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【10】 呼び声

「嫌な風だな。まるで我々を嘲笑っているようだ」

 甲板に戻ったアドビスは、船尾楼から後方の暗い空と海を睨み付けた。

少し前。リュイーシャと会う前に手櫛で軽く整えた髪が、誰かに持ち上げられるように風でくしゃくしゃに乱されたので、余計そう思ってしまったのかもしれない。

 月は雲に隠れ姿を消してしまっているが闇夜ではなかった。けれどまるで灰色の衣で覆ったように空が薄ら明るいので、夜でもくっきりと水平線が見える。

 その境目は自ら朧げな光を放っており、この世界のどこにあるのか知らないが、船乗り達が密やかに恐れる『果ての海』のように、此岸と彼岸を隔てているようであった。

「風もですが……波も随分高くなってきやした。夜明け前みたいに明るくて、薄気味悪い夜ですぜ。グラヴェール艦長」

 船尾で舵輪を握る四十前の男が、相槌をうちながらアドビスの言葉に答えた。頭のてっぺんが少し薄くなりはじめた茶色の髪を一つにひっつめ、黙々と船を操っている航海長ウェッジである。

 後部甲板は吹きさらしなので、船縁はぶつかってきた波が激しい波飛沫を絶え間なくあげている。少しでも気を抜けば、それはこのフォルセティ号をあっという間に横倒しにしてしまうだろう。そんな波と一人で格闘する航海長の舵さばきと、舵輪を握り続ける彼自身の体力にはとにかく驚嘆させられる。

 アドビスはウェッジに声をかけた。

「航海長。操舵手たちの姿が見えないがどうした?」

 通常舵輪はウェッジ航海長の部下である操舵手が二人一組で操作する。アドビスが命じた針路に正しく向かっているか、彼等のそばについて、的確な指示を出すのが航海長本来の役割である。

 ウェッジ航海長は申し訳なさそうに顔を歪めた。

「下に降りて防水外套を着るように命じています。本格的に嵐になったら、そんなもの着る暇なんてありゃしませんからね」

 航海長の黒い年季の入った上着は波飛沫を被ったせいでぐっしょりと濡れている。勿論アドビスの背中にも、容赦なく弾けた波が雨のように降り注いていた。

「艦長。あなたも外套を着た方がいい。南の海だっていうのに、今宵の海水は刺すみたいに冷たいですぜ」

 アドビスは目を細めながらうなずいた。

 ウェッジの言う通り、ここはエルシーア海より遥かに南下したリュニスとの領海の境だが、北の海のようにしんしんとした冷たさを感じる。

 海の色さえもアドビスが纏う軍服のように冷ややかで黒に近い紺碧――。

 今まで生きてきた二十四年間で、おそらく陸にいる時間より航海に出ていた方が長いアドビスでも、このような海の色をした海域に訪れたのは初めてのことだった。

人を寄せつけまいとするような、そんな厳しさに満ちた海を見つめていると、子供の頃読んだ神話の本を思いだした。

 そこにはこの世界の海のどこかにある、海神・青の女王の作った『水晶の塔』のことが書かれていた。不慮の事故で海に飲まれ死んだ者は海神の手に抱かれて、恐れや悲しみといった負の感情を奪われる。それらを自らの身に取り込んだ海神は、『水晶の塔』に籠り、負の感情を海に溢れさせる事なく浄化するのだという。

 其れ故『水晶の塔』がある海は、例えようのない深い悲しみに満ちた色をしているというのだが。

 まさか――。

 アドビスは船縁を超えて降ってきた波飛沫に目をしばたいた。

 不意に月影色の髪を波濤のように広げ、レナンディ号の甲板に座り込んでいたリュイーシャの姿が脳裏に浮かび上がった。

自分を見上げる青とも緑ともいえない彼女の瞳には、この海のように深く深く沈みこませた『何か』があった。

 例えるなら――まるでこの世のすべての悲しみを、自らの内に閉じ込めてしまったような。




「艦長。二十一時の速度調査の結果が出ました。十四ノルンです」

 アドビスは風に乗って響いた副長の声にはっとした。

振り返るとウェッジ航海長の隣には、黒髪の海軍士官が立っていた。

 アドビスより四つ年長で、フォルセティ号の副長を務めるシュバルツだった。

 寡黙で重厚な雰囲気が漂うアドビスとは対照的に、副長のシュバルツは年相応の快活さと上流階級出身故に、優雅な雰囲気をもつ青年である。

「十四ノルンか。速度が出ているのは嫌いじゃないが、追波おいなみに気をつけた方がいいな」

「はい」

 アドビスはシュバルツを一瞥すると、金の眉をしかめ再び後方の海を見つめた。

 波は比較的緩やかな周期でフォルセティ号の後ろから追いかけてくる。この波の速さと船の速度がほぼ等しくなると、船は波に乗り舵がきかなくなる。そして操船不能状態に陥り急旋回を始める。急旋回した船は大きな遠心力が働き、そのせいで最悪転覆してしまうのである。

 荒天時に起きやすい現象――追波。

 それを回避する有効で簡単な方法は、まず船の速度を落とす事である。

 波が船を追い越していれば、追波の状態にはならない。

 嵐はまもなくフォルセティ号の所までやってくる。

 それを予告するように、ひやりとした風がアドビスの頬を撫でて通り過ぎていった。


 ――一体なにをたくらんでいる?

    風よ。


 アドビスは乱れた前髪を後ろにかき上げた。

 どうも気に食わない。早くこの海域から立ち去りたいものだ。

 空と海を睨み付けていたアドビスは、ふと甲板に視線を向けた。自身につけられた渾名のように、猛禽の類いを思わせるようにその横顔は険しくなった。

縮帆しゅくはんを命じたのか?」

 アドビスの隣に立つシュバルツは、風で舞い上がる外套の袂を手で押さえながらうなずいた。

「速度が出過ぎていると思いましたので、メインマストの一番と二番の帆を縮帆させています」

シュバルツの報告にアドビスは三本あるマストの真ん中――メインマストに視線を向けた。そこには四角い横帆が四枚すべて展帆してあった。

 シュバルツの言う通り、てっぺんから一番目(天の帆)、二番目(月の帆)は畳まれて、横に張り出した帆桁に等間隔に並んだ水兵達が、それらをロープで荒天用の結び方で固定させている所だった。アドビスは手びさしして乱れる髪を押さえながら、危険な高所で黙々と帆を巻き付けていく水兵達を見つめた。

「そうだな。大分風が強まってきた。三番(星の帆)もすぐに下ろしたほうがいいだろう。それから、荒天用の海錨も準備しておいてくれ。今夜は荒れそうだ」

「は……」

 シュバルツが了解したという風に頷いた。

 しかし次の瞬間、何か気掛かりがあるかのように、シュバルツは漆黒の眉をひそめた。

「どうした?」

 アドビスが声をかけると、シュバルツは額に貼り付いてきた髪を払いのけながら口を開いた。

「いえ。ちょっと、先に行かせたレナンディ号のことを考えていました」

「心配か」

「それは……まあ。あの船には操船できる必要最小限の水兵しか乗せていませんし、捕らえた海賊シグルスも乗っていますから」

 アドビスは淡々と語るシュバルツの青白い顔を見つめた。

 心配しているといいながらも、視線をさりげなく逸らしたシュバルツの表情にはそんな気配がないように見えた。

「シュバルツ。お前の気にしている事はレナンディ号のことではあるまい?」

 強まってきた風に金色の髪をなびかせながらアドビスはつぶやいた。

 シュバルツが薄い唇を噛み締める。

 副長は黙ったままアドビスの問いに答えようとしなかった。

 そんな彼の様子にアドビスは内心肩をすくめ嘆息していた。

 また始まったというわけだ。

 気難しい副長殿の『だんまり』が。



 大柄で背が高いアドビスは、自然とシュバルツを見下ろすことになる。それが時には威圧感を与えてしまうのか、アドビスは艦長として水兵達に尊敬されていても、士官達にはあまり好かれてはいなかった。

 穏やかな気質の二等士官ハーヴェイさえも、こちらは単に一士官である自分と、艦長であるアドビスの立場を意識しすぎるためなのだが――畏怖する故に彼はアドビスと一定の距離をとっていた。

 けれどシュバルツとアドビスには壁ともいえる隔たりがあった。

 互いにそれを口には出さないが、わざとシュバルツがアドビスを下位にみようとする態度を露骨にとることがある。

 シュバルツの方が年上だということと、彼はアスラトルの領主、アリスティド公爵とは遠縁にあたるリビエラ伯爵の嫡子で貴族だからである。

 もちろん、海軍での階級はアドビスの方が上で、軍艦に乗っている年数も遥かに長い。けれどグラヴェール家は、海軍将校を輩出する海軍一家で有名であるが貴族ではない。国王に拝謁できる身分を持っているのは、アスラトル軍港の地方司令官を務めるアドビスの父親だけで、アドビス自身は平民である。

 普通、海軍の階級と身分の逆転は起こらないように人事は選考されるが、リビエラ伯爵が息子シュバルツのために、一番功績を上げやすい船をと思って選んだのが、アドビスが艦長を務めるフォルセティ号だった。


 現にアドビスはフォルセティ号の艦長に任命されてまだ一年しか経たないが、捕まえた海賊船はすでに四十隻を超え、獲得した拿捕賞金は総額一億五千万リュールに達する見込みだ。

 先月もエルシーア海にはびこる海賊で、北のロードウェル、南のスカーヴィズと並び、第三番目の勢力を誇るノウズリー一家を壊滅させた。

 ノウズリー一家が各国の商船から奪った金銀財宝は、貨物船三隻の船倉を一杯にするほどあったので、アドビスの船に乗る二百名の乗組員たちの懐は、またしても拿捕賞金で潤ったのだった。

 標的を捕らえると、アドビスの船は翼が生えたように迅速に動き、あざやかな一斉砲撃で海賊船の動きを封じこめる。一撃で獲物を仕留める戦い方から彼の船は、海賊は元より海軍の僚船からも『エルシーアの金鷹』と呼ばれた。

 金鷹と呼ばれる由縁はアドビスの深い金色の髪からきているのだが、破格の拿捕賞金を稼いでいる皮肉も込められている。

 よって誰しもがアドビスの船に乗りたがった。金と地位と名誉を求めて。

 輝かしい栄光を求めて。

 アドビス自身も多くの海賊船を捕らえた功績が認められ、近く二十代での将官入りを果たすのではないかといわれている。アスラトルの社交界では、それがもっぱらの噂になっている。

 

  


 シュバルツはまだ黙っていた。

 アドビスは肩をそびやかし、冷ややかにつぶやいた。

「個人的な事なら無理に言わなくていい」

 シュバルツのこういうぶしつけな態度はいつものことだ。

 アドビスは踵を返した。

 気難しいシュバルツが、どこか別の船に栄転してくれる日が、早く来る事を密かに願いながら。

 それだけの功績は十分たてさせてやった。アドビスはそう思っている。

 任務を終えてアスラトルに戻ったら、きっとシュバルツは中佐あたりの官職を手に入れて、今度は大きな船の艦長になることができるだろう。



 びょうびょうと風が帆の間をぬって吹いてくる。相変わらず空は鼠色に濁り時折うっすらと青白い閃光が走っていく。それに照らされて、メインマストの一番上の帆を畳む水兵が作業にもたついている様が見えた。帆がずれたのか、風にあおらればたばたとその裾がはためいている。

「何をしているんだ。あの水兵は」

 アドビスの口から蔑みと不満のこめられた声が出た。

 このフォルセティ号は選び抜かれ熟練の水兵で構成されたいわば精鋭部隊。

 各自それを意識しているし、自分達がエルシーア海軍で一番の船乗りだという誇りも持っている。

 だからこそ海賊船を捕らえる時も迅速に船を動かす事ができるし、斬り込み戦も勇猛に敵に向かい突っ込んでいくことができるのだ。


 その時、アドビスの耳朶をシュバルツの声がうった。

「私が口出しする事ではありませんが……先日救助したリュニス人の姉妹も、レナンディ号に乗せればよかったんじゃないかと思っただけです」

「何?」

 アドビスは思わず振り返った。

 強まった風が軍服の裾を撥ね上げる。

 フォルセティ号の帆についている数多の滑車がみしみしと軋んだ。

 船腹には大きな三角波が叩き付けるようにぶつかって、その度に船は身震いするかのようにびりびりと甲板を振動させた。

 シュバルツはやはり言うのではなかった、という風に顔をしかめている。

「気に障ったのなら謝ります」

「そういうわけではない」

「けれど艦長の顔はとても険しい」

「今はそんなことを話している場合ではないからだ」

「えっ」

 アドビスは右手でシュバルツの腕を掴み、空いた左手でミズンマストの静索を強く握りしめた。

 途端。フォルセティ号の甲板が左舷側に急速に傾斜し、冷気を帯びた波が被さってきた。圧倒的な質量を伴う海水が甲板にあるものすべてを押し流さんと一気に襲ってくる。

「げほっ! くっ…!」

 なんとか波を乗り切ったフォルセティ号が、船体のバランスを水平に戻すべく今度は右舷側に傾く。

 ずぶ濡れになったシュバルツは咳き込みながら、海水が滴る頭を激しく振った。

「なんて酷い嵐だ。くそったれ」

 貴族であるシュバルツらしからぬ悪態が、海水を吐いて濡れた唇から飛び出した。

 アドビスは黙ったままシュバルツの腕を掴んで立たせた。

 貴族の息子にしてはまあ使える部類のシュバルツだが、彼は時として状況を把握することが鈍くいらいらさせられる。

 アドビスはまるで自分の声をかき消さんと叫ぶ風に負けじと声を張り上げた。

「掌帆長に荒天時の体制を水兵にとらせるよう伝えろ。メインの一番と三番の帆をさっさと畳むよう、応援にユーギルの班を回せ。開口部は閉鎖し、ハーヴェイに荒天用の海錨を船尾に持ってくるように言ってくれ。わかったな、シュバルツ!」



 ◇◇◇



「姉さま……リュイーシャ姉様」

 リオーネの声が薄暗い船室の中で心細そうに響いた。

「何? リオーネ。私はそばにいるわ」

 船の揺れに合わせて左右に振られるハンモックの中で、リュイーシャは返事をした。

「風が『さみしい』って――哭いてる」

「……そうね。私も聞こえるわ」

 リュイーシャは手を伸ばして上掛けから出たリオーネの小さなそれを握りしめた。窓から差し込む薄明かりが、リオーネの顔色をいつもよりずっと青白く病的にさせている。

「お船もすごく揺れてる」

「そうね」

「姉さまは……怖くないの? お船、時々海の中に突っ込んでいるみたい」

 その時フォルセティ号が不意に誰かに持ち上げられ、ぱっと手を離したかのように落下するのをリュイーシャは感じた。

 海に船が叩き付けられたのか、地響きのような振動が波のように船室を襲ってきた。

 同時に板が割れるような高い音。がしゃんがしゃんと積荷がぶつかりあう音。何か動物がうなり声をあげるように、遠く引っ張るような重々しい音。

 それは嵐に立ち向かうフォルセティ号が漏らした苦悶の呻きのようであった。

 リュイーシャはリオーネのハンモックをつかみ、激しい横揺れで振り落とされまいと必死にしがみついた。

「姉さま! 姉さま!」

「大丈夫。じっとして」

 けれど船の揺れは収まるどころか一層ひどくなり、まるで袋の中に閉じ込められて上下左右に激しく振られているようだった。

 リュイーシャは気分が悪くなった。目の前に星がちらつく。

 そこで足を床に伸ばし、船の揺れにあわせてハンモックから降りた。リオーネのハンモックにしがみつくようにしてすがりながら、「さ、リオーネ。あなたも降りて」と声をかける。

 妹はリュイーシャの首筋に腕を回して、暴れ馬のように揺れるハンモックから無事に降りた。けれどフォルセティ号の揺れは収まらない。

「嫌な嵐。青の女王様の救いを願いながら、この世に残した想いが強すぎていつまでも浄化されない哀れな魂――」

 リュイーシャはリオーネの頭に腕を抱え、船室の片隅にうずくまった。

「やだ……私達を呼んでない? この風」

 がちがちと歯を鳴らしてリオーネがつぶやいた。やわらかな白金の髪が寝汗に濡れた白い額にいく筋も貼り付いている。

「風が言ってる。迎えに来たって。連れていくって」

「リオーネ」

 リュイーシャはリオーネが身じろぎをしたので、頭を抱える腕から力を抜いた。妹は風を操る力はもたない。けれど、リュイーシャ以上に風が伝える意思を聞く力を持っている。

「そんな。嫌、嫌よ」

 体を震わせていたリオーネが不意に大きな叫び声を上げた。

 リュイーシャも自分の胸を打つ鼓動が一瞬止まったかのように、目の前の薄闇をじっと見つめた。



 ――連れていくよ。

  みんな連れていくよ。

  こわがることはない。

  そんな木の棺から飛び出して、私と共に空を駈けよう。

  苦しいのは一瞬だけ。

  そのあとは私が連れていってあげる。

  光り輝く自由な世界へ。



 轟音と共に空を青白い閃光が走った。

 窓に激しく波がぶつかり硝子がびりびりと震えた。

 フォルセティ号が再び大きく上に持ち上げられる。高く高く持ち上げられる。

 稲光の空と、青く灰色の混じった海の位置が逆転した。

 ドン。

 ドン。

「リオーネ。私にしっかりつかまっていて」

 リュイーシャはリオーネの頭をぐっと抱え込んだ。

 青く無気味に光る空には、からからと笑い声をあげる悪霊達が何体も白い霧のような姿をまとって飛び回っていた。

 彼等が吐き出す魔詩まがうたと作り出す風のせいで、海には大きな波の柱が何本もそびえている。 フォルセティ号もまた、巨大な波柱のてっぺんまで持ち上げられていた。

「姉……さま」

 それを見たリオーネが絶句する。

 みしみしと船室が軋む。部屋が徐々に前方へ傾いていく。

 巨大な波柱のてっぺんまで持ち上げられたフォルセティ号が、今度は一気に波の谷間めがけ、海面めがけ滑り落ちていこうとしているのだ。

 突如部屋の床が垂直の壁のように傾いた。

「きゃあああ!」

 リュイーシャとリオーネは抱き合ったまま床を転がった。

 そして出入口の扉に押し付けられるようにしてぶつかった。衝撃に息が詰まり、意識が遠のきかけた時、硝子が砕ける音がして一気に青白い海水が部屋の中になだれこんできた。



 ――連れていこう。

  海の中は冷たくて寂しいから。

  だから、私達と一緒においで。


 からからと風の笑う声が聞こえる。


 リュイーシャはリオーネを抱えたまま、必死で部屋の扉を叩き続けた。

 ここを出なければ溺れてしまう。

 フォルセティ号が波に飲まれたということはわかっていた。かの船は舳先を下にしたまま海底に向かって一直線に沈んでいこうとしている。

 その時、誰かが腕を引っ張った。

 暗い闇の中で、リオーネの青白い顔がかろうじてみえた。

『姉さま、上を見て』

 そう呼びかけてきた妹の心の声に、リュイーシャははたと我に返った。

 そう。この海水は船尾の窓が割れて入ってきたものだ。

 リュイーシャはうなずいて、リオーネの手を握りしめて上にと泳ぎ出した。

 けれど夜の海は身も凍るような冷たさと漆黒の闇に覆われていた。

 何も見えない。

 リュイーシャは何度も何度も水を掻いたが、何故だか一向に上に向かってあがっているという感覚がしないことに不安を覚えた。

 まるで誰かがリュイーシャの足を掴んで下に引っ張っているようだ。

 上にいくどころか、反対にずるずると下へ下へと引っ張られる。

 一体、誰が。

 焦ったリュイーシャの耳に声が聞こえた。

 悪霊と成り果てた者達の乾いた声が。



 ――どこにいく?

  悲しみの淵に溺れし哀れな娘よ。

  そなたの抱える悲しみは深すぎて、もはや浮かび上がる事は叶わぬ。

  もう少しの辛抱だ。

  そうすれば私達が連れていく。

  そなたの大切なものたちと一緒に。

  自由で悲しみのない世界へ。

   


 リュイーシャは唇を噛みしめた。

 私のせいだというの?

 私の抱える悲しみ、嘆きのせいで、お前達は惹かれてやってきたというの?

 そしてアドビス様の船を沈めたというの――?



 熱い憤りがリュイーシャの胸の奥から湧き上がった。

 高ぶる感情と呼応するかのように、右手に帯びた海神の指輪が青白い光を放つ。

 突如、リュイーシャの体を取り囲むように気流が発生した。

 上へ。

 気流はやがて巨大な水の竜巻となり、フォルセティ号を瞬く間に包み込んだ。


 ――青の女王さま。

  あなたが今私の魂を望まれるのならどうぞお召し下さい。

  けれど……。


 気流の中心でリュイーシャは、青い閃光を放つ指輪をはめた右手を高々と差し上げた。

 胸にただ一つの思いを抱いて。


 

 ――けれど、私の大切な人達は守ってみせます。



 水の竜となった竜巻はリュイーシャにまとわりついていた悪霊を巻き込み、フォルセティ号を海面へと一気に押し上げる。

 これで大丈夫だ。船は風の力に乗って浮き上がるはず。

 リュイーシャは風を操りながら、その光景をじっと海の中から見つめていた。

 一片の光も射さなかった暗き海面に、今はぼんやりとした淡い光が満ちている。

 ――こちらにおいで。

 リュイーシャを招くように、いく筋もの光が海の中に差し込んでいる。

 光はとても温かく、呼び掛ける声は潮騒が混じった母の声に似ていた。

 リュイーシャの体は自然とその光に導かれるまま、上へと上がっていった。

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