第二節 ガラスの城
黒崎沙耶は、本当に面白い。
彼女と話していると、まるで硬質なダイヤモンドの原石を、別のダイヤモンドで削っているような気分になる。ほんの少しでも気を抜けば、こちらの指先がずたずたに切り裂かれてしまう。そのスリルが、たまらない。
今日、私が彼女に突きつけた、あの陳腐なウェブ小説。もちろん、タイトルを見た瞬間に、沙耶がどういう反応をするかはわかっていた。彼女は、純粋培養されたアドルノの信奉者だ。彼女にとって、大衆文化はすべて等しく「文化産業」の産物であり、分析する価値もない唾棄すべき対象でしかない。
案の定、彼女は「吐き気がする」と顔を顰め、私の期待通りの、キレ味の鋭い批判を繰り出してきた。文化産業論、物象化、偽りの個性。まるで教科書を読み上げるように、淀みなく、正確に。その姿は、孤高の聖職者のようで、少しだけ滑稽にも見えた。
だから、私は少しだけ意地悪をしてみた。
「高尚な芸術論を振りかざして自己満足に浸るより、よっぽど生産的だとは思わない?」
私の言葉に、沙耶の黒い瞳が、カッと見開かれる。美しい顔が怒りで歪む瞬間は、ぞくぞくするほど魅力的だ。彼女は、自分の聖域であるアドルノの思想を、現実逃避のエリート主義だと指摘されることを、何よりも嫌う。
「あなたのそのスタンス自体が、このクソみたいな小説を生み出した社会構造と、地続きだとは思わない?」
彼女の反撃は、的確だった。さすが、黒崎沙耶。私がホルクハイマーの道具的理性の概念を使って彼女を批判したことを見抜き、その批判の構造自体が道具的理性に陥っているではないかと、鮮やかに切り返してきた。参ったな、と思う。でも、だからこそ、このゲームはやめられない。
私たちは、二人ともわかっている。この会話が、真理の探究などという高尚なものではなく、単なる知的なマウンティングに過ぎないことを。アドルノやホルクハイマーは、私たちのプライドを守るための鎧であり、相手を攻撃するための武器だ。私たちは、彼らの言葉を借りて、互いの脆弱な自尊心を慰め合っているだけなのかもしれない。
私がこの小説に興味を持ったのは、沙耶とは少し違う理由からだ。もちろん、作品としての価値など皆無に等しい。プロットはご都合主義の塊だし、キャラクターは記号の集まりでしかない。特に、女性キャラクターの描かれ方には、辟易させられる。
主人公カイトに助けられるヒロインたち。奴隷市場で売られていた獣人の少女、政略結婚を強いられていた薄幸の王女、森を追われたエルフの射手。彼女たちは皆、カイトの『絶対支配』という名の、剥き出しの力によって「救済」される。そして、面白いことに、彼女たちはその支配を、自発的な「愛」や「忠誠」として受け入れるのだ。
ここに、現代社会における権威と服従の、グロテスクな戯画がある。
幼い頃、父に言われた言葉を思い出す。「由希乃、お前はパパとママの、最高の作品なんだ。期待しているよ」。その言葉は、私にとって、呪いだった。私は、両親の期待に応えるための「機能」として、完璧な娘を演じ続けてきた。このガラスの城のような家で、私は、ただの一度も、私自身であったことはない。
だから、わかるのだ。このヒロインたちの気持ちが。
初期のホルクハイマーが社会調査を通して明らかにしようとしたのは、「なぜ人々は権威に服従するのか」という問いだった。彼は、近代家族の中に、その原型を見出した。父親という絶対的な権威への服従が、社会的な権威への服従へとスライドしていく。
この小説のハーレムは、まさにその疑似家族だ。カイトは絶対的な家父長であり、ヒロインたちは彼の庇護と支配を無邪気に受け入れる子供たち。彼女たちは、カイトの力を疑わない。彼の行動の是非を問わない。なぜなら、彼の力が、自分たちの生存を保障してくれる唯一の基盤だからだ。
「このヒロインたちの心理、沙耶はどう思う?」
私は、わざと話を作品の細部に引き戻す。大きな理論の応酬から、具体的なテクスト分析へ。ゲームの盤面を変えるための、常套手段だ。
「ヒロイン? あんなもの、ただの物よ。主人公の力を誇示するためのトロフィー。主体性なんて、どこにもない。作者の歪んだ欲望が投影された、ただの人形」
沙耶は、即座にそう断じた。アドルノの物象化論。正解だ。でも、私はその先が聞きたい。
「本当に、それだけかしら。私は、もっと根深いものを感じる。彼女たちのセリフを見て。例えば、この王女様のセリフ。『カイト様こそが、私の真の王です。あなたの命令ならば、この身も、この国も、すべて捧げましょう』。これ、ただの恋愛感情だと思う?」
「思うわけない。支配への完全な屈服よ。それを愛という言葉で糊塗しているだけ。欺瞞だわ」
「そう、欺瞞。でも、なぜ彼女は、自ら進んでその欺瞞を受け入れるのかしら。ここに、現代人の心理構造の秘密が隠されていると思うの。自由からの逃走、とでも言うべきかしら」
エーリッヒ・フロムの言葉を借りると、沙耶は少し眉をひそめた。フランクフルト学派の中でも、フロムは彼女にとって少し「通俗的」すぎるのだろう。
「自由は、孤独と責任を伴う。近代社会は、人々を封建的な共同体の束縛から解放したけれど、同時に、何を信じ、どう生きるべきかという指針を奪い去った。人々は、その耐えがたい自由に不安を覚え、新たな権威に自発的に服従することで、安心感を得ようとする。この王女は、まさにそうじゃない? 彼女は、政略結婚という古い束縛から、カイトという新しい権威の元へと逃げ込んだだけ。自由な個人として国を治めるという、困難な道を選ぶ代わりに、絶対的な支配者にすべてを委ねるという、安易な道を選んだのよ」
「……だとしても、それが何だと言うの? 結局、彼女が主体性を放棄した愚か者であることに変わりはないわ」
「ええ、そうね。でも、その『愚かさ』を、私たちは笑えるのかしら」
私は、沙耶の目を真っ直ぐに見る。
「考えてみて、沙耶。私たちは、大学で哲学や社会学を学んでいる。それは、ある意味で、世界を理解するための『スキル』を手に入れようとしているわけでしょう? アドルノやホルクハイマーという『権威』の言葉を借りて、複雑な現実を、理解可能な形に『支配』しようとしている。私たちのこの行為と、王女がカイトにすべてを委ねる行為の間に、本質的な違いは、本当にあるのかしら?」
私の言葉が、ブーメランのように、私たち自身に突き刺さる。沙耶の表情が、凍りついた。彼女は、この種のメタ的な問いかけを嫌う。それは、彼女が拠って立つ、批判者としての絶対的な立ち位置を、根底から揺るがしかねない危険な問いだからだ。
カフェの窓の外を、学生たちの楽しげな集団が通り過ぎていく。彼らはおそらく、こんな小説を読んで、素直に「面白い」と感じるのだろう。私たちのこの屈折した会話など、想像もつかないに違いない。
どちらが、幸福なのだろう。
無邪気に物語を消費できる彼らと、物語の裏に隠された毒を分析せずにはいられない、私たちと。
「……詭弁ね」
長い沈黙の後、沙耶が絞り出すように言った。
「私たちの知的な営為と、あの小説の受動的な消費を、一緒にするなんて。私たちは、少なくとも、批判的に対象と向き合っている。同一化を拒否し、距離を保っているわ。でも、あの小説の読者は、主人公と一体化し、思考を停止させている。そこには、天と地ほどの差がある」
「本当に、距離を保てているのかしら」
私は、微笑みを浮かべて、彼女の反論を待つ。
「この小説で、私が一番興味深いと思ったのは、『追放』というモチーフよ。なぜ、主人公は最初から最強ではダメなのか。なぜ、一度、共同体から追放されなければならないのか。ここに、この物語が現代人の心を掴む、最大の秘密がある」
私は、ゲームの駒を、さらに一歩進める。沙耶が最も得意とする、アドルノ的な芸術作品の内的分析の土俵へ、あえて踏み込んでいく。彼女が、この挑戦を受けないはずがない。
「聞かせてもらうわ。あなたの、その『深読み』とやらを」
沙耶は、挑戦的な光を瞳に宿して、私を見据えた。
それでこそ、黒崎沙耶だ。私の、最高の好敵手。
私は、ゆっくりと息を吸い込み、この不毛で、最高に刺激的なゲームの、次のラウンドを開始した。