第一節 鉄の処女
吐き気がする。
目の前の女、白川由希乃が、優雅すぎる仕草でスマホの画面を滑らせている。その完璧に整えられた爪先が、一瞬、ディスプレイに触れるのをためらった。まるで、道端に落ちている汚物にでも触れるかのように。彼女は、いつだってそうだ。水面下で必死にもがく水鳥の足を、決して人に見せない。計算され尽くした微笑みの裏で、鋭利な軽蔑を隠している。
「ねえ、沙耶。これ、もう読んだ?」
差し出された画面。そこに映る、趣味の悪いイラストに、私の眉間の皺が深くなる。異常に誇張された胸を持つ、気の強そうな顔立ちの少女。その隣で、類型的な黒髪の少年が、死んだ魚のような目で虚空を見つめている。背景に散りばめられた剣と魔法の意匠が、物語全体の知性の低さを雄弁に物語っていた。
『スキル『絶対支配』で追放された俺、気づけば世界最強の魔王として君臨し、救った美少女たちとハーレムを築いてました』
声に出すのも憚られる、記号の羅列。このタイトルだけで、作者の貧困な想像力、物語の安直な構造、そしてこれを喜んで消費する者たちの精神的な怠惰が、手に取るようにわかってしまう。わかってしまうからこそ、胃の腑からせり上がってくるこの不快感を、どうすることもできない。
中学の頃、クラスで一番明るく、誰にでも優しかったあの子が、似たような物語を読んで「感動して泣いちゃった」と無邪気に笑っていたのを思い出す。その瞬間、私と彼女の間には、決して越えることのできない、深く冷たい川が流れているのだと悟った。あの時の絶望が、今も胸の奥で鈍く痛む。
「……趣味が悪い」
「知ってる。だから沙耶に見せてるんじゃない」
由希乃は、楽しそうにくすくすと笑う。ミルクティーのカップを口元に運ぶ、その計算された可憐さが、私の神経を苛む。彼女は、私という人間を完璧に理解している。私が何を好み、何を心の底から憎悪するのかを。そして、それを的確に、ナイフのように突きつけてくる。これは、彼女が私に仕掛けてくる、いつものゲーム。私たちの、二人だけの儀式。
「それで、感想は?」
「読む価値もない。時間の無駄よ」
私が冷たく切り捨てると、由希乃は「つれないなあ」と大袈裟に肩をすくめた。その芝居がかった仕草の一つ一つが、私を挑発している。
「ベストセラーよ、これ。ウェブのランキングでずっと一位。書籍化にコミカライズ、来年にはアニメ化も決まってる。社会現象、とまでは言わないけど、一つの『流れ』であることは間違いないわ」
「流れ、ね。ドブ川にも流れはある」
私の皮肉に、由希乃は満足げに目を細めた。彼女は私のこういう反応を待っている。私が、父の書斎に並ぶアドルノの言葉を借りるまでもなく、この種の「文化産業」の産物を、いかに冷徹に、過激な言葉で断罪するかを。
「ドブ川、か。言い得て妙ね。でも、なぜそのドブ川に、これほど多くの人が集まるのかしら。そこが面白いとは思わない?」
「思わない。愚かな大衆が、愚かな慰めを求める。それだけのこと」
「本当に、それだけ?」
由希乃の声のトーンが、わずかに変わる。遊びの色が消え、冷たい分析者の光が瞳に宿る。来たな、と思う。ここからが、私たちの本番だ。
「この物語の構造は、あまりにも露骨よ。主人公のカイトは、勇者パーティーという権威的な共同体の中で、『荷物持ち』という役割を与えられ、疎外されている。彼の能力は正当に評価されず、無能の烙印を押されて追放される。これは、現代社会における多くの人間が感じる無力感と疎外感の、完璧なメタファーでしょう」
メタファー、という言葉の軽薄さに、私は眩暈を覚える。
「それをメタファーと呼ぶには、あまりに稚拙すぎる。ただの願望の垂れ流しよ。現実で評価されない人間が、何の努力も、弁証法的な自己否定の過程も経ずに、隠されたチートスキル一つで全てを覆す。こんなものに自分を投影して慰めを得ているのだとしたら、それこそが管理社会の思う壺だわ」
私はアイスコーヒーのグラスを強く握りしめる。冷たい水滴が、指先から熱を奪っていく。まるで、私の体温が、この世界の凡庸さに吸い取られていくようだ。
「『啓蒙の弁証法』で、アドルノとホルクハイマーが喝破した通りよ。文化産業は、主体性を奪われた大衆に、偽りの個性と満足を与える」
一気にまくし立てる。言葉が、思考よりも先に口から飛び出していく。
「この主人公が手にする『絶対支配』というスキル。これほど文化産業の本質を的確に表したネーミングもないわ。あらゆるものを自分の意のままに操る力。それは、主体的な理性の働きではなく、外部から与えられた、規格化された幸福のテンプレートよ。読者は主人公と自分を同一化することで、現実には決して得られない万能感を疑似体験する。思考は停止し、ただ受動的に快楽を享受するだけの存在になる。それは、自ら進んで隷属の首輪をはめる行為と同じこと」
言い終えると、由希乃は静かに私を見ていた。彼女は決して私の言葉を遮らない。全てを聞き届けた上で、最も効果的なカウンターを放つタイミングを計っている。その冷静さが、私をさらに苛立たせる。
「確かに、文化産業論の観点から見れば、その通りなんでしょうね。沙耶の言うことは、一点の曇りもなく正しいわ。正しすぎて、退屈なぐらいに」
「何ですって?」
「だって、それは『答え』じゃないもの。ただの『診断』よ。しかも、患者を見下した、傲慢な医者の診断。なぜ患者がその病に至ったのか、その病が患者にとってどんな『機能』を果たしているのかを無視して、ただ『お前は病気だ』と宣告しているだけ」
由希乃は、スマホの画面をもう一度私に見せる。今度は、レビューサイトの画面だった。星五つの評価がずらりと並び、熱狂的なコメントが溢れている。
「『カイトの追放シーンで泣いた』『復讐がスカッとする』『ヒロインたちがみんな可愛い』……。見て、沙耶。この人たちは、沙耶が言うような『隷属の首輪』を、喜んでつけているように見える? 私には、むしろ必死に生きるための『酸素マスク』を求めているように見えるけど」
「酸素マスクですって? 笑わせないで。それは毒ガスよ。吸えば吸うほど、現実と向き合う力を失わせる、甘い毒」
「だとしても、よ。なぜ、彼らは毒ガスを吸ってまで、生き永らえたいと思うのかしら」
由希乃の視線は、常にその外側、作品を受容する社会と人間の心理に向けられている。
「ホルクハイマーが『道具的理性批判』で述べたことを思い出して。理性が、自己保存という至上命題のためだけの『道具』に堕したとき、それはもはや、内容や目的の是非を問わなくなる。この小説の主人公がまさにそうじゃない? 『絶対支配』というスキルは、彼の自己保存、つまりは承認欲求の充足とルサンチマンの解消という目的を、最も効率的に達成するための究極の『道具』よ。その行使の先に、どんな倫理的な破綻が待っていようと、彼は気にしない。そして読者も、それを気にしない。なぜなら、彼らにとって重要なのは、理性が本来持つべき『客観性』や『普遍性』ではなく、自分の生存を肯定してくれる『主観的』な機能だけだから」
彼女の言葉は、静かだが重い。私の批判が、作品そのものの芸術的価値の欠如、その反啓蒙的な性格に向けられているのに対し、彼女の分析は、まるで外科医のように、社会の病巣を切り開いていく。
「沙耶は、この作品を『芸術ではない』と切り捨てるでしょうね。もちろん、私もそう思う。アドルノの美学に照らせば、こんなものはゴミ以外の何物でもない。アウシュヴィッツ以降、詩を書くことが野蛮であるならば、こんな無邪気な支配と暴力を肯定する物語を書くことは、野蛮を通り越して冒涜的ですらあるわ。でもね」
由希乃はそこで言葉を切り、私を真っ直ぐに見つめた。
「その『ゴミ』が、なぜこれほどまでに大量に生産され、消費されるのか。その社会的メカニズムを解明することの方が、高尚な芸術論を振りかざして自己満足に浸るより、よっぽど生産的だとは思わない?」
挑発。明確な、私に対する挑発だ。私の思想的支柱であるアドルノの立場を、現実から遊離したエリート主義だと暗に批判している。
「生産的、ね。面白いことを言うわね、由希乃。まるで、社会を分析することが、工場で製品を作ることと同じだとでも言いたげな口ぶり。それこそ、あなたの言う『道具的理性』の典型じゃないかしら。真理の探究そのものではなく、何かの『役に立つ』ことを目的とする思考。あなたのそのスタンス自体が、このクソみたいな小説を生み出した社会構造と、地続きだとは思わない?」
私の反撃に、由希乃は初めて、ほんの少しだけ表情を硬くした。してやったり、と思う。だが、すぐに彼女はいつもの微笑みを取り戻す。
「……手厳しいわね。でも、そうかもしれない。私たちは、二人とも、このドブ川の水を飲んで生きているのかもしれないわね」
彼女はそう言って、空になったミルクティーのカップをテーブルに置いた。カチャン、という硬質な音が、私たちの間の緊張した空気に、小さな亀裂を入れた。
その音は、まるで何かの始まりの合図のようだった。私たちの、終わりのない論争の。互いのプライドと知性を賭けて、相手を打ち負かすためだけの、不毛で、しかし私たちにとっては生きることそのものである、このゲームの。
私は、まだ空になっていないアイスコーヒーのグラスを、ゆっくりと口に運んだ。苦い液体が、乾いた喉を滑り落ちていく。その苦さだけが、今の私にとって、唯一のリアルだった。
家に帰ると、シン、と静まり返った空気が私を迎えた。リビングの明かりは消え、父はまだ大学の研究室だろう。母は、おそらく自室で、彼女の唯一の趣味であるメロドラマを見ているに違いない。キッチンには、ラップのかけられた、冷たい食事が一つだけ置かれていた。それを見るだけで、私はまた、あの吐き気を覚える。
自室のドアを開ける。壁一面を埋め尽くす本棚。そこに並ぶのは、カント、ヘーゲル、そしてアドルノ。彼らの言葉だけが、この息の詰まるような世界の中で、私に呼吸を許してくれる。私は、鉄の処女のように、硬い理論で自らの身を固めることでしか、自分を保つことができないのだ。