あの広間の音楽が止まったとき、誰かが笑ったらしい
金糸のシャンデリアがきらめき、百の燭が夜空を閉じ込めていた。
王都最大の舞踏会場――新年祝賀の夜。
音楽が鳴り止むと、ただ一瞬、時間も息を止めた。
「この場をもって――我は、リディア・アーデンとの婚約を解消する」
王太子エリアス・ヴォルクナーの声が、透き通るように響いた。
軽やかな笑いが一拍遅れて走る。
弦を弾く音が止まり、絹の裾が止まり、人々の目が一人の令嬢に集まった。
リディア・アーデン。
侯爵家の娘、王立学院主席、文官資格保持者。
完璧な才女――と評されてきた女。
今、彼女の名は王宮の空気の中で静かに崩れていく。
リディアは、顔を上げた。
白い肌に陰りが落ちる。けれど、瞳は凛としていた。
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
声は冷ややかで、震えを許さない。
貴族たちは息を潜めた。
王太子は、まるで用意された台詞を読むように言う。
「アーデン家が王家に背き、不正取引を行ったとの報告を受けた。
王の信を裏切る行為に、弁明の余地はない」
彼の隣に立つ女――エレナ・ハートレーが、満足げに微笑んだ。
若く美しい、侯爵家分家の娘。
ここ数ヶ月で、急速に王太子の寵を得た女。
リディアを陥れるための密告状を書いたのも、彼女である。
リディアは唇を噛み、血の味を舌で受けた。
彼女は知っている。
アーデン家の帳簿は潔白だ。
不正があるとすれば、それを捏造した者の側にある。
「証拠はございますの?」
「……監査の結果を待つまでもない。お前はすでに罪を認めぬ時点で――」
「なるほど。つまり、弁明する機会すら与えられぬのですね」
彼女の微笑みは薄く、しかし痛烈だった。
貴族たちがざわめく。
“王太子に逆らった”“令嬢が礼を失した”――そんな声が交錯する。
リディアは、スカートの裾を持ち上げ、深く一礼した。
「では、王家の御繁栄をお祈り申し上げます。
――どうか、そのお幸せが永く続きますように」
王太子が言葉を失う。
その沈黙の中、笑い声がひとつ、遠くで弾けた。
誰かが笑ったのだ。
“勝者”の笑いではなく、真実を知る者の笑いに聞こえた、と彼女は思った。
*
翌朝。
アーデン邸は静まり返っていた。
使用人の半数は夜のうちに逃げ、商会は凍結、領地への召喚状が届く。
王命によってリディアは「辺境送致」と記されていた。
庭の噴水が凍り、花々は霜に沈んでいる。
侍女のメイが震える声で言った。
「お嬢様……どうして、あんなことに……っ」
「どうして、でしょうね。
でも一つだけ確かなのは――誰も真実を見ようとしなかったこと」
リディアは、指先で霜をなぞった。
氷の下にある緑はまだ生きている。
それを誰も見ようとしないだけ。
「行き先は北境のレーン領です。……“氷の辺境伯”と呼ばれている方とか」
「面白い偶然ね。氷には、少し慣れているの」
馬車の準備が整う。
メイは涙をこらえ、主の荷物を積み込んだ。
最後に彼女が見たのは、リディアの手にある小さな封筒だった。
宛名も差出人もない。
それをリディアは暖炉に投げ入れた。
火が立ち上がる。
文字は灰になる――しかし、内容は誰かの記憶に刻まれた。
*
北へ。
雪嵐の中を三日。
馬車は黒い門の前で止まった。
高く冷たい石壁。鉄の門扉に紋章が刻まれている。
「リディア・アーデン様をお連れしました」
従者が声を張ると、門の向こうで影が動いた。
長身の男が現れる。
黒い軍服。氷のような瞳。
ヴァルター・レーン。
この領地を統べる“氷の辺境伯”。
「……王命で来たのか」
「はい。期間は未定とのことです」
男は頷き、わずかに目を細めた。
「契約を交わそう。形式上の妻として迎える。
干渉しないこと、口出ししないこと、王都の話を持ち込まぬこと。
それが条件だ」
「随分と冷たい誓約ですこと」
「氷は裏切らない」
短い返答だった。
だが、彼の言葉の奥に何かがあった。
リディアはその意味を、まだ知らない。
*
その夜。
リディアは与えられた部屋で、紙とペンを手にした。
しかし、何も書けなかった。
書けば、王都に届くかもしれない。
でも――誰が読む?
誰が信じる?
暖炉の炎が揺れる。
メイが静かに寝息を立てている。
リディアは窓を開けた。
雪が舞い込み、頬に触れる。
あの広間の笑いが、耳の奥でまだ響いていた。
あの笑いの主が誰だったのか、今も分からない。
けれど、その笑いだけが、
彼女の誇りを燃やす最後の火種のように残っていた。
――沈黙は罰ではない。
証明の始まりだ。
翌朝の館は、音が少なかった。
雪が深いせいで、世界そのものが遠くに置かれている。廊下は冷え、壁の石は湿り、扉は小さく軋んだ。
「食堂は右の翼です。暖炉は三つ。朝は中央だけが火の番に入ります」
老執事ナタルが、一定の速度で案内した。
彼の声は古い書物の紙擦れのようで、耳に痛くない。
「人手は?」
「足りません。戦の後で男手も予算も減りました。冬は特に」
食堂の扉を押すと、白い息がふわりと広がった。
長卓の端に、二人分だけ椅子が置かれている。片方は少し古く、片方は最近磨かれた跡があった。
「主は?」
「夜明け前に外へ。巡回です。戻ればここを使われます」
「……二人分、なのですね」
「はい。もう一脚は、長く空いていました」
ナタルが用意した湯気立つスープは淡く塩の匂いがした。
メイは眠そうな目を擦り、パンを割りながら小声で言う。
「お嬢様……じゃなかった、今は“奥様”ですね?」
「契約上の、よ」
「でも“奥様”と呼ぶ人、きっと他にもいます」
「なら、呼ばせておきなさい。呼び名は状況を整理する道具だもの」
匙が器に触れる音が小さく響いた。
窓の外、雪を割って一羽の小鳥が餌を探している。
生きる、という一語だけが、ここではすべての用件をまとめていた。
*
午前中、リディアは帳場に入った。
厚い革表紙の出納帳、倉庫の鍵、徴税の控え。
活字ではなく手書きの数字が、ところどころ寒さで震えている。
「これは……」
「冬季燃料費が赤に転びます。十年前の戦で森が減りましたから」
「運搬の賃銀が不自然に高いわ。三年前までは同路で半値、なのに」
ナタルが肩をすくめる。
「領内の商人が減りまして」
「減ったなら、残った者が結託して値を吊り上げる。――誰が橋を握ってる?」
「ヴォルン商会」
「王都に本店のある、あの?」
リディアは鵞ペンを取り、新しく紙を下ろした。
王都で鍛えられた書式が指に戻る。
必要な伝票、領内予算の短期更正、在庫の棚卸し……冬の間だけでも赤を黒に近づけるための工程を、静かに並べていく。
「メイ」
「はい!」
「食糧庫の出入り記録、直近三ヶ月分。あと、倉庫番の名簿と冬越し前の在庫表。数字が合っていない箇所があるはず」
「わかりました!」
メイが駆けていく。
書き始めると、体の芯が温かくなる。
言葉より先に数字が走り、数字より先に問題が姿を見せた。
扉が小さく鳴った。
振り向くと、ヴァルターが立っていた。
外套の肩に雪が乗り、髪に氷粒が絡んでいる。
「帳場に入るのか」
「はい。暇を持て余さない性質でして」
「王都のやり方は、ここでは通らない」
「王都のやり方は、問題を見える形にします。見えれば、ここでも通る」
ふたりの視線が短くぶつかった。
彼は室内を一度見回すと、暖炉の火の前に立ち止まる。
「契約の条項を確認しよう」
「ええ」
「互いの行動に干渉しない。命令しない。私生活を詮索しない。――そして、王都の者と連絡を取らない」
「最後の一つは、少し変更をお願いしたいわ」
「認めない」
「会計院の旧同僚、セドリック宛の“質問状”を一通だけ。
連絡ではなく、照会。返答は要らない。彼の机に残る記録が、こちらの防衛になる」
「……なぜ防衛が要る」
「あなたの領地は今、王都と商会の“良い餌”だから」
暖炉がパチ、と音を出した。
ヴァルターの眉間に影が寄る。
彼は短く息を吐き、言った。
「文は私が出す。内容は私が読む。――それでいいなら、一度だけ」
「感謝します」
彼は頷き、踵を返しかけて、ふと机端の紙片に目を止めた。
そこには、彼の私印と酷似した印影の写しがあった。
「それは?」
「倉庫台帳に押されていた印影の写し。……線が一本、短い」
「偽印か」
「おそらく」
彼の瞳の温度が、わずかに変わった。
氷が透明度を増すときの、静かな硬さ。
「午後、森の境まで行く。――来るか」
「もちろん」
*
森は白い毛皮のように沈黙していた。
雪を踏むたび、世界の奥へ染み込む音がする。
護衛を連れず、ヴァルターは先に立つ。
彼は景色の一部のようで、言葉が少ないのに、道に迷わない。
「ここが境だ」
木々が切れる。
峡谷の風が顔を刺し、吐く息がすぐに薄くなる。
崖下に見える細い道を、黒い荷車が二台、慎重に動いていた。
「定時の薪運搬にしては多いわ」
「多い」
「どこから来て、どこへ行く?」
「森の向こうから来て、領外へ」
ヴァルターは短く口角を動かした。それは笑いではなく、戦場の合図のようだった。
「ヴォルン商会だろう。冬の橋を握るのは、いつも腹の太い方だ」
「帳場で数字が膨らんだ理由が見えたわ」
「証拠がいる」
「あります。――積荷の札が、偽印だから」
荷車の最後尾に結ばれた小札を、風がひるがえす。
リディアには見えた。印の線が、ほんの一息ぶん短い。
ヴァルターが彼女を見た。
それは評価でも賞賛でもない。ただの確認の視線。
彼女が場に居ることを前提とした視線だった。
「戻る。書き起こす。――『見たまま』を」
「はい」
足許で雪が鳴る。
帰路、彼はふと言った。
「王都では、いつもこうやって勝ってきたのか」
「勝ったことはありません。負けないようにしてきただけ」
「同じだ」
そこに微かな共感の温度が差した。
彼らの間にあった氷が、ひびの一本だけを許した。
*
夕刻、帳場に戻ると、机の上に封筒が置かれていた。
宛名はリディア。筆跡は、彼女自身のものに酷似している。
「私……は、書いていない」
メイが青ざめた。
「昼の間ずっとご一緒でした。誰かが置きました」
封を切ると、短い文が出てきた。
〈あなたの領主の私印は簡単に写せる。明夜、北門で〉
ヴァルターが封書を取って読み、顔色を変えないまま言う。
「わざとらしい」
「ええ。私の筆跡を真似て、あなたを北門に誘う。……次の一手は、二人を疑わせること」
「誰に」
「この館の者、領民、そして――王都」
暖炉の火がはぜる。
室内の空気が薄くなった気がした。
リディアは封筒の端をもう一度見た。
紙の質、墨の乾き、折り跡の位置――どれも、王都の記録局で使う備品と同規格。
「王都の関与が濃い」
「ヴォルン商会だけではない」
「ええ。妨害は、私に貼られた“敵の印象”を、ここにも移すつもり」
ヴァルターは窓の外を見た。
早くも夜が降り、雪が深くなる。
彼は短く指示を出す。
「北門は閉鎖。見張りは倍。――それと」
彼は机端の椅子を引き、向かい側を指した。
「座れ。夕餉はここで取る。移動の度に騒がせるな」
「命令?」
「契約の範囲内だ。……干渉ではない」
メイがぽかんと口を開け、すぐに慌てて皿を持ちに走った。
リディアは椅子に腰掛ける。向かいにヴァルターが座る。
長卓の端で、二人分の湯気が立ち上がる。
塩と麦の匂い。雪の欠片が窓に当たり、ひとつずつ溶ける音。
「あなたは、なぜ私を信じたの?」
「信じていない」
「では、なぜ照会状を許したの」
「領地を守るために合理的だった。――それだけだ」
「合理は嫌いじゃないわ」
「知っている」
彼の声は、初めて、少しだけ柔らかかった。
スプーンが皿に当たる音が、静かな会話になった。
夕餉の終わりに、ナタルが控えめに咳払いをする。
「お言葉ですが、書簡が届きました。王都会計院より。簡易便です」
ヴァルターが受け取り、封を切る。
中には一枚の写し――会計院の内部調査開始通知。
端には小さな走り書きがあった。
〈質問状、確かに受領。君の“沈黙”は記録に残っている/セドリック〉
リディアは目を伏せ、短く息を吐いた。
沈黙が、誰かの机の上で、ようやく言葉になり始めた。
*
夜更け。
廊下は冷たく、灯は薄い。
寝所へ戻る途中、リディアはふと足を止めた。
窓の外、北門の屋根に小さな影が動く。
すぐに消え、雪だけが残る。
メイが囁く。
「見張りがいます。大丈夫」
「いいえ。――今夜は、書くわ」
机に向かい、紙を広げる。
宛名は書かない。内容も告発ではない。
ただ、見たものを、見たままに記した。
印影の欠け、荷車の順序、雪の深さ、風向き、火の匂い。
物語ではなく、記録として。
書き終えると、指先が暖かくなっていた。
窓に額を寄せると、遠くの塔に灯が一つ、遅れて消えた。
そこに、言葉にならない安堵があった。
「――負けない」
小さく呟くと、紙の端がかすかに鳴いた。
夜が深く、沈む。
明日の雪は、今日より静かだろう。
雪の降り方が変わった。
細く、軽く、まるで誰かの囁きのように舞い落ちる。
グレイン館の冬は長いが、長さよりも静けさが人を削る。
その静寂を、破ったのは一通の手紙だった。
*
早朝、執事ナタルが封書の束を携えて現れた。
王都からの荷馬車が久しぶりに到着し、届け物は少ない。
しかし、その中に、リディアの筆跡によく似た手紙が混じっていた。
「……私、書いていません」
ナタルは眉を寄せた。
封を開くと、内側には淡い香料の匂いがした。
王都貴婦人が愛用する“百合香”。
〈ヴァルター殿。あなたを欺くのは忍びない。だが私は王都と繋がりがある。
真実を知られる前に離れよ〉
文の調子まで、リディアに酷似している。
だが決定的に違う――句読点の打ち方。
リディアは句点の後に必ず半角を空ける癖がある。
この文にはそれがない。
「王都の誰かが、意図的に模倣しています」
ヴァルターは封書を火にかざした。
蝋がゆっくりと溶け、偽印章の紋が歪む。
燃え上がる炎の向こうで、彼の瞳が細く光った。
「意図は二つ。――一つ、君の信用を奪う。
もう一つ、私を王都の罠に誘う」
「どちらも、効果的ですね」
「だが、私を誘うには稚拙だ」
彼は灰を指で摘み取り、静かに言う。
「北門事件の夜以降、誰かが館内に残っている。
外からではない。中からの手だ」
リディアは頷いた。
心当たりが一人だけあった。
給仕の少年レオン。王都出身で、数か月前に雇われた。
目がよく、筆の扱いも慣れている。
「確かめます」
「やめておけ。敵は単純ではない」
「放っておけば、嘘が本物になるわ」
彼女の声は静かだが、氷よりも硬い。
ヴァルターは短く息を吐いた。
「では――同行しよう」
*
厨房の裏、小さな物置。
そこにレオンはいた。
棚の上の羊皮紙を整理するふりをしていたが、
視線が二人に向いた瞬間、顔がこわばった。
「レオン。少し話があるの」
「お、お嬢様……いえ、奥様。何か」
「この手紙を見覚えがあるでしょう?」
彼の喉が小さく動いた。
沈黙。
それが肯定よりも雄弁だった。
「誰の指示?」
「……王都の商会、ヴォルンの使いです。
金をもらいました。ただの……手本の写しを作るだけだと」
ヴァルターが一歩踏み出す。
レオンが怯えて後退した。
「“だけ”で、領主の印を偽造した罪を理解しているか」
「命令です! 断れなかったんです!」
少年の目に涙が浮かぶ。
リディアは手を上げ、ヴァルターを制した。
「処罰は後で。今は――王都のどこへ送られているのか、教えて」
「……アーデン商会の旧支部。封印されてるはずの屋敷に、夜ごと荷馬車が」
それだけ言うと、少年は肩を震わせた。
リディアはヴァルターに向き直る。
「やはり、帳簿だけでなく“名義”そのものを乗っ取るつもりね」
「王都は証明を待たない。見せかけだけで判断する」
「だからこそ、証拠を見せましょう」
*
その夜。
リディアは机の上に、もう一枚の封書を広げていた。
それは彼女がかつて破った“書かれなかった手紙”。
今度は、書く。
送り先は王都会計院――セドリック宛。
〈偽造の印影、模倣筆跡、搬入経路を記す。
証拠は雪に消える前に送る〉
文を閉じ、封をする。
しかし、その封書を運ぶ馬車が翌朝、姿を消した。
*
三日後。
王都の公報が届いた。
〈アーデン家元令嬢、辺境地にて反逆書簡を作成――再審査〉
紙を読む手が、かすかに震える。
だがリディアは笑った。
「やはり、早いわね。
“届かぬ報せ”が、届くより先に歪められた」
ヴァルターは沈黙のまま彼女を見た。
そして、机の上の新しい契約書を置く。
「私と君の名で、商会の新設を許可する。
領内限定で交易権を再開する」
「それでは、王都に……」
「見えないところで動け。
沈黙していても、数字は声を持つ」
彼女の胸に火が灯る。
冷たい館に、初めて温度が戻った。
*
夜。
雪明かりが窓を照らす。
書き損じた手紙が机の端に重なる。
メイが囁く。
「お嬢様……怖くないんですか?」
「怖いわ。でも、怖いままでも書けるのよ」
彼女は新しい紙に手を伸ばす。
そこには、ただ一行。
〈誰かが笑った夜を、今度は私が記す〉
春の兆しが、雪の上で息をしていた。
風はまだ冷たいが、凍った川面の下で水が動き出している。
沈黙が少しずつ緩み、書かれなかった言葉たちが形を取り戻そうとしていた。
*
その日、王都会計院の監査官セドリック・ハールが、
辺境グレイン館へ到着した。
王都の文官らしい端正な身なり、背筋の伸びた体、
そして何よりも、真実を見抜く灰色の瞳。
「リディア・アーデン。君の名が、また王都の記録に上がった」
リディアは頷いた。
暖炉の火が、紙の匂いを和らげる。
「悪い意味で、でしょうね」
「だが、同時に一通の封書が届いた。
筆跡は君のもの。
中には帳簿の写し、偽印の図、運搬経路の記録。
すべてが、正確だった」
リディアは静かに息を呑んだ。
――消えたはずの封書が、届いた。
「どうやって……?」
「わからない。雪の中で拾われたらしい。
宛名の無い封筒に、私の名だけが刻まれていた」
セドリックは机に封筒を置く。
端が焼け焦げている。
あの夜、暖炉に投げ入れた“書かれなかった手紙”。
燃え残った断片が、海路を越えて王都に届いたのだ。
それは奇跡ではない。
記録とは、燃やしても残る――リディアは、そう教えられて育った。
*
ヴァルターが静かに言った。
「これで、王都が動くのか」
「動かざるを得ない。
この印章は、王家直属の商印。
偽造できる者は限られている」
セドリックの声は冷たいが、正確だった。
「犯人はヴォルン商会の当主だけではない。
監査局の印刷係、王太子の私設財務官――
そして、署名の最後にエリアスの私印がある」
沈黙が落ちた。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。
リディアはゆっくりと唇を開いた。
「つまり、殿下自身が偽印に関与していたということ」
「証拠として十分だ。
会計院は即時召喚を出す」
「その召喚状、持って行かれるのですね」
セドリックは頷いた。
「だが、その前に確認したい。
君がここで何を望むのかを」
「……潔白の証明。
それと、アーデン家の名を、もう一度帳簿に戻すこと」
彼女の声には迷いがなかった。
セドリックは目を細める。
「それが“ざまぁ”というやつか?」
「違います。
――記録の訂正です」
ヴァルターがわずかに笑った。
それは初めて見せた、温かい笑みだった。
*
翌朝、監査団が館を出発する。
リディアは彼らの背を見送り、雪を踏んだ。
その音が、彼女の中で一つの区切りになった。
ヴァルターが言う。
「王都が混乱する。
お前の名は、再び噂の中に戻る」
「構いません。
真実は、噂より遅れて届くものですから」
彼の瞳に、一瞬だけ驚きが走る。
そして、穏やかな声。
「……そうだな」
*
王都。
会計院の会議室では、封書と写本が机を埋めていた。
セドリックは王太子の前に立つ。
エリアスの顔は蒼白で、目の下には深い影。
「これは――誰が仕組んだのだ!」
「あなたです、殿下」
静かな一言が、広間に落ちた。
集まった文官たちがざわめく。
書記が封書を掲げる。
その印章。
線が一本、短い。
そして、王家の印ではあり得ぬ、細工された曲線。
「貴殿の私印は、三日前に“失われた”と報告されています。
だが、実際にはこの偽印の制作に使われていた」
「ば、馬鹿な……そんな――!」
王都の空気が凍りつく。
“婚約破棄”の名のもとに罪を被せた令嬢が、
今度は沈黙の記録で彼らを追い詰めた。
*
報せが辺境に届いたのは、三日後。
吹雪の夜。
ナタルが暖炉の前に封書を置く。
「王都より。殿下の退位と、アーデン家の名誉回復。
ヴォルン商会、解散命令です」
リディアは黙ってそれを見つめた。
長かった冬が、ようやく終わる。
けれど、彼女の胸にある感情は喜びではない。
「……ざまぁ、という言葉は嫌いでした」
「だが、今は?」とヴァルターが問う。
「少しだけ、悪くない気分です」
ヴァルターが笑う。
炎の明かりが、彼の頬を照らす。
氷のようだった瞳に、柔らかな色が差した。
「記録を訂正した女に、乾杯しよう」
杯が二つ、触れ合う音。
それは、最初の夜に途絶えた音楽の続きを、静かに取り戻す音だった。
王都の空気は、冬の残り香を引きずっていた。
石畳は溶けかけた雪に濡れ、街角の旗は色を失っている。
その静けさの中で、宮廷だけが異様な熱を帯びていた。
――再審問。
その名のもとに、数百の視線が一つの広間に注がれる。
五か月前、同じ場所で婚約破棄を告げられたあの広間だ。
だが、今、壇上に立つのはあの時と逆。
王太子エリアスと、その傍らのエレナ・ハートレー。
二人は沈黙し、王座の前で裁きを待っている。
そして、証言席には――リディア・アーデン。
*
王が玉座に座ると、ざわめきが収まった。
文官が呼び上げる。
「王太子殿下に問う。
アーデン家誣告の件、あなたの私印の偽造に関与ありやなしや」
エリアスの喉が鳴った。
答えない。
沈黙が続く。
代わりに、エレナが口を開いた。
「殿下は……被害者です。
すべては私が、アーデン家の不正を信じてしまったせいで――」
「では聞こう、エレナ・ハートレー嬢。
あなたの手による偽印の押印を、どう説明する?」
文官が掲げた羊皮紙には、明らかに細工された印章が押されている。
線が一本、短い。
リディアが最初に見抜いたその欠陥。
証拠は揃っていた。
証人も、文書も、記録も。
――言葉だけが、まだ欠けている。
*
王が目を細めた。
「アーデン令嬢。何か申し開きがあるか」
リディアはゆっくりと立ち上がる。
白いドレスの裾が床を撫でる。
視線を上げず、ただ前へ歩く。
広間の奥に、あの夜の幻が重なった。
音楽が止まり、誰かが笑ったあの瞬間。
「申し開きではございません。
ただ、訂正をお願いいたします」
「訂正?」
「この国の記録に、“虚偽”の印が押されたままです。
それを、正しい形に戻していただきたいのです」
文官たちが一斉に顔を見合わせる。
リディアの声は静かで、冷たい。
けれど、その一語一語が、かつての屈辱の音を塗り替えていく。
「私は罪を犯しておりません。
王家を裏切ってもいません。
証拠は全て、そちらにございます。
……それでも、陛下の御手で印を押されるなら、受け入れます」
王が動かなかった。
ただ、沈黙が長く続いた。
やがて、玉座の上でひとつ息を吐く。
「訂正を許可する。
アーデン家の名誉を回復し、全記録を改訂せよ」
広間にどよめきが起きる。
リディアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その瞬間、王太子の肩が崩れ落ちた。
エレナは蒼ざめ、震える唇で呟く。
「嘘よ……だって、あの夜、私は――」
「ええ、あなたは笑った」
リディアが振り返る。
あの夜と同じ言葉。
だが、今度は彼女が言う側だ。
「――あの広間の音楽が止まったとき、笑ったのはあなたでした」
エレナの顔から血の気が引く。
貴族たちの視線が突き刺さる。
“ざまぁ”という言葉を、誰も口にはしなかった。
けれど、空気の中には確かにそれがあった。
*
審問の後。
リディアは王城の外に出た。
春の風が頬を撫でる。
門の外に、黒い外套の男が立っていた。
ヴァルター・レーン。
「お疲れさまです、辺境伯」
「王都は、あいかわらず窮屈だな」
「ええ。でも、少しだけ暖かくなりました」
「やり遂げたのか」
「ええ。記録を訂正しました」
ヴァルターが目を細める。
その表情に、淡い安堵の色が浮かぶ。
「帰ろう。……氷の溶けた場所へ」
彼が差し出した手を、リディアは迷いなく取った。
掌の温度が、凍りついた時間をゆっくりと解かしていく。
*
その夜、王都の片隅。
エレナはかつての社交界の友人たちに背を向けられ、
静かに姿を消した。
エリアスもまた、王太子の座を退き、国外へ送られた。
彼らの名は記録から消え、
アーデン家の頁だけが、白紙から再び書き起こされた。
――正しい記録は、遅れて届く。
リディアが信じた言葉が、ようやく形になった夜だった。
春の光は、雪を跡形もなく溶かしていった。
グレイン館の屋根からは雫が滴り、庭の土が柔らかく息をしている。
冬を閉じこめていた氷は、ようやく解かれた。
――まるでこの館そのものが、息を吹き返したように。
*
リディアは、庭に面した窓辺でペンを走らせていた。
今の彼女はもう「アーデン家の令嬢」ではない。
けれど、帳簿に向かう姿勢はあの頃と変わらない。
整然と並ぶ数字、欠けた項目を補う癖、
その全てが“生きている証拠”だった。
扉をノックする音。
ナタルが控えめに顔を覗かせる。
「お客様が」
「誰かしら?」
彼の背後から、長身の影が現れた。
黒い外套を脱ぎながら、ヴァルターが微笑む。
柔らかい春の光が、彼の氷色の瞳を少しだけ薄めていた。
「王都での用件は?」
「全て終わった。……あとは、ここに残るものを確認するだけだ」
「確認?」
「椅子が一脚、足りないとナタルが言っていた」
リディアが振り向くと、食堂の長卓に二脚の椅子が並んでいた。
一脚は以前からあったもの。
もう一脚は、新しく作られた椅子――座面に刻まれた花の紋は、アーデン家のもの。
「どうして、これを?」
「契約が終わるからだ」
ヴァルターは机の上に、一枚の書簡を置いた。
正式な婚姻契約の解除通知。
あの夜に交わした「干渉しない契約」の期限が、今日で切れる。
「あなたが自由になる日だ」
「……本当に?」
「ああ。
ただ――自由が居場所を奪うなら、それは不幸だ」
ヴァルターは椅子を引き、手を差し出す。
「だから提案する。契約の続きではなく、選択として。
――私の隣に座ってくれ」
風がカーテンを揺らす。
遠くでメイの歓声が聞こえた。
リディアは手を伸ばし、その手を取る。
「契約書は、もういりませんね」
「印章も、不要だ」
ふたりの手の間で、春の陽が小さく跳ねた。
*
その夜。
暖炉の前に、例の宛名のない手紙が一通届いた。
差出人は不明。
けれど、封の形、紙の端の焼け跡――間違いない。
それは、かつて燃やしたはずの“書かれなかった手紙”だった。
リディアはそっと封を切る。
中には短い一文だけ。
〈君の沈黙は、確かに届いた。
記録は修正された。
――セドリック〉
笑いながら、彼女は紙を折り、暖炉にくべた。
火が紙を包み、灰が舞う。
灰が消えるより早く、ヴァルターが杯を差し出す。
「乾杯を」
「何に?」
「真実に、そして遅れて届いた手紙に」
二人の杯が触れ合う。
その音は、あの夜の広間で止まった音楽の続きのようだった。
静かに、確かに、再び世界に響いた。
*
翌朝。
館の前庭では、白い花がいっせいに開いていた。
リディアはヴァルターの隣で椅子に腰掛ける。
二人分の湯気が立ちのぼる。
メイが笑い、ナタルが穏やかに頷く。
「春ですね」
「ようやくな」
彼は杯を置き、リディアを見た。
「この館に春が来たのは、君が帰ってきたからだ」
彼女は微笑む。
「では、記録しておきましょう。
“春、リディア・レーンとして、初めての朝”」
風が花びらを散らす。
それはまるで、長い沈黙を終えた世界の拍手のようだった。
完。
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