【14】 主を探す鳥
医務室で一夜を明かしたリュイーシャとリオーネは、朝食を持ってきた二等士官ハーヴェイに、少しの時間でいいから甲板に出ても良いか許可を求めた。
我慢できないことはないが、やはり船底に近いこの部屋は暗く、木が腐ったような垢水の臭いも強く、閉塞感が否めない。
「やくそく、してたの覚えてる?」
リオーネの問いに若き士官ハーヴェイはこっくりとうなずいた。
「あ、もちろん。覚えてますよ。じゃ、これから一緒に甲板まであがりましょうか」
ハーヴェイはリオーネに微笑んだあと、リュイーシャに向かって機嫌を伺うように口を開いた。
「外はとても良い天気ですよ。リュイーシャさん。太陽の光はあたたかく、雲一つない真っ青な空で、果てしなく水平線が広がってます」
「……じゃあ、アノリア港が近付いたら、すぐにわかりますね」
リュイーシャは感情のこもらない声でつぶやいた。
青緑色をした碧海の瞳を憂いの影で曇らせながら。
「姉様……」
覇気のないリュイーシャの様子をみて何か感じたのか、リオーネのまっすぐな新緑の瞳も曇る。
このままアドビスの船に乗って彼の故郷へ向かうのか。
それともアノリア港で降りるのか。
あるいはクレスタへ戻るのか。
リュイーシャはもう心を決めていた。
ただし、それをアドビスはきっと認めないだろう。
だから気持ちが上向かないのだ。
リュイーシャは上半身を吊り寝台から起こしたまま、虚空を見つめ嘆息した。そんなリュイーシャの様子を見て、リオーネがおずおずと口を開く。
「その港で降りるの? 私達?」
「え、ええっ!? アノリアで降りるんですかーー?」
ハーヴェイが驚いて声を上げた。
リュイーシャは無言でリオーネを睨んだ。
妹にはまだアノリア港で船をおりるとは言ってない。
それなのにリオーネは何故それを知っているのか。
リュイーシャは頬が上気するのをおぼえた。
アドビスとの話が聞こえたのなら仕方ない。けれど、もし、あの時の語らいをみられてしまっていたのなら。
リュイーシャは何故か恥ずかしさではなく、みじめな気持ちになって口をすぼめた。
「リオーネ。私は港で降りる、とは言ってないわよ」
リュイーシャの険悪な様子を悟ったのか、リオーネが目を見開きながら大きく何度もうなずいた。
「そ、そうだったね、姉様! あ、ハーヴェイさん、どうしたの? なんか、変な顔~」
「え、ええっ?」
突然リオーネに振られてハーヴェイが面喰らった。声が裏返っている。
「い、いや。あ、あの……リュイーシャさん?」
「はい」
リュイーシャはすでに険悪な表情を消し去っていた。
今は可憐な白百合を思わせる笑みをその顔に浮かべている。
「本当に、アノリアで船を降りてしまうのですか?」
「まあ。ハーヴェイさんったら。リオーネと一緒でせっかちさんね」
「はあ……?」
リュイーシャは吊り寝台から白い素足を床に滑らせた。
右手を出してリオーネと手を繋ぐ。
肩に滑り落ちてきた長い月影色の髪を梳き、動揺するハーヴェイにリュイーシャは意味ありげな眼差しを向けた。
「私達は生まれ故郷の島から一歩も外へ出たことがありません。ましてそれが異国の港なら……一目見てみたいと思うじゃないですか?」
アノリア港に着くまであと二日。
いや、夜が明けたから、あと一日と数時間――。
リュイーシャとリオーネは上甲板に行くため、ハーヴェイに連れられて医務室を出た。
そして薄暗い通路を船尾方向へと進み、太いミズンマストが柱のように立っているそばの階段へと歩いていった。
この階段を第三甲板、第二甲板、上甲板と、三つの甲板を通り抜けながら上に上がっていく。
基本的に船内は窓がなく、ぽつりぽつりと壁に吊り下げられたランプの光のみが唯一の明かりだ。そして第三甲板と第二甲板は黒光りする大砲がずらりと並んでおり、その上に白いハンモックが隙間なく吊られていた。
「たくさんの、人がいるのね」
リオーネが人の気配に気付いてハーヴェイの濃紺の軍服の裾を掴む。
五十組ほど吊られたハンモックからは、このフォルセティ号を動かすために乗っている水兵達が眠っていた。
「非番の連中です。もう少ししたら、彼等は起きて今の当直と変わります」
ハーヴェイは平然とした口調でリオーネに語りかけ、まもなく外にでられますからと言って階段を昇っていった。
「おいみろよ。あの姉妹だぜ」
甲板に座り、傷んだロープの組み継ぎをしていた水兵の一人が声を漏らした。船の丁度中ほどにあるメインマスト前の甲板で、彼等は仲のよい者同士、四、五人の円陣を作って作業している。
「海神みたいだった姉の方、目が覚めたんだな」
古くなったロープをほぐしていた水兵の一人が、作業の手を止めて船尾の方へ顔を向けた。その声をきいて他の水兵達も顔をあげる。
ミズンマストの前にある昇降口から、士官ハーヴェイに連れられて、あのリュニス人の姉妹が姿を現わした。
ハーヴェイのひょろっとした背中の後ろで、姉リュイーシャの長い金の髪がなびいている。正午を過ぎた日の光を受けて、それは金色のリボンのように空を舞っていた。その隣には無邪気な笑みを浮かべ、あたりをきょろきょろと見回している可愛らしい妹が立っている。
水兵達の脳裏に昨朝、海の上に立つリュイーシャの姿が浮かび上がった。
あの時の彼女は海神「青の女王」のように静謐な表情で、近寄り難い神々しい気配に満ちていた。
けれどハーヴェイに連れられて、船尾楼へ上がるその横顔は、十代の少女らしい清楚な花を思わせた。
「けっ。ハーヴェイの奴。あの娘と手ぇ、つなぎやがった」
伸びた無精髭を擦って、水兵の一人が恨めしげに呟く。
その隣にいた茶髪の水兵は、うらやましそうに溜息をもらした。
「かーっ。こういう時、士官っていうのは役得だよな~。ハーヴェイと代わりてぇ」
水兵たちはめいめい頭を寄せ、ハーヴェイに向かって呪いの言葉を吐いた。
「突風が吹いて海へ落ちやがれ」
「そしてそのまま浮かんでくるな」
「……」
ふとハーヴェイが頭を動かしメインマストの方を見た。
くすんだ金髪を海風に揺らしながら、穏やかなその顔が何かを見たせいで曇る。眉間を寄せてこちらを見ている。
「やばっ!」
水兵達はハーヴェイと目を合わせまいと一斉に下を向いた。
士官に対する不敬行為は懲罰の対象になる。船内の規律を守るため、発覚すれば、その人間は光が射さない錨鎖庫で、両手両足を鎖で繋がれ、航海が終わるまで水しかもらうことができない。
アドビスの船に乗る水兵たちは、いい加減海と戦いばかりの航海に飽きつつあった。半年も海賊船を追いかけ回していたので、拿捕賞金もかなり貯まっているはずだった。国に帰ったらこの金を何に使おう。めいめいそう胸算用しているので、余計に陸での生活に焦がれて始めているのだった。
だから、ここでハーヴェイに目をつけられるわけにはいかない。
「まもなくどっかの港に寄るって話だぜ?」
頭をつきつけ、雁首揃えた水兵達はひそひそ会話を交わす。
「上陸休暇、あるかな?」
「そりゃー、いい加減あるだろう。金鷹だって、静かな所であの娘と話したいに違いねぇぜ?」
水兵たちは黙って両隣りの仲間の顔を見回した。
「あの娘が目を覚ましたから、艦長は医務室に降りていったらしい」
「見張りのカレンザが言ってたぜ。昨夜、医務室から出てきた艦長が、なんと、鼻歌歌って甲板を歩いてたって!」
「おおおーー!」
「海賊を捕まえてもにこりともしねえ――あの金鷹が?」
「鼻歌って、脈ありだったってことか!? なんてうらやましい……いや、恐ろしい!」
水兵たちは震えながら、めいめい胸に祈りの印を切った。
そしていつもの猥談になろうとした時だった。
<何をお話していらっしゃるの?>
「うわぁあ!!」
頭を突き合わせて話をしていた水兵達は、突如響いた聞き慣れぬ異国の言葉に度胆を抜かれのけぞった。
「ああ、わわ……」
ぱくぱくと口を開け、声にならない声で叫ぶ。
<ごめんなさい。何だかお仕事、邪魔したみたいですね>
水兵達の前にはリオーネと手を繋いだリュイーシャが、彼等の顔をのぞきこむように立っていた。
もちろんその後ろには、彼女を護る騎士役とでもいわんばかりに、士官ハーヴェイも立っていた。
「アーネスト、ジンはどこだ?」
ハーヴェイは淡々とした口調で、顎に無精髭を生やした水兵に話しかけている。エルシーア語で。
「ハーヴェイさんってすごいね。リュニス語もエルシーア語もできちゃうんだもの」
リオーネがリュイーシャの顔を見上げた。
「そうね」
リュイーシャは相槌を打った。
甲板に出た時、ハーヴェイが困ったようにメインマストの方向を見ながら言った。
「リュイーシャさん。実は、あなたが命を救って下さった水兵のジンが、是非お礼を言いたいといってるのです。連れてきますので、ここですこし待っていてくれませんか?」
リュイーシャの目にも甲板に座り込み、大量のロープを手にして、何やら作業している多くの水兵達の姿が見えていた。
ハーヴェイの言う通り、今日は昨夜の嵐は何だったのかと疑問に思うほど天気がいい。空は青く高く澄みきっており雲一つ浮かんでいない。
日差しはあたたかく、むしろ、その光をずっとあびていたら額に汗が浮いてくるほどなので、作業をする水兵達の頭上には、日除けにするため白い帆布が、マストと帆桁の間に張られている。
リュイーシャはものめずらしげにそれらを見やり、改めて黙々とロープの組み継ぎや帆の繕いをしている水兵達に視線を向けた。
当然ながら、全員男だ。しかも二十人はいる。
洗濯済みの白いシャツに濃紺の長ズボン、素足または短いブーツという格好。長期の航海に出ているせいか、ほとんどの者が首の後ろで伸びた髪を無造作にたばねている。彼等は作業をしながら、時々顔を見合わせて潮焼けした顔に笑みを浮かべたり、低い声で笑ったりしている。
普通の女性なら、ましてそれが異国の人間ならば余計に、見知らぬ男の集団になんぞ近寄り難いと思うのが普通だ。
ハーヴェイが気を遣ってくれるのも無理はない。
彼は海軍士官であり、紳士だった。
それらを察したうえでリュイーシャは口を開いた。
「ハーヴェイさん。私も行きます」
「えっ」
ハーヴェイの顔が見る間に青ざめた。信じられない。
リュイーシャを見る彼の顔にはそう書いてあった。
「しかし」
リュイーシャは目を細め小さく頭を振った。
「私、前から船乗りさんの仕事を見てみたかったんです。こんな大きな船をどうやって動かし海原を駆けることができるんだろうって。だから、一緒に行きましょう」
リュイーシャはそう言うと、顔を上げ、すたすたと船首方向へ――水兵達が座って作業しているメインマスト前の甲板へと歩き出した。
「ジンはどこだ?」
いらいらとした口調でハーヴェイが少年水兵の名を呼ぶ。
少しの間とはいえど、沢山の男がいる中に、うら若き乙女を立たせておかなければならないとは――彼はその非常事態がたまらなく嫌なようだった。
現に水兵達はにやにやと笑みを浮かべながら、メインマスト付近までやってきたリュイーシャとリオーネに好奇の目を向けている。
「ジン。ハーヴェイさんが呼んでるぞ!」
普段大人しいハーヴェイのいらだちを感じたのか、黒髪のがっしりした体格の水兵が、メインマスト前の昇降口で呼び掛けた。
「すみません。すぐいきますー!」
返事と同時に昇降口の階段を昇る軽やかな靴音がしたかと思うと、小柄な体躯の少年が猛烈な勢いで甲板へ飛び出してきた。
寝癖のついた蜂蜜色の髪。日焼けした浅黒い肌。その中で輝く水色の瞳。
リュイーシャより年下で、リオーネより年上の水兵ジンは、二人の姿とハーヴェイを見てぺこりと頭を下げた。
「おいらを……その、助けてくれて、本当にありがとう」
「本当に、ありがとうございました、だろ? ジン」
ジンのエルシーア語を通訳しながら、ハーヴェイが機嫌悪そうに口角を上げる。
だがジンはハーヴェイの声が聞こえないのか、惚けたようにリュイーシャを見つめていた。
リュイーシャは目を細めて微笑した。
目の前の少年が自分を怖がらない様子に内心ほっとしながら。
リュイーシャとて自分が普通の人間ではないことを意識している。海に沈んだ船を海上まで吹き飛ばしたり、その上を歩いてみせたのだから、海神の眷属と思われたって当然だと思う。
ひょっとしたら艦長であるアドビスの命令のせいかもしれないが、こちらをこっそりと見る他の水兵達の顔にも不安の色は浮かんでいない。
どちらかといえば、甲板に出てきたリュイーシャたちに興味津々といった様子なのだ。
「ジン。いい加減にしろ。美人を前に気持ちはわかるが、いつまでも女性の顔を見つめるのは失礼だぞ」
ハーヴェイに脇をこずかれて、少年水兵ジンは目を丸くした。ハーヴェイの言った通り、リュイーシャにみとれていたらしい。
「お、おいら。そ、そんなんじゃ、ねぇもん! ハーヴェイさん」
ジンの頬がみるみる赤味を増した。十五才になる彼はちょっと気になる年頃なのか、大人達のからかいにまともにくってかかることがある。
するとこっそり様子を伺っていた水兵達がどっと笑い声をあげた。
「ジン~気にするな。俺たちもお前とおんなじだからよ~」
「滅多にみられない美人だから、しっかり脳みそに焼きつけておけよー」
「そうしたらきっと夢に出てくるぜ」
「うるっさいな!」
赤くなった顔から蒸気を吹き出しそうな剣幕でジンが叫ぶ。
「ちょっと思い出しただけだい! 国の姉ちゃんのこと」
再び水兵達が笑い声をあげた。
ジンは恥ずかしくなったのか、両手の拳を握りしめてうつむいてしまった。
<あなたは素直で良い子ね>
リュイーシャはジンの肩に手を置いた。
リュイーシャに触れられて少年ははっと顔を上げた。
「リュイーシャさんはお前が、素直で良い子だと言っている」
まだ顔を赤らめているジンへハーヴェイが通訳する。
「お、おいら……あの……」
ジンは不意に右手を青いはきこんだズボンのポケットへ突っ込んだ。
そしてそれを再びリュイーシャの前に突き出した。
「こっ、これ、助けてくれたお礼!」
リュイーシャはハーヴェイを見上げた。何となく少年が自分に何かを渡そうとしているのはわかるのだが、受け取っていいのかわからなかったのだ。
ハーヴェイはゆっくりとうなずいてリュイーシャに言った。
「ジンはあなたにそれを差し上げたいそうです。助けて下さったお礼として」
「まあ、何かしら」
リュイーシャはジンの前に両手をそろえて差し出した。
ジンは小刻みに震える右手を慎重に開き、握りしめていた品をリュイーシャの掌へ手渡した。
シャランと涼やかな音を立てて、適度な重みが落ちてきた。
掌の中を覗いてみると、そこには虹色に輝く魚の鱗のような形をしたものに、黒い小さなガラス玉を幾つも紐に通して作られた首飾りがあった。
リュイーシャは虹色の鱗を持ち上げてみた。
光の加減で赤や青、緑、紫とさまざまな色に輝いている。
「きれい……本当に、こんなきれいなものを貰っても良いの?」
リュイーシャはジンに訊ねた。
ハーヴェイの通訳が終わると同時にジンは、蜂蜜色の髪を大きく揺らしてうなずいた。
「姉ちゃんがおいらが海に出る時にくれたんだ。何の鱗かよくわからないけど、姉ちゃんは一度だけ願いを叶えてくれる、『お守り』だって言ってた。おいら、マストから振り落とされた時、絶対に死にたくないって、こいつに祈ったんだ。だから、おいらの願いは叶ったし、他にお礼できるものがないから……だから……」
ジンの言葉を通訳すると、ハーヴェイはジンの頭をくしゃくしゃとかき回した。
「運のいい奴め!」
「ハーヴェイさん、もうー、やめてくれよ。髪がぐしゃぐしゃになっちまう!」
「ありがとう。大事にするわ」
リュイーシャは首飾りの留め金を慎重に外した。
「リオーネ、ごめん。これをつけるから、髪の毛をちょっと持っていてくれる?」
「わかったわ。姉様」
リュイーシャはその場に膝をついた。リオーネが腰まで伸びたリュイーシャの髪の束を持ち上げ、白い項が見えるようにする。
それをちらと見たハーヴェイの顔に一瞬動揺が走った。けれど彼が努力してその気配を殺したのは紳士の鑑とでもいうべきか。
「……できたわ。下ろして」
「うん」
リュイーシャは立ち上がった。コーラル夫人が仕立ててくれた白い綿の長衣は、鎖骨が見える程度の襟刳りが開いていて、その下で身に付けた首飾りが七色の輝きを放っている。
「絶対似合うと思ったんだ」
ジンは鼻を拳でこすりながら満足げにリュイーシャを見つめている。
「本当、きれいね~。私もほしいなぁ」
リオーネがうっとりと鱗の輝きにみとれている。
そんな二人を微笑ましくリュイーシャは見つめていた。
が、不意に頭を強く殴られたような衝撃をリュイーシャは感じた。
風に乗っていがらっぽい煙の臭いもする。
「……どうしました?」
額に手をやるリュイーシャの険しい顔を見てハーヴェイが声をかけてきた。
「……」
嫌な感じがする。なんだろう。この胸騒ぎは。
リュイーシャは身を翻し、咄嗟に近くの左舷舷側へ駆け寄ると前方の海を眺めた。
「甲板ーー! 船が見えるぞーー! 炎上中だ!」
同時にフォアマストの見張りが甲板に向かって大声を降らせてきた。
針路上の海域で正体不明の船が炎上している。
フォルセティ号の甲板はみるまに慌ただしくなった。
エルシーア海独特の青とも緑ともいえない明るい色をした海面には、おびただしい数の木片と、現在炎上している船の積荷らしきものが流れ着き、フォルセティ号の船腹にぶつかっている。
リュイーシャとリオーネは水兵達の邪魔にならないよう、ハーヴェイと共に舵輪がある船尾楼へ移動した。そこは士官達が指揮を執るため、船の後方から前方をくまなく見る事ができるよう、少し高く作られている甲板だ。
やがて、ハーヴェイの報告を受けて、アドビスやシュバルツも甲板へ上がってきた。
副長のシュバルツは、そこにいたリュイーシャの姿を見て一瞬驚いたように顔をひきつらせた。
「心配しなくても、彼女を怒らせないかぎり、この船が沈むなんて事はない」
シュバルツの背後でアドビスが独り言を漏らした。
緊急事態だというのに、アドビスは状況を楽しむかのように口元に笑みを浮かべている。
「……誰も、そんなこと、言ってませんが」
不機嫌に曇るシュバルツの表情とは対照的に、アドビスの笑みは顔全体に広がっていった。普段大きく表情を崩さないアドビスにしては珍しい事だ。
「それは悪かった。ハーヴェイ! 状況を報告してくれ」
「あ、はい。艦長」
「姉様……あの船。私、知っているような気がするの」
「リオーネもそう思う?」
リュイーシャは手を繋いだリオーネの手に力が込められるのを感じていた。
風下である左舷側の舷側で、リュイーシャとリオーネは徐々に近付いてくる船をじっと見つめていた。
けれどそれは船というにはもうほとんど原形を留めていなかった。
船尾を下にしてすでに沈みかけていたからだ。
三本あったマストは根元からすべて折れ、海中に沈んだ帆が上げ綱とからまりあいながら、皮膜のように海面を覆っている。
「あれ? 何かいない?」
リオーネがくすぶる船の前方を指差す。
まだ距離があるためはっきりしないが、船の突き出た舳先の部分に黒っぽい小さな塊が見えるような気がする。
「リュイーシャ」
アドビスに呼ばれ、リュイーシャは振り返った。
近付いてきたアドビスの表情はいささか不機嫌そうである。
眉間に皺を寄せ、青灰色の瞳には何かを警戒するような光が宿っている。
「嫌な所へ出くわした。どうもあの船は海賊か何かに襲われ、火薬庫を吹き飛ばされたようだ。型からみてエルシーアの船のようだが、もう少し近付いてみないとわからない。貴女達は船客だ。不快なら甲板から降りて船室に戻れば良い。部屋は乾いたし、元の通りにしておいたから」
リュイーシャは小さくうなずいた。
「ありがとうございます。でも……大丈夫です。邪魔にならないようにしますから、もう少しここにいさせて下さい」
リュイーシャは沈みかける船が気になっていた。
「あ、姉様見て! 鳥だわ」
その時リオーネが頭上を見上げた。
リオーネの声につられてリュイーシャとアドビスも辺りを見渡す。
「船の舳先に止まってたんだけど、あっ、こっちへ来る!」
リオーネの言う通り、沈みかける船から一羽の白い鳥が飛んでくる。
「アノリアが近いから、そこから飛んできたのだろう」
アドビスが手びさしして天を仰いだ。
白い鳥はフォルセティ号の左舷側に沿って甲板へ降りる様子をみせた。
リュイーシャとリオーネが立っているまさにその場所へと。
黄色い水掻きがついた両足を広げ、どすんと、尻餅をつくように降りてくる。
「姉様、あの鳥さん、何かくわえてる」
飛ぶ時の優雅さとは正反対に、不様な着陸をした鳥は、リオーネの言う通り何か黒いものをくわえていた。
「あれは」
リュイーシャとアドビスは、見覚えあるその物体を凝視した。
甲板に降りた白い水鳥は、額から後頭部にかけてくるんとカールした飾り羽を風にゆらゆらとゆらしながら一声鳴いた。
その拍子にくわえていた黒い物体が甲板に落ちた。
それは、黒い布切れのようにみえたが、ぐるりと輪になった紐がついている。
リオーネがおずおずと水鳥の方へ近付き、その布切れに手を伸ばした時だった。
「れなんでぃ、沈んだ。しぐるす、どこ?」
水鳥が黒い瞳を潤ませてリオーネをじっと見つめている。
首をかしげるように傾かせ、黄色いくちばしが再び開いた。
「れなんでぃ、もえた。沈んだ。しぐるす、どこ?」
――レナンディ、燃えた。沈んだ。シグルス、どこ?
「まさか!」
リュイーシャの隣にいたアドビスが小さく驚きの声を発した。
そして大柄な体躯を素早く回転させて、前方でまさに海に沈もうとしている件の船を凝視した。
「レナンディ号が、襲われたというのか……!?」
「これ。あの海賊のおじちゃんがしていた眼帯だよね」
リオーネが拾い上げた黒い物体――恐らく、海賊シグルスが身に付けていた眼帯であろう。
リュイーシャもまたそれを複雑な思いで見つめていた。
胸の奥でちくりと痛みが走った。
何かがまた起ころうとしている。
昔から悪い事の勘の方が、良い事のそれより勝った。
「しぐるす、どこ?」
羽音と共に水鳥は甲板から飛び立った。
主の名を呼びながら。
澄みきった青い空には、炎上するレナンディ号の黒い煙が、どこまでもどこまでも高く昇っていた。