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【15】 アノリア

 フォルセティ号の見張りがエルシーア大陸最南端を視認したのは、翌日の15時過ぎのことだった。

「グラヴェール艦長。アノリアを視認しました。あと二時間ほどで着くと思います」

 アドビスは吟味台の海図から顔を上げ、報告に来た副長シュバルツに鋭い視線を向けた。

 正確にいえば、シュバルツに肩を揺さぶられたせいで目を開けたのだが。

 艦長室をリュイーシャ達に使わせているため、アドビスの居場所はメインマスト前の海図室になっていた。食事もここに運ばせるし、眠くなれば海図を広げた吟味台に頭をのせて睡眠をとる。

 シュバルツは黙ったままアドビスの前に白いカップを置いた。

「料理長が豆を挽いてくれたので、リラヤ茶をお持ちしました」

「……ありがとう」

 アドビスは香ばしい香りに誘われるまま、カップに手を伸ばしリラヤ茶をすすった。どんよりとした思考が茶の苦味と香りで霧のように晴れていく。

茶を飲みながらアドビスはシュバルツを見上げた。

「他に報告は?」

「今の所、何も」

 そっけなく副長は返事をした。

「そうか。では、見張りに警戒を怠るなと伝えてくれ」

 ぴくりと、シュバルツの眉が動いた。

「レナンディ号を襲ったものたちが、まだこの海域にいるとお考えなのですか?」

 何かを恐れるような、低く抑えた声だった。

 アドビスはシュバルツの問いにすぐには答えず、黙ったまま、白い湯気をあげるリラヤ茶に視線を落とした。

 茶褐色の液体がカップの中で踊る様を見つめ、やがて独り言のように言葉を吐いた。

「そうかもな。レナンディ号が何者かに襲われ沈められたことは確かだ。だがこの海域は、エルシーア海賊のひとり『月影のスカーヴィズ』が、500人の手下を従えて闊歩している、いわば彼女の庭のようなもの――」

 アドビスは右手をあげて重いまぶたをさすった。

「スカーヴィズは自分達を『海の貴族』と称し、意味のない襲撃はしない。それに彼等は今、誰がエルシーア海の覇権を握るか、それぞれの船が情報を海軍に売ってまで、同業者を出し抜くか争っている。海賊だったとしても、海軍の船であるレナンディ号を襲撃する理由がわからない」

 アドビスは息を吐き出した。

 レナンディ号が何故襲われたのか。襲ったのは誰なのか。

 それをずっと考えていて、昨夜は眠るのを忘れてしまったぐらいだ。

 海賊シグルスからレナンディ号を取り戻し、かの船を先にアスラトルへ帰港させていたのだが、こんな運命が待っていようとは。

 レナンディ号は火薬庫を吹き飛ばされ、木切れ同然の無惨な姿となって海中に沈んでいった。乗員は誰一人みつからなかった。捕虜にしていた海賊シグルスもまたそうだ。

 みんな殺されたか、あるいは船と共に暗い海に飲み込まれてしまったのだろう。

 一体、誰に襲われた?

 これが海賊の仕業だったとしたら、アスラトル軍港を預かるアドビスの父イングリドは、エルシーア海軍の威厳を損ねたと、烈火のごとく怒りまくるだろう。

 誰よりも海軍に忠誠を誓い、武勲をたててきた父は、アドビスにも自分と同じ活躍を――いや、それ以上の功績を求めている。

 お前は私を超えて、グラヴェール家の名前を、エルシーア海軍名簿の一番最初に列ねる者となれ。

 父親の厳めしい顔と、子守唄のように聞かされてきた彼の口癖が脳裏を過る。

「……」

 アドビスはふと、まだ副長のシュバルツが海図室に留まっていることに気付いた。

 普段すました冷たい印象を受けるシュバルツだが、今はどことなく疲れた顔をしている。

 そういえば、海上で燃えていた船がレナンディ号だと知って、シュバルツは大きな衝撃を受けたようだった。

「レナンディ号の指揮を任せた三等士官のゴスマックとお前は親しかったな」

 アドビスはシュバルツにやんわりと話しかけた。

「親しいといっても、父親同士で交流があっただけですよ」

 視線を向けるとシュバルツは肩をすくめて首を振った。

 アドビスに同情するように薄い唇を歪めながら。

「あの船が襲われたのは、あなたのせいじゃない」

「……」

 アドビスは両手を握りしめ、猛然と席を立った。

 今までこのような形で、自分の船を失ったことはなかった。

 負けた事などなかったのだ。

 金色の髪が海図室の天井を擦る前に、吟味台の上に手を置き身をかがめる。

 噛みしめた口の中でリラヤ茶の苦味だけが、ざらついた砂のようにいつまでも消えずに残っていた。



 ◇◇◇



 ばたばたと甲板を走る多くの水兵の足音が、リュイーシャ達が寝起きしている船室(元艦長室)の天井で響く。

 リュイーシャとリオーネは船尾の左舷側の窓ガラスの前に立ち、そこから外の様子をうかがいながら、船がアノリア港に近付いていくのを眺めていた。

 フォルセティ号がどんどん速度を落とし、甲板の足音や水兵達のかけ声も一段と大きくなっていく。

 ぐらぐらと左右に揺れる船のそれが穏やかになったかと思うと、何かが海面に落ちる大きな水飛沫の音がした。

 その時、部屋の扉を誰かが叩いた。

「きっとハーヴェイさんよ」

 リオーネが振り返った。

 妹は足音で誰が部屋に来たのかがわかるらしい。

 けれどリュイーシャは、これがアドビスなら足音以前に気配で察知できた。

 猛々しい風さえも自らの翼に乗せ、碧海を駆ける彼は、他を凌駕するほどの力強い気に満ちているからだ。

 強いといっても、それは腕っぷしだとか、剣技とか、そういうものではない。彼の強さは未知のモノへの恐れを封じ込め、冷静に物事に対処できる胆力である。

 巌のようなアドビスの力強さと比べて、部屋の外の気配は、ぽかぽかとした陽光のような暖かみを伴っている。

 リュイーシャは目を細めて扉へ近付いた。

「はい。どなた?」

「私です。ハーヴェイです」

「ね、そうでしょ?」

 リオーネが意味ありげな微笑を浮かべ、リュイーシャの顔を見た。

「リュイーシャさん、リオーネさん。アノリア港に着きました。艦長の許可が下りてますから、甲板へ行きませんか?」

「……」

 リュイーシャはすぐに返事をしなかった。

 いや、できなかった。

 二日前に自分の元を訪れたアドビスとの会話が、脳裏を過っていったからである。


『貴女に提案したいことがある。ほとぼりがさめるまで、私の故郷アスラトルへ来ないか?』

『……今すぐだなんて……無理です。考える時間を下さい』

 ふっとアドビスが笑いを漏らした。

『それもそうだな。じゃ、アノリア港についたら、返事をもらおうか』


 リュイーシャは小さく息を吐いた。

 どうやらその時は来てしまったようだ。

「リオーネ」

 リュイーシャはその場に片膝をついて、リオーネの小さな肩にやさしく両手を置いた。

「姉様……?」

「これから大事なことを話すから、よく覚えていて。そして……」



 ◇◇◇



 リュイーシャとリオーネはハーヴェイに付き添われて甲板へと出た。

「うわー……すごい」

 リオーネが開口部から出た途端、舷側に駆け寄った。

 リュイーシャもゆっくりとその後に続いた。リオーネが舷側から身を乗り出さんばかりに見つめる先には、三本マストの商船や、二本マストの漁船など、十隻を超える多くの船が錨泊していた。

 エルシーア国最南端の港町――アノリア。

 アドビスは『漁港に毛が生えた程度の港』といっていたけれど、それは嘘だとリュイーシャは思った。

 港は南側に大きく弧を描いた湾になっており、櫛の目のように何十という桟橋が海に向かって突き出ている。

 小さな船は直接桟橋に横付けし、係留索で船を舫っている。積荷を積む大型の商船はフォルセティ号と同じように、港から少し沖の海上で錨を下ろし、小型の雑用艇に乗り換えて、港に上陸するというわけだ。

 港には白いレンガで組まれた壁に茶色の瓦が葺かれた家が、幾つも建ち並んでいた。

 港の背後は緑深い山がそびえていて、一層建物の白さと海の青さが際立って見える。

「可愛いお嬢ちゃん。キラキラ光る黒蝶貝のネックレスはいらんかね~?」

「花はどうだい? 爽やかな香りで癒されるよ?」

「ほら、可愛いだろ? よく喋る鳥だよ。1匹8千リュールだ!」

 錨泊したフォルセティ号の所へ、行商の小舟が何隻も競り合うようにやってきた。

 細長い棒で舟を操りながら、行商人たちは舷側から見下ろすリュイーシャや水兵達に向かって、売り物を見せて気を引こうとする。

 彼等は強い日差しを避けるために、つば広の帽子を被っていた。褐色の肌に蜂蜜色の髪。水色の瞳や翠色をした者もいる。

 フォルセティ号に呼び掛ける言葉は、少しなまったエルシーア語で、それは彼等が生粋のエルシーア人ではないことが伺い知れる。

 アドビスが言ったように、ここはリュニス王宮がある本島にも近く、アノリアの住人が、リュニス人とも付き合っていることの表れだった。


「リュイーシャ」

 リュイーシャは声をかけられる前に気配を感じて振り返った。

 そこには紺碧の軍服をまとったアドビスが立っていた。

 アドビスは一瞬驚いたように青灰色の目を見開いたが、すぐに表情を元の落ち着いたそれに戻した。

「貴女と話したい事がある」

 そう言った後、アドビスの鋭利な視線はリュイーシャの背後にいるハーヴェイへと注がれた。

「ハーヴェイ」

 アドビスに呼ばれてハーヴェイが畏まったように頭を垂れた。

「はい」

「お前はシュバルツの所へ行け。食料の補給に行ってもらう予定だが、誰を連れていくかシュバルツが選んでいるから、彼から指示を仰いで欲しい」

「了解しました」

 ハーヴェイは再びアドビスに向かって頭を下げると、中央のメインマストの方へ足早に立ち去っていった。

 後部甲板に残されたのはリュイーシャとリオーネだけとなった。

 リュイーシャはリオーネを引き寄せ、背後からその肩に手を置いた。

「長い船旅で疲れただろう。貴女方が望むのなら、今夜はアノリアに上陸して休んでもらっても構わない」

「アドビス様」

 リュイーシャは目を細めた。

 アドビスは普段の堂々とした彼らしくなく、どことなく心あらずという気がした。何よりも言葉に強さが感じられない。

 例えば、他の何かに気をとられているような。

 リュイーシャはさり気なく乱れた髪を直す振りをしながら、アドビスが視線をやる後方の海を覗き見た。

 アノリア港を形作る湾の先端――白亜の崖となっているそこへ一隻の船が通り過ぎるのが見えた。

 それは殆ど崖の後ろに隠れてしまっていたので、リュイーシャに見えたのは冴えた青い色をした帆の一部だけだった。

 アドビスは一瞬岬を通り過ぎたあの船を見ていたのだろうか。

 リュイーシャは確信が持てぬまま、再びアドビスの方へ向き直った。

「どうして、はっきりとお聞きにならないのですか?」

「……何……?」

 訳がわからないといったように、アドビスの視線がリュイーシャを捉える。

「アノリア港に着いたら、返事をする約束でした」

 リオーネが体を強ばらせるのをリュイーシャは感じた。

 じっとしててね。リオーネ。

 話は私がするから。

 妹を安心させるために、リュイーシャはその顔を覗き込んで微笑んでみせた。

 一方アドビスは口元をきつく結んだまま、彼らしくなく緊張しているようだった。

「貴女はどうしたいのか聞いてもいいか? リュイーシャ」

「はい。アドビス様はおっしゃいました。『町を見てから決めてくれれば良い』と」

 さっとアドビスの顔色が変わった。

「それはアノリアのことではない」

 リュイーシャは微笑んだままうなずいた。

 アドビスの気持ちは痛いほどよくわかる。

 自分を誰よりも守ろうとしてくれる。力になろうとしてくれている。

 だからこそ、その気持ちにこれ以上甘えてはならない。

 アドビスは国益を守るために任に着いている軍人である。自分達が船に留まれば彼の負担は増すばかりであろう。

 そして故郷に帰る事をやめ、リオーネと二人だけで新たな暮らしをすることを決意したからには、ここでアドビスと別れる方がいいのだ。

 アノリアはリュニスに近い。

 それがアノリアで船を下りようと思った一番の理由だ。

 見知らぬ土地や人々。通じぬ言葉。

 アノリアでの生活になじめなかったら、リュニス本島へ行っても良い。

 そこなら、クレスタへ連れていってくれる船も出ているだろうから。

 島にはもう誰もいないけれど、故郷との繋がりをここで断ち切る勇気が、今のリュイーシャにはなかった。誰にも頼れない自分達の、最後の拠り所へ戻れる手段を――失いたくなかった。 

「リュイーシャ」

 何時の間にかリュイーシャは俯いていた。

 不安げに自分を見上げるリオーネの顔と、アドビスの呼びかけでリュイーシャは我に返った。

「私は……貴女の気持ちを尊重する。貴女がアノリアで船を下りると決めたのならば、もう反対はしない」

「アドビス様」

 リュイーシャの声は掠れた。

 アドビスはきっとリュイーシャの決意をわかっていたのだろう。

 二日前にふたりきりで話したあの時に。

「だが貴女に頼みがある」

 アドビスの長い手がリュイーシャの肩を覆うように掴んだ。

 アドビスは長身を折り曲げて、リュイーシャとリオーネを抱きしめる。

 高ぶった感情を辛うじて抑えているのか、背中から聞こえるアドビスの声も掠れていた。

「僅かばかりだが、当座の生活に必要なものをコーラル夫人が用意してくれている。それを必ず持っていって欲しい。だが、リュイーシャ、リオーネ。気が変わったらいつでも船に戻ってくれ。フォルセティ号は明日の15時にアノリアを出港する」

 アドビスが名残惜しそうに腕を解いた。

「アドビスさま。私、本当はお別れしたくない。でも……姉様の気持ちもわかるの。リュニスから遠く離れた土地にいくのはこわい」

 リオーネの瞳は涙でうるんでいた。

 リュイーシャもまた、思いがけないアドビスの言葉に、胸がしめつけられるような苦しさを感じていた。

 私だってお別れしたくない。

 唇まで出かかったその言葉を、リュイーシャは未練がましい己の心と共に飲み込んだ。




 それから二時間後。

 リュイーシャとリオーネは、食料を調達するため上陸するハーヴェイたちの班と一緒に、雑用艇でアノリア港の桟橋へと向かっていった。

「見送りはされないのですか?」

 外は黄昏れており、窓のない海図室は薄暗くなっている。明かりもつけず、ひとり航海日誌のページを繰るアドビスへ、シュバルツが静かに声をかけた。

「もう済ませた。二時間前に」

「そうですか」

 乾いた声でシュバルツが答える。

「当直に見張りを怠らないように言ってくれ」

 日誌を静かに閉じて、アドビスが顔を上げた。

「それは海上ですか? それとも、港の方ですか?」

「どっちもだ」

 アドビスはぶっきらぼうに返事をして席を立つと、疾風のように海図室から甲板へと出ていった。

 後に残されたシュバルツは、やれやれと肩をすくめ冷笑を浮かべた。

「風は金鷹の翼を擦り抜けてしまったか……残念だったな」

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