心の迷宮
三途の川のほとりで桜が舞い散ってから、ちょうど七日が過ぎた頃のことだった。
天界の評議会では、神々が穏やかな表情で集まっていた。虚無の神ナグルを打ち破り、閻魔大王との和解も成った今、長らく続いた混乱もようやく収束したかに見えた。
「これで本当に平和が戻ったのでしょうか」
議会の一角で、若い神の一人がそう呟いた。その声には、まだ拭い切れない不安が滲んでいる。
「心配は無用だ」
雷神が堂々とした声で答えた。
「ナグルは完全に消滅した。カグヤ神と閻魔大王の協力によって、虚無の力は根絶やしにされたのだ」
しかし、議会の最前列に座る天照大神の表情は、どこか曇りがちだった。その美しい顔に、深い憂いの影が差している。
「天照様」
カグヤが心配そうに声をかけた。
「何かお気づきのことがおありですか?」
天照大神は静かに首を振った。
「いえ、きっと気のせいでしょう。ただ...」
そのとき、議会の扉が勢いよく開かれた。
飛び込んできたのは、人間界の監視を任されている風神だった。その顔は青ざめ、額には汗が浮かんでいる。
「大変です!」
風神の声が議会に響いた。
「人間界で異変が起きています!」
その頃、人間界では確かに異変が起きていた。
しかし、それは誰の目にも明らかな災害や戦争ではなかった。もっと静かで、それゆえに恐ろしい変化だった。
東京の繁華街。夜の街を歩く人々の表情が、いつもと違っていた。皆、どこか虚ろで、生気を失っているように見える。
「また今日も、何の意味もない一日だった...」
会社員の田中は、いつものように終電に向かいながら呟いた。
昨日まで彼は、家族のために頑張ろうという気持ちを持っていた。しかし今日は違う。なぜ働くのか、なぜ生きるのか、すべてが無意味に思えてならない。
同じような変化が、世界中で起きていた。
パリの街角では、恋人たちが愛を語り合っていたはずなのに、突然興味を失って別れてしまう。
ニューヨークの病院では、患者のために尽くしていた医師が「何のために治療するのか」と疑問を抱き、仕事を放棄してしまう。
京都の神社では、熱心に祈りを捧げていた老人が「神など存在しない」と言い放ち、賽銭箱を蹴倒して去っていく。
人々から、希望や愛、信念といったものが、まるで抜き取られるように消えていく。残るのは、虚無感と諦めだけだった。
「これは...」
人間界を見下ろしていたカグヤは、その光景に愕然とした。
「ナグルは確かに消滅したはずです。それなのに、なぜ...」
隣に立つシラヌイが、静かに答えた。
「消滅したのは、ナグルの本体だけかもしれない」
「どういうことですか?」
「虚無の力というのは、そう簡単に根絶できるものではない。本体を失っても、その影響は残り続ける。特に...」
シラヌイは難しい表情を浮かべた。
「人間の心に植え付けられた虚無の種は、時間をかけて成長する。そして、新たなナグルを生み出すかもしれない」
カグヤの顔が青ざめた。
「つまり、戦いはまだ終わっていないということですか?」
「ああ」
シラヌイは重々しく頷いた。
「しかも、今度の敵は目に見えない。人間の心の奥深くに潜んでいる」
その夜、カグヤの夢の中に一人の人影が現れた。
それは、先日和解したばかりの閻魔大王だった。しかし、その表情は深刻で、緊急事態を告げるようだった。
「カグヤよ」
閻魔大王の声が、夢の中に響いた。
「すぐに冥府に来い。話さねばならないことがある」
夢から覚めたカグヤは、すぐにシラヌイを呼んだ。二人は急いで冥府へと向かった。
冥府の玉座の間で、閻魔大王は深刻な表情で待っていた。その隣には、ヒミカの姿もある。
「来てくれたな」
閻魔大王は立ち上がった。
「実は、重大な問題が発生している」
「人間界の異変のことですか?」
カグヤが尋ねると、閻魔大王は頷いた。
「その通りだ。しかし、問題はそれだけではない」
閻魔大王は、手で宙に図を描いた。すると、光の線で三界の関係図が浮かび上がった。
「見よ」
図の中央に、黒い影のようなものが蠢いている。
「ナグルを倒したとき、われわれは彼の本体を消滅させた。しかし、彼が長年にわたって蒔いた『虚無の種』までは除去できなかった」
ヒミカが説明を続けた。
「その種が今、人間界で一斉に芽吹いているのです。人々の心の中で、希望や愛を食い尽くしながら」
「そして」
閻魔大王の声が重くなった。
「その影響は、既に冥府にも及んでいる」
カグヤは驚いた。
「冥府にも?」
「ああ。転生を待つ魂たちが、次第に諦めを抱き始めている。『来世など意味がない』『生まれ変わっても苦しみが続くだけだ』と」
閻魔大王は、玉座の間の奥を指差した。
「来い、見せてやろう」冥府の最深部に、転生池と呼ばれる聖なる場所がある。
そこは、浄化された魂が新たな生を受けて人間界に生まれ変わる、神聖な場所だった。
しかし、今その池の周りには、異様な光景が広がっていた。
「あ...」
カグヤは息を呑んだ。
転生池の周りに、数百の魂が佇んでいる。しかし、彼らは皆、うなだれて動こうとしない。
「どうして転生しないのですか?」
カグヤが尋ねると、一人の魂がゆっくりと顔を上げた。
「もう、疲れたのです」
その魂は、生前は心優しい教師だった男性だった。
「何度生まれ変わっても、結局は苦しみが待っている。愛する人を失い、夢を諦め、最後は死んでいく。それの繰り返しです」
「でも」
カグヤが歩み寄った。
「生きることには、美しいこともたくさんあるじゃないですか。愛や友情、感動や喜び...」
「本当にそうでしょうか?」
別の魂が立ち上がった。生前は若い母親だった女性だ。
「私は子供を愛していました。でも、その子は病気で亡くなりました。愛すれば愛するほど、失ったときの苦しみは大きくなる。ならば、最初から愛さない方がよいのでは?」
「そんな...」
カグヤは言葉を失った。
魂たちの絶望は、あまりにも深く、理路整然としていた。単純な励ましの言葉では、もう届かないほどに。
「これが、虚無の種の真の恐ろしさだ」
閻魔大王が静かに言った。
「力で脅すのではない。論理で説得するのでもない。ただ、希望を奪い去るのだ。そして、一度希望を失った魂は、二度と立ち上がることができない」
ヒミカが悲しそうに呟いた。
「このまま行けば、転生する魂はいなくなってしまいます。人間界に新しい命が生まれることも、なくなってしまう」
「それだけではない」
シラヌイが険しい表情で付け加えた。
「絶望した魂が集まれば、それは新たなナグルを生み出すだろう。今度は、より強大で、より巧妙な敵となって」
カグヤは転生池を見つめた。
神聖であるはずのその水面が、今は暗く澀んで見える。まるで絶望の色に染まっているようだった。
「どうすれば...」
カグヤが呟いたとき、突然、転生池の水面が波立った。
そして、その中から黒い影のような存在がゆっくりと立ち上がった。
「久しぶりだな、カグヤよ」
その声は、確かにナグルのものだった。しかし、以前よりもずっと穏やかで、それゆえに不気味だった。
「ナグル!」
カグヤが身構えたが、ナグルは笑った。
「安心しろ。もう力で争うつもりはない。それは効率が悪いと学んだからな」
ナグルの姿は、以前の巨大で威圧的なものとは違っていた。今は、普通の人間のような大きさで、どこか親しみやすささえ感じさせる。
「お前たちが俺を倒したおかげで、俺はより良い方法を見つけることができた」
ナグルは、周りの絶望した魂たちを見回した。
「見ろ。誰も傷つけていない。誰も脅していない。ただ、真実を示しただけだ」
「真実だって?」
カグヤが怒りを込めて言った。
「人々から希望を奪うことが真実だというの?」
「そうだ」
ナグルは静かに答えた。
「希望こそが、最大の嘘なのだ。人間は生まれ、苦しみ、死んでいく。それが真実だ。希望を抱かせることは、より大きな絶望を与えることでしかない」
「それは違う!」
カグヤが叫んだ。
「確かに人生には苦しみがあります。でも、だからこそ喜びや愛が尊いのです!」
「本当にそう思うか?」
ナグルの声が、不思議な魅力を帯びた。
「では、試してみよう」
突然、周囲の景色が変わった。
カグヤは気がつくと、見知らぬ街の中に立っていた。どこか懐かしい、日本の田舎町のような雰囲気だ。
「ここは...」
「お前の心が作り出した世界だ」
ナグルの声が聞こえたが、姿は見えない。
「この世界で、お前は一人の人間として生きることになる。神の力は使えない。ただの人間として」
カグヤは自分の手を見た。確かに、いつもの神としての光は失われている。
「そして、この世界で希望を見つけられたら、俺の負けだ。だが、絶望しか見つけられなかったら...」
「その時は?」
「お前も、俺の仲間になってもらう」
カグヤは覚悟を決めた。
「分かりました。その勝負、受けて立ちます」
こうして、カグヤの心の試練が始まった。カグヤは「香織」という名前の、ごく普通の高校生として生活することになった。
神としての記憶は残っているが、力は一切使えない。完全に人間と同じ立場だった。
最初の数日は、人間の生活の不便さに戸惑った。
朝早く起きて学校に行き、勉強をして、アルバイトをして、夜遅くに帰る。神として自由に空を飛び回っていた頃とは、まるで違う制約だらけの生活だった。
しかし、次第にカグヤは人間の生活の中に、小さな喜びを見つけるようになった。
友達と一緒に笑うこと。美味しい食事を食べること。夕焼けを見て美しいと感じること。
「やっぱり、人間の生活にも素晴らしいことはあります」
カグヤは心の中でナグルに語りかけた。
しかし、ナグルは答えなかった。
そして、三週間が過ぎた頃、最初の試練がやってきた。カグヤには、秘かに想いを寄せる同級生がいた。
優しくて、いつも笑顔を絶やさない少年だった。カグヤは勇気を出して、彼に告白することにした。
しかし、結果は予想していたものとは違った。
「ごめん、香織。君のことは友達としてしか見られないんだ」
その言葉は、カグヤの心に深く突き刺さった。
神として生きていた頃は、このような感情を味わったことがなかった。拒絶される痛み、期待が裏切られる苦しさ。
家に帰って、一人で泣いた。
「どうだ、カグヤよ」
ナグルの声が聞こえた。
「これが人間の現実だ。愛すれば傷つく。期待すれば失望する」
カグヤは涙を拭いた。
「確かに痛いです。でも...」
「でも、何だ?」
「でも、愛したからこそ、相手の幸せを願うことができます。傷ついたからこそ、同じように傷ついている人の気持ちが分かります」
カグヤは立ち上がった。
「これも、人間の美しさの一つです」
翌日、カグヤは失恋の痛みを抱えながらも、いつものように学校に行った。そして、落ち込んでいる友達がいれば慰め、困っている人がいれば手を貸した。
自分の痛みが、他人への優しさに変わっていく。それを実感していた。
しかし、本当の試練はまだ始まったばかりだった。
ある日、カグヤの設定上の母親が倒れた。
病院で検査を受けると、重篤な病気であることが判明した。治療費は高額で、普通の家庭では到底払えない金額だった。
「お母さん...」
カグヤは病院のベッドで眠る母親の手を握った。
神の力があれば、一瞬で治すことができる。しかし、今は何もできない。ただの高校生でしかない。
アルバイトの時間を増やし、学費のために貯めていたお金も全て治療費に回した。それでも足りない。
毎日病院に通い、母親の看病をしながら、カグヤは必死に働いた。
「どうだ?」
ナグルの声が聞こえた。
「努力しても報われない。愛する人を救うことさえできない。これが人間の現実だ」
カグヤは疲れ切った体で答えた。
「確かに、辛いです。でも...」
病室を見回すと、同じように家族の看病をしている人たちがいた。皆、疲れていたが、愛する人のために頑張っている。
看護師たちも、医師たちも、患者のために夜遅くまで働いている。
「人は一人では弱い存在です。でも、お互いを支え合うことで、困難を乗り越えることができる」
カグヤは微笑んだ。
「これも、人間の素晴らしさです」
母親の病気は、カグヤの献身的な看病にもかかわらず、悪化していった。
医師から告げられた余命は、あと数週間だった。
「香織...」
母親が弱々しい声で呼んだ。
「お母さん?」
「ありがとう。あなたがいてくれて、本当に幸せだった」
カグヤは涙を堪えながら答えた。
「お母さんこそ、私を産んでくれて、育ててくれて、ありがとうございました」
それから数日後、母親は静かに息を引き取った。
カグヤは一人、病室で泣き続けた。
「これが現実だ」
ナグルの声が響いた。
「愛する人は死んでいく。どんなに大切にしても、最後は失うことになる。ならば、最初から愛さない方が良いのではないか?」
カグヤは長い間、答えることができなかった。
母親の死は、あまりにも辛く、あまりにも理不尽に思えた。
しかし、葬儀の日、多くの人が集まった。
母親が生前お世話になった人たち、近所の人たち、カグヤの友達や先生たち。
「お母さんは本当に優しい人でした」
「困ったときはいつも助けてくれました」
「香織ちゃんを大切に育てられましたね」
人々の言葉を聞いて、カグヤは気づいた。
母親は確かに亡くなった。しかし、彼女が残した愛や優しさは、多くの人の心の中で生き続けている。
「死は終わりではありません」
カグヤは涙を流しながら言った。
「愛する人を失うのは辛いです。でも、その人が残してくれたものは、永遠に続いていくんです」
母親を失ったカグヤは、一人で生活することになった。
アルバイトと学校の両立は困難で、成績も下がった。友達との時間も少なくなり、次第に孤独を感じるようになった。
「もう、疲れました」
ある夜、カグヤは一人でアパートの部屋に座っていた。
「神として生きていた頃は、こんな辛さを知りませんでした。人間って、こんなにも弱い存在なんですね」
「そうだ」
ナグルの声が優しく響いた。
「だからこそ、希望など持たない方が良い。期待しなければ、失望することもない」
カグヤは疲れ切った表情で窓の外を見た。
街の灯りが、とても遠くに見える。
「でも...」
そのとき、ドアのベルが鳴った。
「香織ちゃん?」
扉の向こうから、友達の声が聞こえた。
「みんなで心配してたの。最近、元気がないから」
扉を開けると、数人の友達が立っていた。皆、心配そうな表情をしている。
「大丈夫?」
「何か困ったことがあったら、言ってよ」
「一人で抱え込まないで」
友達たちの言葉に、カグヤの心が温かくなった。
「みんな...」
「今夜は一緒にいよう」
友達の一人が提案した。
「一人でいると、悲しいことばかり考えちゃうでしょ?」
その夜、カグヤは久しぶりに笑うことができた。
友達たちと一緒に映画を見て、お菓子を食べて、他愛もない話をした。
辛いことが消えるわけではない。でも、一人ではないという実感が、心を支えてくれた。
「孤独は確かに辛いです」
カグヤは心の中でナグルに語りかけた。
「でも、人間には仲間がいます。お互いを支え合う絆があります。それが、どんな闇よりも強い光になるんです」
高校を卒業したカグヤは、看護師になる夢を抱いて専門学校に進学した。
母親の闘病を支えてくれた医療従事者たちに感謝し、自分も誰かを支える仕事に就きたいと思ったのだ。
しかし、現実は厳しかった。
勉強は難しく、実習では失敗ばかり。アルバイトとの両立で体はボロボロだった。
「私には無理かもしれません」
カグヤが諦めかけていたとき、一人の患者に出会った。
小児病棟で闘病している、7歳の少女だった。
「お姉さん、看護師さんになるの?」
少女は病気で髪の毛が抜けていたが、いつも笑顔を絶やさなかった。
「頑張ってるけど、難しくて...」
カグヤが正直に答えると、少女は言った。
「私も頑張ってるよ。病気と闘うの、すごく辛いけど、お母さんやお父さんが悲しむから、笑顔でいるの」
「そんな小さいのに...」
「でもね」
少女は明るく続けた。
「お姉さんみたいに、私のことを心配してくれる人がいるから、頑張れるの。だから、お姉さんも頑張って。きっと素敵な看護師さんになれるよ」
その言葉に、カグヤは涙が出そうになった。
こんなに小さな子供が、自分よりもずっと強く、他人を思いやる心を持っている。
「どうだ?」
ナグルの声が聞こえた。
「その子も、やがて病気で死んでいくかもしれない。希望を持たせることが、本当に優しさなのか?」
カグヤは少女の手を握った。
「希望があるからこそ、今この瞬間を大切に生きることができるんです」
「今を精一杯生きること。それこそが、人間の最も美しい姿です」
看護師になったカグヤは、病院で様々な人と出会った。
ある日、一人の青年患者が入院してきた。
事故で足に大怪我を負い、もう走ることができないと告げられた元マラソン選手だった。
「もう終わりだ」
青年は絶望していた。
「走ることが私の全てだった。それができないなら、生きている意味がない」
カグヤは毎日、青年の話を聞いた。
彼の絶望の深さを理解し、共感し、寄り添った。
「でも」
ある日、カグヤは言った。
「あなたが走っていたのは、なんのためでしたか?」
「それは...」
青年は考え込んだ。
「みんなに感動を与えたかった。自分の走る姿を見て、勇気を持ってもらいたかった」
「それなら」
カグヤは微笑んだ。
「走る以外の方法でも、それはできるのではないでしょうか?」
青年はカグヤの言葉に、はっとした。
その後、青年はリハビリの専門家になった。同じように怪我で苦しんでいる人たちを支える仕事に就いた。
「ありがとう」
退院の日、青年はカグヤに言った。
「君に出会わなければ、希望を見つけることはできなかった」
カグヤは微笑んだ。
「私も、あなたから多くのことを学びました」
「どうだ?」
その夜、ナグルの声が聞こえた。
「その青年も、結局は夢を諦めることになった。それが現実だ」
「いいえ」
カグヤは首を振った。
「彼は夢を諦めたのではありません。新しい夢を見つけたのです」
「人生には確かに終わりがあります。でも、その前に新しい始まりもあるんです」カグヤの人間としての人生も、やがて老年期を迎えた。
看護師として多くの人を支えてきたが、今度は自分が支えられる立場になった。
体は衰え、記憶も曖昧になってきた。
「もう、誰の役にも立てません」
老人ホームのベッドで、カグヤは呟いた。
「これまでの人生、意味があったのでしょうか?」
「ないさ」
ナグルの声が聞こえた。
「生まれて、生きて、老いて、死んでいく。それが人間の運命だ。どんなに頑張っても、最後は無に帰する」
カグヤは窓の外を見た。
桜の花が散っている。美しく咲いて、やがて散っていく。
「でも」
そのとき、一人の若い看護師が部屋に入ってきた。
「カグヤさん、お元気ですか?」
その看護師は、かつてカグヤが指導した後輩だった。
「あなたに教えていただいたことを、今も大切にしています」
看護師は微笑んだ。
「患者さんに寄り添うこと。希望を捨てないこと。カグヤさんの教えが、私の支えです」
その後も、多くの人がカグヤを訪ねてきた。
かつて看護してきた患者の家族、一緒に働いた同僚、指導した後輩たち。
皆、カグヤから何かを受け取り、それを大切に生きていた。
「先生のおかげで、息子を諦めずに看病できました」
「あの時の言葉が、今でも私の支えです」
「先生に教わった優しさを、私も次の世代に伝えています」
人々の言葉を聞いて、カグヤは涙を流した。
自分の人生は無意味ではなかった。確かに、多くの人の心に何かを残すことができた。
「人は確かに死んでいきます」
カグヤは心の中でナグルに語りかけた。
「でも、その人が残した愛や優しさは、永遠に受け継がれていくんです」やがて、カグヤの人間としての最期の時が来た。
病室で、静かに息を引き取ろうとしていた。
「どうだ、カグヤよ」
ナグルの声が聞こえた。
「結局、お前も死んでいく。これまでの苦労も、愛も、全て無に帰するのだ」
カグヤは微かに微笑んだ。
「そうですね。確かに私は死んでいきます」
「では、認めるのか?人生に意味などないと」
「いいえ」
カグヤの声は弱々しかったが、確信に満ちていた。
「私は幸せでした」
窓の外では、夕日が美しく輝いている。
「辛いこともたくさんありました。失恋も、別れも、病気も、老いも」
「でも、それ以上に美しいものがありました」
カグヤは目を閉じた。
「友達との笑い声。患者さんの回復した笑顔。夕日の美しさ。桜の花の香り」
「そして何より、人を愛し、愛されることの喜び」
「これらは確かに一時的なものです。でも、その瞬間瞬間が、私の人生を意味あるものにしてくれました」
ナグルは黙っていた。
「ナグル」
カグヤは静かに呼びかけた。
「あなたも、きっと昔は愛を信じていたのでしょう?」
「何を言っている」
「でも、何かで傷ついて、希望を失ってしまった」
カグヤの声は優しかった。
「だから、他の人にも希望を持ってほしくないのでしょう?」
「黙れ」
ナグルの声に動揺が混じった。
「でも、そのあなたの痛みも、愛があったからこそ生まれたものです」
「だから、あなたも本当は愛を知っている存在なんです」
突然、周囲の景色が変わった。
カグヤは、遠い昔の光景の中にいた。
そこには、一人の神がいた。美しく、優しい表情をした神だった。
「これは...」
「俺の昔の姿だ」
ナグルの声が、いつもと違って聞こえた。
「俺にも、希望があった時代があった」
その神は、人間たちを愛していた。
彼らの笑顔を見ることが何よりの喜びで、苦しみを癒すことに全力を注いでいた。
しかし、ある日、大きな災害が起きた。
地震、津波、疫病。次々と襲い来る災いに、多くの人々が命を落とした。
その神は必死に人々を救おうとした。しかし、力には限りがあった。
救えない命が、あまりにも多すぎた。
「なぜだ」
その神は叫んだ。
「なぜ救えないのだ。なぜ愛する人たちが死んでいくのだ」
そして、ついに心が折れた。
「愛など、幻想でしかない」
その神の心に、虚無が生まれた。
「希望など、残酷な嘘でしかない」
こうして、愛の神は虚無の神ナグルとなった。
「分かりました」
カグヤは涙を流していた。
「あなたも、愛する人を失った痛みを知っているのですね」
「その痛みが、あなたを変えてしまった」
「俺は弱かった」
ナグルの声が震えていた。
「救えなかった命の重さに、耐えることができなかった」
「だから、最初から愛さなければ良いと思った。希望を持たなければ、絶望することもないと」
カグヤは優しく微笑んだ。
「でも、それは違います」
「愛する人を失うのは確かに辛いです。でも、愛した時間は決して無駄ではありません」
「その愛があったからこそ、その人は生きていたのです」
心の世界が、再び変化した。
今度は、美しい草原に二人は立っていた。
ナグルの姿も変わっていた。虚無の神ではなく、かつての愛の神の姿に戻っていた。
「カグヤよ」
ナグルは涙を流していた。
「俺は、長い間間違っていた」
「愛を否定することで、自分の痛みから逃げようとしていた」
「でも、お前の人生を見て分かった」
ナグルは空を見上げた。
「愛は確かに痛みを伴う。しかし、その痛みさえも、愛の証なのだ」
「愛する人を失う悲しみも、愛があったからこそ生まれる感情」
「それを否定することは、愛そのものを否定することだった」
カグヤは頷いた。
「人生には終わりがあります。愛する人ともいつかは別れなければならない」
「でも、その限りある時間だからこそ、一瞬一瞬が 重要なのです」
「永遠だったら、きっと大切さに気づけない」
ナグルは深く頷いた。
「そうだな。俺は永遠を求めすぎていた」
「永遠の愛、永遠の幸せ。それが手に入らないから、絶望していた」
「でも、永遠でなくても、その瞬間瞬間の愛は本物だった」
二人は静かに草原を歩いた。
「ナグル」
カグヤが呼びかけた。
「もう一度、愛を信じてみませんか?」
「今度は、失うことも含めて愛するのです」
ナグルは長い間考えていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「ああ。やってみよう」
「もう一度、希望を信じてみよう」
草原の光景が薄れていき、カグヤは現実の世界に戻ってきた。
転生池の前に、シラヌイ、閻魔大王、ヒミカが心配そうに立っていた。
「カグヤ!」
ヒミカが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?意識を失って...」
「ええ、大丈夫です」
カグヤは立ち上がった。
そして、転生池を見た。
あれほど暗く濁っていた水が、今は清らかに澄んでいる。
そして、池の周りにいた絶望した魂たちも、表情が変わっていた。
「あれ?なんだか、気持ちが軽くなりました」
教師だった魂が言った。
「そうですね。さっきまでの絶望感が、嘘のように消えています」
母親だった魂も頷いた。
「やはり、転生してみようかしら。今度はどんな人生が待っているか、楽しみになってきました」
魂たちは次々と転生池に向かい始めた。
「ナグルは?」
閻魔大王が尋ねた。
「彼は...」
カグヤが答えかけたとき、転生池の向こうから一人の神が現れた。
それは、虚無の神ナグルではなく、かつての愛の神の姿だった。
「皆さん」
その神は深々と頭を下げた。
「長い間、迷惑をおかけしました」
「ナグル?」
閻魔大王が驚いた。
「ああ。いや、もうナグルではない」
その神は微笑んだ。
「俺の本当の名前は『アイオス』。愛を司る神だった」
「これからは、再びその名前で生きていこうと思う」
その後、三界の秩序は大きく変わった。
天界では、神々が人間界をより深く理解するようになった。
単純に守るだけでなく、人間の心に寄り添うことの大切さを学んだのだ。
冥府では、閻魔大王が裁きの方法を変えた。
罰を与えるだけでなく、魂が成長できるような導きを与えるようになった。
そして、アイオスは新たな役割を担うことになった。
絶望した魂に希望を与え、諦めかけた心に愛を思い出させる神として。
「これで、本当に平和が戻りましたね」
ヒミカがカグヤに言った。
「ええ。でも、これは終わりではありません」
カグヤは人間界を見下ろした。
「きっと、また新しい問題が起きるでしょう。人間の心は複雑ですから」
「でも、今度は違います」
シラヌイが言った。
「今度は、皆で協力して解決していける」
閻魔大王も頷いた。
「そうだ。神も冥府も、そして人間も、皆が手を取り合えば、どんな困難も乗り越えられる」
人間界でも、変化が起きていた。
あれほど虚無感に支配されていた人々の心に、再び希望の光が宿り始めた。
東京の会社員田中は、家族のために働く意味を思い出した。
パリの恋人たちは、再び愛を信じるようになった。
ニューヨークの医師は、患者を救うことの喜びを取り戻した。
京都の老人は、神社で再び祈りを捧げるようになった。
しかし、それでも人間界から苦しみがなくなったわけではない。
病気や貧困、争いや別れ。人間の抱える問題は依然として存在していた。
「でも、今度は違います」
カグヤは微笑んだ。
「苦しみがあっても、それを乗り越える力を人間は持っています」
「愛し合い、支え合い、希望を分かち合う力を」
物語の最後、カグヤは再び人間界を訪れていた。
今度は神としての力を持ったまま、しかし人間の心を深く理解した存在として。
ある小さな町で、一人の少女が泣いていた。
両親を事故で失い、天涯孤独になってしまった少女だった。
「どうして、こんなことになったの?」
少女は空に向かって叫んだ。
「神様なんて、いないの?」
その時、カグヤが現れた。
しかし、神々しい姿ではなく、普通の優しいお姉さんの姿で。
「大丈夫?」
カグヤは少女の隣に座った。
「一人で泣いてちゃダメよ」
「でも...お父さんもお母さんも、もういないの」
少女は涙を流した。
「そうね。とても悲しいわね」
カグヤは少女を抱きしめた。
「でも、お父さんとお母さんがあなたを愛していた気持ちは、消えることがないのよ」
「その愛は、あなたの心の中で生き続けている」
少女は顔を上げた。
「本当?」
「本当よ。そして、これからはその愛を、他の人に分けてあげることができるの」
カグヤは微笑んだ。
「お父さんとお母さんから受けた愛を、今度はあなたが誰かに伝えていく」
「そうすることで、愛は永遠に続いていくのよ」
少女の瞳に、小さな光が宿った。
「私にも、できるかな?」
「もちろんよ。きっとできる」
カグヤは立ち上がった。
「でも、一人じゃ大変だから、お手伝いしてくれる人を紹介してあげる」
こうして、少女は新しい家族に引き取られることになった。
優しい夫婦で、子供を愛することを知っている人たちだった。
「ありがとう、お姉さん」
少女は新しい家族と一緒に去っていく前に、カグヤに言った。
「お姉さんは天使?」
カグヤは微笑んだ。
「ううん。ただの、愛を信じる人よ」