表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖域  作者: 横野坂下
5/5

第五節 残響

「私たちって、一体、何をしてるのかしら」


白川由希乃のその言葉は、まるで時限爆弾のスイッチを押してしまったかのように、私たちの間に、危険な沈黙をもたらした。


何をしてるのか、ですって?


決まっている。不毛な、知的なゲームよ。あなたが仕掛けてきた、いつものゲーム。私は、ただ、そのルールに従って、あなたの球を打ち返しているだけ。それ以上でも、それ以下でもない。


そう、言い返せばよかった。いつものように、皮肉と軽蔑を込めて。


なのに、言葉が出てこなかった。


彼女の問いは、あまりにも唐突で、あまりにも本質的だった。それは、私たちが暗黙の了解として、決して触れないようにしてきた、この関係の核心に、真っ直ぐに突き立てられた刃だった。


私たちの会話は、常にメタ構造をはらんでいた。ウェブ小説という対象を分析しながら、私たちは常に、その背後にある社会構造や、読者の心理を語ってきた。そして、時には、私たちの分析行為そのものを、相対化するような視点さえ持ち出してきた。


しかし、今、由希乃が発した問いは、そのさらに外側、この会話を成り立たせている、黒崎沙耶と白川由希乃という、二人の人間の関係性そのものに向けられていた。


それは、禁じ手だ。


このゲームを、根底から破壊しかねない、危険な問いだ。


私は、動揺を悟られまいと、必死に平静を装った。アイスコーヒーのグラスに視線を落とし、溶け残った氷が立てる、か細い音に耳を澄ませる。


「……決まってるじゃない」


ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど、か細く震えていた。


「真理の、探究よ」


嘘だ。我ながら、白々しい嘘だと思った。真理の探究などという、高尚な目的のために、私たちはこんな会話をしているわけではない。私たちは、ただ、互いに勝ちたいだけだ。自分の知性が、相手のそれよりも優れていることを、証明したいだけだ。


由希乃は、私のその見え透いた嘘を、咎めなかった。彼女は、ただ、悲しそうな、それでいて、すべてを見透かしたような目で、私を見つめていた。


「本当に、そうかな」


彼女は、静かに言った。


「私は、時々、怖くなるの。私たちが、この小説の主人公と、同じことをしているんじゃないかって」

「……どういうこと?」

「あの主人公は、『絶対支配』というスキルで、世界を自分の理解できる範囲に閉じ込めた。偶然性や、ままならない他者を排除して、安心できる世界を作った。私たちも、同じじゃない? アドルノとか、ホルクハイマーとか、そういう小難しい理論を『スキル』みたいに使って、この複雑で、わけのわからない現実を、無理やり、白黒つけようとしている。これは文化産業だ、これは道具的理性だ、これはファシズムだって。そうやってレッテルを貼ることで、わかった気になって、安心しようとしているだけなんじゃないかって」


彼女の言葉は、私の胸に、深く、重く突き刺さった。


否定できない。彼女の言う通りかもしれない。


私が、アドルノの思想に惹かれたのは、なぜだったか。それは、彼の言葉が、この世界の醜さや、欺瞞を、誰よりも鋭く、的確に暴き出していたからだ。彼の否定の哲学は、私が漠然と抱いていた、世界に対する違和感や、嫌悪感に、完璧な理論的裏付けを与えてくれた。それは、まるで、自分専用の、最強の武器を手に入れたような感覚だった。


この武器があれば、私は、もう誰にも傷つけられない。凡庸な人々の、愚かな楽観主義や、安っぽい感動を、一刀両断にできる。私は、彼らとは違う、特別な存在になれる。


そう、思っていた。


「私たちは、この小説の読者のことを、思考停止している、と見下しているわよね」


由希乃は、続ける。その声は、もはや私を責めているのではなく、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。


「でも、私たちも、思考停止しているのかもしれない。アドルノはこう言った、ホルクハイマーはこう言った、って、権威の言葉を引用するだけで、自分自身の頭で、本当に考えているのかしら。私たちは、彼らの思想という、安全な聖域の中に閉じこもって、そこから一歩も出ようとしていないだけなんじゃないの?」


聖域。その言葉に、私は息を呑んだ。


そうだ。ここは、聖域だ。このカフェの、このテーブルは、私たち二人だけの、安全な場所。ここでは、私たちは、現実の複雑さや、ままならない人間関係に、傷つけられることはない。私たちは、ただ、抽象的な言葉のゲームに興じていればいい。


そして、その聖域の中で、私たちは、互いを必要としている。


私は、白川由希乃という、唯一無二の論敵がいなければ、自分の知性を確認することができない。彼女に打ち勝つことでしか、私は、自分の価値を実感することができない。


彼女も、きっと、同じだろう。


私たちの関係は、ヘーゲルの言う「主人と奴隷」ですらない。私たちは、互いが互いの「主人」であり、同時に「奴隷」なのだ。互いを承認し、互いに依存し合う、閉鎖された共犯関係。


その構造は、あのグロテスクなハーレムと、本質的に、何が違うというのだろう。


「……黙りなさいよ」


私は、絞り出すように言った。それは、怒りというよりも、悲鳴に近かった。


「あなたに、何がわかるっていうの……」


視界が、滲む。認めたくない。私が、ずっと目を背けてきた、この関係の真実を、彼女の口から聞きたくはなかった。


私は、ただ、純粋に、知的な探求をしていたかった。この世界を、少しでもマシなものにするために、その病理を分析しているのだと、信じていたかった。


でも、本当は、違ったのかもしれない。


私は、ただ、寂しかっただけなのかもしれない。この、どうしようもなく凡庸で、醜い世界の中で、私を理解してくれる、たった一人の人間が、欲しかっただけなのかもしれない。


そして、その相手が、よりにもよって、私の一番のライバルである、白川由希乃だった。


私たちは、互いの思想を否定し合うことでしか、繋がることができない、不器用な共犯者。


「ごめん」


由希乃が、ぽつりと言った。


「言い過ぎたわ。沙耶を、傷つけるつもりは……」

「傷ついてなんかない」


私は、彼女の言葉を遮って、立ち上がった。これ以上、ここにいてはいけない。これ以上、彼女と顔を合わせていたら、私は、私でなくなってしまう。


「もう、帰るわ。今日は、もう、終わり」


私は、財布から千円札を一枚抜き取って、テーブルの上に置いた。お釣りはいらない、という、無言の意思表示。


背を向けて、カフェの出口へと歩き出す。一歩、また一歩と、足を進めるたびに、背中に突き刺さる由希乃の視線が、痛いほどに感じられた。


彼女は、追いかけてはこない。彼女は、そういう女だ。


自動ドアが開き、外の生ぬるい空気が、私の頬を撫でた。夕暮れのキャンパスは、まだ、多くの学生たちの喧騒に満ちている。


私は、その喧騒の中を、一人、歩き始めた。


どこへ行けばいいのか、わからなかった。私の聖域は、もう、どこにもない。


ポケットの中で、スマホが震えた。由希乃からのメッセージだろう。見る気には、なれなかった。


ただ、一つだけ、確かなことがあった。


私たちのゲームは、まだ、終わっていない。いや、むしろ、今、始まったばかりなのかもしれない。


次に会う時、私は、彼女に何を語ればいいのだろう。どんな言葉を、武器にすればいいのだろう。


あるいは、武器など、もう、必要ないのだろうか。


わからない。何も、わからなかった。


自室に戻り、ベッドに倒れ込む。壁一面の哲学書が、まるで墓石のように、私を見下ろしている。その中で、一冊だけ、背表紙の文字が違う本があるのに気づいた。父が、私の机に置いていったのだろうか。


手に取ると、それは、湊かなえの『告白』だった。


なぜ、今、これを。


私は、その本のページを、ただ、漫然とめくり始めた。その乾いた、冷たい文章が、不思議と、今の私の心に、静かに染み込んでいくようだった。


そして、その闇の向こうから、あのウェブ小説の、安っぽいタイトルが、まるで残響のように、何度も、何度も、聞こえてくるような気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ