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やさしい毒

作者: 葉方萌生

 陽当たりの良い教室の隅っこで、「めぐ」と私の名前を呼ぶ彼女の声に、聞こえないふりをした。

 

「ねえめぐ。おーい、めぐ〜、次の授業、家庭科だよ。移動教室だよ。早く行こうよ」


 彼女——池崎結菜(いけざきゆいな)はそんな私の心中も知らず、無邪気に声をかけ続ける。鬱陶しい。教室を移動する時ぐらい、絵梨花(えりか)美波(みなみ)と一緒にいたいのに。というか、移動ぐらい一人でできるじゃん。なんでよりにもよって私と——と考えていたところでふと思考が遮られる。


「うわ、またあの子、木原さんにくっついてる。金魚の糞じゃん」


「その表現、的確すぎ」


 ケタケタと嘲り笑うクラスメイトの声が耳朶を掠める。こっちも聞こえないふりをしたいのに、どうしてもできない。

 

「めぐ、具合でも悪いの? 一緒に保健室行こうか?」


 いつのまにか間近にあった結菜の顔から反射的に身を反らす。冗談じゃない。なんであんたと一緒に保健室なんか。


「……大丈夫」


「そう。ならよかった。じゃあ行こっか。家庭科室」


 結菜の無邪気な声は、まるで甘い毒のように私の心を締め付けた。

 私の腕に絡みつく結菜の手の体温が、私の胸を灼け焦がしていく。

 彼女に引っ張られるようにして、無理やり四肢を動かした。







 どろりとした見た目のベルモントは、中学生の時に清水坂で初めて飲んだ甘酒に似ている。修学旅行で行った京都の地で、甘酒を飲んだ後の私は、おえ、と人知れずえずいた。一緒にグループ行動をしていた彼女——池崎結菜はにんまりと笑みを湛えながらごくごくと甘酒を飲んだ。私は、父親が月末の仕事帰りに喉を鳴らしながらビールを飲んでいるところを想像した。彼女以外の同グループのみんな、初めて飲む甘酒のなんとも言えないあの独特な味に、顔を歪めていたというのに。


「やさしい慰め」——ベルモントにはそんな“カクテル言葉”があるらしい。


 花言葉ならぬカクテル言葉。そんな言葉があること自体、去年、大学二年生の時に始めたこのガールズバーの仕事で知った。とりわけお酒を飲むのが好きだったわけではない。バーで働くようになってから、カクテルについて勉強した。その時に初めてカクテル言葉について調べたのだ。


「あまねって、なんでいっつもそのメモ帳持ってるの」


 薄暗い店内に落とされた青色の照明が、ゆきこの頬を照らす。私より一つ年上の二十二歳の彼女は、お店で一番美人で明るくてお客さんから人気だ。中高生時代、いつもクラスの女子の中でカースト中位ぐらいにいた私にとって、彼女はいつだって眩しい。


「カクテル言葉、いつ聞かれても大丈夫なように覚えておこうと思って……」


「カクテル言葉? そんなの聞きたがる客いるの? まじで?」


「いや、実際にはあまり」


「ククッ、やっぱり。てかさ、カクテル言葉とか覚えるより、もっとトーク力磨いた方がよくない? もうウチ入って一年経つでしょ。いい加減、その硬すぎるガードもなんとかしないと。男だって寄ってこないよ」


「男の人が寄ってこないのは、仕事とは関係ないです。ガールズバーはそういう店じゃないですし」


「うわーでた。あんたってずーっと真面目ちゃんだよね。まったく、なんでここで働きたいと思ったのかって、みんな不思議に思ってるよ」


「一身上の都合です。先輩たちには関係ないです」


「はいはい。いつもその一点張りだよね。もう聞き飽きたわ。てかさ、それより。今から新人ちゃんが来るんだって。店長が言ってた」


「新人?」


 ゆきこの話は次から次へとかたちを変えていく。その中に、一度は必ず私への嫌味が混じっている。いつものことだ。こうして毎日毒を垂らされながら仕事をしている私の身体には、少しずつ余計な毒素が溜まり続けている。でも吐き出す術はない。せいぜい毒への耐性を強くすることが唯一の対処法だった。


 そんなことより、ゆきこが言う「新人」の話が気になった私は、手にしていたメモ帳をカウンターの上に置いた。幸いまだお客さんは来ておらず、店内は私とゆきこ、それから今シフトインしたばかりの後輩たちが二人で駄弁っているだけだった。


「そうそうー。なんでも、あんたと同級生らしいよ。大学辞めてウチに入ってきたんだって。珍しいよね。私だったら絶対、苦労して入った大学は嫌でも続けるってー。あ、でも私、勉強嫌いだから無理か。適当にバイトして暮らすのもいいけど、こっちのほうが断然稼げそうだし? よく知らないけど」


 長く艶のある髪の毛の先をくるくると指で巻きながら、ゆきこは新人のことなど正直どうでも良さそうな素ぶりで話していた。


「そうなんですね。それで、その新人の方は誰が教育するんですか?」


 この店では、新人教育は大抵若い女の子たちがすることになっている。でも、すべて店長の匙加減だから、誰が教育係になるかは分からない。私は、教育係なんて面倒な役目を押し付けられたら嫌だな、という気持ちでゆきこに聞いた。


「それがさ、あんたよあんた。教育係、店長があまねに頼むって言ってたの」


「え、私ですか?」


 まさか。恐れていた事態が、目の前まで迫っていた。

 どうして私が? と聞く必要もなく、ゆきこが理由を説明してくれる。


「その新人、あまねと同級生だって言ったでしょ。それと、なんかちょっと変わった子らしくてさ。店長が、あまねが教育係として適任なんじゃないかって言ってた」


「変わった子?」


 そうだとしても、一体どうして私が適任だという話になるのか。

 ゆきこが意地悪そうな笑顔を浮かべている。いつのまにか後ろでグラスを磨いている後輩たちも、ニヤニヤと私たちの会話を盗み聞きしている様子だった。


「悪いけど、それ以上は私に聞かないで。私も店長からはそれしか聞いてないの。文句があるなら店長に言えば」


「……」


 そんな文句、言えるはずがない。

 店長が決めたことは絶対だ。逆らったら私みたいな客にも同僚にも人気がない女なんて、すぐクビにされるだけだ。私がここで働き続けられているのは、誰に何を言われても文句を言わず、淡々と真面目に仕事をこなしているからだ。生意気な口を利けば、私など用済みの女になってしまう。代わりはいくらでもいる。だから新人の教育係を理不尽な理由で任されたとしても、ただ受け入れるしかなかった。


「あ、そうこうしてるうちに来たみたい。ついでにお客さんも。いらっしゃいませー!」


 ワントーン高く、鼻にかけたような明るい声が店内に響き渡る。接客モードになったゆきこはもう、私が話しかける余地のない完璧な店員だ。後輩たちも「いらっしゃいませ!」と表情を綻ばせる。私はワンテンポ遅れて挨拶をしようとしたのだけれど、店長に脇から「あまねちゃん」と呼ばれた。


「はい」 


 カウンターに置きっぱなしだったメモ帳をポケットにしまいこみ、バックヤードへと向かう。そこに座っている人物を見て、私は絶句した。 

 ショートカットの髪の毛を外ハネにして、そばかすを上から化粧で厚塗りしている。目は細く、切れ目。鼻も口も小さくて、決して可愛いとは言えない。いや、正直に言って不細工な部類に入る。特にここ、ガールズバーで働く女の子としては、いささか見苦しい見た目をしていた。もっとも、表向きは外見の良さは求められていない職場であり、私だって人のことを言える立場ではない。でも私以上に——彼女はこの場にふさわしいと思えなかった。


 そして何より私が驚いたのは、彼女のその顔に見覚えがあったからだ。

 いや、見覚えなんて曖昧なもんじゃない。私は知っている。彼女の名前も性格も、変わった子だと言われる所以も。

 彼女が私の方を一瞥し、一瞬時が止まったような感覚に陥ったが、すぐにぺこりと頭を下げてきた。もしかして、気づいていないのだろうか? そんなこと、ありえる? 誇れることではないが、私は子供時代からあまり顔が変わっていない。いわゆる童顔というやつだ。整形もしていないし、化粧を厚塗りすることもない。髪型だけは、癖っ毛だったものに縮毛矯正をかけているので、変わっているように見えるかもしれないけれど。


「今日からウチで働くことになった、ユナちゃん。あまねちゃんと同級生だよ。こういう仕事は初めてみたいだから、一から丁寧に教えてくれたら助かる」


 ユナ。 

 その二文字の響きは、やはり記憶の中の彼女と一致するものがあった。ユナも私の「あまね」と同じ源氏名だろうが、本名をもじりすぎて分かりやすい。どうしてそんな単純な源氏名にしたのか——もはや聞くまでもない。


「よろしくお願いします」


 しおらしく頭を下げたユナの声が、あまりにも懐かしく、私は反射的に眉を顰めた。

 店長はユナを私に託したあと、自分の仕事をしに行ってしまった。残された私たちはなんとも言えない空気の中、ユナの初めての仕事をする羽目になったのだ。




 初めてガールズバーで働くというユナに、私はまず基本の心得を話した。

 ガールズバーはキャバクラとは違う。過度にお客様と接する必要はないし、聞かれても連絡先を教える義務はない。でも、お客様が気持ちよくお酒を飲めるように会話を広げたり、時に一緒にゲームをしたりして盛り上げること。仮にお客様に関係を迫られても自己責任で応じること。

 自分でも本当にできているのかどうか分からないことを、新人のユナに伝えた。ユナはメモを片手にふんふんと頷きながら私の話を聞いているようだった。だが、どこまで実行してくれるかは分からない。お客様との会話を盛り上げるところなんか、私だって全然できていない。だからよく先輩にも後輩にも見下されているのだ。

 その後は、主な仕事内容について、作業をしながら伝えていった。

 ドリンクの作り方、おつまみの種類、提供の仕方。空いている時は積極的に呼び込みにいくことなど。

 ユナはその一つ一つについて熱心にメモを取っていたが、やがてふとペンを置いて顔を上げた。


「あの」


「何?」


「店員によって、人気がある人とそうでない人が出てきますよね? 指名制とかあるんですか?」


 子犬のように純粋な瞳を私に向けていた。ただ、目が細いので「つぶらの瞳」と表現するのは合わない。私は、「ん、まあ」と曖昧に頷く。なんだか私の方が試されているみたいで、居心地が悪かった。


「指名制はないけど、人気のあるなしは正直ある。……指名制まではっきりしたものじゃなくても、お客さんの方から『今日は誰々いないの?』って聞かれることはあるよ」


 あまり、私の口からは説明したくないことだった。


『今日ってさーゆきこちゃんは? 俺、ゆきこちゃんともう一回話したいんだよね』


 目の前でジントニックを差し出す私と視線を合わせないように男性客がそう言うのを思い出す。一回や二回の話ではない。何度も経験したことがある。あの時の自分の居た堪れなさといったら本当にたまったもんじゃない。今すぐその場から逃げ出したくなるのだ。


「へえ、なるほど。そうなんですね。じゃあ私、頑張って人気者になろ〜」


 てへへ、という彼女らしからぬ笑みが溢れて、私は吐き気が込み上げてきた。

 一体どうしてあなたがそんなふうに笑って私の話を聞けるのだろうか。

 ていうか、私のこと、本当に誰か分かっていないなんてことある?


「あのさ、名前のことなんだけど」


 指名制とか、人気が出るかどうかとか、そういう弱肉強食の世界の話から、なんとか話題を逸らしたかった。そして、彼女に私が誰なのか気づいているのかどうか、聞きたかった。


「ユナって、本名とほとんど変わんないよね。いいの? こういう店では、あんまり本名を推測されるような名前にしない方がいいんじゃない?」


 私がそう核心をつくと、ユナは予想外に「へ?」と目を丸くした。まさか、本当に気づいていないのだろうか。「どうして本名と似てるって知ってるの?」という純粋な疑問の声が、その長細い目から聞こえてくるようだった。


「結菜でしょ。池崎結菜。私、木原恵(きはらめぐみ)だよ。美丘中(みおかちゅう)で一緒だったじゃん。覚えてないの?」


「木原恵……えっ、めぐ?」


 種明かしをすると、ようやく合点がいった様子で私の顔をまじまじと見つめた。何をそんなに驚くことがあるのだろうか。中学時代から、私の顔なんてほとんど変わってないじゃない。クラスの中で三軍と呼ばれる位置にいた、さして可愛くもない私は今も、こうして女だらけの職場で底辺を彷徨っている。ね、哀れでしょ。同情するでしょ。あんただって同じじゃない——と、あの頃クラスで三軍以下の最底辺にいた彼女に、目で訴えかけた。


「わ、めぐなんだ! 全然気づかなかった。久しぶりー! すごく綺麗になったねえ」


 こちらの思惑などまるで気づいていない様子で、高らかな声を上げたユナ。私は呆れて声も出ない。綺麗になった? そんなことない。もしそうなら、こんな底辺でウジウジ悩みながら毎日出勤などしていない。


「はは……気づかないなんて、相変わらずだね、結菜」


「ごめんー。私っていっつもこうだからさ。気悪くしたよね?」


「いや、別に。気悪くしたというか、純粋に驚いただけ」


「そっかー。それなら良かった。でもまためぐと会えて嬉しい。同じ職場の先輩後輩だなんて、すごい偶然。やっぱり私たちはどこかで繋がってたんだね」


「……」 


 反吐が出るほど甘やかな台詞を並べ立てる結菜を見て、私は正気かと彼女の瞳を見つめてしまった。その細い目を眺めていると、どこかで暗い感情とは別に、ほのかな希望が生まれていた。

 そうか、結菜がうちに入ってきたんだ。

 それならもう私は底辺じゃなくなる——。

 全身を包み込む安堵が、私の頬を緩めた。そんな私の表情を見て、結菜は私が自分と再会できたことに喜んでいると勘違いした様子でぱあっと笑みを膨らませた。


「よろしくね、結菜」


 そうだよ、嬉しいよ。

 私の代わりに、どうか底辺で生きてね。

 毒をたっぷり含んだ想いが、青色の光の中でどんどん大きく膨らんでいった。






 結菜との出会いは、美丘中学校一年生になった四月のことだった。

 私が通っていた小学校と、隣の小学校の卒業生たちが進学する公立中学校で、私は結菜とは出身小学校が違っていた。結菜は隣の小学校出身の人間だった。

 クラスでも、同小の卒業生たちが半分ずつ存在していた。四月、入学したての私たちはほとんどの人間が、同じ小学校から来た友達とばかりつるんでいた。小学校時代の知り合いが半分もいるのに、わざわざ新しい友達をつくろう、という人の方が少ないのは当然のことだろう。

 私も例外ではなかった。当時、同じクラスだった絵梨花や美波と一緒に行動をしていた。

 そんな中、私たち三人のグループに入り込んできたのが、結菜だった。


「ねえ、めぐちゃん。友達になろう」 


 友達になろう、なんて台詞を聞いたのは久しぶりだった。わざわざそんな儀式的な言葉で契約を交わさなくても、一緒にいて仲良くなれればそれはもう友達だ。だから私は、そんな言葉をあえて使ってくる結菜が、一目で友達づくりが苦手な子なんだと悟る。


「うん、いいよ」


 そうは言っても、友達になりたいという彼女に対して、嫌だと返事をすることはできなかった。

 細い切れ目は蛇を思わせる。小さな鼻と口は上品だと言えばそうだけれど、両目が離れているので、顔の面積に対してそれぞれのパーツが小さすぎるように見えた。我ながら残酷だが、人となりが分からない彼女に対して抱いた印象はすべて外見に関するものだった。


 それでも私は、結菜が友達になろうと言ってくれたこと自体はちょっぴり嬉しかった。新しい友達。その響きだけで、ワクワクと胸が高鳴るのを感じていた。同じグループだった絵梨花と美波も、思うところはあったようだが、最初は結菜のことを歓迎していたように思う。

 だが、結菜の性格に難があると気づいたのは、それから一ヶ月もしないうちだった。


「私のお姉ちゃん、モデルなんだー。女優もやってる。この前ね、お姉ちゃんの仕事の付き添いで、『BLUE SKY』の綾人(あやと)くんに会ったのっ。めっちゃすごくない!?」


『BLUE SKY』とは、当時流行り出した男性五人のアイドルグループだ。小学校の頃からクラスの中でも『BLUE SKY』を推しているメンバーも多く、約十経った今でも爆発的人気を誇っている。

 そんな『BLUE SKY』のメンバーの一人である綾人くんと会ったことを嬉々として語る結菜。さらに自分の姉が女優をやっていることもアピールしてきて、私は圧倒された。


「へ、へえ、そうなんだ。すごいね。女優さんなんて憧れる」


「そうでしょ? 私と違ってお姉ちゃんはとびきり美人なの。だから一緒にお出かけすると、すれ違う人たちからジロジロ見られて大変なんだー。あ、でも意外とお姉ちゃんが女優だってことはばれないよ。普通に堂々と歩いてたら案外気づかれないもんなんだ」


 本当は、女優という職業に対し、憧れを抱いたことなんかなかった。

 小学校時代から、私はいわゆる三軍女子で、顔も性格もたいして可愛くない。女優なんて夢を見ることすら憚れるぐらいだ。でも、まだ結菜のことをよく知らなかったこの頃、彼女の話に乗らないのは申し訳ないと思ってしまった。


「お姉さん、人気者なんだね。自分の姉がそんなに美人だったら、妹として嫉妬しちゃうかも……」


 素直な気持ちが口からぽろりと溢れて、私はしまった、と思った。

 今の言い方では、まるで結菜が美人じゃないと言っているようだ。まあ実際そうなのだが、傷つけたかもしれない——と後悔したのだが、彼女はぽかんと口を開けていた。


「嫉妬? そんなの全然ないよー。むしろ嬉しい」


「嬉しい……?」


「うん。だって自分のお姉ちゃんが、世間から可愛い、美人だって言われたら幸せじゃない?」


「……」


 一点の曇りもない、恍惚とした表情で自分の意思を主張する結菜。

 彼女の言い分が理解できない私は、小首を傾げた。知り合って一ヶ月も経っていないけれど、私の中で結菜は不思議な存在として君臨していた。



 彼女がどこか周りの人間とずれている、と感じたのは、女優の姉の自慢ばかりするところだけじゃなかった。


「結菜、何してるの?」


 昼休み、自分の席に座って机の上で何やら黙々と手を動かしている彼女を見て、私は尋ねた。


「練り消しづくり」


 近づいて彼女の手元を見てみると、消しゴムを机の上で擦ってできた消しかすが散らばっていた。その消しかすを集めて、手でコネコネと丸めている。小学生の時、私も同じようなことをしたことがあった。ただ、低学年の頃の話で、中学生になった今、練り消しを作ろうなんて発想はない。

 彼女は出来上がった練り消しをひょいと手のひらの上で転がすと、それを口元に持っていった。


「えっ」


 声を上げた瞬間、彼女は練り消しを口に入れていた。むしゃむしゃ、もごもご、口を動かして、最後に喉が鳴った。嘘でしょう、と我が目を疑う。彼女は私が隣にいることすら気にならない様子で、さらに二つ目の練り消しを咀嚼する。

「何してるの」なんて、声をかけることもできなかった。彼女とは関わらない方がいい——脳内で警告音が鳴った。

 練り消し事件はクラスメイトたちの間に瞬く間に広がり、元々姉の自慢ばかりすることが鼻についていたのもあって、結菜は即、クラスで浮いた存在となった。

 絵梨花と美波も、もちろん結菜とは口を利かなくなっていた。ついでに、結菜と時々会話をしていた私のことも、いつしか避けるようになってしまった。

 私は必死に、絵梨花や美波の元に戻ろうと頑張った。結菜のことを無視して、積極的に絵梨花たちに話しかけた。でも、私が絵梨花と美波に話しかけるよりも先に、純真無垢なまなざしを私に向けてくるのは結菜だった。


「めぐー、次の理科、化学室だって。一緒に行こー」


 遠くからブンブンと手を振って行動を共にしたいという結菜に対し、私は「えっと」と後ずさる。

 できれば結菜と移動したくない。教室を移動するだけだが、二人でいるだけで、他のクラスメイトから白い目で見られるのは明らかだ。絵梨花と美波だって、結菜のせいで私の元からいなくなってしまったというのに。

 そんな私の気持ちとは裏腹に、結菜はその場から身動きが取れない私に向かって、満面の笑みを湛えて近づいてきた。まるで金縛りに遭ってしまったかのように、足が動かない。


「ね、行こ」


 やがて彼女が私の腕をぎゅっと握る。振り解こうにも、予想外に彼女の手の力は強く、なすすべもなく連行されるような形で結菜と移動をすることになった。




 こうして私は、半ば強制的に結菜の“唯一の友達”になった。

 結菜と同じ小学校出身の子たちは、最初から結菜のことを避けていた。きっと小学校でも姉の自慢ばかりしたり、おかしな行動に出たりしていたに違いない。周囲とずれている、という感覚すら持ち合わせていなさそうな彼女のことだから、自分が避けられている理由も知らないだろう。


 私は早く、この状況から脱したくて必死だった。けれど一度「結菜の友達」という烙印を押されてしまった私は、狭い教室の中で、羽をもがれた小鳥みたいにがんじがらめにさせられた。結菜は相変わらず、毎日私に向かって笑顔で話しかけてくる。


 今日はお姉ちゃんの大事なドラマの撮影なの。『BLUE SKY』の綾人くんと共演するから、絶対人気ドラマになる。私も今度、撮影現場にお邪魔するんだ。あ、よかったらサインお願いしておこうか? はー、お姉ちゃんのドラマ、楽しみだな。


 彼女から語られる「お姉ちゃん」の話は、心底気持ち悪かった。彼女の姉に対してそう思っているのではない。鼻の下をだらしなく伸ばしながら、身内の自慢をする彼女に辟易していた。

 自慢話だけじゃない。彼女は以前にもまして練り消しを食べるようになったし、給食のパンを小さくちぎって、ビニール袋に小分けにして入れていた。なんでそんなことするのかと問えば、「保存食だよ」と返ってくる。まったく訳が分からない。結菜と話をするたびに、自分も真っ当な人間が歩むべきレールから足を踏み外してしまうのではないかという恐怖に駆られた。

 彼女と関わるようになってから、三ヶ月が経った。

 七月、一学期の期末テストが終わり、気持ちも新たに学校に行き、席に着いた時だ。


「あれ……?」


 机の上に、何か落書きがしてある。鉛筆ではなくマジックで、「変人★結菜の付き人さん」「ラブラブ♡」と書かれているのが目に飛び込んできた。


「何これ」 


 相合傘のような絵も描かれていて、私は周囲をさっと見渡した。

 数人の女子たちが動揺する私を見てくすくすと笑っているような気がして、目が眩んだ。誰が犯人なのか分からない。全員が犯人のような気がする。席から立ち上がり、雑巾を水に濡らして机の上をゴシゴシと擦った。けれど、油性マジックで書かれたそれは全然消えてくれない。仕方なく、そのまま一日を過ごすことになった。


 結菜には絶対に見られたくないので、彼女が私の席に近づこうとする前に、私の方から彼女の方に近づいていった。その光景を見た一部の女子たちが意地悪そうに陰で嗤っているのが見えた。嗤うんだったら、もっと分からないようにしてくれ。嗤っている女子は、正直ほとんど自分とは関わりのない派手な女子グループだった。一軍女子。そんなふうに呼ばれる彼女たちの中に、絵梨花や美波がいないことを祈った。


 いたずらはその一件では済まなかった。

 翌日、私は分かりやすくクラスの女子たちから無視をされていることに気づいた。先生に頼まれてプリントを配って回った際、私の手からプリントを受け取らない人が多発した。絵梨花と美波は受け取ってくれたものの、何かに怯えているようだった。私は、背中にサアアっと冷たい汗が流れるのを感じた。

 それから一週間が経った昼休みのこと。


「ねーねーめぐ、夏休みって何か予定ある? 私さー、一緒に花火大会行きたいんだけど、どう? お姉ちゃんのお下がりの浴衣がすっごく可愛くて、着たいんだよね」


 こんな時にも能天気に話しかけてくる結菜が憎らしく、私はキッと彼女のことを睨みつけた。


「え、どうしたのめぐ。何かあった?」


 変人の彼女も、さすがに私が怒っていることぐらいは理解してくれたらしい。でもその怒りの根源が自分にあるとは微塵も思っていないかのような純粋なまなざしをしていて、余計に腹が立った。


「あんたのせいで……あんたのせいだ!」


 ぷるぷると全身が震えているのが自分でも分かった。教室にいたクラスメイトたちがぎょっとした様子で私たちの方を振り返る。男子たちも、何事かと囁き合っていた。


「え、え、何? 私のせい? え?」


 突然怒りを爆発させた私の態度に、ただただ驚いて動揺している結菜。何も、分からないのか。どんだけ鈍いんだ。もう何もかも、鬱陶しくなって、ガタンと椅子から立ち上がると教室から逃げ出した。結菜はきっと、もぬけのからになった私の机の落書きを見ただろう。一体どう思うのだろうか。彼女のことだからきっと、「付き人」や「ラブラブ」という言葉を素直に「仲良し」という意味で受け取るに違いない。その光景を想像するだけで、また腹の底から醜い感情が込み上げた。



 一週間、学校を休んだ。

 単に学校に行って結菜に会いたくなかったというのもある。でも、それ以上に季節外れの感染症にかかってしまったのが原因だった。


「こんな時期に困ったわねえ。薬飲んでれば治ると思うけど、念のため一週間休みなさい」


 何も知らない母が、私の身体を心配して言った。布団の中で、こくんと頷く私。発熱自体は二日で治った。残りの五日間、私はベッドの上でなるべく結菜のことを考えないようにしながら、お気に入りのアニメなんかを見て無為に過ごしていた。


 再び学校に行けるようになったのは、夏休みも目前に迫った頃だ。

 教室に入るや否や、重たい空気がもわりと全身に降りかかるような気がした。けれどそれは、一週間欠席していた私に対するクラスメイトからの奇異な目線ゆえではなかった。多少、じろじろ見られはしたものの、入ってきたのが私だと分かると、みんな関心がなさそうに顔を逸らした。


 後から入ってきた一軍女子たちの鞄に、『BLUE SKY』のメンバーのアクリルキーホルダーがさがっているのが視界にちらつく。仲良しメンバーで買いにでも行ったんだろうか。自分にはそんな仲の良い友達はもういないのだ、と寂しく思いつつ教室の中を移動した。


「あれ、消えてる」


 自分の席に行くと、机の落書きがなくなっていることに気がついた。誰が消してくれたんだろうか。絵梨花と美波が窓際で話している。二人は私の方を見ると、「おはよう」と普通に声をかけてきた。


「おはよう、二人とも」


 何がなんだか分からない状況だったが、二人にそう返す。ほっとした様子で微笑む絵梨花と美波。つい一週間前まで、私のことを仲間外れにしていたことは、なかったかのようだった。


「めぐ、今までごめん。熱はもう下がった? 大丈夫そう?」


「う、うん。なんかの感染症だったみたい。でももう大丈夫。移す心配もないって」


「そっかーそれならよかった。あのさ、夏休み、みんなで花火大会行かない?」


 花火大会、という言葉に頭の片隅で結菜の浴衣姿がよぎる。半分後ろめたい気持ちになりながらも、私は「うん」と頷いた。絵梨花と美波は私の返事を聞いて嬉しそうに顔を綻ばせる。日常が戻ってきたのだと察した。

 それにしても、結菜は——。

 チラリと視線を動かして、結菜の席の方を見やる。一番後ろの端っこの席で、彼女は机の上をゴシゴシと消しゴムで擦っていた。何度も目にした光景だ。遠くてあまりよく見えないが彼女の机の上が黒く汚れているのだけは見て取れた。

 その日から、嘘みたいに結菜は私に話しかけてこなくなった。

 理由はすぐに分かった。

 結菜はクラスのみんなから、無視をされていた。だけど、本人は全く動じない様子で椅子に座っている。黙々と練り消しを作って口に入れる。その気味の悪い光景に、私は思わず目を逸らした。

 結菜が私の身代わりになったことに、疑問は抱かなかった。きっと派手な女子たちは、私が一週間も学校を休んで、いじめの標的がいなくなったから退屈したんだろう。結菜という恰好のターゲットを見つけて、私は用済みになったのだ。

 そうと分かって、結菜に申し訳ないという気持ち以上に安堵が込み上げたのは、私があの一軍女子たちと同じ、きたない人間だからだ。





 

 中学時代のことをぼんやりと思い出していたら、ユナが「めぐ?」と私の顔を覗き込んでいることに気づきた。


「どうしたの?」


「な、なんでもない」


 あの時から変わらない、濁りのない双眸からさっと目を逸らす。


 結菜——いや、ユナがお店にやってきてから、はや二週間が過ぎようとしていた。それだけ日にちが経てば、ユナの仕事ぶりについて、みんな分かるようになっていた。

 ユナは壊滅的に仕事ができなかった。 

 カクテルの作り方、材料を間違えてとんでもない味のドリンクを提供してしまったり、お客さんと会話しようとするあまり、ゆきことお客さんとの会話に割り込んでお客さんの機嫌を損ねてしまったり。客引きも、見た目の悪さが災いしているのか、全然上手くいかない。普段は私もそこまで客引きができるわけではないが、ユナと並んでいると、どうしてか上手くお客さんを呼ぶことができた。


「ユナ、客引き全然ダメじゃん。店長、売上足りないってキレてるし、そろそろヤバいんじゃない?」


「言えてる。店長もよくあんな子雇ったよね。よっぽど人材に困ってるんかな」


「そんなことないでしょ。もしかして店長の好みとか?」


「うわーそうだったら最悪。よりにもよってああいうのがタイプだったんだ」


 更衣室で悪気もなく嗤い合う、先輩たち。中には後輩も混ざっている。私は耳を塞ぎたい衝動に駆られたけど、そうすると自分がユナの味方だと思われそうで嫌だった。


「ねえ、あまねもそう思うでしょ?」


 ゆきこがくるりとした大きな瞳を私に向けた。まさか彼女が、私に同意を求めるとは思ってもみなくて、ドギマギしながら「は、はい」と頷く。


「あまねも、あの子の教育なんてもうよくない? やるだけ無駄じゃん」


「でもさすがにそれは……。店長に頼まれましたし。それにユナだってちょっとは頑張ってる気はするので……」

 

 ユナの教育に辟易しているはずなのに、つい彼女を庇うような言葉がこぼれ落ちる。


「いやあ、あれで頑張ってるって言われてもさあ。私らだって必死こいて自分を切り売りしてお客さんと仲良くなってんじゃん。だけどユナにはそういう努力が見えないんだって。店長だって、ユナが仕事できないことにもう気づいてるでしょ。クビにするか悩んでる時期じゃないの。教育するだけ無駄だって」


「そうなんですかね」


 口ではゆきこの提案を否定しつつも、頭の中では賛同していた。私だってもう、本当はユナに仕事を教えたくない。ユナが私に何かしたわけではないのだけれど、あまりにも教え甲斐がなさすぎて、こちらもやる気を削がれるのだ。


「まあそういうわけだから、あの子のことは適当にしときな。私らはもういない者として扱うから」


「ゆきこ先輩、きっつ〜! でも私もそうします」


 いない者。

 彼女たちは今この場にはいないユナのことを嘲笑いながら、着替えを済ませて出ていった。

 中学生時代に、結菜が教室の中で「いない者」として扱われるようになった瞬間を思い出す。あの時も今も、彼女は自分に向けられた悪意に気がついていないかのように、飄々と生きている。やっぱり私には理解できない。でも、胸の中でどうしてか、小さな棘がつかえているような気がしてならなかった。




 ユナは中学生の時と同じように、ガールズバーの中で浮いた存在となっていた。

 にもかかわらず、全然気にしてないって素ぶりでへらへらと笑っている。彼女が笑うと、元々細かった目が余計ににゅっと吊り上がり、気味が悪いという陰口が聞こえた。裏では女の子たちが彼女のことを「蛇女」と呼んでいるのを、知ってしまった。


 私は、ゆきこに言われた日からユナに対する教育の手を緩めていた。

 熱心に教えていると、逆にゆきこたちから私の方が白い目で見られるからだ。あの時と同じだった。中学校の教室と同じ。私は、これまで自分が弱い者いじめのターゲットになっていたにもかかわらず、ユナが入ってきてからその役割を平気で彼女に押し付けていた。多少の罪悪感はあったものの、自分がいじめられるよりはマシだ。そんなふうに考えなければ、ユナの隣で平気でドリンクを作ることなんてできない。


「めぐってさ、すごく熱心にメモ取ってるよね」


 ある日、彼女が私の作るブルームーンを眺めながら言った。ここで働くようになって、一ヶ月が経った頃か。カラカラとマドラーがグラスに当たる音が、もう生活音みたいに私の身体に染み付いている。まだまだ仕事を完璧に覚えているとは言えない彼女に、私は「まあ」と頷いた。

 ユナは職場でも私のことを「めぐ」と呼んだ。お客さんに本名がばれるからやめてほしいと言うのだけれど、彼女は聞かなかった。そういう頑固なところも含めて、辟易とした。


「何書いてるの、見せて」


 瞬時に拒否反応を起こしたのだけれど、ぐいと近づいてきたユナに、メモを見られてしまった。ブルームーンの作り方の横に書いてあるのは「叶わぬ恋」「奇跡の予感」というカクテル言葉だ。ユナはそこを指さして「これは何?」と尋ねてきた。


「……カクテル言葉。たまにお客さんに披露するとウケがいいの」


「へえ、そんなのあるんだ! 私にも教えて」


 無邪気な毒を注入するような口ぶりで彼女は顔を近づけてきた。その近すぎる距離感に咄嗟に身を離そうとする。けれど彼女は私の気なんて全然気づいていない様子で再び近づいてきた。


「ホワイトレディは『純真』、カンパリオレンジは『初恋』、ギムレットは『遠い人を想う』か。なんだか恋愛関係のものが多いね」


「そりゃ、まあ……こういうのを恋に結びつけるのがロマンチックだと思ってる人が考えたんじゃない」


「そっかあ。なるほど、めぐって物知りだね」


 適当にでっちあげた話を素直に信じてしまうユナに苛立ちを隠せない。


「あ、これ好きかも。ベルモントの『やさしい慰め』ってやつ。なんだか救いがあってほっこりする」


 私がいちばん好きなカクテル言葉を指さして、彼女がうっとりするように頬を綻ばせる。彼女の吐く息が、自分の頬に当たる。その瞬間、中学生時代の彼女の一幕が頭の中でフラッシュバックした。






 あれは確か、結菜が教室で無視をされるようになってから、三ヶ月が経った頃だ。二学期も半ばに差し掛かり、彼女がクラスで“いない者”として扱われるのが教室に馴染んでいた。それだけじゃない。彼女の机には、かつて私の机に書かれていたのと同じような——いやそれ以上に酷い落書きがされていた。結菜は机の上の落書きを見ても消すことすらせず、その落書きの上で消しゴムを擦っていた。油性マジックで書かれたそれは消しゴムでは当然消えない。だが彼女は落書きを消そうとしていたんじゃなくて練り消しを作っていただけなのだから、消えなくてもいいと思っていたんだろう。


 落書きだけじゃない。上履きに画鋲を入れられたり、教科書をズタズタにされたりという定番のいじめも起きていた。私は、ますます結菜に近づくのが怖くなって、結菜から目を逸らし続けた。自分がどれほど悪いことをしていたのか理解している。でも、誰かがいじめられるのを傍観することの罪悪感より、自分がターゲットにされることの辛さの方が身に堪えることだった。


 そんなある日のこと、結菜が昼休みに席に座ってパンを食べていた。その日の給食は白ごはんだったので、パンは出ていない。彼女食べていたのは、三日前に給食で提供されたコッペパンだ。もちろん賞味期限は切れている。ビニール袋から取り出してカピカピになったパンを食べる彼女を、気味悪そうに見つめる大勢のクラスメイトたち。その中の一人の女子が、怖い顔をして結菜の前に躍り出た。


「ちょっと池崎さん、教室で変なもん食べるのやめてくれない? このクラス全体の品位が下がるの」


 その女の子は、クラスでもカースト上位の集団に君臨する、気の強い子だった。彼女が率先して結菜のことを無視しようと言い出した。確か彼女の鞄にも『BLUE SKY』のキーホルダーが付いていたな、と意味もなく思い出す。


「え?」


 今までずっと無視をされていたのに急に話しかけられたことが腑に落ちなかったのか、結菜が驚いて彼女の方を見やる。


「だから、そのカビの生えたパンやめてって言ってるの。知ってるよ。あんたんちって、お姉さんのことばかりで、あんたには食事も与えられてないんでしょ。だからそんなかびたパンを大事にとってるんでしょ。練り消しを食べなきゃいけないほどお腹が空いてるんでしょ。そういうの、なんて言うんだっけ。あ、そうだ。ネグレクトだ。あんたの両親も女優のお姉さんも、最低じゃん」


 教室内に響き渡る不快な笑い声。凍りつく空気。私も他のみんなも、彼女の口から語られる事実かどうかも分からない話にただ呆然としていた。だが、結菜だけは違っていた。彼女は普段とは違って肩を大きく振るわせていた。


「うおおおおおおおおっ!」


 獰猛な虎の咆哮みたいな叫び声が、結菜の口から発せられたことに、その場にいた全員が信じられない気分で固まった。


「ああああああ! わあああああ!」


 猛り狂う結菜は机の上のパンを薙ぎ払い、机をガタガタと揺らして立ち上がる。教室中を走り回り、やがて例の一軍女子に体当たりすると、叫びながら教室から出て行った。


「いった! ちょっと!」


 一軍女子だけは発狂する結菜に文句を言いたげな様子だったが、結菜の姿が見えなくなってからは諦めたのか、呆けたように立ち尽くしていた。一部始終を見ていたクラスメイト全員が、結菜の発狂について、理解が追いつかないまま昼休み終了のチャイムを聞いていた。


 その日以降、結菜は学校に来なくなった。噂によれば保健室登校をしていたようだが、真相は分からない。私はそれから結菜と会っていなかったし、彼女のことは忘れかけていたぐらいだ。二年生になって、彼女とまた同じクラスになったけれど、必要以上に関わることはなかった。修学旅行で同じグループとして行動するときも、知らんぷりを貫いた。結菜と絶交して、ようやく私の日常に平穏が戻ってきた。でもどこかで毒の塗られた棘が胸に刺さったままだったのは、言うまでもない。






 グラスに注がれたベルモントを見つめながら、ユナはそれを一口口に含んだ。飲んだことがないというので試飲を勧めてみたのだ。


「ん、結構お酒感が強いんだねー」


 一口だけベルモントを飲んだ彼女はその味の主張に驚いて口からグラスを離す。私も初めて飲んだ時は同じ反応をしてしまった。


「うん。生クリームが入ってるから滑らかだけど、倍の量のジンが入ってるから。アルコール度数はかなり強いよ」


「そっかー。『やさしい慰め』とはちょっと違う感じがするねえ」


 ユナの言う通り、味のことを考えれば『やさしい』という感じはしない。生クリームが入っているから、その点は『やさしい』と感じるのかもしれないけれど。

 その日、私はユナと同じ時間にシフトを上がることになっていた。時間いっぱいまで結局カクテル言葉の会話をしてしまって、何をやっているんだかとため息をつく。更衣室で彼女と一緒に着替えるのは初めてだった。

 着替えを済ませた彼女が、鞄を手にした時、視界の隅で透明な何かが揺れた。


「それ、『BLUE SKY』のキーホルダー……?」


「え、うん。そうそう! めぐも好きだったっけ?」


 そう言いながら彼女は鞄から綾人くんのアクリルキーホルダーを外した。いつかの教室で見たのと同じだけれど、物自体は新しい。きっと最近手に入れたんだろう。

 アクリルキーホルダーを私の前に差し出して、彼女は「はい」と口にした。訳が分からずに呆然とそれを見つめてしまう私。


「これ、たくさん持ってるからめぐに一つあげる。昔クラスの女子に配ったことがあるんだけど、めぐに渡しそびれてて。ずっと、あげたかったんだー」


 教室の中で、一軍女子たちが突如として同じ綾人くんのキーホルダーをつけ出したのを思い出す。みんなでお揃いを買いに行ったんだと思っていたけれど、あれは結菜があげたものだったのか。


「なんで中学の時、みんなにキーホルダー配ったの?」


「えー? それ、めぐには言いづらいんだけどさ……」


 そう前置きして、彼女は頬を掻きながら話し出す。


「あの時、めぐがみんなに無視されそうになってたから、私からやめてほしいってお願いしたの。『BLUE SKY』のキーホルダー、お姉ちゃんに頼んでたくさんもらってくるから許して欲しいって。私ね、昔からお姉ちゃんばっかりで、お姉ちゃんを追いかけることが私の生きがいだと思ってたの。家でもね、お母さんはお姉ちゃんのことばかりで。醜い私にはご飯も作ってくれないことが多くて。『どうしてお姉ちゃんは可愛くて賢いのに、あんたは憎くて勉強もできなくて性格も暗いんだよ』って怒られて。それが悲しくて、お腹も空くし、少しでも空腹を紛らわせようとおかしなものを口にすることもあった。教室で、お姉ちゃんのことばかりな私に呆れて、めぐが私から離れていくのを感じて……。ああ、このままじゃダメだって思った。お姉ちゃんのことを追いかけるんじゃなくて、ちゃんと自分を持ってなきゃって。だから、『BLUE SKY』のキーホルダーを手放すことで、お姉ちゃんとは関係ない自分になれるような気がしたんだ。みんなに『BLUE SKY』のキーホルダーあげるって言ったら、『あなたが代わりになるならいいよ』って言われたんだ。じゃあそれでって、お願いしてキーホルダーを渡した。めぐは私にやさしさをくれたから。それだけの話だよ」


 さらりと言ってのける彼女の目を、私ははっとして見つめる。

 知らなかった。まさか彼女がそんなことをしていてくれたなんて。

 結菜が私のために傷ついていたなんて。

 あの教室で、自分の机の上にされた落書きが、いつの間にか消えていたことが思い出される。同時に、結菜が落書きのされた机の上でゴシゴシと消しゴムを擦っていたことも。

 ユナが私を見つめ返す双眸には、少しの濁りもなかった。けれど、あの教室の中で確かに雄叫びを上げていた彼女を目にした。彼女の中にある「やさしさ」は、私には到底持ち得ないものだった。


「……っ」


 感情がぐちゃぐちゃで何も言えない。ありがとう、も、ごめんね、も。今もこの場所でみんなから蔑まれている彼女に、そんな言葉をかけるよりもやるべきことがあるんじゃないかって、心では分かっているのだ。


 彼女が差し出す『BLUE SKY』のキーホルダーをそっと握りしめる。彼女がくれたやさしい毒。この毒を、私は少しずつ自分の胸に垂らしていかなくちゃいけない。彼女が受けた痛みを同じように感じるために。そして、身体中に染み渡った毒を取り除くために、もう一歩踏み込まなければ。


「……ユナ、あのさ」


 今までの私なら、彼女がこの店で、中学の頃の教室と同じように下へ下へと堕ちていくのを傍で見ているだけだっただろう。 

 だけど、傍観なんてもうできない。私にできる贖罪は何か。必死に頭の中で考え続ける。


「一緒に、このお店、やめよう」


「え、やめる? なんで?」


「なんでって……本当は気づいてるんでしょ。ユナ、あんた裏でゆきこたちから『蛇女』って呼ばれてるんだよ。更衣室はあんたの悪口で持ちきりだし」


 ずっと、濁りのないまなざしを向けていたユナの瞳が、初めてぐるんと揺れた。何度も口を開きかけては閉じて、を繰り返す。そしてようやく何かの決意が固まったのか、「めぐ」と私の名前を呟く。


「知ってた、けど。なんで、めぐが一緒にやめるなんて発想になるの?」


 彼女は純粋に分からないから教えてほしいという気持ちで聞いているような気がした。だから私も、正直に答えてやる。もう、ユナが——いや、結菜が傷だらけになるところを、見たくないんだ。


「あんたの悪口を聞くのが嫌なの。嫌になったの。本当はさ……あんたが来るまで、この店では私が一番下に見られる立場だった。でもユナが来て私の順位は少しだけ上になった。それで最初は清々した。でも……毒が、ずっと抜けないの。さっきのキーホルダーの話を聞いて、思った。私はこの場所から抜けたい。あなたと——結菜と一緒に」


 上手くは伝えられなかった。きっと私は言葉が足りない。もっと分かりやすく、「中学の頃、助けてくれてありがとう」と言えば済む話なのに。できなかった。こんなんじゃ、あの純真無垢すぎる彼女には私の真意も伝わらないだろう——。


「……そっか」


 と、思っていたのに、意外にもユナは思案顔で頷いた。その表情が、驚き、痛み、寂しさ、それから見失っていた戦友をようやく見つけた時のような安堵へと移り変わっていく。


「ありがとう、めぐ」


 泣き笑いのような表情を浮かべたユナ。その顔に、これまで彼女が生きてきた人生のすべてが詰まっているような気がした。

 私はカクテル言葉を書いたメモをそっと握りしめる。ここを辞めても、このメモ帳だけはずっと大事にとっておきたい。このメモ帳は、私が初めてユナに赦しを与えてもらえたきっかけだから。



 


【終わり】

 


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