【11】 風に惹かれるのは海を駆けし我が運命
「おい大丈夫か?」
アドビスは死んでも舵輪を離すまいとしがみついている、ウェッジ航海長の頬を叩いた。
「……グラヴェール艦長? おや、俺達一緒に死んじまったんですかい?」
気付いた航海長はアドビスの顔をどこか遠くを眺めるように見つめ、げほげほと咳き込みながら海水を吐いた。
「私にもわからん。一体何がどうなったのか……」
アドビス自身も当惑しながらウェッジの隣に腰を下ろした。唇を歪ませ、航海長の薄くなった頭へ手を伸ばす。そこに髪の毛代わりのように貼り付いた、緑の海草をつまんで甲板に投げ捨てた。
「あ、どうも……」
航海長がその行為を惚けた顔で眺めた。
しかし視線がふらふらとして焦点を結ばない。
どうやら彼は放心状態に陥っているようだ。けれど無理もない。
あんな恐ろしい目にあったことは、十二才で海に出たアドビスでさえ一度もなかったのだから。
風が強まり船が凄い勢いで走り出した。
このままでは追波になる。そう思ってハーヴェイに船尾から海錨を投錨させ、それが船の速度を落としてくれることを願った。
その時、今まで見た事がない程の高い波がフォルセティ号を後ろから持ち上げたのだ。50リールあるメインマストを優に飲み込むほどの高波が発生するとは通常考えられないが、それは確かにフォルセティ号を捕まえて海面へ叩き付けようとしている。
『何でもいい! 皆、何かにつかまれ!』
フォルセティ号は全部のマストに上げていた帆をちょうど畳み終えた所で、各マストに二十名ずつ――甲板に出ていた当直の人間は七十人ほどいただろう。
フォルセティ号が船首を下にして、海へ突き刺さるように転落していくのをアドビスは見た。黒々とした深淵に船もろとも自分達が飲まれ、沈むのを見た。
それなのに――。
どうして船は無事に、そして何事もなかったかのように浮かんでいるのだろう。
アドビスはゆっくりと舵輪の側から立ち上がった。
風は相変わらず生温い空気を運んでいるが、空は先程までの薄明かりが消え失せ、ちかちかと無数の星が瞬いている。海もまだ少し波が高いが先程までの異常さはない。
どうやらあの無気味な嵐は通り過ぎていったようだ。
甲板では上げ綱にしがみついて船から振り落とされずに済んだ水兵達が、互いに声をかけながら起き上がっていた。
無事を喜んで肩を叩きあう彼等を見ながら、アドビスは頭を振って濡れた髪から水気を飛ばした。
「船が、海面に向かって突っ込んだ気がしたんじゃが、ワシの見間違いだっただろうか」
アドビスは航海長のぼやきを小耳に挟みつつ、今度はずぶ濡れになった航海服の裾をつかんで海水を絞った。
夢ではない。
騒がしくなったフォルセティ号の甲板をアドビスは険しい顔で眺めた。目の前のミズンマストの帆桁から、海水の雫がぽたぽたと途切れる事なく落ちているのが見える。
張り巡らされた上げ綱には、ウェッジ航海長の頭にへばりついていた同じ緑の長い海草が絡まっており、風にあおられひらひらと舞っている。
夢ではない。
フォルセティ号は海に飲まれ、そして再び浮上したのだ。
「グラヴェール艦長、ご無事でしたか!」
「オルソー? お前も無事か」
赤毛の掌帆長は筋肉質の体にぴったりと濡れたシャツを貼り付かせながら、舵輪の前に立っているアドビスの所までのしのしとやってきた。
その顔は興奮しているのか頬が赤く上気している。
「オルソー掌帆長。悪いがすぐに各マストの班の点呼をとって、行方不明者がいないか確認してくれ」
「はい艦長。あの――それで報告することがあるのですが」
オルソーは眉根を寄せ、ぐっと歯を噛みしめている。その気配にただならぬものを感じたアドビスは、言葉鋭くオルソーに問いかけた。
「どうした? 誰か行方のわからないものがいるのか?」
オルソーはちらりとアドビスの顔を見上げ、ゆっくりとうなずいた。
「水兵のジンの奴が……一緒にいたユーギルの話じゃ、船が海に叩き付けられた時にメインマストから振り落とされるのを見たっていうんです」
アドビスは少し前、メインマストの一番上の帆を畳んでいた小柄な水兵のことを思い出した。彼は――ジンは、まだ十五才の少年だがマスト登りが早く、身のこなしも軽い水兵だった。しかしあの時は風が強いせいで帆を畳むのに手間取っていたのを覚えている。だからアドビスは、近くにいた水兵ユーギルの班を応援に回せと、副長シュバルツに命じたのだ。
「ジンの他に行方不明者は?」
オルソーは丸っこい顔をしかめ首を振った。
「わかりません。ハーヴェイ二等士官が点呼をとっています。でも、多分ジンの奴だけかと。後は滑車にぶつかったり、上げ綱に絡まったせいで擦り傷をこしらえた水兵が二十人ぐらいおります」
「わかった。他に行方不明者がいたら教えてくれ」
「了解しました」
アドビスはオルソーと別れた。まだはっきりしないが上甲板の行方不明者はジン一人。それがわかった途端、今度は船室の様子が気になったのだ。
開口部は嵐の前に閉鎖させていたが、フォルセティ号は海に沈んだのだから、船室や下層甲板も当然海水が侵入しているはずだ。
非番の水兵達やウェッジ航海長の細君コーラル夫人。そして最下層の医務室にいるマヌエルに、あのリュニス人の姉妹――リュイーシャとリオーネ。
船底の魔女と恐れられるマヌエルや、船の揺れに慣れているコーラル夫人は大丈夫だろうが、船に慣れていないリュイーシャ達はさぞ恐ろしい思いをしただろう。
誰かにあの姉妹の様子を見に行かせた方がいいかもしれない。
「ゲホッ! ゴホッ!」
アドビスはその時、後部甲板右舷側の手すりに弱々しく背中を預け、ぜいぜい喘ぐ副長の姿に気付いた。
なんだ、お前も無事だったか。
よく振り落とされなかったな。その根性だけは褒めてやる。
アドビスは唇をゆがめながらシュバルツを一瞬だけ賞賛の眼差しで見つめた。そして怏々と副長に向かって呼びかけた。
「シュバルツ。無事でなによりだ。怪我はないか?」
「……」
シュバルツは甲板に座り込み、俯いたまま返事をしない。
アドビスは副長のふてくされた様子に思わず顔を引きつらせた。
心配してやっているのに。こんなときでもまた『だんまり』か。
「……だから、嫌だったんだ」
独り言を言いながらシュバルツがのろのろと顔を上げた。上流階級育ちの品の良いそれが今は見る影もなく、頬は痩け、肌は病的までに白く、唇も青ざめて紫色になってしまっている。
額に濡れた黒髪を海草のように貼り付かせたまま、シュバルツは激しく首を振った。
「船が海に飲まれた! 我々は死んだ! わ、私はリビエラ伯爵家の嫡子だ。私が死んだら家を継ぐものがいなくなるんだぞ! それなのに、父上は何故、私を海軍なんて行かせたんだろう!」
「……シュバルツ」
アドビスはもう一度静かにシュバルツへ声をかけた。
彼は船が沈む事に、そして自分が死ぬかもしれないという恐怖のあまり、錯乱状態に陥りかけているようだ。
「しっかりしろ。お前は生きている。それでも名家リビエラ伯爵家の嫡子か?」
だがシュバルツはアドビスの顔を呆然と見つめながら、わなわなと唇を震わせている。
「……」
アドビスは溜息をついた。
何分、人と話す事が苦手なので、副長を励ましてやれる気の利いた言葉が浮かんでこない。仕方なくアドビスはシュバルツの前に歩み寄り膝をつくと、げっそりしながら彼の肩へ手を伸ばした。
「生きてるぞ。私も、お前も。ほら、手を掴め。立ってみろ」
けれどシュバルツはアドビスの手を振り払った。
「私にさわるな! 亡霊め! 魔女に魂を魅入られ、我々を海の墓場へ引きずり込んだくせに!」
「……なに?」
アドビスはシュバルツが何を言っているのか理解できなかった。
やはり副長は極度の緊張が続いたせいで、神経が高ぶっているらしい。
「シュバルツ、落ち着け。お前は死んではいない。我々は助かったんだ」
アドビスは辛抱強くシュバルツに呼びかけた。
けれどシュバルツはやおら立ち上がり、アドビスに向かって罵声を浴びせた。
「うるさい! 私は見たんだ。海の中で、あのリュニスの女が大渦の真ん中に立っていたのを。船を渦に引きずり込もうとしていたのを! だからレナンディ号へ乗せたままにしておけばよかったんだ。そもそもあの船を発見した時からおかしかった。不気味な霧を纏わせて、あの船は我々の前にいきなり現れた。あの女は、あの魔女は、私達を海に引きずり込むために――きっと……」
「シュバルツ、貴様。何の根拠があってそんなことを!」
アドビスは濡れぼそったシュバルツの襟飾りを掴み、それをぐいと自分の方へ引っ張った。
「お前が海に沈む恐怖で狂うのは私の知った事ではないが、あのひとを――彼女の事を何も知らないくせに、そんなことを言うのは許さん!」
ふ……。
シュバルツの青ざめた唇が嘲笑で歪んだ。何か面白いものをみるようにアドビスを真っ向から睨み付ける。
「ほう……。艦長があの女の何を知っているのかは知りませんが、私だって、知ってますよ。シグルスが言ってましたからね。あの女は『海神の巫女』だと。人間の魂を海神に捧げるため、嵐を呼び寄せ船を海に沈める――恐ろしい女だと」
アドビスはシュバルツの胸倉を掴んだまま、水色の瞳を細める副長の顔をにらみつけた。
「海賊のたわ言など私は信じない」
「は、はは! じゃあその目でみてみるがいい! もっとも、エルシーアの金鷹は海賊船しか目に入らないでしょうがね」
シュバルツの目が勝ち誇ったように輝いていた。
彼は血の気の失せた青白い顔に怯えを見せたまま、かちかちと歯を鳴らしながら、それでも唇を引きつらせて笑っている。そしてゆっくりと何かを指すように金の指輪をはめた右手をあげた。
「……何?」
副長の行為が理解できない。ぎりとアドビスが奥歯を噛みしめた時だった。
「おい、あそこを見ろよ!」
アドビスの背後――メインマストがある船の中ほどの甲板から声がした。
◇◇◇
「どうした。クーリ?」
海草が絡み付きそれがはたはたと揺れるメインマストの下で、水兵の点呼をとっていた士官ハーヴェイが、右舷の船縁にいる叫び声を上げた水兵――クーリに近付く。
水兵は船が沈んだ時の衝撃で脱げてしまったのか、上半身裸で、肩まで伸びた茶色の髪も濡れて黒々としていた。
「ハーヴェイさん、あそこ、見て下さい。ほら!」
ハーヴェイはクーリの言うまま、彼の隣に並んで立つとその指し示す方向を見た。
「……え?」
「どうしたどうした?」
一緒に点呼をとっていた掌帆長オルソーも、ハ-ヴェイと一緒に右舷の船縁に駆け寄り、水兵が指差す方向を見る。
「まさか……」
オルソーの太い喉がごくりと鳴った。
「まさかじゃねえ! みんな、あれがみえるだろう?」
クーリの声で甲板にいた水兵達約七十名がどっと右舷舷側に駆け寄った。
「人だ! 海に誰か立ってるぞ!」
◇◇◇
「驚いた。ありゃー艦長がレナンディ号で助けた、リュニス人の綺麗な娘っこじゃねぇか」
ウェッジ航海長が舵輪を回すのを忘れたまま、水兵達と同じようにフォルセティ号の右舷側――正確には東の海を惚けたように眺めている。
暗かった空はいつしか明るくなっていた。淡い紫の空が一面に広がり、まもなく夜明けを迎える海は一層穏やかに波打っている。
帆を上げていないフォルセティ号は、波間に弄ばれるように自らの黒い影を引きずりながら漂っていた。その船を目指して、白い服を纏った長い金髪の女性が海の上を歩いてくる。
彼女の白い素足は海上を渡る風のように軽やかで、海面をわずかに震わせながら、滑るようにフォルセティ号へとやってくる。
「……」
「黙っていると言う事は、あなたもあれが見えるってことだ。見えますよね? だったら手を離してもらえませんか。グラヴェール艦長?」
「……」
アドビスはゆっくりとつかんでいたシュバルツの胸倉から手を離した。本当に襟飾りから手を離しただけなので、爪先立ちになっていたシュバルツは体を支える事ができず、そのまま甲板に尻餅をついた。
だが副長は痛みを気にする事なく、甲板に座り込んだまま乾いた笑い声をあげた。
「くっくっくっ……ははは! やっぱりそうだった! やっぱりあの女は人間じゃなかった! 海神の魔女だったのさ! ははは!!」
アドビスはシュバルツを無視して舵輪がある後部甲板から階段を降りた。そうしなければもう一度、かん高い声で笑い続ける副長の喉首を掴んで、今度は二度と笑えないようにしてしまうと思ったからだ。
アドビスは水兵達が固唾を飲んで海を見つめているメインマスト前の右舷船縁へと足を進めた。赤毛のオルソー掌帆長と彼の隣で水兵達と同じように顔を強ばらせている士官ハーヴェイの所へと向かう。
「ハーヴェイよ。俺、やっぱり本当は死んでいて、実は果ての海に来ちまったんじゃないだろうか。こういってはなんだが――なんて名前だったかな、こっちへ歩いてくるあの綺麗な娘――恐れるものは何もない、そういいたげにこっちをまっすぐ見てるじゃないか。海を歩くあの娘を見ていたら、さっきからなんだかまるで母親の胸に抱かれているみたいに、安心して穏やかな気持ちになるんだよ……」
がさつなオルソーがしみじみと感慨深気につぶやいたので、ハーヴェイはそれにびびりながら大きく首を振った。
「わ、私はそうは思いたくないです! 私達は助かったんですよ。オルソー。で、でも何故リュイーシャさんがあんなところにいるのかわからない。あ、リュイーシャさん、誰か腕に抱えてますよ。あれは――」
「あれは海に落ちた水兵のジンだな」
「あわわ……! か、艦長!?」
何時の間にか背後にいたアドビスに気付いて、ハーヴェイとオルソーが同時に振り返った。
「ジンだ!」
「ジンの野郎だ」
息を飲んで海を歩くリュイーシャを見ていた水兵達が騒ぎだした。
「ちくっしょー。あいつ、助かったんだな!」
「え、でもよ、ジンの奴、ちっとも動かない気がする」
「……ひょっとして死んじまったか?」
水兵達の失望する声が甲板に響いた。
「おい。雑用艇を下ろせ」
アドビスはリュイーシャから視線を外さず、ハーヴェイに鋭く命じた。
「え? あ、あの」
アドビスはいらいらしながらハーヴェイに再び命じた。
「ジンを受け取る。彼女が待っている。早くしろ」
リュイーシャはフォルセティ号の右舷側まで後数十歩という所まで近付くと、歩みを止め白い泡を立てる波の上でじっと佇んでいた。
それを目にしたハーヴェイは、ようやくアドビスの命令を理解したというように、近くにいた水兵達に上陸用の雑用艇を海へ下ろす作業を命じた。
フォルセティ号は大砲を備えた二層の砲列甲板があるので、海面から上甲板まで約四メートルほどの高さがある。よって、リュイーシャとジンを船に乗せるためには、一旦彼等を雑用艇に乗り移らせる必要があった。
リュイーシャは細腕にまだあどけなさを残した水兵の少年を抱きかかえ立っていた。前方からそよぐ風に彼女の白い衣が幾重のひだを作って翻り、足元でうねる波のように見える。肩を流れる月影色の長い金髪は、背後から昇る朝日の光を受けて神々しいまでの輝きに満ちていた。
アドビスは片時もリュイーシャから目を離さなかった。
いや、離すことはできなかった。リュイーシャの青とも緑ともいえない海色の瞳は、ひたとアドビスただ一人へと向けられていたから。
彼女の顔にはなんの恐れも不安も浮かんでいなかった。
まるで何か大きな事をやり遂げた者のように。
『もう何も思い残すことはない』そういわんばかりに、リュイーシャは静けさに満ちたまなざしで、アドビスを見つめ続けている。
「グラヴェール艦長。雑用艇を下ろしました」
ハーヴェイのうわずった声でアドビスは我に返った。
リュイーシャから無理矢理視線を引きはがし振り返ると、アドビスを取り囲むように輪を描いて水兵達が立っていた。
自分の前に立ちこちらを見るハーヴェイの翠の瞳には、僅かな怯えと怖れが見える。
ハーヴェイは緊張しているのかぐっと両手を握りしめて、やがて意を決したのかごくりと唾を飲み込んだ。
「あ、艦長。それで、ジンを受け取りには誰が――」
アドビスはハーヴェイの戸惑いを、そして水兵達が自分と距離をとり、離れた位置に立っている理由を察した。
皆、行きたくないのだ。
リュイーシャは本当は人ではなく、海神の眷属なのかもしれない。
皆、そう思っているのだろう。
でなければ海の上に立つことができる人間などありえないから。
一度船ごと海に沈められた後なだけに、皆、海神への畏怖の気持ちで一杯なのだろう。
アドビスは唇の端を歪め自らの無謀さを薄く笑った。
不思議だ。
自分は何故皆のように、あの娘を恐れないのだろうか。
船ごと海に沈んだ時は確かに怖かった。副長と同じように暗く冷たい水に飲み込まれる死への恐怖を感じた。
けれど。ただ――それだけだ。
「誰も来なくていい。私が行く」
アドビスはいつものように端的に返事をした。
海に浮かべた雑用艇に乗るため、開かれた舷門から下ろされた縄梯子に足をかける。
「し、しかし! 艦長、お一人では……」
ハーヴェイは最後の最後で良心が咎めたのか、アドビスの身を案じるように悲痛な表情を浮かべた。
アドビスは黙ったままハーヴェイに力強くうなずいてみせた。
「心配するな。すぐに戻る」
アドビスは数歩で縄梯子を降り、雑用艇へと乗り移った。
座板に腰を下ろし、海上に立つリュイーシャの元へいざ漕ぎ出そうとしたとき、雑用艇は吸い寄せられるようにひとりでに動きだした。
それを見てフォルセティ号に残る水兵達が一斉にどよめいた。
雑用艇は朝日を受けて金色に光る海を滑るように進んでいく。
やがて船は海の上で水兵の少年を腕に抱えたリュイーシャの元へ近付くと動きを止めた。手をのばせば真珠のような肌をした、海色の瞳を持つ彼女に触れる事ができるほどの距離で。
アドビスは座板から静かに立ち上がった。雑用艇は揺れなかった。大地のように微動だにせず安定していた。
そしてリュイーシャに抱えられた少年は、穏やかな笑みを浮かべて、安定した呼吸を繰り返していた。見た所外傷もなさそうだ。
「彼を……ジンを受け取ろう」
アドビスは手を伸ばした。
リュイーシャは黙ったままうなずくと、少年の体をアドビスの腕に預けた。
意識のないその体は水気を吸った服のせいで意外と重かった。
女の細腕で抱えるにしては、だが。
アドビスはジンの体を静かに雑用艇の底へ横たわらせた。
そして立ち上がると再びリュイーシャへ手を伸ばした。
「さあ、貴女も」
「……」
リュイーシャは青とも緑ともいえない美しい瞳をひたとアドビスに向けていた。
アドビスはふと違和感を覚えた。
目の前にいるのは確かにリュイーシャなのだが、彼女の姿をした誰か別の者と相対しているような気がする。
彼女の瞳を覗き込むと、海に飲まれる時の恐怖が腹の底から脳天まで一気に突き抜けてきた。
アドビスはそれを唇を噛み締める事で辛うじて自制し、青灰色の瞳を細めた。語気鋭く言い放つ。
「彼女を――リュイーシャを返していただこう」
アドビスは再び長い二の腕をリュイーシャに向かって差し出した。
ふわりとリュイーシャの髪が風に舞い、それは金色の光となってアドビスの体を包み込んだ。
『孤高の鷹よ。そなたは風を求めるのか? 何故求めるのか?』
『風がなくては海を渡れぬ。風に惹かれるのは海を駆けし我が運命――』
黄金色をした光の洪水の中で、女の笑い声が響き渡った。
『そなたの欲する風は大きな力を持っている。そなたの翼をもぎ取るほどの力をな。興味本位で関わると、そなたは二度と海を渡れなくなる。それでも欲するか?』
『勘違いされるな。彼女を欲しているのはあなたの方だろう。青き御方よ』
アドビスは自らの内に沸き上がった怒りで、首筋の毛がちりちりと逆立つのを感じた。
『私の船と、海に落ちた水兵の命を救って下さったことは感謝する。代償が必要なら私に求めるがいい。ただし、彼女を――リュイーシャを返して下さる事が条件だ』
『……』
アドビスの周りを取り巻いていた光が、徐々に弱まっていく。
やがてそれはアドビスの前方で、再びリュイーシャの姿になった。
『それはできぬ』
アドビスは身構えた。いざとなったらリュイーシャの腕を掴んでこちらへ引き寄せてやる。そう思った時だった。
『私の娘がそなたを守るよう願った。だから、そなたの魂を海神へ捧げる事は、私にはできない』
アドビスは息を飲んで目の前のリュイーシャの顔を見つめた。
リュイーシャの瞳から一筋の涙が流れ、白い頬を伝っていた。
「行かないで、ルシス母様……!」
何かを求めるように彼女は右手を前方へ伸ばし、再度母親の名前を呼んだ。
途端、リュイーシャの足が海面へと沈んだ。誰かがその白い足首を掴んで海へ引きずり込もうとするかのように。
「リュイーシャ! 手を!」
「アドビス様!?」
風にあおられ舞う金の髪の合間から、リュイ-シャの青ざめた顔と、一度見たら忘れられない青と緑の海色の瞳が覗いた。
リュイーシャが後方へ仰け反りながら、それでもアドビスに向かって左手を伸ばす。
アドビスはリュイーシャの腕を掴んだ。
夢中でその体を自分の方へ引き寄せる。
海がリュイーシャの華奢な体を飲み込む前に、渾身の力を振り絞って雑用艇へと引っ張り込む。
アドビスはリュイーシャを抱えた形で雑用艇の船底へ倒れ込んだ。
その衝撃で木の葉のように船が左右に激しく揺れた。
海へ落ちたら二度と浮かび上がる事ができないかもしれない。
アドビスはそれだけは避けようと、雑用艇が転覆しないことをひたすら願った。
やがて、船の揺れは徐々におさまってきた。
アドビスは転覆の危険が遠ざかった事に安堵しつつ、右肩の上に乗せられたリュイーシャの頭の方へ顔を向けた。
一瞬ためらった後、そっと呼び掛ける。
「……大丈夫か?」
リュイーシャの頭がこくりと動いた。
海風にさらされ続けたせいか、彼女のむきだしの肩は冷えきっていて小刻みに震えている。彼女の肩を抱いた右手にそれが伝わってくる。
海の上に立つリュイーシャの姿を見た時、アドビスも初めは部下達と同じように彼女は人ではないかもしれないと思った。それは否定しない。
けれど今は違う。
今はそう思わない。
彼女は自分と同じ人間だ。
海神の眷属なら海に沈む事を恐れない。
あの時自分の呼びかけに応じて手を伸ばす事などしない。
リュイーシャの目は確かにアドビスの助けを乞うていたのだから。
「ごめんなさい、アドビス様」
消え入りそうなとてもか細い声でリュイーシャが言った。
「何を謝る?」
「――すべてを」
「リュイーシャ」
アドビスは船の揺れが治まった事でゆっくりと上半身を起こした。
雑用艇の船首の方に寝かせてある水兵のジンは、相変わらず穏やかな寝息をたてて眠っている。
そしてリュイーシャは安心したのか、アドビスの胸に額を寄せて目蓋を閉じていた。
アドビスは黙ったままリュイーシャの寝顔を見つめていた。
風に吹かれれば倒れてしまうような、白百合の花のようなこの少女が、海に沈んでいくフォルセティ号を浮上させる力を持っていたとは。
「そんな力……貴女には二度と使わせない」
アドビスはリュイーシャの頬に落ちたひとすじの月影色の髪を払いのけ、注意してその体を船尾の船縁へもたれかけさせた。
そして中央の座板に腰を下ろすと櫂を握り、朝日が昇る海を見ながら後方へ――一時停船しているフォルセティ号に向かって漕ぎ出した。