最後のセーブポイント
その古い家庭用ゲーム機を押し入れの奥から見つけたのは、祖母の遺品整理をしていた時だった。埃をかぶった灰色の本体には、見覚えのないタイトルのカートリッジが差し込まれたままになっていた。『ふたたびの村』——そう書かれたラベルは、色褪せて半分読めなくなっている。
母に聞いても、「そんなゲーム、見たことないけど」と首をかしげるだけだった。祖母がゲームをする姿など、僕は一度も見たことがない。編み物と、庭の手入れと、縁側でお茶を飲むことだけが、僕の知る祖母のすべてだった。
それでも僕は、なんとなく、それを実家に持ち帰った。動くかどうかもわからなかったが、電源を入れると、ブラウン管のテレビに懐かしいドット絵のタイトル画面が浮かび上がった。カチ、と小さな音を立てて、画面が切り替わる。
主人公は名前も語られない少年で、舞台は小さな村。特別な魔法も、壮大な敵も出てこない。できることといえば、村人と話し、畑を耕し、川で釣りをし、季節が巡るのを眺めることだけだった。戦闘もなければ、明確なエンディングもないらしい。
最初の画面には、ただ一行、こう書かれていた。
【ゆっくりと、あるいてください。】
村には十数人の住人がいた。パン屋の夫婦、畑仕事をする老人、井戸端で洗濯をする女たち。誰もが同じような、素朴なドット絵の顔をしていたが、話しかけるたびに違う言葉を返してきた。
不思議なのは、そのセリフだった。
「今日は洗濯物がよく乾くね」
「息子はまだ帰ってこないのか」
「あんたの母さんは、昔ここで魚を釣っていたよ」
どこかで聞いたことのある言い回しばかりだった。まるで、祖母の口癖そのままのような。
僕は村はずれの井戸のそばで、一人の老婆に話しかけた。彼女は顔を上げてこう言った。
「よく来たね。あんたが来るのを、ずっと待っていた」
画面の向こうの老婆のドット絵が、一瞬だけ、祖母の笑い方に似た角度で口元を歪めた気がした。気のせいだと思おうとしたが、手が震えて、しばらくコントローラーを置けなかった。
その夜、僕は眠れないまま、押し入れの奥にあった祖母の古い手帳を思い出していた。表紙に何も書かれていない、ただの大学ノートのようなもの。中を見る勇気は、まだなかった。
それから毎晩、少しずつゲームを進めた。急ぐ理由などどこにもない。畑に種を蒔き、収穫を待ち、村の祭りの支度を手伝う。誰かを倒す必要も、世界を救う必要もない。ただ、村の一年が過ぎていくのを、隣で見ているだけでよかった。
春には、パン屋の夫婦が子どもを授かった話をしてくれた。夏には、川で釣った魚を老人と一緒に焼いて食べた。秋の収穫祭では、村中の住人が広場に集まり、誰が言うでもなく同じ歌を口ずさんだ。歌詞のない、ただのメロディだった。それなのに、なぜか僕はその旋律を知っている気がした。
冬になると、井戸端の老婆は編み物をするようになった。手を止めて、僕にこう尋ねた。
「あんた、寒くないかい。マフラー、編んであげようか」
僕は「はい」を選んだ。数日後、少年のキャラクターは、赤いマフラーを巻いていた。ただのドット絵の変化のはずなのに、目の奥が熱くなった。
押し入れの手帳を、ようやく開いてみた。日付だけが並ぶページの合間に、時折短い言葉が挟まっていた。「今日は孫の顔が見たかった」「マフラーの色、気に入ってくれるといいけれど」。震える文字だった。
三ヶ月ほど経ったある日、井戸のそばの老婆が言った。
「そろそろ、あんたの村に帰る時間だね」
「まだ、何も終わっていないのに」
「終わらせるためのゲームじゃないんだよ、これは」
老婆は編みかけのマフラーを膝に置いて、ゆっくりと立ち上がった。
「畑はまた誰かが耕す。川の魚はまた誰かが釣る。祭りの歌はまた誰かが歌う。それでいいんだよ。あんたがここにいた時間は、ちゃんと村に残っていくから」
老婆はそう言うと、ゆっくりと画面の奥へ歩いていった。エンドロールは流れなかった。代わりに、セーブを促す簡素な画面が表示されただけだった。
【セーブしますか? はい いいえ】
僕は「はい」を選んだ。
電源を切ってからも、しばらくテレビの前から動けなかった。窓の外では、もう夜が明けかけている。
僕は手帳の最後のページを開いた。そこには、震える字でこう書かれていた。
「もしいつか、この続きを誰かが遊んでくれたら。急がなくていいよ。終わらせなくてもいいよ。ただ、村を歩いてくれるだけで、私はうれしい」
テレビの電源ランプが、静かに消えていく。僕はもう一度、本体に手を伸ばした。
あの村に、また明日も種を蒔きに行こう。急がなくていい。終わらせなくていい。ただ、続けていけばいいのだと、誰かがずっと前に、そう教えてくれた気がした。
カチ、と小さな音を立てて、画面がまた立ち上がる。
【ゆっくりと、あるいてください。】




