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聖域  作者: 横野坂下
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第三節 境界線

白川由希乃の挑発に乗ってしまった、と舌打ちしたい気分だった。


彼女はいつもそうだ。私が築き上げた論理の城壁を、正面から攻めることはしない。巧みに内部に侵入し、内側から、それも最も脆弱な部分を突き崩そうとする。彼女が持ち出した「追放」というモチーフ。確かに、それはこの種の物語の、いわば「お約束」だ。そして、その「お約束」にこそ、文化産業の最も巧妙な罠が隠されている。


「追放、ね。簡単なことよ。ルサンチマンの醸成装置でしょ」


私は、わざと素っ気なく答えてみせる。彼女の土俵に乗ってやるものか、という意地が、そうさせた。


「虐げられた者が、力を見つけて見返す。ニーチェが分析した、弱者の道徳。キリスト教的な価値の転換と同じ構造よ。現実世界で敗者である読者が、主人公の復讐に自らを重ね合わせ、代理満足を得る。それだけの話。深読みする価値もない」

「本当に? 私は、もっと巧妙なメカニズムが働いていると思う。これは、単なるルサンチマンの充足じゃない。むしろ、現代社会における『個性』という神話の、見事な再生産装置よ」


個性、という言葉に、私は反応せざるを得なかった。アドルノにとって、「個性」とは、ブルジョア社会が生み出した欺瞞の一つだった。社会によって画一化された存在でありながら、自分だけは違う、特別な存在だと思い込ませるイデオロギー。


「説明してごらんなさい」

「主人公のカイトは、最初、勇者パーティーという共同体の中で、『荷物持ち』という役割しか与えられていない。彼は、その共同体の価値基準では『無能』と判断される。でも、物語は、彼の真の価値、つまり『絶対支配』というスキルが、その共同体の中では理解されなかっただけなのだ、と語る。つまり、彼の『個性』は、既存の社会システムとは相容れない、規格外のものだった、ということになる」


由希乃の声は、まるで大学の講義のように、冷静で理路整然としている。


「そして、彼は追放される。共同体から切り離されることで、彼は初めて、自分自身の本当の力と向き合うことになる。これは、一見すると、社会の束縛から逃れ、真の自己を発見するという、ロマン主義的な自己実現の物語に見えるわ。でも、本当にそうかしら?」


彼女は、挑戦的に私を見る。その視線が、私に答えを促している。


「もちろん、違うわ。彼の『個性』とされるスキルは、彼が内面から生み出したものじゃない。それは、ゲームのシステムのように、物語の作者によって、外部から与えられたもの。彼は、勇者パーティーという一つの規格から外れたと思ったら、今度は『追放された最強の主人公』という、別の、より大きな規格に、自らはまり込んでいるだけ。読者は、カイトが社会の画一的な評価基準を打ち破ったと錯覚する。でも、実際には、別の、より強力な画一性へと乗り換えたに過ぎない。文化産業は、こうやって『反抗』や『個性』ですら商品化し、システムの中に安全に取り込んでしまう。見事な手口だわ」


私は、自分でも驚くほど、滑らかに言葉を紡いでいた。由希乃が用意した土俵の上で、私は完璧なステップを踏んでみせた。これは、私の領域だ。アドルノが『ミニマ・モラリア』で描いた、傷つけられた生の中から紡ぎ出される、否定の思想。


「その通りよ、沙耶。完璧な答え。百点満点だわ」


由希乃は、パチパチと小さく拍手をした。その行為が、私を馬鹿にしているようで、腹立たしい。


「でもね」と彼女は続けた。「その分析は、まだ半分よ。なぜ、『追放』というプロセスが必要なのか。なぜ、読者は、主人公が一度社会から拒絶される姿に、あれほどまでに強く感情移入するのか。そこには、もっと現代的な、社会構造に根差した理由がある」


彼女は、またしても私の分析の外側を指し示そうとする。作品の内的構造ではなく、それを受容する社会の側へ。


「考えてみて。今の社会で、『共同体から追放される』という経験は、誰にとっても他人事じゃない。会社でのリストラ、学校でのいじめ、SNSでの炎上。私たちは、いつ、どんな理由で、自分が所属するコミュニティから排除されるかわからない、という漠然とした不安の中に生きている。この物語は、その不安を、見事に利用しているのよ」

「……どういうこと?」

「追放されたカイトは、結果的に、以前よりもっと大きな成功を手にする。これは、読者に対して、こう囁いているのよ。『大丈夫。たとえ今いる場所で評価されなくても、お前には隠された価値がある。社会がお前を拒絶するなら、それは社会の方が間違っているのだ』と。これは、もはや単なるルサンチマンの充足じゃない。自己責任論が支配する新自由主義的な社会に対する、究極の免罪符なのよ」


新自由主義、という言葉に、私の思考が加速する。そうだ。なぜ、今まで気づかなかったのか。高校の時、ほんの少し成績が落ちただけで、父に「お前の努力が足りないからだ」と、書斎で何時間も詰られた日のことを思い出す。あの時の、息が詰まるような圧迫感。悪いのは、本当に私だけだったのだろうか。


「努力が足りないから、能力がないから、お前は負け組なのだ、と社会は個人に責任を押し付ける。そのプレッシャーに押しつぶされそうになっている人々にとって、この物語は、最高の福音になるわけね。『悪いのはお前じゃない、お前の価値を理解できない社会の方だ』と。そして、何の努力もなしに与えられる『絶対支配』というスキルは、努力や自己変革といった、苦痛を伴うプロセスをすべてすっ飛ばしてくれる、魔法の杖……」

「そういうこと。この物語は、新自由主義的な競争社会の敗者たちに、安価なアヘンを提供しているの。彼らの怒りや不満が、社会構造そのものへ向かうことを防ぎ、物語の中での代理復讐へと昇華させることで、ガス抜きをする。結果的に、既存の社会システムは、何一つ変わらずに温存される。これほど巧妙な、イデオロギー装置はないわ」


由希乃の分析は、鋭利な刃物のように、私の思考に突き刺さった。ホルクハイマーの社会理論と、現代社会の具体的な状況を結びつけた、見事な分析。悔しいけれど、認めざるを得ない。これは、私の視点からは、すぐには出てこない発想だった。


私は、アドルノの思想に傾倒するあまり、作品そのものの美学的・倫理的な価値判断に固執しすぎていたのかもしれない。その作品が、社会の中で、どのような「機能」を担っているのか。その視点が、少し、欠けていた。


「……面白いわね」


私は、素直な感想を口にした。それは、負けを認める言葉ではなかった。ゲームはまだ終わっていない。これは、新たなラウンドの始まりだ。


「あなたの言う通りだとしたら、この物語は、極めて政治的な産物だということになる。大衆の不満を無害化し、体制を維持するための、文化的な安全弁。だとしたら、この物語の核心にある『絶対支配』というスキルは、もっと別の意味を帯びてくるんじゃないかしら」


私は、彼女の分析を逆手に取る。彼女が社会構造の話をするなら、私はそれを、さらに根源的な、権力と支配の哲学へと引き戻してみせる。


「道具的理性、とあなたは言ったわね。目的のために手段を問わない、と。でも、この主人公の目的は何? 追放した勇者への復讐? 美少女ハーレムの形成? そんなものは、些細なことよ。彼の、そしてこの物語の真の目的は、もっと恐ろしいところにある」


私は、アイスコーヒーのグラスに残った氷を、ストローでかき混ぜる。カラン、カラン、という無機質な音が、私たちの間の沈黙を埋める。


「それは、『偶然性』の完全な排除よ」

「偶然性の、排除?」

「そう。考えてみて。『絶対支配』のスキルがあれば、世界に予測不可能なことは何も起こらない。人間関係のすれ違いも、努力の失敗も、不条理な悲劇も、すべて彼の意のままにコントロールできる。世界は、完全に計算可能で、操作可能な対象となる。これこそ、啓蒙が目指した、世界の『脱魔術化』の、グロテスクな最終形態じゃないかしら」


アドルノとホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』で論じた、啓蒙の自己破壊。神話から自らを解き放ったはずの理性が、今度は自らが、すべてを支配する新たな神話へと回帰していく。


「この物語が読者に与える最大の快楽は、ハーレムでも復讐でもない。自分の人生から、理解不能な『他者』や、コントロール不能な『偶然』を、完全に消し去ることができるという、全体主義的な夢想よ。それは、ファシズムの心理構造と、紙一重の場所にある。人々は、自由の不安から逃れるために、すべてをコントロールしてくれる、絶対的な指導者を求める。この主人公は、読者一人一人にとっての、小さなヒトラーなのよ」


私の言葉に、由希乃の顔から、いつもの余裕のある微笑みが消えていた。彼女の瞳の奥で、激しい思考の火花が散っているのが見える。


やった。今度は、私が彼女の意表を突いた。


このゲームに、終わりはない。私たちは、互いの言葉を喰らい、それを糧にして、さらに鋭い言葉を紡ぎ出す。それは、まるでウロボロスの蛇のように、自己完結した、永遠の運動だ。


そして、私はその運動の中にいることに、禁断の喜びを感じている自分に、気づいていた。



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