勇一は急いでいなかった。ゆっくりと自転車を走らせていた。ペダルをこぐ度に、腹筋がきしむように痛んだ。
勇一の目はうつろだった。勇一は無気力だった。もうどうなってもいいと思っていた。
前方に橋が見えてきた。
「なんで、そんなに濡れてるの! 合羽はどうしたのよ!」
勇一の母親が、勇一の無惨な姿を見て驚き、怒鳴るように大きな声を出した。
勇一が家から少し離れたところにある小屋に自転車を入れているときに、母が小屋に保管している野菜を取りに来た。ちょうどはち合わせになってしまった。
勇一にとって、一番恐れていたことだった。勇一は家族の誰にも見られたくなかった。そっと家に入り、部屋着に着替えるつもりでいた。
「いや。」
勇一は母の目を見ないで、ぼそりと小さな声で言った。母の目線は、勇一を可哀想に思うようでもあり、勇一を責め立てるようでもあった。
「いやって。どういうことよ?」
「だから、どうでもいいだろ。」
「合羽はどうしたのよ?」
「学校に忘れてきた。」
「雨が降っているのに、忘れるわけがないでしょ。じゃなにさ、雨が降っているのに、合羽も着ないで、そのまま帰ろうって考えたわけ?」
勇一は何も言わずに小屋から出て、家に向かった。外は相変わらずどしゃ降りだった。
母は勇一の背中に向けて何か言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。母の顔は、苦いものでも噛んだような顔になっていた。
その日の部活動の後、勇一は合羽を着て、学校の自転車置き場に向かった。他の部員はとっくに帰っていた。中学二年の勇一は、秋の新人大会に向けて、一人で自主練習をしていた。
大雨だったので、勇一は合羽のフードを頭にかぶり、顔に雨が当たらないように、下側を向いて小走りした。自転車置き場には、数台しか自転車は残っていなかった。雨がひどかったので、多くの生徒は、部活動やその後の自主練習をほどほどにして帰ったのだろう。
勇一は自分の自転車の前まで来ると、屋根付きの自転車置き場で様子をみることにした。雨が少しでも弱まることを期待した。しかし、雨が弱まる気配はなかった。勇一はあきらめて、家に帰ることにした。ヘルメットをかぶり、自転車のハンドルとサドルに手をかけて、自転車に乗るために前に押した。
「お~と。あれは~。」
「お~~い。ちょっと待てよ。」
勇一が自転車のサドルにまたいだとき、勇一の後ろから声が聞こえた。勇一の内面は、一気に、嫌な感情でいっぱいになった。
勇一に声をかけたのは、蒼太と良樹だった。二人は、自転車置き場の横にある剣道場の陰から、傘をさして現れた。彼らは野球部だった。恐らく、剣道場の裏で、タバコを吸っていたのだろう。案の定、蒼太と良樹が勇一の近くに来たとき、勇一は、彼らの制服からヤニの臭いを感じた。
「今日も卓球お疲れさまで~す。」
良樹は勇一の肩に、自分の太い腕を回した。勇一の体は同年代の中では小さな方ではなかったが、良樹の体は、土方の青年のように大きくて丈夫だった。勇一は、良樹の腕から、良樹の意思を強く感じた。それは、お前は俺の支配下だというものだった。
「いやいや頑張るね~。こんなに雨が降ってんのに。」
蒼太は言った。蒼太の体は小柄だったが、運動神経が良く、すばしっこかった。喧嘩に負けたことがないという噂だった。キレるとどんな卑怯な手も容赦なく使うということで、上級生からも恐れられていた。しかも、蒼太は、勉強はしないが賢く、そこが彼を並ではない特別な存在にしていた。
勇一が恐ろしいのは、蒼太の方だった。良樹には扱いやすい単純さがあった。良樹は蒼太の親友という位置付けだったが、実際はただの蒼太のいいなりでしかなかった。蒼太はことあるごとに、良樹や周囲に対し、自分の方が格上であることを、言葉や行動で暗に示していた。だが、良樹はその呪縛に安住していた。
「いや、もう帰るから。」
勇一は作り笑いをした。蒼太は、勇一の作り笑いを見ると、いつも虫唾が走った。
「こんな雨じゃ帰れないじゃん。お前も俺らに付き合えよ。」
蒼太はセブンスターのソフトケースを取り出すと、ケースの上の端をトントンと中指で叩いて、反対の端の切り口からタバコを一本押し出して、勇一に差し向けた。
「俺はいいよ。」
勇一は頑張って作り笑いをした。勇一にはこれしか手がなかった。それが蒼太を不快にすることを、これまでの沢山の苦い経験から勇一は理解していたが、勇一にはそうするしかできなかった。
「付き合えって言ってるだろ。」
蒼太は勇一にプレッシャーをかけた。勇一の作り笑いは歪んだ。
「吸えっていってるだろ!」
良樹は、勇一の肩に回していた自分の腕で、勇一の首を絞めた。そして、片方の膝で、勇一の腹に膝蹴りした。勇一は痛みと怖さを同時に味わった。良樹はもう一発、勇一の腹に膝蹴りを加えた。勇一の腹にはズシリと重い苦しみが残留した。勇一はむせた。
「良樹。もういいよ。しかし、お前だせーな。何でかな。何で、そんなにだせーかな。なんかイラつくよな。」
蒼太は体を前にかがめて、勇一の顔を下からのぞくようにして、じろじろ見て言った。虫を観察するような目だった。蒼太の鋭くて細い目は、いつもより大きく見開かれ、勇一の一つの言動も見逃すまいとする目になった。勇一はむせながらも、顔に笑顔を作るしかなかった。繰り返すが、勇一に考えられる対処方法はそれしかなかった。
「やっぱり、その合羽じゃね。今時、そんな合羽着るやついねーよ。」
勇一の合羽は親戚からのおさがりだった。だから、なんとなく古びたデザインだったし、元は鮮やかな青色だったはずなのに、濁った水色になっていた。母が手に入れてきたものだった。勇一は仕方なくこの合羽を使ってきた。
「ノースフェイスくらい買えよ。」
蒼太の家は裕福だという噂だった。
蒼太はセブンスターを口にくわえて、ジッポーのオイルライターで火を付けた。蒼太はフィルターから思いっきり煙を吸い込んだ。肺を煙でいっぱいにした後は、吸う動作を二、三秒止めてから、煙を吐いた。彼の口と鼻の穴から、白い煙が出てきた。蒼太はもう一度、肺の深くまで煙を吸った。今度は、勇一の顔に煙を吹きかけた。勇一は顔を背けて、渋い顔をした。
「俺らがかっこよくしてやるよ。」
蒼太はそう言うと、タバコの火を勇一の腹に押しつけた。勇一は後ろに飛び跳ねた。ナイロンの焼ける臭いがした。勇一の合羽の腹の部分には、人差し指がスッポリと入るような穴が開いた。
「ぎゃははは。」
良樹は腹を抱えて笑った。やっぱり、蒼太は最高だと言った。
「かっけーじゃん。」
蒼太はタバコをくわえながら、勇一に言った。ニタニタしていた。
勇一は作り笑いをした。思いっきり、顔にしわを作った。
「かっけーだろ?」
蒼太は聞いた。勇一は頑張って顔のしわを維持した。
「かっけーだろ?」
勇一は何も言えなかった。作り笑いだけは何とか維持した。
「かっけーっかって聞いてんだよ!!!」
いきなり、蒼太は大きな声を出した。良樹の体はびくりとした。
蒼太は勇一の合羽をつかみ、乱暴に勇一から合羽をはぎ取った。良樹は啞然とした。
蒼太はジッポーのライターで、勇一からはぎ取った合羽の上着に火を付けた。
勇一の合羽は溶けるように炎の中で燃えた。半分くらいまで溶けると、蒼太は、自転車置き場のコンクリートの足場に、合羽を叩き付けた。炎から離れると、合羽の燃焼は止まった。
「かっこいいじゃん。」
「ぎゃははは。ははは。」
良樹は無理に笑っているようだった。
勇一は、無理して顔にしわを作り続けた。
「ありがとうございますは?」
「は?」
勇一は不用意な発言をした。
蒼太は勇一の腹に、蒼太の全体重を乗せた前蹴りをくらわせた。勇一は後ろに吹き飛び、数台の自転車が倒れた。
「は、じゃねーだろうが!!!」
蒼太はそう言うと、倒れている勇一の腹に向けて、足の裏で、勇一の腹を思いっきり蹴り続けた。勇一は、蹴られるたびに腹筋に力を入れたが、ゴフゴフと口から、息とあえぎが混じったものが出た。良樹は作り笑いをしていた。
蒼太は満足すると、蹴るのを止めた。勇一の口からは、だらしなく、よだれが流れていた。
「クズが。お前死ねよ。いらねーよ。この世にいらねーよ。何で生まれてきたの? お前は本当に必要なの? どうなの? 死んだ方がみんなのためなんじゃねーの? そうしなよ? なあ、そうしなよ? お願い、そうしてちょうだい。」
蒼太の目は大きく見開かれていた。視点が定まっていなかった。もう、勇一を見ているのか、どこを見ているのか、その視線はよく分からない方向に向いていた。勇一は痛みを感じなかった。恐怖で感じる余裕がなかった。早くこの場を切り抜けたかった。それだけだった。そう考えると、顔には自然としわが作られた。
蒼太は勇一を殺したいと思った。
蒼太は、上半身を起こしかけている勇一の胸を蹴り、コンクリートの足場に、背中を押しつけた。そして、勇一の腹をどこまでも蹴り続けた。
蒼太は蹴るのを止めた。蒼太は肩で息をしていた。
「勲章ができたじゃん。これで、かっこよくなったんじゃね?」
「ぎゃははは。はは。ははははは。」
良樹には蒼太の言っている意味が分からなかったが、とりあえず笑った。笑えば、大丈夫だろうと思った。蒼太は良樹の笑いが作り物だと理解して嫌悪していたが、勇一のように、嫌悪感の発散の対象にはしなかった。発散の対象として、勇一という存在がいたからだ。仮に勇一がいなかったら、発散の対象が良樹になっていた可能性は否定できない。
「帰っか?良樹。」
「そうだな。」
「お前んち寄ってゲームしようぜ。パワプロ。」
二人は何事もなかったかのように帰っていった。もはや、倒れている勇一には目も向けなかった。二人は激しい雨の中に消えていった。
勇一は、やっと痛みを感じてきた。しばらく、腹筋が痛くて、起き上がることができなかった。それでも何とか起き上がると、倒れている自転車を元に戻した。勇一の黒い制服の腹は汚れていた。
勇一は、コンクリートの足場で燃えカスになっている、合羽のなれの果てを見た。勇一はそれを拾い上げて、自分の自転車の前のかごに入れた。下半身の合羽も脱いで、かごに入れた。その上にヘルメットを置いた。
勇一は、どしゃ降りの中、自転車に乗って家に向かった。ペダルをこぐ度に、腹筋が強烈に痛んだ。数日は直らない気がした。そんなにすぐに直る痛みではなかった。
勇一は、自分の集落に向かって架かる橋の上に来た。橋の下を見ると、大雨で、川の水かさが増し、川は怒り狂っていた。
荒れ狂う川の流れを見たら、蒼太の言葉が、勇一の意識で正確に再生された。クズが。お前死ねよ。いらねーよ。この世にいらねーよ。何で生まれてきたの? お前は本当に必要なの? どうなの? 死んだ方がみんなのためなんじゃねーの? そうしなよ? なあ、そうしなよ? お願い、そうしてちょうだい。
勇一は、自転車を止めた。橋の手すりに、体をあずけた。勇一の全身に、ぶどうのような大きな雨粒が大量に当たった。雨によって、制服の汚れは流され、目立たなくなっていた。勇一の傷は、腹筋の痛みと、内面だけにあった。
勇一は濁流をずっと見た。橋の上は、車は走っていなかったし、誰もいなかった。勇一は、手すりに両手を乗せて、自分の体を持ち上げて、両足を浮かせた。そして、空を見上げた。黒と灰色だった。下を見た。なんと表現していいか分からないような、全ての色が混じって濁った色が、暴れていた。あと少し、体重を前に倒すと、下に落ちるだろう。勇一はそう思った。ほんの少しだけ、体重を前にかけた。
濁流に向けて、小さな雫が一粒落ちた。空から降ってくる無数の大きな雨粒に紛れていても、その小さな一粒は、勇一には見逃すことのできないものだった。それは、勇一の目から流れ落ちた涙だった。勇一の小さな涙の粒は、次々と、怒り狂う川に落ちていった。
「馬鹿じゃねーか。」
勇一は言った。自分に向けて言った言葉だった。蒼太に向けて言った言葉ではなかった。腹は痛かった。どこにあるのかは分からなかったが、心の痛みも感じていた。でも、汚い濁流に、自分の悲しみの全てともいえる涙が飲み込まれるのを見て、こうなってはいけない、負けてはいけないと思った。
「俺には、やりたいことがある。なりたいものがある。俺はいつだって、それだけを考えてきたじゃないか。」
――この世に必要ないと考えているのは、お前の方じゃないのか? 俺はやりたいこと、なりたいことを見つけた。だからお前は俺が憎いんだ。俺がうざいんだ。俺が邪魔なんだ。自分を小さく感じてしまうからだ。それとも、お前は、お前と俺は同じだとでも考えているのか。何もない者同士だとでも考えているのか。だから、俺のことを、自分のことを見るようでイライラするのか。だけど、残念ながら、俺とお前は違うよ。――
勇一は両足を道路に付けた。自転車のかごの中にある合羽を取り出し、川に投げ捨てた。勇一は合羽が流れていく様を見なかった。
勇一は部屋着に着替えた。窓の外で制服を絞って、壁に掛けた。下に新聞紙を敷いた。制服はボロボロだった。明日の学校には、着ていけるようにはならないと思った。明日は休もうかと考えた。それに、腹が痛いと言えば、嘘にはならないと思った。
誰かが階段を上がってきた。勇一の部屋のドアがノックされた。勇一が返事をする前に、母が入ってきた。母は何も言わずに、制服を壁から取り上げた。
「これだと、シワシワになってしまうでしょ。乾いたらアイロンしないと。」
母はそれだけ言うと階段を降りていった。
勇一はベッドに寝転がった。もし、明日、制服が着ていけるようになっても、やっぱり学校は休もうと思った。少しくらい休んでも新人戦には影響はないだろう、それくらいのサボりで実力が下がるような生半可な練習はしてきていない、今は休息して、どこにあるのか分からない心を整えて、休息した後は、涙をはじくほどに心を鍛えなければならないと、勇一は思った。
勇一が本当に必要としていた合羽の材料は、彼の心の中に点在していた。それらの材料は、彼の心の中に、他の人と同様に、元から備わっていた。あとはそれを、時間がかかってもいいから、時には勇気をもって休んだりして、慎重に、慎重に、自分自身の手で、組み立てないとならない。
(了)