転生令嬢は空気が読めないので、貴族の嫌味を全部ほめ言葉として受け取りました
「まあ、ベルフォード公爵令嬢。ずいぶん素朴なお召し物ですこと」
王妃主催のお茶会で、ランベルト侯爵令嬢ヴィオラはそう言った。
その場にいた令嬢たちの手が、ほとんど同時に止まった。ティーカップを持ち上げかけた者も、砂糖を落としかけた者も、わずかに目を伏せている。
今季の王都では、南方から運ばれてきた薄手の絹に銀糸をふんだんに縫い込んだドレスが流行していた。対してリリアーナが着ているのは、北方にあるベルフォード領で織られた淡い青の毛織物だ。装飾も少なく、腰元に白い飾り紐があるくらいである。
つまりヴィオラは、田舎くさい、と言ったのだ。
少なくとも、その場にいたリリアーナ以外の全員はそう理解した。
「ありがとう、ヴィオラ様!」
リリアーナは顔を輝かせた。
「これ、うちの領地で織っている布なの。見た目は地味だけど、軽くて暖かいのよ。王都はもう春だから少し暑いかなって心配してたんだけど、素朴で素敵って思ってもらえてよかったわ」
ヴィオラの笑顔が固まった。
「……ええ。でも、そういう意味では……」
「ヴィオラ様ほどお洒落な方に褒めてもらえたって知ったら、織工のみんなも喜ぶわ。帰ったら手紙を書かなくちゃ」
「お待ちになって」
「なあに?」
ヴィオラは口を開いた。
そのまま、何も言わず閉じた。
ここで「褒めていない」と言えば、自分は公衆の面前で王太子の婚約者を馬鹿にしましたと告白するようなものだ。さすがは王都でも名高い侯爵令嬢である。そこまで考えるのに一秒もかからなかったらしい。
「……お気に召しているなら、何よりですわ」
「ええ。とっても!」
リリアーナはますます嬉しくなった。
前世の記憶を取り戻して十年になるが、貴族社会にはいまだによく分からないことが多い。その最たるものが会話だった。
日本にいた頃だって、人間関係の機微に聡い方ではなかったと思う。それでも、「その服かわいいね」と言われれば褒められたのだと受け取っていたし、「今度ご飯に行こう」と誘われれば空いている日を考えた。
ところが、こちらの貴族は違う。
褒めながらけなし、心配しながら笑い、笑いながら怒る。
言葉と本心が別々の馬車に乗って走っているようで、追いかけるだけで疲れるのだ。
なら、言葉の方を信じればいい。
そう決めてから、リリアーナの社交はずいぶん楽になっていた。
「ところでリリアーナ様は、本当にお勉強がお好きなのね」
しばらくして、ヴィオラが再び話しかけてきた。
「先日の夜会でも、財務卿とずいぶん長くお話ししていらしたとか。殿方というものは、難しいお話ばかりでは退屈なさるのではなくて?」
周囲の令嬢たちが、ほんの少しだけ身を乗り出した。
今度こそ。
なぜかそんな期待を感じる。
リリアーナは素直に感心した。ヴィオラは自分より一つ年上なだけなのに、他人の婚約者が退屈していないかまで気にかけてくれるらしい。
「心配してくださってありがとう。でも大丈夫よ。レオンハルト殿下は私よりずっと物知りだから、お話ししていて楽しいの」
「まあ」
「昨日なんて、北部の街道税について一時間くらい話してしまって。私は途中で数字が分からなくなったけど、殿下が紙に書いて教えてくださったのよ」
「それはそれは……仲睦まじいことで」
「そうなの!」
ちょうどそのとき、背後から低い声がした。
「何の話だ?」
王太子レオンハルトだった。
若い令嬢ばかりの卓にわざわざ入り込む趣味はないはずなので、王妃に何か言いつけられて近くを通ったのだろう。
リリアーナはためらいなく答えた。
「ヴィオラ様が、私が難しい話ばかりすると殿下が退屈なさらないか心配してくださったの」
レオンハルトは一度、ヴィオラを見た。
その視線がなぜか妙に長い。
「心配には及ばない。街道税の話は僕から振った。リリアーナは領地の実情を知っているから、話していて助かる」
「ほら」
リリアーナが笑うと、ヴィオラも微笑んだ。
「それはようございましたわ」
完璧な微笑だった。
ただ、ティーカップを置く音だけが少し大きかった。
その日のお茶会は、リリアーナにとってかなり楽しいものになった。
ただし、翌週になって妙なことが起きた。
王都でも指折りの仕立屋から、ベルフォード領の布を仕入れたいという問い合わせが来たのである。それも一軒や二軒ではない。
領地にいる父から届いた手紙には、大きな字で『お前はいったい王都で何をした』と書かれていた。
何もしていない、と返事を書こうとして、リリアーナは思い直した。
『ランベルト侯爵令嬢が布を褒めてくださったの。それを聞いた皆様が興味を持ってくださったみたい』
数日後、父からまた手紙が届いた。
『侯爵家には礼状を出した。織工たちが泣いて喜んでいる。お前も礼を言っておけ』
なるほど。
父の言う通りである。
だから次にヴィオラと会ったとき、リリアーナは真っ先に彼女のところへ向かった。
「ヴィオラ様、この前はありがとう!」
「……何のお話?」
「領地の布よ。おかげで王都のお店から注文が入ったの」
「わたくしのおかげ?」
「ええ。お父様も感謝していたわ。侯爵家にもお手紙を送ったって」
ヴィオラはしばらく何も言わなかった。
その日の彼女は、目元の化粧がいつもより少し濃かった。
それからというもの、なぜかヴィオラは以前にも増してリリアーナへ声をかけるようになった。
「北方育ちだけあって、リリアーナ様は本当に逞しくていらっしゃるわね」
「そうなの。雪が腰まで積もることもあるのよ」
「まあ。大変ですこと」
「子どもの頃は使用人のみんなと雪かきしてたわ。放っておくと馬車が出せないもの」
ヴィオラは扇の向こうで瞬きをした。
「……公爵令嬢が、雪かきを?」
「楽しいわよ。最初の十分くらいは」
近くにいた令嬢が吹き出した。
そのまま話は北方の冬へ移った。
雪で屋根が潰れる家があること。道が閉ざされて薬が届かない村があること。春先になると雪解け水で川があふれること。
王都育ちの令嬢たちは、初めこそ珍しい旅行話のように聞いていたが、やがて顔つきを変えた。
「それでは、冬の間ずっと困っている村もありますの?」
「あるわ。だから今年は領都に大きな倉庫を作れないかって、お父様たちが話してるの。秋のうちに薬や穀物を置いておけば、少しは安心でしょう?」
母親が慈善会の役員をしているという令嬢が、詳しい話を聞きたがった。
別の令嬢は、屋敷に余っている毛布を寄付できないかと言い始めた。
その日の帰り際、リリアーナは嬉しくなってヴィオラの手を取った。
「ありがとう!」
「……今度は何ですの」
「ヴィオラ様が北方の話をしてくださらなかったら、あんな話にならなかったわ」
「わたくしは、別に……」
「本当にありがとう」
あまりに真っ直ぐ礼を言われたせいか、ヴィオラは続きが言えなくなったらしい。
視線を逸らし、小さな声で答えた。
「……どういたしまして」
そのとき、リリアーナの胸の奥に、ごく小さな引っかかりが生まれた。
ヴィオラは、どうしてこんな顔をしているのだろう。
感謝されて困るようなことでもあるのだろうか。
けれど考えても答えは出なかった。
リリアーナは、そういうとき自分一人で深読みを重ねないことにしている。前世で、友人から届いた短いメッセージに句点がついているだけで「怒ってる?」と三十分悩み、後から聞けば相手は眠くて文章を考えるのが面倒だっただけ、ということがあった。
人の心を勝手に想像して、勝手に傷つく。
あれはあまり効率がよくない。
ところが、その引っかかりは次の昼餐会でも消えなかった。
「公爵令嬢でありながら、使用人ともずいぶん親しくなさるのね。ベルフォード家は、身分にこだわらない家風でいらっしゃるのかしら」
「ええ。みんな頼りになるもの。特にミラはすごいのよ。私が忘れることを全部覚えていてくれるの」
背後に控えていた侍女のミラが、わずかに咳払いをした。
いつもなら「お嬢様、余計なことをお話しにならないでくださいませ」という意味だ。
今日は二回続いた。
リリアーナが振り返ると、ミラはほんの少し眉尻を下げていた。
そこでようやく、一つの可能性が浮かんだ。
もしかして。
ヴィオラは、私を褒めているのではないのかもしれない。
考えてみれば、素朴な服。勉強ばかり。逞しい。使用人と親しい。
言葉そのものは悪くない。
けれど、言い方や、その場にいる人たちが一斉に静かになることまで含めれば、別の意味になる気もする。
リリアーナは少しだけ傷ついた。
自分ではヴィオラに好かれているつもりだった、とは言わない。特別仲がいいわけでもない。
ただ、わざわざ嫌われているとも思っていなかった。
人から向けられた笑顔の裏側に棘があるかもしれないと知るのは、思ったより気分のいいものではない。
それでもリリアーナはヴィオラへ笑い返した。
「身分は大事よ。でも、毎日いちばん近くで助けてくれる人に威張る必要はないでしょう?」
「……そう」
「それにね、ミラは王都のお菓子屋さんにすごく詳しいの。今度ヴィオラ様にもおすすめを教えてあげて」
「わたくしが?」
「甘いもの、お好きでしょう?」
「どうしてご存じなの」
「この前のお茶会で、木苺のタルトだけ二つ召し上がってたから」
ヴィオラの頬がほんのり赤くなった。
周囲から小さな笑い声が漏れる。
リリアーナは慌てた。
「あ、ごめんなさい。言わない方がよかった?」
「……いいえ」
ヴィオラは扇で顔を隠した。
「別に、構いませんわ」
その日からしばらく、ヴィオラはリリアーナへ話しかけてこなかった。
代わりに妙な噂が流れ始めた。
曰く、ランベルト侯爵令嬢はベルフォード公爵令嬢をたいそう評価しているらしい。
流行に流されず領地の産業を大切にする姿勢を褒め、学問への熱心さを認め、北方の苦境を社交界へ広め、使用人を大切にする人柄にまで目を配っている、と。
最初にその話を聞いたとき、リリアーナは感心した。
「やっぱりヴィオラ様って優しい方だったのね」
ミラが何とも言えない顔をした。
「お嬢様」
「なあに?」
「いいえ。何でもございません」
「変なの」
そのころになると、リリアーナはヴィオラの言葉に別の意味が含まれているらしいことを、ほぼ確信していた。
それでも、今まで通り受け取ることにした。
素朴だと言われれば、素朴なのは本当だ。
勉強好きだと言われれば、勉強が好きなのも本当だ。
逞しいと言われても別に困らない。雪かきで鍛えた腕力には少し自信がある。
だったら、わざわざ嫌な意味を拾い上げなくてもいい。
言われた言葉の中に嬉しく受け取れる部分があるなら、そこだけもらっておけばいいではないか。
何より、その方が楽だった。
けれど、それをヴィオラ本人に伝える機会はなかった。
初夏、王宮で園遊会が開かれた。
王族だけでなく、高位貴族や外国の使節まで招かれる大きな催しだった。庭園には白い卓がいくつも並び、色とりどりの花の向こうでは楽団が演奏している。
リリアーナは久しぶりにベルフォード領の布ではないドレスを着ていた。
薄い若草色の絹に、小さな白花の刺繍が散っている。王都の仕立屋が作ったものだが、刺繍糸だけは北方産だった。
気に入っている。
だからヴィオラが近づいてきたときも、今日はどこを褒めてくれるのだろうと少しだけ楽しみにしていた。
「ごきげんよう、リリアーナ様」
「ごきげんよう、ヴィオラ様」
以前より、ヴィオラの笑顔は硬くなっていた。
その周りには数人の令嬢がいた。
レオンハルトも少し離れたところで、他国の使節と話している。
「今日はずいぶん王都らしいお召し物ですのね」
「ええ。仕立屋さんが頑張ってくださったの」
「ようやく、ご自分のお立場を理解なさったのかと思いましたわ」
リリアーナは首を傾げた。
これは少し難しい。
けれど、王太子の婚約者らしい服装になったという意味だろうか。
「ありがとう。前のドレスも好きだけど、これも気に入ってるの」
周囲から、ごく小さなため息が聞こえた。
ヴィオラの指が、扇の柄をきつく握った。
「あなたは、いつもそうですのね」
「そう?」
「何を言われても笑っていらして。本当に、お幸せな方」
「ありがとう」
ヴィオラの眉が動いた。
今のは少し違ったかもしれない、とリリアーナは思った。
でも「幸せな方」と言われて腹を立てるのも変なので、とりあえず受け取っておく。
それがいけなかったのかもしれない。
「本当に、羨ましい限りですわ」
ヴィオラの声が一段低くなった。
「周囲の方々がどれだけ気を遣っていらしても、ご本人だけは何もお気づきにならない。ご自分がどれほど場違いでも、どれほど恥をさらしていても」
空気が変わった。
今までのものとは違う。
言葉のどこを探しても、嬉しい意味が見つからなかった。
ヴィオラも止まらなかった。
「王太子妃になられる方がそれでよろしいのかしら。殿下もさぞお困りでしょうね。あなたのような方を妻になさらなければならないなんて、本当にお気の毒ですわ」
誰も笑わなかった。
遠くでは音楽が続いているのに、この一角だけ切り離されたように静かになった。
リリアーナもすぐには答えられなかった。
ヴィオラの顔を見る。
白い頬が少し強張っている。
怒っている。
傷ついている。
たぶん、ずっと前から。
そこでようやく、リリアーナは小さく息を吐いた。
「……ああ」
ヴィオラの目が細くなる。
「何ですの」
「これは、さすがに嫌味なのね」
誰かが息を呑んだ。
ヴィオラは、しばらく何も言わなかった。
それから信じられないものを見るようにリリアーナを見た。
「今さら、何をおっしゃっているの?」
「ごめんなさい。私、本当にこういう言い方が苦手なの」
「苦手?」
「最初の頃は、本当に分かってなかったのよ」
ヴィオラの表情が止まった。
「……最初の頃?」
しまった、とリリアーナは思った。
そこは黙っていた方がよかったかもしれない。
けれど、もう言ってしまったので仕方がない。
「ドレスを素朴だと言われたときは、素朴なのは本当だから。勉強が好きなのも本当だし、北方育ちで逞しいのも間違ってないでしょう?」
「では……」
ヴィオラの声が震えた。
「あれほど何度も、わたくしがあなたを馬鹿にしていたのに」
周囲がざわめいた。
今、本人が言った。
リリアーナはそれに気づいたが、もう話を止められる雰囲気でもなかった。
「何も分かっていなかったと?」
「ううん」
「え?」
「三回目くらいからは、もしかして私、嫌われているのかなって思ってた」
ヴィオラは完全に黙った。
周囲も黙った。
少し離れた場所にいたレオンハルトまで、いつの間にかこちらを見ている。
「だったら」
ヴィオラがようやく声を絞り出した。
「だったら、なぜ……」
「なぜ?」
「なぜ、あんなふうに笑っていたのよ!」
初めて聞く、飾りのない声だった。
侯爵令嬢らしい優雅さも、社交界で身につけた柔らかな言い回しもない。ただ悔しそうな、十八歳の少女の声だった。
リリアーナは少し考えた。
これは、ちゃんと答えなければいけない気がした。
「だって、嫌味だと思って受け取ったら、私まで嫌な気持ちになるでしょう?」
「……何ですって?」
「同じ言葉なら、できるだけ嬉しい意味で受け取った方が、私は楽しいもの」
ヴィオラが理解できないという顔をする。
無理もない。
リリアーナだって、これが正しい方法だとは思っていない。ただ、自分にはこれが合っているだけだ。
「最初は分からなかったの。でも、途中からは何となく分かってた。ヴィオラ様、私のことがあんまり好きじゃないんだなって」
「だったら、普通は怒るでしょう」
「ちょっとは傷ついたわ」
「……え?」
「傷ついてないわけじゃないのよ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
こんなに大勢の前でする話ではない。
でもヴィオラの顔から、さっきまでの怒りが少し消えた。
「私だって、人から嫌われたら悲しいし、馬鹿にされたら腹も立つわ。でも、ヴィオラ様が私を嫌いだからって、私までヴィオラ様を嫌いにならなきゃいけないわけじゃないでしょう?」
ヴィオラが何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
リリアーナは続けた。
「それに、褒め言葉だと思って聞いたら、本当にいいこともあったのよ。領地の布が売れたし、北方に毛布を送ってくださる方も増えたし、使用人を大事にすることを変だと思わない方とも知り合えた」
「それは、わたくしが望んだことでは」
「うん。たぶんそうでしょうね」
リリアーナは笑った。
今度は、いつもの笑顔より少しだけ困ったようなものになった。
「でも、言葉って口から出たら、受け取る方にも半分くらいは自由があると思うの」
ヴィオラは黙っていた。
「だから今までは、勝手に嬉しい意味でもらってたの。ごめんなさい」
「なぜあなたが謝りますの」
「勝手に受け取ったから?」
「そこではありませんわ!」
周囲の何人かが、堪えきれずに笑った。
ヴィオラが真っ赤になる。
リリアーナもつられて笑いそうになったが、すぐに思い出した。
まだ大事なことが残っている。
「でもね、ヴィオラ様」
「……何ですの」
「さっきの言葉は、どう頑張っても嬉しい意味にはできなかったわ」
ヴィオラの顔から赤みが引いた。
「殿下がお気の毒だとか、私が恥をさらしているとか。そういうふうに言われたら、さすがに悲しい」
ヴィオラは目を伏せた。
リリアーナは怒鳴らなかった。
相手を言い負かしたいとも思わない。
ただ、それだけは伝えておきたかった。
「だから、そういうことは、人に言わない方がいいと思う」
しばらく、誰も口を開かなかった。
リリアーナは急に不安になった。
言い過ぎただろうか。
いや、でも今回ばかりは、言わないまま笑うのも違う気がする。
ヴィオラは唇を噛んでいた。
やがて顔を上げる。
「……あなたに」
「うん」
「あなたにだけは、言われたくありませんわ」
「あら」
やっぱり嫌われているらしい。
けれど、次の瞬間。
「失礼いたします」
ヴィオラは深く頭を下げ、そのまま踵を返した。
いつもの優雅な歩き方ではなかった。
逃げるようだった。
追いかけるべきか迷っていると、横から声がした。
「今は放っておいた方がいい」
レオンハルトだった。
いつから聞いていたのだろう。
できれば最初からではないことを祈りたい。
「殿下」
「少し歩こう」
園遊会はまだ続いている。
リリアーナが頷くと、レオンハルトは人の少ない池の方へ歩き始めた。
庭園の端まで来ると、音楽も人の声も少し遠くなった。
白い睡蓮が浮かぶ池のほとりで、レオンハルトが立ち止まる。
「リリアーナ」
「はい」
「本当は気づいていたのか?」
「途中からは」
レオンハルトは額に手を当てた。
「僕はてっきり、まったく分かっていないのだと」
「そんなに?」
「そんなにだ」
少し失礼である。
リリアーナが頬を膨らませると、レオンハルトが苦笑した。
「では、なぜ僕に言わなかった」
「何を?」
「嫌味を言われていたことを」
「言ってどうするの?」
「僕からランベルト侯爵家へ――」
「それは嫌」
思ったより強い声が出た。
レオンハルトが驚いたように眉を上げる。
「ヴィオラ様に嫌味を言われたくらいで、殿下が出てきたら大ごとになるでしょう。私とヴィオラ様の話なのに」
「しかし」
「それに、殿下に言いつけてやめさせたら、私、ずっと自分で嫌味に対応できないままじゃない」
レオンハルトは黙った。
しばらくしてから、小さく笑う。
「君は妙なところで逞しいな」
「それ、ヴィオラ様にも言われた」
「褒めている」
「知ってるわ」
答えてから、二人で笑った。
池の向こうを風が抜け、睡蓮の葉が揺れた。
少し間が空いてから、レオンハルトが尋ねた。
「それでも、傷ついていたんだな」
リリアーナはすぐには答えなかった。
ヴィオラに素朴だと言われた日のことを思い出す。
最初は本当に嬉しかった。
嫌味かもしれないと気づいたときは、思ったより悲しかった。
人に嫌われた事実そのものより、自分だけ知らずに喜んでいたことが恥ずかしかった。
「……うん。少し」
「そうか」
「でも、ほめ言葉だと思うことにしてたから、ずいぶん楽だったわ」
「君らしい」
レオンハルトはそう言ったあと、少しだけ真面目な顔になった。
「次からは、一人で全部ほめ言葉に直さなくていい」
「どういうこと?」
「僕にも教えてくれ」
「嫌味を?」
「違う」
レオンハルトは呆れたように息を吐いた。
「君が傷ついたことを」
リリアーナは目を瞬いた。
そして、今の言葉に別の意味があるか考えてみた。
一つも浮かばなかった。
たぶん、言葉通りなのだ。
「分かった」
そう答えると、レオンハルトは満足そうに頷いた。
それから三週間ほど、ヴィオラとは顔を合わせなかった。
社交界では当然、園遊会での出来事が噂になった。
しかもヴィオラ自身が「わたくしがあなたを馬鹿にしていた」と口にしてしまったので、言い逃れは難しかったらしい。
ただ、リリアーナはその話を聞いて回る気にはならなかった。
ヴィオラの家がどうなったとか、縁談がどうだとか、そういった話をわざわざ尋ねるのも違うと思った。
そのうち噂も別の話題に押し流された。
王都の人間は忙しい。
春の失恋より夏の新作ドレスの方が大事なのだ。
そんなある日、ベルフォード家の屋敷に一通の手紙が届いた。
差出人は、ヴィオラ・ランベルト。
リリアーナは自室で封を切った。
便箋には、たった一行しか書かれていなかった。
『先日は、申し訳ありませんでした』
何度か読み返す。
ミラが横から覗き込んだ。
「何と?」
「謝ってるみたい」
「そのようでございますね」
リリアーナは便箋を光に透かしてみた。
何も浮かばない。
裏返す。
やはり何もない。
「お嬢様?」
「ねえ、ミラ」
「はい」
「これ、何か裏の意味があるのかしら」
ミラはしばらく無言だった。
「……わたくしにお尋ねになるのでございますか」
「だって私より分かるでしょう?」
「今回は分かりません」
「そう」
リリアーナはもう一度、一行だけの手紙を眺めた。
そして机に向かう。
「じゃあ、書いてある通りに受け取ることにするわ」
返事も長くはしなかった。
『はい。分かりました。お手紙をありがとう』
書き終えたところで、ミラがため息をついた。
「お嬢様は、本当に空気がお読みになれませんね」
リリアーナはむっとして顔を上げた。
「失礼ね。最近は少しくらい読めるようになったのよ」
「左様でございますか」
「ええ」
リリアーナは胸を張った。
「今のも、褒めてくれたんでしょう?」
ミラは一拍置いた。
「嫌味でございます」
「まあ!」
今度は二人で笑った。
最後まで読んで頂きありがとうございます!
作者のペンギンの搾り汁(Tiho)です。
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