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地獄門を越えて

一、冥府への道

天界の雲海を抜け、カグヤ神とシラヌイは暗い空間へと降り立った。ここは現世と冥府の境界、三途の川のほとりである。

「カグヤ様、ここから先は私の領域ではありません」シラヌイが低い声で警告した。「冥府の法則に従わねば、我々といえども無事では済まないでしょう」

カグヤは頷きながら、眼前に広がる光景を見つめた。どんよりとした霧に包まれた川向こうに、巨大な門が聳え立っている。それが冥府への入り口、地獄門だった。

門の前には、六道の番人が立っていた。それぞれ異なる姿をした六体の霊的存在が、訪問者を厳しい目で見つめている。

「天界の神よ」最も大きな番人が重々しく口を開いた。「なぜ生ける者が死者の国を訪れようとするのか」

「私は天照大神の使いとして参りました」カグヤは毅然として答えた。「閻魔大王にお会いしたく」

番人たちがざわめいた。千年に一度の審判の時期とはいえ、神が直接冥府を訪れるのは異例中の異例だった。

「ならば試練を受けよ」番人の長が宣言した。「六道それぞれの試練を越えた者のみが、閻魔大王の御前に進むことを許される」

二、天界の試練

視界は、眩い純粋な光に満たされ、あらゆる色彩が最も美しい調和を奏でる。足元には雲海が広がり、遠くには虹色の光を放つ宮殿が浮かび、至福に満ちた優雅な存在たちが、光の中を舞う。彼らの動き一つ一つが、まるで緩やかな水の流れのように、澱みなく、完璧なリズムを刻んでいる。そこに、乱れという概念は存在しない。カグヤの隣には、無表情ながらも確かな存在感を放つ剣神シラヌイが立っていた。彼の銀髪が、天界の光を反射して淡く煌めく。

耳には、天上から降り注ぐような清らかな音楽が常に響き、微かな風が奏でる『サワサワ』という音が、魂を優しく包み込む。心地よい歌声と、透明な水のせせらぎが、調和の旋律を織りなす。そこには不協和音一つなく、あらゆる音が完璧な秩序の下に配列されていた。カグヤの心は、その音の波に身を委ね、抗いようのない安堵に満たされるが、同時に、どこか空虚な感覚も覚える。シラヌイはただ静かに、目を閉じてその音を聞き入っている。彼の耳には、この完璧な音の向こうに、微かな不穏の響きが聞こえているのかもしれない。

空間には、様々な種類の花々から放たれる甘く清らかな香りが満ち、肺腑の奥まで浄化されていくような心地よさがある。微かに漂う神聖な香油の匂いは、心を穏やかに鎮める。人間界の混沌とした空気とはまるで違う、この上なく澄み切った空気が、呼吸するたびに魂のおりを洗い流していくようだった。シラヌイは一度、深く息を吸い込み、その場の空気を全身で感じ取っているようだった。

肌を撫でる風は、絹のように滑らかで温かく、全身が柔らかな光に包まれているかのような心地よさに満たされる。足元には常に微かな浮遊感があり、重力から解放されたかのような軽やかさを感じる。まるで、自身の存在そのものがこの光に溶け込み、消え失せてしまいそうなほどの、絶対的な調和だった。カグヤは、その軽やかさに、どこか地に足がつかないような不安を覚える。しかし、隣に立つシラヌイの確かな重みが、彼を現実に繋ぎ止めていた。

口にするものはすべて、蜜のように甘く、しかし決してしつこくない清らかな味が広がる。飲む水は、魂そのものを潤すかのような至福の味わいであり、身体の内側から満たされていく感覚がある。飢えも渇きも、苦痛も悲しみも、この天界には存在しない。

カグヤは、この完璧な世界に身を置くうちに、自身の心の中に広がる疑問を感じていた。まるで、この至福が、彼の胸の奥に微かな違和感の塊を置くかのようだった。彼の使命は、苦しむ魂を救い、三界の均衡を取り戻すこと。しかし、ここには「苦しみ」そのものが存在しない。この完璧な調和の中で、何を試されるというのだろうか。シラヌイは瞑目したまま、微かに首を傾げる。

「カグヤよ」

優しい、しかし一切の感情を含まない声が響いた。振り返ると、そこには彼自身の姿があった。しかし、その瞳は、彼が知る自身の瞳よりも深く、そして何よりも「静謐」な光を宿していた。完璧な調和の具現化。それは、偽りのカグヤ、あるいはカグヤ自身の「理想」の具現化のようにも見えた。その存在は、この世界の完璧な光の中で、少しも違和感なく溶け込んでいた。シラヌイは、その偽りのカグヤから放たれる、感情の無い完璧な気配に、僅かに警戒するように、無意識に腰の剣に手を添えた。

偽のカグヤは、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で語りかける。

「お前は、この完璧な秩序を求めるのではないのか? 混沌とした人間界の感情、冥府の苦痛、それら全てを排除した、揺るぎない平和こそが、真の愛ではないのか? 我々の世界には、悲しみも、怒りも、絶望もない。ただ永遠の至福が満ちている。これこそが、魂の最終的な到達点だ」

カグヤの脳裏に、人間界で彷徨う魂たちの悲鳴が、冥府で悶える罪人の呻きが、そして閻魔大王の変貌によって生じた混乱の映像が、走馬灯のように駆け巡る。確かに、彼らは苦しんでいた。その苦痛をなくすことが、真の救済なのではないか? 完璧な世界、それは甘い誘惑のように、彼の心を深く沈ませようとする。シラヌイは、カグヤの隣で微動だにせず、ただその言葉と、カグヤの心の揺らぎを静かに見守っていた。

しかし、その誘惑の奥で、カグヤの心が微かに波打った。それは、彼が人間界で出会った、ささやかな喜びの笑顔、困難に立ち向かう人々の涙、そして愛する者を守ろうとする強い意志の記憶だった。それらは決して平穏な感情ばかりではなかった。時には、胸を抉るような悲しみも、腹の底から湧き上がるような怒りも、途方もない絶望も、そこにはあった。だが、それら全てが、人間という存在の「生」の証しだった。

「この完璧な世界は、確かに美しい。しかし、そこに『揺らぎ』はない」

カグヤは静かに答えた。彼の言葉は、この完璧な天界の空気の中に、微かな、しかし確かな波紋を広げた。偽のカグヤの瞳が、初めて微かに揺れたように見えた。シラヌイが、僅かに目を開き、その変化を捉える。

「感情は、時に人を傷つける。だが、その痛みが、魂に深みを与えることもある。悲しみを知るからこそ、喜びの光がより一層眩しく輝く。怒りを乗り越えるからこそ、真の赦しと理解が生まれる。そして、絶望の淵から這い上がろうとする魂の姿には、この完璧な調和にはない、抗いがたい美しさがある」

彼の声は、この天界の清らかな音楽に重なるように響き渡った。彼の言葉は、この完璧な調和の中に、温かな不協和音のように響き、しかしそれが、この世界の真の美しさを際立たせるかのようだった。

「愛は、常に平穏な泉ではない。嵐に揺れる海であり、それでもなお、互いを求め、支え合う光だ。魂の奥底から湧き上がる喜びも、胸を締め付ける悲しみも、その感情の揺らぎの中にこそ、真の輝きと、無限の可能性が宿っていると、私は信じる」

偽のカグヤの姿が、ゆっくりと光の中に溶けていく。その瞳には、かつて彼自身が抱いていた「感情」の輝きが、一瞬だけ宿ったように見えた。彼はただ、静かにカグヤを見つめ、そして消えた。

試練の光が、カグヤとシラヌイの全身を包み込む。カグヤの心の中に、揺るぎない確信が生まれた。この天界の「完璧な秩序」は、一つの理想ではあるが、真の救済は、感情の揺らぎを肯定し、その中で見出す「感情の揺らぎの中にある美しさ」なのだと。彼の使命は、秩序を守るだけでなく、混沌の中にある愛と、その不完全な輝きを育むことなのだ。

「……見事だった」

シラヌイの言葉が、静かに響いた。彼の表情は変わらないが、その声には、微かながらもカグヤへの賛同が感じられた。彼もまた、この完璧な空間の中で、カグヤの選んだ道が、より深く、より人間らしい愛へと繋がることを理解したようだった。

「(冥府の閻魔大王は、この秩序を求めて、魂の感情を奪おうとしているのだろうか…)」

カグヤの瞳に、新たな決意の光が宿った。彼は、この天界の光を背に、隣に立つシラヌイと共に、次の試練へと向かう準備を始めた。彼らの進むべき道は、決して平坦ではない。しかし、その不完全さの中にこそ、真の希望があると信じて。

三、修羅界の戦い

修羅界に足を踏み入れた瞬間、カグヤとシラヌイの鼻腔を焼けるような鉄の匂いと、血生臭い土埃が襲った。視界を遮るほどの赤い煙が渦巻き、その向こうからは金属がぶつかり合う「ガキン!」「カラン!」という甲高い音と、男たちの雄叫び、女たちの悲鳴が木霊していた。空は血のような赤に染まり、厚い雲が低く垂れ込めている。そこかしこに武器が突き刺さったままの岩塊が転がり、大地には夥しい数の血痕が黒く染みついていた。ここは、生前の憎悪や後悔、そして満たされなかった復讐心に囚われた魂が集う、永遠の戦場。熱気が肌を焼く。全身の毛穴が開き、皮膚の奥から熱が這い上がってくるような不快感があった。

「ここは…」カグヤが思わず口元を覆う。口の中には、乾燥した鉄の味が広がり、胃の奥がむかついた。

「修羅界です」シラヌイは冷徹に答えた。彼の剣、天雷丸の柄を握る手が微かに震えている。それは恐怖ではなく、研ぎ澄まされた戦士の本能が、この場の尋常ならざる「気」を感じ取っている証だった。「この熱気、この血の匂い…生前の執念が、そのまま世界を形作っている。まさしく『力こそ全て』の世界だ」

その中央で、一人の武将が孤独な戦いを続けていた。彼の周りだけ、熱気がさらに濃く、空気すら歪んで見える。周囲の修羅たちが一斉に剣を止めてその戦いを見守っているのがわかる。それは畏怖にも似た、絶対的な力への服従だった。

「何者だ!この聖なる戦場を汚すつもりか!」 振り返った武将の顔は凄絶な怒りに歪んでいた。鎧は幾度となく刃を受けた痕跡で満ち、兜からは鬼のような角が突き出している。だが、カグヤは彼の瞳の奥に、燃え盛る怒りの炎の底に沈む、深い悲しみと後悔の澱みを見逃さなかった。まるで、血の池に咲いた一輪の花のように、その悲しみは痛々しく、しかし確かにそこに存在していた。

「我が名はアカツキ!生前は領民を守るために戦い続けた武将だ!だが、この身は裏切りによって斃れ、愛する者たちを守ることができなかった!」

アカツキが大太刀を構えると、刀身から業火が立ち上る。その炎は彼の憎悪と悔恨を映し出すかのように激しく燃え上がった。炎の熱波が肌をチリチリと焼き、焦げ付くような硫黄の匂いが鼻を衝いた。地面に立てられた旗は、その熱風に「バサバサ」と音を立てて激しく揺れている。

「故に我は戦い続ける!完璧な正義を手に入れるまで、永遠に!」 その声には、「勝利至上主義」の絶対的な信念が込められていた。己の無力さ、裏切りへの憤り、そして何よりも守れなかった者たちへの贖罪。その全てが、彼を永遠の戦場に縛り付けている鎖だった。

アカツキが大太刀を振り下ろすと、業火の斬撃がカグヤたちに襲いかかる。「ブォォォン!」と唸るような風切り音と共に、灼熱の衝撃波が地面を「ゴゴゴッ」と震わせた。シラヌイが素早く前に出て天雷丸で斬撃を受け止めるが、修羅の怒りの炎は並大抵の力では消すことができない。刀身が「キィン」と鳴り、火花が激しく散る。シラヌイの腕には、僅かながら焦げ付くような熱さが伝わってきた。

「シラヌイ、下がってください」 カグヤが前に出ると、その手に柔らかな光が宿る。天照大神から受け継いだ慈愛の光だった。

「アカツキ様、お話を聞かせてください。あなたの正義への想い、守りたかったものについて」

「何を――」 アカツキの動きが止まる。戦いを挑んできた相手が、武器を取ることなく、ただ話を聞こうとする姿勢を見せたことに困惑したのだ。彼の眉間に刻まれた深い皺が、わずかに緩んだ。

「私は天界よりまいりました、カグヤと申します。あなたの魂に宿る正義の炎を、私は美しいと思います」

カグヤの言葉に、アカツキの表情がわずかに和らぐ。長い間、誰も自分の正義を理解してくれる者はいなかったのだ。この修羅界では、強さのみが語られ、心の内など誰も問うことはなかった。

「美しい、だと?この醜い怒りが?」 アカツキの声には、自嘲が混じっていた。彼はその怒りこそが自分を動かす唯一の燃料だと信じ込んでいたのだ。

「はい。正義を求める心ほど尊いものはありません。ただ、その炎があまりに強すぎて、あなた自身を焼いているのが悲しいのです」 カグヤが一歩近づくと、アカツキは身構えた。しかし、彼女からは敵意が全く感じられない。むしろ、彼の心を包み込むような温かさがあった。

「私にあなたの物語を教えてください。きっと、その正義には深い理由があるのでしょう」

アカツキは暫し沈黙した後、重々しく口を開いた。彼の瞳には、遠い記憶が蘇る。

「我が領地は山間の小さな国だった。民は貧しくとも心優しく、皆で助け合って生きていた。だが、隣国の大名が我が領地の豊かな水脈を狙い、理不尽な戦を仕掛けてきた」

「俺は民を守るために戦った。しかし、家臣の一人が敵に内通し、城を裏切った。民たちは無残に殺され、俺も背中から刃を受けて果てた。最期まで、完璧に民を守ることができなかった我が不甲斐なさに、この怒りは燃え続けているのだ」

アカツキの声は、怒りの炎を揺らがせる風のように震えていた。その言葉の端々から、裏切りと無力感に苛まれた彼の過去が鮮明に浮かび上がる。彼にとっての「完璧な正義」とは、二度とあのような悲劇を起こさない、という誓いそのものだったのだ。それが、彼を修羅界に縛り付ける鎖となった。

「そんな――」 カグヤの胸が痛んだ。アカツキの怒りは私欲ではなく、愛する人々を守れなかった自分への憤りだったのだ。その苦い感情が、カグヤの口の中に広がる鉄の味をさらに濃くした。

「あなたは十分に戦われました。民を想う心、正義を貫く意志、それは決して無駄ではありません」

「だが結果的に、我は敗れた。完璧な正義など、この世には存在しないのか?」 アカツキの声には、諦めと絶望が滲んでいた。勝利至上主義に生きてきた彼にとって、敗北は己の存在そのものの否定だった。

カグヤは静かに首を振った。「完璧な正義を求めるお気持ちは理解できます。しかし、人は皆不完全です。だからこそ、互いを支え合い、許し合うことに意味があるのです」 その言葉は、修羅界の荒々しい風の中で、静かにしかし確かな響きを持っていた。

「許し、だと?我を裏切った者を、民を殺した者を許せというのか?」 アカツキの怒りが再び燃え上がる。炎が「ゴォォッ」と音を立てて激しく揺らめき、周囲の修羅たちも再び身構える。彼の瞳は血走っていた。

だが、カグヤは怯まなかった。まっすぐアカツキの目を見つめ、静かに、しかし力強く言った。「憎しみを手放すことは、敵を許すことではありません。あなた自身を苦しみから解放することです。怒りの炎で自分を焼き続けることが、本当に民への愛でしょうか?」

その言葉は、アカツキの心の奥底に深く突き刺さった。彼の心象風景が、嵐の後の海のように静かに、しかし大きく波打った。確かに、怒りに囚われた自分は、守りたかった民の笑顔を忘れかけていた。復讐心という名の炎に、自らの魂が蝕まれていることを、彼は初めて自覚したのだ。全身を駆け巡る血の熱が、少しずつ引いていくのを感じた。

「では、我はどうすれば――」 アカツキの声には、戸惑いと、そして微かな希望が混じっていた。

「あなたの正義は間違っていません。ただ、その炎を他者を照らす光に変えるのです。復讐ではなく、同じような悲劇を防ぐために」

カグヤが手を差し出すと、その掌から温かな光が溢れ出る。それは天照大御神の慈愛の光であり、同時にカグヤ自身が天界の試練で得た「不完全さを受け入れる愛」の証でもあった。その光は、修羅界の血のような赤を打ち消すかのように、清らかな「キュイーン」という音と共に広がった。触れると、心臓の奥が温かくなるような感覚があった。

アカツキは長い間逡巡した後、ゆっくりと大太刀を地面に突き立てた。刀身が地面に「ガツン」と深く突き刺さり、周囲の土埃が舞い上がる。

「カグヤ殿、貴女の言葉に偽りはないのか?」

「はい。誓います」 カグヤは迷いなく答えた。

アカツキが深く頭を下げた。その時、彼を包んでいた業火の炎が静かに「シュゥゥ…」と音を立てて消え、代わりに清浄な光が全身を包んだ。彼の鎧にこびりついていた血の臭いも、煙のように消え去った。彼の顔から怒りの歪みが消え、そこには穏やかな、しかし力強い意志の光が宿っていた。それは憎悪の炎ではなく、確かな信念の光だった。

「我が正義、確かに貴女に託そう。アカツキ、喜んでお供いたします」

アカツキが仲間となったことで、一行は修羅界の更に奥へと進んだ。しかし、この世界に安息の地はない。次なる試練は、氷雪に覆われた峠道で待ち受けていた。


修羅界の更に奥深く、空の色はますます鉛色に近くなり、血の赤と混じり合って紫がかった不吉な色合いを呈している。地面は凍てつき、荒々しい風が「ヒュー、ヒュオォォォ」と唸り声を上げて吹き荒れる。耳元を通り過ぎる風は、鋭い刃のように肌を切り裂くような感覚があった。

「凍えるような寒さですね」カグヤが肩を抱きしめる。熱気に満ちた戦場とは一転、全身の体温が奪われるような酷寒だ。鼻腔には、凍てついた岩と、かすかに混じる血の匂いが漂う。

「修羅界は、情念がそのまま現れる場所」シラヌイは冷静に分析した。「憎悪が炎となるように、孤独や絶望は氷となる」

凍てつく風の中、白い着物を纏った女性が立ちはだかった。彼女の立つ場所だけ、空気が一層冷たく淀んでいる。手にした細身の刀は、氷のように冷たく光っている。刃からは「キィン」という微かな音と共に、白い冷気が立ち上っていた。

「誰だ、我の修行を邪魔する者は」 彼女の声は、研ぎ澄まされた氷の刃のように冷たく、感情の起伏が一切感じられない。

「我が名はユキヒメ。剣の道を極めんとして、この世界に堕ちた者」

ユキヒメの瞳は氷のように冷たく、しかし、その奥には激しい闘志が燃えていた。その闘志は、まるで底なし沼のように深く、カグヤは一瞬、その冷たさに引きずり込まれそうになる。「剣の道に終わりはない。故に我は永遠に修行を続ける。邪魔をする者は、全て斬る」 その言葉は、完璧な強さへの渇望と、それ以外の全てを排除する「勝利至上主義」を体現していた。彼女にとって、強さこそが唯一の存在理由であり、それが彼女の魂を蝕む毒にもなっていた。

ユキヒメが刀を抜くと、周囲の気温が更に「キュン」と下がる。肌が粟立ち、全身の産毛が逆立つような感覚があった。彼女の剣技は美しくも恐ろしく、一太刀一太刀に魂を込めた真剣勝負の構えだった。研ぎ澄まされた剣の切っ先が、カグヤの喉元を正確に捉える。

「待ってください」カグヤが前に出る。「私たちは争いを求めて来たのではありません。お話をお聞かせ願えませんか?」

「話?」 ユキヒメが眉をひそめる。その表情に、わずかな戸惑いが垣間見えた。彼女の生きてきた世界では、言葉よりも剣が全てを語っていたのだ。

「剣以外に語ることなど何もない。強くなることが我が全て」 その声には、一切の感情が排されているように聞こえる。

「なぜ、そこまで強さを求められるのですか?」 カグヤの問いに、ユキヒメの表情が一瞬揺らいだ。その瞳の奥で、氷の表面が「ピシッ」と微かにひび割れるような光景が、カグヤには見えた。

「強くなければ、守れないからだ」 その短い言葉に、計り知れない重みが込められていた。

「何を守るために?」

「――」 ユキヒメは答えなかった。しかし、その沈黙の中に深い痛みが込められていることを、カグヤは感じ取った。その痛みは、冷たい空気に溶け込み、カグヤの心をじんわりと冷やしていく。

「ユキヒメ様、あなたは一人でずっと戦い続けてこられたのですね」 カグヤの声は、凍てつく風の中で、それでも温かさを保っていた。

「一人?そうだ、剣の道は孤独なもの。頼れるのは自分の技のみ」 しかし、その言葉とは裏腹に、ユキヒメの瞳には寂しさが宿っていた。まるで、凍りついた湖の底に、小さな光が閉じ込められているかのようだ。

「でも、本当は誰かと共に歩みたいと思ったことがあるのではありませんか?」

「黙れ!」 ユキヒメが剣を振るうと、氷の刃がカグヤに向かって飛ぶ。「キィン!」と澄んだ音を立てて飛来する氷の刃は、空気を切り裂き、刺すような冷気を放った。しかし、シラヌイが素早く割って入り、天雷丸で氷を「ガシャッ」と砕いた。砕け散った氷の欠片が、宝石のようにきらめきながら地面に散らばる。

「カグヤ様、この者は対話を望んでいません」

「いえ、きっと心の奥では――」

その時、アカツキが口を開いた。「ユキヒメ殿、貴女の剣は美しい。だが、なぜそこまで己を追い詰める?」 彼の声には、修羅界でカグヤに救われた者としての、深い共感が込められていた。

「貴様に何が分かる」 ユキヒメの冷たい声が響く。

「分かる。我もまた、完璧を求めて自分を苦しめていた一人だからな」 アカツキの言葉に、ユキヒメの動きが止まる。その凍りついた表情に、微かな亀裂が入った。アカツキの言葉は、氷の壁に小さな熱を与えたかのようだった。

「貴女が守りたかったものは何だ?それを教えてくれれば、我も力を貸そう」

ユキヒメは長い沈黙の後、ついに口を開いた。その声は、先ほどまでの冷たさが嘘のように震えていた。まるで、氷が解け、その下の水が流れ始めるような響きだった。

「我には、幼い弟がいた」

その言葉と共に、ユキヒメの脳裏に、遠い日の記憶が鮮明に蘇る。まだ幼く、か細い弟の手を引いて、道場の裏庭で剣の素振りをしていたあの日々。弟の無邪気な笑顔。冬の縁側で、二人で温かい茶をすすった時の、あの微かな湯気の匂い。

「弟は病弱で、いつも我に守られていた。我は弟のために強くなろうと剣を学んだ。だが――」

ユキヒメの握る刀が微かに震える。その振動は、彼女の心の奥底で抑圧されてきた感情の揺らぎを伝えていた。「道場破りが現れた時、我は弟を守り切れなかった。技量不足だった我のせいで、弟は――」 その言葉の終わりには、強い後悔と、自責の念が滲んでいた。守れなかった自分への憎悪が、彼女を完璧な強さへと駆り立てる原動力となっていたのだ。その憎悪が、彼女の魂を氷漬けにしていた。

「それで、完璧な強さを求めるようになったのですね」カグヤが優しく声をかける。「弟の分まで強くなって、同じような悲劇を二度と起こさないために」

「そうだ。だが、どれほど強くなっても、あの時の後悔は消えない。完璧な技を身につけるまで、我は修行を続けなければならない」 ユキヒメの声は、凍りついた涙のようだった。

「ユキヒメ様」カグヤがゆっくりと近づく。「弟さんは、あなたが永遠に苦しむことを望んでいるでしょうか?」

「それは――」 ユキヒメの完璧な強さを求める心が、初めて揺らいだ。弟が本当に望んでいたものは、自分の苦しみではなかったと、心の奥底で理解し始めたのだ。

「きっと、お姉さんには幸せになって欲しいと願っているはずです。あなたの愛情は確かに弟さんに届いています。もう十分です」

カグヤの言葉が、凍りついたユキヒメの心を溶かしていく。ユキヒメの瞳から、一筋の涙が頬を伝った。それは何年も前に凍りついた感情の雫だった。涙が頬を伝う冷たい感触が、彼女の五感に生の実感を呼び戻す。

「だが、我はまだ――」

「完璧である必要はないのです。大切なのは、愛する心。それはあなたの中に確かに息づいています」

「愛する、心」 ユキヒメが刀を下ろす。その瞬間、彼女を包んでいた氷の冷気が「フゥッ」と音を立てて和らぎ、温かな光に変わった。周囲の雪が「サラサラ」と音を立てて溶け始める。彼女の刀から立ち上っていた冷気も消え、代わりに微かな花の香りが漂う。

「弟よ、許してくれ。姉は間違っていた」ユキヒメが空を見上げると、そこに弟の幻影が現れた。少年は微笑みながら、姉の頭を優しく撫でる。「お姉ちゃん、ありがとう。でももう大丈夫だよ」 幻影が消えると、ユキヒメは深く息を吐いた。その吐息は、もはや冷気ではなく、温かな湯気となって空に消えた。

「カグヤ殿、我もお供させていただきたい。この技を、今度こそ正しく使うために」 彼女の瞳には、かつての孤独な闘志ではなく、仲間と共に歩む新たな決意の光が宿っていた。

ユキヒメの魂は、憎悪と後悔の氷から解放され、憎しみを超えた赦しと共感、そして愛の暖かさを学んだ。彼女の強さは、誰かを守るための純粋な力へと昇華されたのだ。


修羅界の最深部、そこは無数の修羅たちが永遠の戦いを繰り広げる究極の戦場だった。地獄の釜のような熱気と、血と汗と泥が混じった強烈な生臭さが鼻腔を突き刺す。大地は震え続け、「ドドドドッ」という地鳴りと、耳を劈くような絶叫、そして武器が「キンキン」とぶつかり合う音が絶え間なく響いている。空には、禍々しい紫色の稲妻が「バリバリ!」と走り、一瞬、血の色に染まった戦場を照らし出す。それは、この世界の「勝利至上主義」という歪んだ秩序そのものが具現化した光景だった。

そしてその頂点に君臨するのが、修羅界の王オウガである。彼の立つ場所だけ、周囲の喧騒すらも吸い込まれるかのように静まり返っていた。

「よくぞここまで辿り着いた、天界の使者よ」 オウガは巨大な戦斧を担ぎながら、玉座から立ち上がった。その身長は三メートルを超え、全身に無数の戦いの傷跡を刻んでいる。彼の一挙手一投足から、圧倒的な「完璧な力」のオーラが放たれている。しかし、その瞳には他の修羅とは異なる深い知性と、疲弊の影が宿っていた。彼の放つ威圧感は、周囲の空気を「ズシン」と重くする。

「我が名はオウガ。かつては人間界で数多の戦場を駆け抜けた戦士。今は修羅界の王として、この世界の秩序を保っている」

「秩序、ですか?」 カグヤが問うと、オウガは苦笑した。その笑みには、この世界に対する諦めと、どこか自嘲にも似た感情が滲んでいた。

「戦いの中にも秩序はある。強者が弱者を守り、正義が悪を打つ。それが我の信じる世界の在り方だ」 その言葉には「絶対的な正義」を追求してきた戦士の矜持が込められている。だが、その正義は、力によって維持される「歪んだ完璧さ」だった。

「しかし、ここは永遠に争いが続く世界。それで本当に良いのでしょうか?」 カグヤは、この世界の根本的な矛盾を問いかけた。

「良い悪いの問題ではない。これが修羅の宿命だ。我らは戦うために生まれ、戦うために死に、そして戦うために蘇る」 オウガが戦斧を構えると、周囲の修羅たちが一斉に戦いを止めて注目した。王の戦いを見るためである。彼らの目はギラギラと輝き、そこには戦いへの渇望と、王への絶対的な服従が見て取れた。

「だが、天界の使者よ、一つ聞きたいことがある。貴女方は何のためにここに来た?」

「閻魔大王様にお会いするためです。冥府で起きている異変を止めなければなりません」

「閻魔王か」 オウガの表情が険しくなる。その顔に刻まれた古傷が、彼の苦悩を物語っていた。

「確かに最近、あの御方の裁きは厳しくなった。修羅界に送られる魂も増えている」

「それも異変の一つなのです。どうか、お通しください」

「ならば、我と戦え」 オウガが戦斧を振り上げる。空気が「ギュン」と震え、大地が「メリメリ」と音を立てる。彼の放つ闘気が、あたりに満ちる血の匂いをさらに強めた。

「修羅界を通る者は、王である我と戦わねばならない。それが掟だ」 その言葉には、揺るぎない「勝利至上主義」の信念が込められていた。彼の信じる秩序とは、力によってのみ維持されるものだったのだ。

「オウガ様、私たちは争いを望みません」 カグヤは一歩も引かない。

「戦いを恐れる者に、閻魔王と対峙する資格はない。さあ、来い!」 オウガが戦斧を振り下ろすと、大地が「ドォォォン!」と割れて炎が噴き出す。その威力は他の修羅とは桁違いだった。灼熱の炎が「ボォォッ」と燃え上がり、カグヤの肌をじりじりと焼く。

シラヌイとアカツキ、ユキヒメが迎え撃つが、オウガの力は圧倒的だった。戦斧の一振りで三人を「グワッ!」と吹き飛ばしてしまう。彼らは地面に叩きつけられ、「ゴロゴロ」と転がった。全身に鈍い痛みが走る。

「これが修羅界の王の力か」シラヌイが唸る。口の中に、血の味が広がった。「我らでは太刀打ちできません」

その時、カグヤが前に出た。彼女の足元には、燃え盛る炎が舌のようにうねっている。

「オウガ様、戦いではなく、お話をしませんか?」 カグヤの声は、戦場の喧騒の中にあって、不思議と澄んで響いた。

「話だと?戦場で話など――」 オウガの声に、わずかな動揺が走る。彼の経験則では、戦場で言葉を交わすなど、ありえないことだった。

「あなたは本当に戦いだけを望んでいるのですか?」 カグヤの問いに、オウガの動きが止まる。その巨体が、まるで巨石のように微動だにしなくなった。彼の瞳の奥で、戦士の闘志とは異なる、深い思考の光が揺らめく。

「この修羅界で、あなたは王として皆を導いている。それは戦士としての強さだけでなく、慈悲の心があるからではないでしょうか?」

「慈悲だと?我は修羅だぞ」 オウガは鼻で笑った。だが、その笑いには、どこか戸惑いが混じっていた。

「はい。しかし、慈悲深い修羅王です」 カグヤが指差すと、そこには傷ついた下級修羅を介抱するオウガの部下たちがいた。彼らは王の行動を見て、傷ついた仲間を助けていたのだ。その光景は、血と硝煙に満ちた修羅界の風景の中で、一際異彩を放っていた。

「この世界にも、弱い者を守る心がある。それはあなたが示したものでしょう?」

オウガは暫し沈黙した後、戦斧を地面に置いた。「ドン!」と鈍い音が鳴り、大地が「ズシン」と揺れた。

「見抜かれたか。確かに我は、ただ戦うだけの修羅ではない」 彼の声には、隠し続けてきた本音が滲んでいた。彼もまた、己の信じる「完璧な力」と「絶対的な正義」の裏で、孤独な戦いを続けていたのだ。その疲弊が、彼の瞳の奥に深い影を落としていた。

「どのような想いで、この世界を治めておられるのですか?」

「我は生前、傭兵として各地を転戦した。金のため、名誉のため、様々な理由で戦った。だが、最期は――」 オウガの瞳に、遠い記憶が蘇る。それは、血と汗と泥にまみれた、彼の人生の終着点だった。土と鉄の匂い、そして微かな血の匂いが、その記憶を鮮明に呼び覚ます。

「小さな村を守るために戦い、そして死んだ。金にもならない、名誉にもならない戦いだったが、それが我の人生で最も誇らしい戦いだった」 その言葉は、修羅王の咆哮ではなく、一人の戦士の真情だった。彼が追い求めていた「完璧な力」とは、誰かを守るための力だったのだ。

「村の人々を守るために」 カグヤは優しく繰り返した。

「そうだ。だからこそ、修羅界でも同じことをしている。強い者が弱い者を守る。それが我の正義だ」 オウガが立ち上がり、カグヤを見つめる。彼の巨体から放たれる威圧感は変わらないが、その眼差しには、もはや敵意はなかった。

「天界の使者よ、貴女もまた、弱い者を守るために戦っているのか?」

「はい。人間界の魂たち、そして冥府に囚われた方々を救うために」

「ならば、我もその戦いに加わろう」 オウガが戦斧を担ぎ直す。その重厚な戦斧が「ゴトン」と音を立てた。その音は、新たな決意の響きのように聞こえた。

「修羅界の王として、正義の戦いに参戦する。閻魔王に会うがよい。だが、気をつけろ。あの御方は以前の慈悲深い裁定者ではない」

「ありがとうございます、オウガ様」 カグヤが深く頭を下げると、修羅界の全ての戦士が武器を置いて敬礼した。「ザワッ」という地鳴りのような音と共に、彼らの瞳に戦い以外の光が宿る。王が認めた者への敬意の表れだった。彼らもまた、オウガの背中を見て、真の強さとは何かを学び始めていたのだ。

修羅界の出口で、オウガは最後の言葉を告げた。「カグヤ殿、修羅界で学んだことを忘れるな。戦いには必ず理由がある。そして、真の強さとは他者を守る力だということを」

「はい、心に刻みます」

「オウガ王、ありがとうございました」

「では、いずれまた会おう。必ず生きて戻って来い」 オウガが手を振ると、修羅界の門がゆっくりと「ギギギ…」と音を立てて開いた。その向こうには、冥府の更なる深層が待ち受けている。そこには、今までとは比べ物にならないほどの冷気が漂っていた。

アカツキ、ユキヒメは、修羅界に残る事にした。修羅界で学んだのは、戦いの意味と、仲間の大切さ。そして、どんなに厳しい試練の中にも、理解し合える心があるということだった。彼らはこの修羅界で、新たな秩序を築き、憎悪の連鎖を断ち切るために、それぞれの「正義」を貫くことを選んだ。彼らの瞳には、もはや過去の憎悪や後悔の影はなく、未来を見据える確かな光が宿っていた。

カグヤの心には、修羅界で学んだ「憎しみを超えた赦しや共感」の教訓が深く刻まれていた。真の強さとは、相手を打ち倒すことではなく、その心の奥にある苦しみを受け入れ、共に乗り越えることなのだと。

修羅界の戦場は、相変わらず血と鉄の匂いに満ちていた。大地は「ドドドドッ」と唸り、空からは紫色の稲妻が「バリバリ!」と轟音を立てて閃く。しかし、その喧騒の中に、わずかな変化が生まれ始めていた。血の赤に染まった空に、ごく稀に、薄い紫や藍色が混じり、戦場の熱気も、以前よりはわずかに和らいでいるように感じられる。武器同士がぶつかり合う「キンキン」という甲高い音も、以前よりはいくらか鈍く、あるいは途切れる瞬間が増えていた。

アカツキは、かつて民を守れなかった悔恨に苛まれ、闇の中で孤独に大太刀を振るっていた日々の記憶を繰り返し追体験していた。その刃は、裏切り者への憎悪、守れなかった弱き者たちへの自責の念に、赤く染まっていた。「完璧な正義」を追い求め、力こそ全てと信じていたあの頃。血の混じった土の匂い、焼き焦がれた木々の煙、そして何よりも、民の断末魔の叫びが、彼の脳裏から離れることはなかった。「俺は、あの時、完璧に民を守れなかった…!」

しかし、カグヤの言葉が、その鋼のような心を少しずつ揺さぶり続けていた。「憎しみを手放すことは、敵を許すことではありません。あなた自身を苦しみから解放することです。」その声が、彼の魂の奥底に静かに響く。「怒りの炎で自分を焼き続けることが、本当に民への愛でしょうか?」

(ああ…そうなのかもしれない…)

アカツキは、かつての自分と同じように憎悪に囚われた修羅たちを前に、いかにして「赦し」の道を説くべきか、日々試行錯誤していた。

ある日、一人の修羅が血まみれの剣を振り上げ、復讐を叫んでいた。 「我が家族を奪った奴らを許せるものか!この憎しみがある限り、俺は戦い続ける!」 アカツキは、その修羅の顔を見て、かつての自分を重ねた。燃え盛る怒りの炎、血走った瞳、乾いた唇。 「おい、待て」 アカツキの声は、相変わらず荒々しいが、以前のような殺意は込められていなかった。「その憎しみ、お前を前に進ませてるのか?」 「うるせぇ!お前にはわかるまい!」 「…分からぬ、だと?俺もそうだ。家族も、領民も、全て奪われた。裏切りによってな」 アカツキは自らの過去を語った。その言葉には、カグヤから学んだ「共感」の心がわずかに宿り始めていた。彼の荒々しい言葉遣いの節々に、カグヤの持つ包み込むような優しさの片鱗が混じり始めている。「だがな、その憎しみは、お前の魂を焼き尽くすだけだ。本当に守りたかったものは何だ?復讐の先にあるのは、新たな憎しみだけだぞ」 修羅は武器を構えたまま、その言葉に微かに動きを止めた。彼の心に「ピシッ」と、目に見えない亀裂が入ったような音が響いた。

ユキヒメは、弟を守れなかった無力感と、完璧な強さへの執着に囚われていた過去を繰り返し追体験していた。彼女にとって剣は、唯一の救いであり、孤独な魂を支える全てだった。氷のように冷たい空気の中で、彼女はひたすらに剣を振るい続けた。刃が空気を切り裂く「ヒュン、ヒュオォォ」という冷たい音だけが、彼女の周りに存在していた。その音は、まるで彼女自身の心の寂しさを映し出すかのようだった。

しかし、カグヤとアカツキの言葉が、いかに彼女の凍りついた心を溶かしたのかを繰り返し描写する。 「弟さんは、あなたが永遠に苦しむことを望んでいるでしょうか?」というカグヤの優しい問い。 「分かる。我もまた、完璧を求めて自分を苦しめていた一人だからな」というアカツキの共感に満ちた言葉。 それらの言葉が、彼女の心の奥底に染み込み、凍てついた氷の表面に「チリン」と、小さな氷の砕ける音が響いた。

彼女は、かつて自身の孤独に沈んでいたように、今度は他者の孤独に寄り添おうと試みていた。 ある日、ユキヒメは、絶望の淵で項垂れている修羅を見つけた。その修羅は、敗北によって全てを失い、生への執着も失っていた。修羅の顔には、生気のない土のような色が張り付いていた。 ユキヒメは、ゆっくりと近づいた。かつての彼女ならば、その修羅に何の興味も示さなかっただろう。 「何をしている」 ユキヒメの声は、まだ冷たいが、以前のような感情の排他性はなかった。 修羅は顔を上げた。「もう…終わりだ。全て失った」 「失ったものに囚われていては、何も見えなくなる」 「貴様に何が分かる」 修羅は虚ろな瞳でユキヒメを見た。 「分かる。私にも、大切な存在がいた。だが、守れなかった。完璧な強さがあれば、と…そう思っていた」 ユキヒメは、自らの過去の過ちを語り始めた。彼女の冷たい表情の中に、微かな慈愛の光が宿っていく。それは、凍てついた湖の底から、小さな命の光が揺らめき始めたかのようだった。「だが、それは間違いだった。強さだけでは何も解決しない。大切なのは、失ったものを認めること…そして、そこから立ち上がることだ」 修羅は、ユキヒメの言葉に耳を傾けた。彼の心に「ピシッ」と、新たな亀裂が入る音がした。

修羅界の他の魂たちが、過去の戦いや憎悪に囚われたままでいる様子は、未だ変わらなかった。武器を振り回し、叫び声を上げ、互いに傷つけ合う光景が延々と続いていた。血の匂いと、焦げ付くような硫黄の匂いが、彼らの怒りをさらに煽る。

そこへアカツキとユキヒメが、カグヤから学んだ「赦し」の心を伝えようと試みる場面を繰り返す。 最初は反発される。

「黙れ!この裏切り者めが!俺たちの憎しみを侮辱する気か!」 一人の修羅が、鋭い「シャキン!」という音と共に剣を突き出した。 アカツキは、その剣の切っ先を恐れることなく、まっすぐ見つめた。 「憎しみは、お前を盲目にするだけだ。その剣で、本当に守るべきものが見えているのか?」 彼の真摯な眼差しと、力強い言葉に、修羅は剣を引いた。その心に「ピシッ」と、新たな亀裂が走った。

ユキヒメもまた、絶望に打ちひしがれた魂たちに語りかけた。 「強さだけが全てではない。過去に囚われ、未来を閉ざすのは、愚かなことだ」 彼女の声は冷たく澄んでいるが、その言葉には深い共感が宿っていた。 「私と共に、新たな一歩を踏み出す勇気を持て」 ユキヒメの言葉に、修羅たちの動きが止まる。彼らの心に、微かな「ピシッ」という音が響き、顔に刻まれた憎悪の皺が、わずかに緩んだ。

血の赤だった空に、薄い紫や藍色が混じる瞬間が増え、戦場の熱気が、わずかに和らいでいる。血の匂いの中に、かすかに土の匂いが混じり始め、武器同士のぶつかる音が、以前よりも鈍くなる、あるいは減るといった変化が、ごく自然に、しかし確実に起こっていた。修羅たちの表情にも、ごくわずかだが、怒り以外の感情が浮かび上がる瞬間が見られるようになっていた。彼らの心の奥底で、かつての記憶と共に、新たな感情が芽吹き始めていたのだ。


そして、ある日。

アカツキは、かつて憎悪に燃えていた修羅たちを前に、静かに、しかし確かな声で語りかけていた。彼の言葉は、もはや荒々しいだけではなく、カグヤから受け継いだ慈愛の光を帯びていた。 「我らは、確かに憎しみに囚われていた。だが、憎しみだけでは何も生まれない。憎しみの先に、赦しと共感、そして愛があることを、我は学んだ。貴様たちもまた、自らの魂を解き放つ時だ」 修羅たちは、武器を地面に置き、静かに耳を傾けていた。彼らの瞳には、かつての憎悪の炎ではなく、深い思索の光が宿っていた。心に走った無数の「ピシッ」という亀裂が、やがて大きな割れ目となり、そこから清らかな光が漏れ始めていた。

ユキヒメは、凍りついた心を抱える修羅の隣に座り、静かにその背を撫でていた。彼女の冷たい手から、温かな光が伝わり、修羅の凍てついた心を溶かしていく。 「孤独ではない。私たちは共にいる。一人ではないことを、忘れるな」 その言葉は、修羅の心を深く癒やし、彼の顔に、安堵の表情が浮かんだ。彼女の冷たい表情の中に宿った慈愛の光は、もはや微かなものではなく、確かな輝きを放っていた。

アカツキとユキヒメは、カグヤの旅立ちを静かに見送った。彼らの瞳には、もはや過去の憎悪や後悔の影はなく、修羅界に新たな秩序を築くという確固たる決意の光が宿っていた。修羅界の空は、まだ完全に晴れ上がってはいないが、血の赤の中に、確かに希望の紫と藍色が広がり始めていた。戦場の熱気は和らぎ、血の匂いは薄れ、遠くで聞こえる武器の音も、以前よりは静かに響いていた。

「カグヤ殿、必ずや閻魔大王を救い、この世に真の光を取り戻してください」アカツキが、力強く言った。

「我らも、この修羅界で、貴女の意志を継ぎましょう」ユキヒメの声は、澄んで響いた。

カグヤは深く頷き、次の試練への門をくぐった。修羅界での学びは、彼女の魂に深い刻印を残した。憎しみを超えた赦しと共感。そして、どんな歪んだ完璧さの中にも、真の愛の光を見出すことができるのだと。それは、冥府の奥深くで待ち受ける真の敵との戦いにおいて、最も重要な力となるだろう。


四、人間界の試練

一、久留米の喧騒

地獄界の業火と苦痛が消え去り、カグヤとシラヌイの足元は、突然、アスファルトの熱を帯びた舗道へと変わった。全身を包む空気は、硫黄の臭気ではなく、ふと、熱気を帯びた空気の中に、濃厚な豚骨ラーメンの香りが『フワリ』と漂い、食欲を刺激する。雨上がりのアスファルトからは、独特の湿った土と排気ガスの匂いが混じり合って立ち上り、鼻腔をくすぐった。それは、生と死、苦痛と快楽が混在する、人間界の匂いだった。

視界は色鮮やかな光と影に満ち、人々が忙しく行き交う久留米の商店街は、活気に満ちた絵画のようだ。新緑の並木道から見える筑後川は、陽光を浴びてキラキラと輝き、遠くのビルの窓ガラスに空が映り込む。天界の完璧な調和とも、畜生界の生存競争とも、餓鬼界の乾ききった絶望とも、地獄界の深紅の苦痛とも異なる、混沌とした生命の輝きがそこにはあった。シラヌイは、その膨大な情報量と色彩の奔流に、微かに目を細める。彼の琥珀色の瞳は、初めて見る人間界の光景を、瞬時に解析しようとしているかのようだ。

耳には、車の走行音と、様々な言語と方言が入り混じる人々の話し声が『ガヤガヤ』と届く。遠くから『ガタンゴトン』と西鉄電車の通過する音が聞こえ、時折、地元の祭りの練習だろうか、軽快な太鼓の音が『ドン、ドン、カラカラ』と風に乗って運ばれてくる。それは、無数の人生が織りなす、途切れることのない交響曲。天界の清らかな音楽とも、畜生界の悲鳴とも、餓鬼界の乾いた咳とも、地獄界の断末魔とも違う、生きることの『ワアワア』とした喧騒だった。

頬を撫でる夏の微風は、湿度を含んでわずかに肌にまとわりつく。足元の舗道は熱を帯びており、ふと触れたビルの壁は、無機質なコンクリートの冷たさを指先に伝えた。ポケットの中のスマートフォンの冷たい感触が、日常との繋がりを思い出させる。カグヤは、自身がこの人間界の姿を得ていることに気づく。それは、見慣れた神の姿ではなく、ごく普通の青年の姿だった。シラヌイもまた、カグヤと同じく、現代の衣服を身につけた人間の姿に変わっていた。

口の中には、昼食に口にした久留米ラーメンのスープは、濃厚な豚骨の旨味が舌の上に深く広がり、食後のコーヒーは、微かな苦味と共にホッと一息つく感覚を与えた。それは、単なる飢えを満たす味ではない。日々の営みの中で、ささやかな喜びと安らぎを見出す味だった。

「ここが……人間界の試練か」カグヤは、久留米の街並みを見渡し、静かに呟いた。 シラヌイは、周囲を行き交う人々を観察するように、ゆっくりと首を巡らせる。 「情報量が膨大だ。そして、不完全な存在の集合体……」

二、不完全な調和の中で

人間界に降り立ってから、カグヤとシラヌイは、様々な人間たちと出会った。彼らは、完璧な存在ではなかった。時には感情的になり、過ちを犯し、互いに傷つけ合うこともあった。約束を破る者、嘘をつく者、利己的な行動に走る者。その「不完全さ」は、天界の秩序、畜生界の本能、餓鬼界の渇望、地獄界の苦痛とは異なる形で、カグヤの心を揺さぶった。

ある日、彼らは久留米の路地裏で、小さな子猫を助けようとしている少女と出会った。子猫は車に轢かれそうになり、足を怪我していた。少女は、周りの目を気にせず、ただ必死に子猫を助けようとしていたが、一人ではどうすることもできない。彼女の顔には、恐怖と焦り、そして子猫への深い愛情が入り混じっていた。

「助けて……この子を助けてあげて……!」

少女は、通り過ぎる大人たちに助けを求めたが、皆、忙しそうに足早に去っていく。あるいは、面倒ごとに巻き込まれたくないという顔で、視線を逸らした。カグヤの心に、この人間関係の「不完全さ」が、鋭く突き刺さる。天界のような無条件の慈愛もなく、畜生界のような明確な生存本能もない。餓鬼界のように欲望に囚われ、地獄界のように罪に苦しむわけでもない。ただ、無関心という名の壁が、そこに横たわっている。

その時、カグヤの脳裏に、かつて人間界で母上(天照大御神)から教えられた言葉が蘇った。 「人間は、不完全な存在。だが、その不完全さの中にこそ、真の輝きが宿る」

カグヤは、シラヌイと共に少女に歩み寄った。シラヌイは、無言で子猫の怪我の具合を確認する。その指先は、戦場で鍛えられた武人のそれでありながら、驚くほど繊細だった。

「大丈夫だよ」カグヤは少女に優しく語りかけた。「私たちが、この子を助けてあげる」

カグヤは、子猫を抱き上げ、シラヌイは傷の手当てを手伝った。手慣れたシラヌイの処置に、子猫は『ミャー』と小さな声で鳴き、安堵したように体を預けた。少女は、その光景に、瞳に涙を溜めながらも、満面の笑顔を浮かべた。その笑顔は、雨上がりのアスファルトに映る虹のように、不完全な世界の中に、確かに存在する美しさだった。

「ありがとう……ありがとう……!」

少女は、何度も何度も頭を下げた。その感謝の言葉が、カグヤの心に温かく響いた。それは、天界の完璧な祝福とも、畜生界の生存の証とも、餓鬼界の幻影の満たしとも、地獄界の赦しとも違う、不完全な人間関係の中で、互いが支え合うことによって生まれる、小さな、しかし確かな温かさだった。

その時、カグヤの周囲の空気の中に、微かな、しかし清らかな、新しい命の息吹のような香りが混じり始める。それは、商店街の豚骨ラーメンの香りと混じり合い、甘く、どこか懐かしい匂いとなった。

「(冥府の閻魔大王は、この人間界の不完全さを、一体どのように裁こうとしているのだろうか……)」

試練の光が、カグヤとシラヌイの全身を包み込む。カグヤは、少女が子猫を抱きしめる姿を見つめながら、その光の中に立つ。彼の心の中に、揺るぎない確信が生まれた。真の慈愛とは、完全な秩序の中にのみ存在するものではない。不完全な人間関係の中にこそ、支え合い、赦し合い、そして温かさを感じ合う「真の繋がり」があるのだと。

「……人間とは、面白いものだな」

シラヌイの声が、静かに響いた。彼の瞳には、かつてないほど、深く複雑な光が宿っていた。

カグヤの瞳に、新たな決意の光が宿った。彼は、隣に立つシラヌイと共に、次の試練へと向かう準備を始めた。彼らの進むべき道は、まだ続く。しかし、その混沌とした人間界の中にも、真の温かさを見出すことができると信じて。


五、畜生界の本能

一、剥き出しの生存

天界の光を背に、カグヤとシラヌイの足元は、一瞬にして硬く、湿った土の感触に変わった。先ほどまでの甘美な香りは消え失せ、肺腑には、湿った土の匂いと、獣独特の混じり合った体臭が鼻腔にまとわりつく。時折、風に乗って運ばれてくる微かな血の匂いが、新たな危険の兆候として本能を刺激した。天界の完璧な秩序とは真逆の、剥き出しの生存の匂いだった。

視界は常に、生存のための色彩に満ちている。草食動物の群れが駆け抜けるたびに土煙が舞い上がり、遠くの茂みには肉食獣の鋭い眼光が光る。地面には、命のやり取りの証である血の痕が、乾いた土と混じり合って残されていた。空は重く垂れ込め、太陽の光もどこか弱々しい。

耳には、獲物を追う獣の唸り声が『ゴオォ』と低く響き、それに続く獲物の『キャアッ』という悲鳴が、森の静寂を一瞬で破る。風が木々の間を吹き抜け、『ザワザワ』と葉を揺らす音も、常に周囲への警戒を促す。天界の調和の旋律とは異なり、ここでは全ての音が、生と死、捕食と逃走の残酷なリズムを刻んでいた。

四肢で大地を掴む感覚が、常に足裏に伝わる。泥のぬかるみ、岩の硬さ、草の柔らかさ。毛皮は雨や風から身を守るが、肌を刺すような冷たい風が、獲物を追う身体に容赦なく打ち付けられた。カグヤは、自身が今、何かの獣の体を得ていることに気づいた。その肉体には、人間だった頃の繊細さはなく、ただ生きるための筋肉と本能が脈打っている。シラヌイもまた、鋭い牙と爪を持つ、巨大な狼のような姿に変じていた。その琥珀色の瞳は、依然として冷静な光を宿している。

口の中には、まだ温かい獲物の血と肉の生臭さが広がり、勝利と生存の味を舌に刻む。飢えを満たすために口にした草は、青々とした苦みが残った。天界の蜜のような味とは異なり、ここでは全てが、生きるための切実な味がした。

「ここが、畜生界の試練か……」カグヤが低く呻いた。 シラヌイは、地面に鼻を擦りつけ、周囲の匂いを嗅ぎ取る。 「この空間は、純粋な本能が支配している。思考や感情は、生存の前には無意味」 彼の声もまた、獣の喉から発せられるような唸りを含んでいた。

二、生存の螺旋の中で

彼らがこの畜生界に降り立ってから、幾日、いや、幾週間が過ぎたのか。時間の感覚すら曖昧になるほど、彼らはただひたすらに、生き延びるためだけに駆り立てられていた。肉を喰らい、水を求め、時に己よりも強い獣から逃れ、時に己より弱い獣を捕らえ、その命を喰らった。カグヤは、天界での「感情の揺らぎの中にある美しさ」という学びが、この本能の世界ではいかに無力であるかを痛感させられていた。飢えは思考を奪い、恐怖は行動を支配する。

ある日、カグヤとシラヌイは、深い森の奥で、瀕死の幼獣を見つけた。それは、まだ目も開いたばかりのような、小さな狐の子供だった。親獣の姿はなく、おそらく肉食獣の襲撃から逃げ延びたものの、置き去りにされたのだろう。血を流し、か細い鳴き声を上げている。

カグヤの獣としての本能は、その幼獣を「獲物」として認識した。弱く、抵抗しない獲物。飢えに苛まれる胃が、その小さな命を喰らえと叫んでいる。口の中に唾液が満ち、牙がチリチリと疼く。しかし、彼の神としての心、人間界で培った慈愛が、その本能に抗った。

「シラヌイ……」カグヤは苦しげに呻いた。 シラヌイは、無表情に幼獣を見つめている。彼の瞳にも、狩人としての冷徹な光が宿っていた。 「喰らうか、見殺しにするか。それが、この世界の掟だ」 シラヌイの言葉は、この畜生界の真理を突いているかのようだった。

カグヤは、葛藤した。本能に従えば、飢えは満たされる。しかし、それでは、天界で学んだ「感情の揺らぎの中にある美しさ」が、意味をなさなくなる。彼は、この小さな命の瞳の中に、微かな恐怖と、生きようとする僅かな光を見た。それは、人間が絶望の淵で見せる、あの小さな希望の灯と、何ら変わりないものだった。

その時、カグヤの脳裏に、幼い頃の記憶が蘇った。人間界で、初めて命の尊さを教えられた瞬間だ。まだ幼かったカグヤは、傷ついた小鳥を拾い上げ、どうすれば良いかわからずに立ち尽くしていた。その時、慈愛に満ちた母上(天照大御神)の声が、心に響いたのだ。「命あるもの全てに、等しく慈しみの心を向けなさい。それが、真の愛だ」。その言葉は、彼の心に深く刻み込まれていた。

「いいや……違う」カグヤは、震える声で言った。「この世界にも、本能を超えた繋がりがあるはずだ」

カグヤは、自らの喉を鳴らす本能に抗い、幼獣に近づいた。傷口から流れる血の匂いが、彼の獣の本能をさらに刺激する。シラヌイは、僅かに眉をひそめたが、何も言わずカグヤの行動を見守った。

カグヤは、牙を剥く代わりに、幼獣の頭を優しく舐めた。その舌からは、血の匂いではなく、彼の内にある慈愛の光が、温かい雫となって幼獣の傷口に染み渡っていくかのようだった。幼獣は、最初こそ警戒していたが、カグヤの温かさに触れ、やがて安堵したかのように、彼の体に擦り寄ってきた。その小さな震えが、カグヤの全身に伝わる。

その瞬間、カグヤの口の中に広がっていた獲物の生臭い血の味が、清らかな甘みに変わった。身体の内側から、満たされていく感覚。それは、飢えが満たされるのとは違う、魂が満たされる感覚だった。

シラヌイの目が、大きく見開かれた。彼の琥珀色の瞳の奥に、微かな驚きが宿る。彼もまた、この畜生界で、純粋な本能とは異なる「何か」が芽生えたことを感じ取ったのだ。

「これだ……」カグヤは、安堵の息を漏らした。「本能を超えた慈悲。そして、それによって生まれる、魂の繋がり。この命のやり取りだけの世界で、それでもなお、互いを慈しみ、支え合う心……それが、真の愛の形だ」

彼らの周囲の森の空気が、微かに変化したように感じられた。血と土の混じった匂いの中に、かすかな、しかし清らかな、新しい命の息吹のような香りが混じり始める。そして、遠くで響いていた獣の唸り声も、どこか穏やかなものに変わったかのようだった。

試練の光が、カグヤとシラヌイの全身を包み込む。カグヤは、幼獣を抱きしめたまま、その光の中に立つ。彼の心の中に、揺るぎない確信が生まれた。真の慈愛とは、ただ秩序を保つことでも、感情を排除することでもない。本能に抗い、弱き者に手を差し伸べ、生命の繋がりを慈しむことなのだと。

「(冥府の閻魔大王もまた、本能と慈悲の狭間で苦しんでいるのだろうか……)」

カグヤの瞳に、新たな決意の光が宿った。彼は、隣に立つシラヌイと共に、次の試練へと向かう準備を始めた。彼らの進むべき道は、決して容易ではない。しかし、その道には、本能を超えた慈悲と、魂の深いつながりがあると信じて。


六、餓鬼界の飢え

一、尽きぬ渇きの大地

畜生界の試練を終え、カグヤとシラヌイの足元は、一瞬にして乾ききった砂塵の渦へと変じた。背筋を這い上がるような熱気と、肺を焦がす乾きが、容赦なく二人を襲う。

視界は、眩い天界の光とも、生命の蠢く畜生界の色とも異なる。見渡す限り、土は深くひび割れ、生命の兆しはどこにもない。遠くまで広がる地平線は、陽炎に揺れ、蜃気楼のように歪んで見える。彷徨う魂たちは皆、骨と皮ばかりに痩せこけ、窪んだ瞳の奥には尽きることのない飢えと渇きが宿っている。彼らは、まるで生ける屍のように、ただただ虚空に手を伸ばし、何かを求め続けていた。シラヌイの無表情な顔にも、微かな不快の影が走る。

耳には、喉を掻きむしるような乾いた咳が、『ゴホッ、ゴホッ』と絶え間なく響く。微かな水の音や食べ物の幻聴に、魂たちはかすれた声で『水…水…』と呻きながら、よろめきつつ手を伸ばす。その声は、渇ききった砂漠の風に乗って『ヒュー』と悲しげに運ばれ、カグヤの心の奥底に染み込んだ。

鼻腔の奥には、乾ききった土埃の匂いがこびりつき、肺の奥まで『ゴワゴワ』とした不快感が広がる。時折、風に乗って運ばれてくる幻の甘い匂いが、彼らを狂わせる。それは、人間界の豊かな香気とも、天界の清らかな香りとも違う、ただただ心を苛む甘い幻臭だった。カグヤは思わず鼻を覆う。シラヌイは、じっとその匂いの源を探るように、静かに呼吸を繰り返していた。

日差しは肌を容赦なく焼き、全身の皮膚は紙のように乾燥し、わずかな風にも粉が舞い上がる。内側から湧き上がる飢餓感が、胃を焼くように締め付けた。足を踏み出すたびに、砂が『ザリザリ』と音を立て、熱が足裏から全身に伝わる。かつて天界で感じた絹のような風も、畜生界の肌を刺す風も、ここでは比ではない。ただただ、存在そのものを削り取るような乾きが、彼らを苛む。

口の中は常に砂漠のように乾き切り、舌はザラザラと荒れる。どんなに唾液を絞り出そうとしても、ただ苦い砂の味しか感じられない。喉は焼け付くように乾き、言葉を発することすら億劫になる。

「これが……餓鬼界……」カグヤは、掠れた声で呟いた。 シラヌイは、無言でカグヤの傍らに立ち、その瞳で周囲の魂たちを観察している。彼の体からも、微かな熱気が立ち上っていた。

二、幻影の宴

彼らが餓鬼界に足を踏み入れてから、時間は無限に引き延ばされたかのようだった。飢えと渇きは、魂を削り取り、思考を鈍らせる。カグヤもシラヌイも、その肉体は次第に痩せ細り、意識が朦朧としてくる。

そんな中、目の前に突然、豪華な宴の光景が広がった。

『ジャーン!』という陽気な音楽が響き渡り、香ばしい肉の焼ける匂い、新鮮な果物の甘い香り、透き通るような水の匂いが、鼻腔をくすぐる。 視界には、金銀財宝に彩られたテーブルに、山と積まれたご馳走が並ぶ。湯気を立てる温かいスープ、色とりどりの果物、焼きたてのパン。人々は歓声を上げ、笑い合い、満足げにそれらを貪っていた。グラスに注がれた水は『キラキラ』と輝き、喉を潤す幻影が、脳裏を支配する。

「水……食べ物……!」

餓鬼たちは、狂ったようにその幻影へと殺到する。しかし、どれほど手を伸ばしても、その指は空を切るばかり。口を開けば、幻の食べ物は砂に変わり、水は瞬く間に蒸発してしまう。絶望の呻きが、『ウワアアアア』と虚しく響き渡る。

カグヤもまた、その幻影に引き寄せられた。渇ききった喉が、幻の水を求めて『ゴクリ』と音を立てる。手が、無意識にテーブルの上の果物へと伸びる。

その時だった。

「カグヤ」

シラヌイの低く、しかし感情のこもった声が、カグヤの耳元で響いた。彼の瞳は、幻影に惑わされることなく、まっすぐにカグヤを見つめていた。その手には、自らの剣をしっかりと握りしめている。

「これは、幻だ」

シラヌイの言葉は、まるで冷たい水を浴びせられたかのように、カグヤの意識を現実に引き戻した。彼の目の前にあるご馳走は、確かに存在しない。ただ、果てしない渇望が生み出した虚像に過ぎない。

カグヤは、はっと我に返った。自分が、この飢えと渇きの本能に、完全に支配されかけていたことに気づく。

(そうだ。天界で学んだ。完璧なものが、必ずしも真実ではない。そして、畜生界で学んだ。本能に抗い、慈悲を向けること……)

カグヤは、幻影の宴から視線を外し、周囲にいる餓鬼たちを見た。彼らは、永遠に満たされることのない渇望に囚われ、狂気にも似た目をしていた。彼らの苦しみは、幻の食べ物や水を追うことで、さらに増幅されている。

「彼らは……永遠に、この幻に囚われ続けるのか……」

カグヤの心に、深い悲しみが押し寄せた。飢えと渇きを満たすこと。それは生きる上での根源的な欲求だ。しかし、この餓鬼界では、その欲求が魂を縛り付け、苦しめる鎖となっている。

カグヤは、自らの喉の渇きと、胃を焼く飢餓感を意識的に感じ取った。その痛みは確かに存在する。しかし、その痛みに囚われるのではなく、その痛みの先にある「真の満たし」を求めるべきではないのか。

彼は、傍らにある乾ききった土を一握り掴んだ。その土は、彼の指の間から『サラサラ』とこぼれ落ちていく。 カグヤは、その土を口に含んだ。砂の味が、舌の奥に広がる。 「これが……現実の味だ」

そして、彼は大きく息を吐き出した。身体の内側で、何か温かいものが生まれるのを感じた。それは、飢えや渇きを無理に満たすことではなく、それらを受け入れ、そしてそれらを超越しようとする意志の力だった。

幻影の宴は、カグヤのその行動を境に、ゆっくりと薄れていった。煌びやかな光は色褪せ、心地よい音楽はただの風の音へと戻る。香しい匂いは消え、再び鼻腔に乾いた土埃の匂いが戻ってきた。餓鬼たちは、消えゆく幻影を追いかけ、それでもなお『ウウッ、ウウッ』と呻き続けている。

試練の光が、カグヤとシラヌイの全身を包み込む。カグヤは、餓鬼たちを見つめながら、その光の中に立つ。彼の心の中に、揺るぎない確信が生まれた。真の満たしは、物質的な充足や幻影を追い求めることではない。それは、自身の内なる欲求と向き合い、それらに囚われることなく、魂そのものを慈しみ、受け入れることなのだと。

「……見つけたか、カグヤ」

シラヌイの声が、静かに響いた。彼の琥珀色の瞳は、いつになく深く、カグヤの成長を認めるかのように微かに揺らめいていた。

「(冥府の閻魔大王は、魂の欲求を、一体どのように扱おうとしているのだろうか……)」

カグヤの瞳に、新たな決意の光が宿った。彼は、隣に立つシラヌイと共に、次の試練へと向かう準備を始めた。彼らの進むべき道は、まだ続く。しかし、その乾ききった大地にも、真の満たしを見出すことができると信じて。


七、地獄界の絶望

一、深紅と漆黒の帳

餓鬼界の乾ききった大地から、カグヤとシラヌイの足元は、一瞬にして灼熱の岩盤へと変わった。肺腑を抉るような熱気が一気に全身を包み込み、呼吸するたびに喉が『ゴホッ』と音を立てて焼ける。

視界は常に深紅と漆黒に覆われ、燃え盛る炎が虚空に奇怪な影を踊らせる。その影は、まるで過去の罪が具現化したかのように、見る者の心を苛む。時折、業火から飛び散る溶岩の飛沫が『パチパチ』と音を立て、暗闇に一瞬の歪んだ光を刻んだ。それは、魂の断末魔の閃光のようでもあり、あるいは絶望の中に灯る偽りの希望の炎のようでもあった。シラヌイの銀髪が、炎の熱気で微かに揺らぐ。彼の瞳は、この地獄の光景すらも、冷静な刃のように切り裂いて見つめている。

耳をつんざくような悲鳴が『ギャアアアア!』と絶え間なく響き、熱された金属が肉を灼く鈍い音が『ジリジリ、ジュー』と休むことなく空間を満たす。それは、魂が罪に焼かれる音、存在そのものが溶解していく音。遠くからは、千切れた鎖が床に打ち付けられる『ジャラララッ』という乾いた音が、絶望的なレクイエムのように響いた。その音は、まるで無限の過去から引きずられるカルマの鎖の音であり、魂を縛り付ける宿命の重さを物語っている。

肺腑を焼くような硫黄の臭気が鼻腔を抉り、焦げ付く肉と腐敗した血のなまぐさい匂いが混じり合う。その悪臭は、生きたまま魂を蝕むかのようだった。それは、あらゆる美徳が灰燼に帰し、罪の残り香だけが濃密に凝縮された、存在の腐敗臭。カグヤは思わず吐き気を催したが、彼の神としての意志がそれを抑え込んだ。シラヌイは、無言で剣の柄を握りしめ、この悪臭をその身で受け止めていた。

全身の皮膚がひび割れ、熱された針が絶え間なく突き刺さるような激痛に悶える。足元の岩盤は常に灼熱を帯び、裸足の裏からじりじりと肉が焦げる感覚が這い上がってくる。それは、肉体の苦痛を超え、魂の根源を揺さぶるような痛みだ。まるで、過去のあらゆる過ちが、皮膚の表面から内側へと侵食していくかのようだった。

喉の奥には、血の混じった鉄の味が常に張り付き、呼吸するたびに焦げ付いた煙の苦みが舌に残った。それは、懺悔の言葉を吐き出すことも許されない、永遠の断罪の味。カグヤは、この味の深さに、人間界での些細な罪すらも、この地獄では業火で焼かれるほどの重さを持つことを悟った。

「ここが……地獄界……」カグヤは、焼けるような喉から、絞り出すように呟いた。 シラヌイは、無表情に炎の海を見つめている。 「あらゆる苦痛が、魂を浄化するというが……この熱は、ただ焼き尽くすのみか」

二、苦痛の螺旋、そして赦し

地獄界に足を踏み入れてから、時間の感覚は完全に失われた。彼らは、魂が焼かれる悲鳴、肉が焦げる音、硫黄の臭気、そして全身を苛む激痛の中で、ただひたすらに歩き続けた。休む場所も、逃れる術もない。あらゆる感覚が、苦痛を増幅させるために存在しているかのようだった。

カグヤの意識は、幾度となく途切れそうになった。その度に、シラヌイの無言の、しかし確かな存在感が彼を支えた。シラヌイは、炎が迫れば盾となり、岩盤の熱が強まれば、その身を以てカグヤを庇った。彼の行動は、本能的なものではなく、揺るぎない「守護」の意志に貫かれていた。

ある時、彼らの前に、一人の罪人が現れた。その魂は、業火に焼かれ、形を保つことすら困難なほどに歪んでいた。しかし、その瞳の奥には、微かな「後悔」の光が宿っていた。彼は、生前、愛する者を裏切り、その心を深く傷つけた罪を背負っていた。その罪は、地獄の業火となって、彼を永遠に苛んでいた。

罪人は、カグヤとシラヌイの姿を認識すると、途切れ途切れの声で呻いた。 「苦しい……苦しい……赦してくれ……」 その声は、熱された金属が肉を灼く音に掻き消されそうになる。

カグヤの心に、激しい痛みが走った。それは、肉体の苦痛とは異なる、魂を揺さぶる痛みだった。この地獄の苦痛は、罪への罰であると同時に、魂を浄化するためのものだと理解している。しかし、この目の前の魂は、ただ苦痛に囚われ、赦しを乞うことしかできない。

(この苦痛は、魂を本当に救っているのだろうか? それとも、ただ永遠に苛むだけなのか?)

カグヤは、かつて人間界で、罪を犯した者が真に悔い改め、赦しを乞う姿を見たことがあった。その時、彼の心は深い慈悲に満たされたものだ。しかし、この地獄では、その慈悲が、この果てしない苦痛の前では無力に感じられた。

その時、カグヤの脳裏に、冥府の深淵で、閻魔大王が魂を裁く姿が蘇った。その裁きは厳しく、時に冷酷にも見えた。だが、そこに「救済」の意図があったとすれば、それはどのような形をしていたのだろうか?

「貴様の罪は、業火をもって償うべきものだ」

偽りの閻魔大王の声が、虚空から響いた。それは、この地獄の法則そのもののように、冷徹で揺るぎない。罪人の魂は、その声に怯え、さらに苦痛に身を捩る。

カグヤは、その声に、そして罪人の苦痛に、静かに目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開く。彼の瞳には、地獄の炎を宿しながらも、それとは異なる、深遠な光が灯っていた。

「苦痛は、罪を自覚させる」カグヤは、自身の焼けるような喉から、絞り出すように言った。「だが、苦痛だけでは、魂は救われない。真の救済は、赦しと、そこから生まれる希望にある」

カグヤは、焼ける足元の岩盤に膝をついた。その手は、炎に焼かれ、ひび割れている。彼は、その痛みを無視し、ゆっくりと、罪人の魂へと手を伸ばした。

「貴様の罪は重い。だが、その後悔の心は、決して無価値ではない。真の赦しとは、他者から与えられるものではなく、自らが罪と向き合い、未来を望むことで掴み取るものだ」

カグヤの手が、業火に焼かれる罪人の魂に触れた。熱された針が絶え間なく突き刺さるような激痛が、彼の全身を貫く。しかし、カグヤは顔色一つ変えなかった。彼の掌から、微かな、しかし清らかな光が溢れ出し、罪人の魂を包み込む。それは、天界の純粋な光とは異なり、地獄の業火をも包み込むような、深遠な慈愛の光だった。

罪人の魂から、悲鳴が消え、代わりに微かな『スー』という安堵の息が漏れた。彼の瞳の奥に宿っていた後悔の光が、一層強く輝き始めた。それは、地獄の業火の中で、微かではあるが、確かに希望の炎を灯した瞬間だった。

シラヌイは、その光景を静かに見つめていた。彼の表情は変わらないが、その剣を握る手に、微かな力がこもった。彼の心にも、この地獄の苦痛の先に、確かに「救済」の道が存在することを理解したのだ。

試練の光が、カグヤとシラヌイの全身を包み込む。カグヤは、罪人の魂がゆっくりと癒されていくのを感じながら、その光の中に立つ。彼の心の中に、揺るぎない確信が生まれた。地獄の苦痛は、魂を浄化するための一過程に過ぎない。真の赦しとは、罪を罰することだけでなく、その魂の奥底にある「希望」の光を見出し、育むことなのだと。

「(冥府の閻魔大王は、この地獄の法則を、一体どのように歪めようとしているのだろうか……)」

カグヤの瞳に、新たな決意の光が宿った。

八、冥府の王宮

六道の試練を越えたカグヤとシラヌイは、ついに冥府の中心部へと到達した。そこには荘厳な王宮が聳え立っている。

王宮の門を潜ると、巨大な裁きの間があった。中央には黒い玉座があり、そこに閻魔大王が座している。

しかし、その姿は以前とは明らかに違っていた。かつては厳格だが慈悲深い表情を浮かべていた閻魔大王の顔は、今や冷酷で残忍な相貌に変わっている。その瞳には、暗い影がちらついていた。

「よく来たな、天界の神よ」閻魔大王の声は以前より低く、不気味に響いた。「わざわざ冥府まで出向いて、何の用だ」

「閻魔大王」カグヤは礼儀正しく頭を下げた。「転生制度の廃止について、お考え直しいただけないでしょうか」

「考え直す?」閻魔大王は嘲笑った。「人間の魂など価値のないものだ。何度生まれ変わっても、同じ過ちを繰り返すだけ。そんな魂に慈悲をかける意味があるのか」

「人間は確かに不完全です」カグヤは言った。「しかし、だからこそ成長できるのです。学び、変わることができる。それが魂の美しさです」

「戯言を」閻魔大王が立ち上がった。その時、王座の後ろから暗い影がゆらめいた。「人間の魂は汚れている。この世から消し去ってしまった方が、よほど世のためになる」

シラヌイがサッと剣に手をかけた。「カグヤ様、あの方は本当の閻魔大王ではありません。何かに取り憑かれています」

「そうですね」カグヤも気づいていた。「閻魔大王、あなたの本当の心はどこにあるのですか」

その時、王宮の隅から小さな声が聞こえた。「助けて...誰か...助けて...」

振り返ると、鎖に繋がれた女性が倒れていた。それは冥府の鬼女ヒミカだった。

「ヒミカ!」カグヤは駆け寄った。

「カグヤ様...」ヒミカは弱々しく微笑んだ。「閻魔様は...本当の閻魔様は...」

「黙れ」偽の閻魔大王が雷鳴のような声で怒鳴った。「余計なことを喋るな」

しかし、ヒミカは必死に続けた。「閻魔様の魂は...虚無の神ナグルに...奪われて...本当の閻魔様は...心の奥に...封じ込められて...」

「なるほど」カグヤは理解した。「あなたがナグルですね。閻魔大王の体を借りて、魂の世界を破壊しようとしている」

偽の閻魔大王の顔が歪んだ。そして、その体から黒い靄のようなものが立ち上った。

「よくぞ見破った、天照の娘よ」ナグルの声が響いた。「だが、もう遅い。間もなく、すべての魂は虚無の中に消え去る。永遠の無に帰るのだ」

「それを阻止するために来ました」カグヤは毅然として立ち上がった。「本当の閻魔大王をお返しください」

「返すと思うか?」ナグルが嘲笑った。「彼の魂はもう私の一部だ。彼の絶望、彼の憎しみ、すべてが私の力となっている」

しかし、その時、閻魔大王の体の奥から、かすかな光が見えた。

「まだ...まだ諦めては...いない...」

それは本当の閻魔大王の声だった。ナグルに支配されながらも、まだ完全には屈服していない魂の叫びだった。

「閻魔大王!」カグヤは叫んだ。「あなたの正義を思い出してください。あなたが愛した人間の魂を!」

その瞬間、王宮全体が激しく震動した。ナグルと閻魔大王の魂の戦いが始まったのである。

「くそっ」ナグルが苦悶の声を上げた。「まだそんな力が残っていたとは」

「今です、シラヌイ!」カグヤが叫んだ。

シラヌイが神速で剣を抜き、ナグルの影に向かって斬りかかった。しかし、剣は虚しく宙を切るだけだった。

「無駄だ」ナグルが笑った。「私は実体を持たない。物理的な攻撃は効かぬ」

「では、これはどうでしょう」カグヤが両手を天に向けて掲げた。

天照大神の力を受け継ぐカグヤの体から、眩いばかりの光が放たれた。それは純粋な愛と希望の光。虚無とは対極の力だった。

「ぐあああああ」ナグルが苦痛の叫びを上げた。「その光...忌々しい...」

光はナグルの影を削り取り、閻魔大王の本当の姿を浮かび上がらせた。しかし、ナグルもまた必死に抵抗している。

「カグヤ様、一人では無理です」ヒミカが鎖を引きちぎって立ち上がった。「私にも手伝わせてください」

ヒミカもまた光を放った。それは堕天使の悲しみを昇華した、慈悲の光だった。

さらに、シラヌイの剣からも白い炎が立ち上った。正義の炎が、ナグルの闇を燃やし尽くそうとしている。

三つの光がナグルを包囲した。しかし、ナグルもまた最後の抵抗を見せる。

「ならば、せめてこの冥府だけでも道連れにしてやる」ナグルが咆哮した。

王宮が崩れ始めた。ナグルが自分の力を暴発させ、冥府全体を破壊しようとしているのだ。

その時、閻魔大王の本当の声が響いた。

「それだけは...させぬ...」

閻魔大王が最後の力を振り絞り、ナグルの破壊の力を自分の体に封じ込めた。

「閻魔大王!」カグヤが叫んだ。

「カグヤ神よ...」閻魔大王が苦しげに微笑んだ。「すまなかった...私の心の弱さが...この事態を招いた...」

「そんなことは」カグヤが駆け寄ろうとしたが、閻魔大王が制止した。

「近づくな...私の体には...まだナグルの毒が...」閻魔大王が続けた。「しかし、お前たちのおかげで...私の魂を取り戻すことができた...」

ナグルの影が完全に消え去った。しかし、その代償として、閻魔大王の体も光となって消えようとしている。

「これで終わりではありません」カグヤが言った。「きっと、あなたの魂を完全に救い出します」

「ありがとう...」閻魔大王の声が次第に小さくなった。「人間の魂の価値を...私に教えてくれて...」

そして、閻魔大王の姿は光となって散った。しかし、その光は消えることなく、一つの小さな珠となってカグヤの手の平に収まった。

「閻魔大王の魂の欠片です」ヒミカが説明した。「まだ完全に救われてはいませんが、希望は残っています」

カグヤは珠を大切に握りしめた。「必ず、あなたを救います」

王宮の崩壊が始まった。三人は急いで冥府から脱出しなければならない。

「急ぎましょう」シラヌイが促した。

「でも、六道の魂たちは?」カグヤが心配した。

「大丈夫です」ヒミカが答えた。「閻魔大王が最後の力で、魂たちを守る結界を張ってくださいました」

三人は崩れゆく王宮から脱出し、冥府の境界へと向かった。

三途の川のほとりに戻った三人。後ろでは冥府の一部が崩壊している光景が見えた。

「これで終わりではありませんね」シラヌイが言った。「ナグルの正体も、その目的も、まだ完全には分からない」

「はい」カグヤが頷いた。「でも、一つ分かったことがあります」

「何でしょう」ヒミカが問うた。

「神も閻魔も、結局は同じことを願っているということです」カグヤは手の中の珠を見つめた。「魂の救済。ただ、その方法が違っただけ」

「閻魔大王は、厳しい裁きによって魂を正そうとした」シラヌイが続けた。「神々は、愛と慈悲によって魂を導こうとした」

「どちらも正しいのです」カグヤが言った。「厳しさも優しさも、どちらも魂には必要。これからは、神と閻魔が協力して、魂を救わなければなりません」

ヒミカが涙を流した。「閻魔様もきっと喜ばれるでしょう」

「まずは天界に戻って、天照大神様に報告しましょう」カグヤが立ち上がった。「そして、ナグルとの最終決戦に備えなければ」

三人は天への道を辿り始めた。しかし、カグヤの心には一つの疑問が残っていた。

ナグルは一体何者なのか。なぜ魂の消滅を望むのか。そして、本当にあれでナグルを倒したのだろうか。

風が吹き、どこからか不気味な笑い声が聞こえたような気がした。

「フフフ...まだ終わっていない...これは始まりに過ぎない...」

カグヤは振り返ったが、そこには何もなかった。しかし、胸の奥に不安がよぎった。

真の戦いは、まだこれからなのかもしれない。



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