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【13】 揺れる心

 燭台の上で燃える蝋燭がじっと小さな音を立てた。

 リュイ-シャとアドビスは黙ったまま、しばしマヌエルの入れてくれたお茶を飲んでいた。

 口を開いたのはリュイーシャの方だった。

「アドビス様。クレスタという島をご存知ですか?」

「噂程度なら知っている」

「あ」

 アドビスの手が不意にリュイーシャの方へ伸ばされた。

 茶をとうに飲み干して、空になっていたリュイーシャのカップを掴む。

「ありがとうございます」

 アドビスの手にカップを渡し、リュイーシャは気恥ずかしさにうつむいた。

 アドビスもまた茶を飲み干していたのだろう。空になった二つのカップを背後にあるマヌエルの卓上に置いた。そして膝に肘を乗せて頬杖をつくと、記憶を辿るような口調で呟いた。

「正確な位置までは知らない。リュニス本島より遥か東にある島で、リュニスの皇子の一人が、そこに住む海神の巫女に惚れて、島の住人になったとか……」

 ふうとため息を吐き、アドビスが顔を上げた。

「そんな話をきいた事がある」

 リュイーシャはうなずいた。

「そのリュニスの皇子と海神の巫女が、私達姉妹の両親です」

「……何?」

 頬に片手を添えたまま、アドビスは鋭い青灰色の目を月のように丸く見開いた。

 驚くのは無理もないというべきか。

 リュイーシャは肩をそびやかした。

 寧ろ内心驚いていたのはリュイーシャの方だ。

 自分の両親の話が噂として、外の国の人間にも知られていたと言う事がわかったのだから。

「父カイゼルは、現リュニス皇帝の三番目の息子でした。けれど母ルシスは海神に仕える巫女の為、島を離れる事ができません。よって父は、母のために皇位継承権を永久に放棄し、クレスタの民となったのです」

 リュイーシャは今まで胸の内に抑えていた思いを吐き出すように、これまでの出来事をアドビスに語った。

 クレスタの巫女の役割のこと。

 母が死んだため、幼くして自分がそれを担った事。

 そして、父カイゼルの異母兄ロード皇子が島に来たあの日の夜の事を。

 アドビスは頬杖を止めて黙ったまま、リュイーシャの話に耳を傾けていた。

 リュイーシャも淡々と話を続けた。

 島民達が成す術もなく、目の前で家族や恋人たちと引き裂かれていく光景を語った時、リュイーシャは堪えきれなくなった涙を流した。

 彼等の為に自分は何もできなかった。

 否。

 しようとしなかった。

「私は――卑怯です」

 溢れた涙は頬を伝い、上掛けの上に置いた手の甲を濡らしていった。

「私ならできたのです。私が願えば、ロードの船を沈める事ができた。でも私は――私に与えられた力を、人の命を奪う事には使わないという海神に立てた誓いを……破る事ができなかった」

「リュイーシャ」

 リュイーシャは俯いていた顔を上げた。

 涙に濡れたリュイーシャの手を、アドビスがその大きな掌で包み込むように載せたからだ。

「誰も貴女を責めることはできない」

「でも私は、クレスタの民を守る巫女です。私は皆を守るだけの力を持っているのです」

 手を掴むアドビスの指に力が込められた。鋭利な青灰色の瞳がくっと細められる。

「誓いを破れば海神は怒るのではないのか? その結果、貴女の救いたかった者達は、本当に救われたのだろうか? 皆ロードの船と共に沈んだかもしれない……そうは思わないか?」

「……」

 リュイーシャは目蓋を閉じた。溢れた涙が再び目の端からこぼれ落ちていく。

 それはリュイーシャの手を握るアドビスの、がっしりとした手の甲に落ちて真珠のように弾けた。

「そうだったかもしれません。でも……そうではなかったかも……」

「リュイーシャ。貴女は大きな力を持ったひとかもしれない。だが、貴女も私と同じ、一人の小さな人間だということを忘れてはいけない」

 リュイーシャは震える唇を噛みしめた。

 けれど今度は肩が、手が、体全体が震えてきた。

 リュイーシャはたまらずアドビスの手を振り払い、それで顔を覆った。

「リュイーシャ。すまない。大丈夫か?」

 呼び掛けるアドビスの声は、リュイーシャを包み込むような優しさに満ちていた。

 けれどその優しさが、リュイーシャの抱く罪悪感を一層深くさせていく。

 島民を助けるために、海神との誓いを破ることを躊躇した――本当の理由が棘のように心を刺す。

「私は……」

 リュイーシャは苦いものと一緒に、ゆっくりと言葉を飲み下した。

 私は、怖かったのだ。

 誓いを破る事が。

 島の人達を守る事が、本当に私の『守りたいもの』だったのか。

 多くの人達と、私の命を引き換えにしてでも守りたいものだったのか。

 海神の巫女として、そうするべきなのか、最後の瞬間まで迷っていた。


『……貴女も私と同じ、一人の小さな人間だということを忘れてはいけない』

 アドビスの言葉が脳裏に蘇る。

 リュイーシャは顔を覆っていた両手を、だらりと上掛けの上に下ろした。

 海神の巫女としてではなく、一人の人間として自分の心に問いかける。

 ああ、そうなのか。

 リュイーシャは長い息を吐いた。

 自分の心が、今はっきりとわかった。

 リュイーシャは唇をかすかに震わせ、自分の中の精一杯の勇気を奮い立たせた。息をちゃんと吸って深呼吸し、高ぶった感情を落ち着かせる。

 そして顔を上げ、アドビスを見つめた。

 アドビスの目には自分を案じる光が宿っていたが、リュイーシャの視線を黙って受け止めてくれている。

 海に引きずり込まれようとしたあの時、アドビスはリュイーシャの手を取り自分の方へ引き寄せて助けてくれた。その力強い眼差しが、今はリュイーシャに口を開かせるための勇気をくれた。

「きいて下さい、アドビス様。私の罪は、皆を助けたいと心から思えなかったこと。だから、海神との誓いを破り、死ぬ事がこわかったのです……」

「そうか……」

 アドビスは静かにうなずいた。

 ともすれば気難しく見える鋭い目を細め、もう一度深くうなずいた。

「それでいい。貴女もひとりの人間なのだから……それでいいんだ。よく言ってくれた。リュイーシャ」

 リュイーシャは再び目が熱くなるのを感じた。

 積み上げた勇気の塔が、アドビスの言葉と共に崩れていくのがわかる。

 幼い頃から海神の巫女としての立場を意識してきた。

 させられてきた。

 人前では常に凛とした態度で接し、島民に不安を与えてはならない。

 裏を返せばそれは、自らに与えられた力は絶対だという自信の表れだった。

 けれど今のリュイーシャは、巫女としてではなく、一人の人間に立ち戻っていた。

 恐ろしい力を振りかざさないで、ただの無邪気な少女に戻りなさい。

 自分の心に蓋をして、その中から響く声を無視するのはやめなさい。

 

 ぐらりと揺れた視界を、誰かが肩を掴んで支えてくれた。

 アドビスだ。

 目を開けると、俯いたアドビスの鋭利な横顔と、深い金色の髪が燭台の光に赤く照らされているのが見えた。

 何かを思うように唇を閉ざし、青灰色の瞳は床の一点を凝視している。

 そこには二百人の乗員をまとめる艦長としての横顔ではなく、リュイーシャの身を案じるひとりの若い青年の顔だった。

「今日はこれで十分だ。もう休みなさい」

 落ち着いたアドビスの声が、ぎしぎしとしなる船の音と共に静かに響いた。

「いえ、大丈夫です」

 リュイーシャは肩を抱くアドビスの腕に手を添えた。

 元々上等な布地で仕立ててある紺碧の軍服は手触りが良く、その下にあるアドビスの力強い腕の筋が感じられる。


 ――このままずっとあなたが支えてくれたら。

  私は再び前を向いて、歩いていく事ができるかもしれない。


 ふと、そんな考えが脳裏をよぎる。

「……大丈夫です。私はすべてをアドビス様に話す事を決めたのです。だから、もう少しだけ聴いて下さい」

 私は、離れなければならないから。

 あなたから。

 リュイーシャは穏やかな微笑を唇に浮かべ、アドビスに向かってうなずいてみせた。

 あなたを頼る事は、これで最後にしますから。

 どうか。

 リュイーシャは寝台の上で姿勢を正した。すっぽりとリュイーシャの手を覆うアドビスの大きな掌をつかみ、肩から離す。

「無理はするな。私はあなたが呼べば、何時でも話をききにここに来るのだから」

「ありがとうございます」

 リュイーシャはまだアドビスの手を離さなかった。

 蝋燭の明かりに照らされたそれには、海賊との戦闘で負ったのだろう、いくつも白い刀傷がついていた。

 きっとこの傷はこれからも増えていくのだろう。

 それが彼の選んだ自分の道ならば。

 リュイーシャはアドビスの手を離した。

 そして、ロードの船に乗せられた後の事。

 風を操る巫女の力に目を付けた海賊シグルスが、ロードからリュイーシャ達を無断で連れ出したことをアドビスに話した。



「……以上で、私の話は終わりです」

 リュイーシャは乾いた唇を湿らせ目を伏せた。

 どれぐらいの時間、話しただろう。30分? 1時間?

 けれどアドビスはほとんど黙ったままリュイーシャの話を聴いていた。

 まるで岩と話をしているようだったが、そうでもない。

 ロードがリュイーシャ達を本国へ連れ去ろうとした理由を語った時に、彼の瞳は怒りのあまり凄みを帯びた。シグルスがアドビスの船に追跡され、慌てふためく様を語った時には、彼の口元は笑みでほころんでいた。

「そうか。本当によく話してくれた。貴女がそんな目に遭った事を知らぬとはいえ、私は……」

 アドビスは足の間に組んだ両手に視線を落としていた。

「アドビス様?」

 リュイーシャはその顔を覗き込んだ。

 アドビスは悔いるように目を伏せている。

 だがその瞳がふっと見開かれた。

「リュイーシャ、すまない。私は単に、あなたはシグルスに捕えられたリュニスの島の娘だと思っていたのだ。だから、貴女が望むのなら、故郷の島へ連れていけば良い。そういう風に思っていた」

「……アドビス様」

 リュイーシャは顔を上げたアドビスの視線を受け止めてからそっと逸らした。

 苦いものが再び口の中に広がっていく。

「アドビス様は……どう思われますか」

 リュイーシャは汗ばんできた両手で上掛けを掴んだ。

「私とリオーネは、仰る通り、クレスタへ戻るべきなのかもしれません。島に戻って父を弔い、そして……今までそうしてきたように、海神に仕える暮らしに戻るべきなのでしょう……けれど」

 リュイーシャは苦い唾を飲み下した。

「私は島に戻れません。だって、代々の巫女は海神にその魂を捧げる事で、島を襲う嵐や高波を鎮める力を授けられ、島民を守ってきました。けれど、島にはもう誰もいないのです。守るべき者がいなくなった今――私の巫女としての役割は果たされるのでしょうか。私は……」

「つまり、貴女は島にいる必要がなくなったというわけだ」

 アドビスがリュイーシャの顔を覗き込むようにして見ている。

「そ、そう言われれば、そういうことになります」

 アドビスは瞳を細めた。リュイーシャの意志を確認するように。

「一つだけ訊ねるが、貴女が島を離れることで、海神に咎められる事はないのか?」

 リュイーシャは口元に手を添え、目を閉じた。

「わかりません。クレスタを離れた巫女は今までいませんでしたから。けれど、青の女王様がお怒りになったら、私もその意志がはっきりとわかります。それは、私の死を意味しますから」

 リュイーシャは吐息と共に目を開けた。

「ということは、もう答えは出ているというわけだ。貴女はこうして生きている。私の船を襲った嵐が海神の怒りなら、今頃我々は暗き海の底に沈んで冷たい眠りに身を任せているはずだ。貴女の祈りも届かずに」

 アドビスが再び長い膝に肘を乗せて頬杖をついた。しかしその目はリュイーシャをひたと見つめている。

 リュイーシャは観念するかのように小さく微笑した。

「仰る通りです」

 アドビスも唇に笑みを浮かべた。

「そうか。なら、今後どうしたいか、貴女に考えて頂かなければならないな」

「……はい」

 リュイーシャはうなずいた。

 アドビスに言われるまでもない。

 彼の船は客船ではなく軍艦なのだ。いつまでもアドビスの好意に甘えることはできない。

「アドビス様。次に立ち寄る港で、私達を下ろしていただけませんか」

 アドビスの顔色がほんのごく僅かであったが、驚きに強ばるのをリュイーシャは見た。

「アノリア港にか?」

「ええ。だって、その港はエルシーアという国の最南端であり、リュニスとの国境に近い港なのでしょう? もしもそこでの暮らしになじめず、リュニスに戻りたくなったら、この港ならそちらへ行く船が出ているかもしれない」

 アドビスは長い指で顎をさすった。目を細めて虚空を睨むアドビスの顔は、嵐のように曇っていた。

 やがてアドビスは嘆息した。

「私は貴女の意志を尊重する。行きたい所があるのなら、たとえ世界を半周したって連れていく。だが、アノリアだけはすすめられない」

「どうしてですか?」

「それは……」

 アドビスの鷹を思わせる精悍な顔が困惑に歪んだ。

 彼を困らせているとリュイーシャは思ったが、今はこれが一番良い選択肢のはずなのだ。

 アドビスは顎をさすっていた右手を今度は額に当て、はらりと落ちた前髪の束を手櫛でかき上げた。

「私が危惧しているのは、貴女が言うようにアノリアが、リュニスから近いということなのだ。いや、近すぎるといっていい。私の船で一週間もあれば、リュニスの王宮がある本島へ行く事ができる。だがもしもロード皇子が貴女を探していたらどうする?」

 リュイーシャは一瞬息を飲んだ。

 ロードの存在を忘れていたわけではない。

 あの男はカイゼルの血を引くリュイーシャとリオーネ、どちらかを自分の息子の妃にすることで、権力を強めようと考えていた。そうすることで内乱を防ぎ、穏便に皇帝の座につこうと考えていた。

 シグルスがリュイーシャ達を無断で連れ去った今、ロードはひょっとしたら血眼になって自分達の行方を探しているのかもしれない。

 リュイーシャの脳裏に黒い軍艦の姿が鮮明に蘇ってきた。

 リュイーシャは不安を振り払うように首を振った。絡み付く長い金の髪を手で払い、アドビスに向かって笑ってみせた。

「確かにその可能性がないとはいえません。でも、心配なさらないで」

 リュイーシャは力強くうなずいた。まるで日の光のように。

 その美しさから海神の娘と称された母ルシスと同じ青緑の瞳を輝かせながら。

「島での暮らしは質素でしたから。きっと私達、二人でやっていけます」

 アドビスは黙ったままリュイーシャを見つめていた。

 しかし、それはほんの短い時だった。

 アドビスは二十代の青年らしい顔で苦笑すると呟いた。

「リュイーシャ。貴女にはわからないのかもしれないな。野辺に咲く花と切り立った崖に咲く一輪の白百合とでは、白百合の方が嫌でも目立ってしまう事に」

「どういうことですか」

「どうもこうもない。アノリアは小さな漁村に毛が生えた程度の辺鄙な港だ。そこへ美しいリュニス人の姉妹が現れたら、嫌でも噂になって、いつかロードの耳に入ってしまうという事だ」

 アドビスが自分の身を案じてくれている気持ちはよくわかる。

 それ故に、リュイーシャは強気に言い返した。

「でも私達、できるだけ人目につかないように暮らします」

 しかしアドビスは自身の青灰色の瞳のように、あっさりと冷たく言葉を返した。

「それは無理だ。アノリアは悪名高い奴隷市場の港でもある。船を降りた途端、貴女達は目をつけられて、あっという間に連中に攫われてしまうだろう。そこでだ」

 アドビスはやおら座っていた木の丸椅子から立ち上がった。床に片膝をついて長い右手をリュイーシャの方へ伸ばす。

 そして、上掛けの上に置かれていたリュイーシャの右手を取った。

「アドビス様?」

「貴女に提案したいことがある。ほとぼりがさめるまで、私の故郷アスラトルへ来ないか?」

 今まで見下ろされていたアドビスの視線が、リュイーシャを見上げている。

「アスラトル……」

「そう。エルシーア海軍本部がある街だ。あそこならロ-ド皇子はやって来れない。来たとしても、私の目の前で貴女を攫うものならば、私は奴の船をどこまでも追いかけて、貴女を取り戻す」

 そう言って、アドビスは恭しくリュイーシャの手に口付けた。

 あくまでも貴人に対する礼節をわきまえた口付けだった。

 けれどリュイーシャは咄嗟に動けなかった。

 アドビスの言動は想像外のことだったから。

「返事を、聞かせてもらえないだろうか」

 アドビスが手を離してくれたので、リュイーシャはそれをおずおずと自分の方へ引き寄せた。胸の前で右手を左手で抱えこむ。

 アドビスを直視することができない。

 頬だけが何故か熱を帯びて火照ってくる。リュイーシャはそれをみられたくなくてアドビスから顔を背けた。

「……今すぐだなんて……無理です。考える時間を下さい」

 ふっとアドビスが笑いを漏らした。

「それもそうだな。じゃ、アノリア港についたら、返事をもらおうか」

 アドビスがゆっくりと立ち上がる気配がしたので、リュイーシャは様子を伺うように顔を上げた。

「アノリア港には、どれぐらいで着くのですか?」

「あと二日だ。貴女が船を飛ばしてくれたお陰でかなりの距離を稼げた」

「……」

 リュイーシャは再び俯いた。

 あと二日で決めなければならない。

 アドビスの申し出を受けるのか。それともアノリア港で降りるのかを。

「リュイーシャ」

 アドビスが長身を折ってリュイーシャを見下ろしていた。

「今日の所は悪いが、この医務室で休んでくれ。気味の悪い婆さんと、船底特有のカビ臭さがたまらないが、船室が乾くのにもう少し時間がかかるのだ」

 リュイーシャはこくりとうなずいた。

 元アドビスの部屋はあの嵐で窓の硝子が割れ、海水がたっぷり入り込んだせいでびしょ濡れになってしまったのだった。

「私は大丈夫です。リオーネもいてくれますから」

「そうか。では、そろそろ失礼する」

 アドビスは器用に天井の梁を避けて、医務室の出入口まで歩いていった。

 リュイーシャはその広い背中を黙ったまま見送った。

 胸の前で右手を抱えたまま。

 アドビスはそのまま部屋を出ていくと思われた。

「リュイーシャ」

「あ、はい」

 アドビスは顔をしかめながら、けれど念を押すように、リュイーシャの方へ振り返った。

「アスラトルは古き歴史を感じる造船の街だ。実際に街をみてもらってからでも……返事は構わない」

「……」

 リュイーシャは黙っていた。

 クレスタから一度も他の国はおろか、隣の島まで出た事がないので、外の世界がどうなっているのか、実はまったく想像がつかない。

 リュイーシャは首を振った。

「ごめんなさい。もう少し、時間を下さい」

 アドビスはばつが悪そうにうつむいた。

「すまない。急かせるつもりではなかった。ただ、そういう選択肢もあるということを、貴女に伝えたかっただけなのだ。では」

 アドビスは今度こそ風のように医務室を立ち去っていった。

 後に残されたリュイーシャは寝台に身を起こしたまま、アドビスが出ていった扉をじっと見つめていた。



「……誰が気味の悪い婆さんだって? ひっ!」

「アドビスさまったら、リュイーシャ姉様のことが好きなのかな?」

 医務室の奥のタペストリーを元に戻しながら、リオーネは傍らに立つマヌエルに話しかけた。

 マヌエルは再び笑いを堪えているのか、ぴくぴくと唇が引きつっている。

「リオーネ嬢ちゃん。あたしの『先見』の力を賭けたっていいよ。あれを恋と言わずして、なんといおうかってね。ひっ!」

 マヌエルはしゃがみこんでリオーネの肩に痩せた腕を回した。

「あんなに饒舌なグラヴェールの若旦那を見たのは初めてだよ。悪い事でも起きなければいいけどね。ひひっ」

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