第50話「爆炎の姫、鎖に沈む」
そして現在——
マリナは、きしむ体を押さえてゆっくりと立ち上がった。
ベラはまだその場に座り込み、息も絶え絶えにこちらを見ている。
エマとファブリスは地に伏したまま気を失い、縄で縛られていた。
サイラスの蛇のような瞳が、マリナを射抜く。
「さて、マリナ。選べ」
低くよく通る声が静かな森に落ちる。
「ここで死ぬか、グレイトバースに戻り——マシューの妻として、その腹で偉大なるフォスター家の血を増やすか」
喉が焼けるように乾く。
背後には傷だらけのベラ。視界の端には、なお気絶したままのエマとファブリス。
マリナは唇を噛み、瞼を伏せた。
(……わたくしが、ここで意地を張れば。エマも、ファブリスさんも、ベラも……巻き込まれる)
一度だけ深く息を吸うと、顔を上げた。
その表情は青ざめていても、声音だけは崩さない。
「……わかりましたわ、サイラスお兄様。グレイトバースに戻ります。マシューとの縁談も——お望みならば、受け入れましょう」
ベラが「マリナ姉!?」と声を上げかける。
マリナは彼女に一瞬だけ横目を送り、その瞳で必死の「任せて」を伝えた。
サイラスはにやりと笑って言った。
「そうだ。それでいい。お前も少しは利口になったな」
だが、一拍置き、その笑みの色が変わる。
「ついでだ。この森も焼いておくか。証拠は残さぬ方が良い」
「なっ!? やめなさい!」
反射的に飛び出したマリナの声に、サイラスの視線がギロリと細くなる。
「……やめなさい、だと? 誰に口を利いている?」
空気が一瞬で凍る。
家を追われた“失敗作”が、まだ王族に楯突くのか——その事実そのものが、彼の逆鱗を撫でた。
「ここには……多くの森の民たちが暮らしています。以前の死霊術師の被害も癒えぬうちに、これ以上——」
言い終わる前に、サイラスの手がマリナの髪を掴んだ。
「ぐっ……!」
赤い髪を乱暴に引き上げられ、首が反る。
サイラスは嗤った。
「追放された身でまだそんなことをほざくか。身の程を教えてやろう」
そのまま横薙ぎの平手が頬を打つ。乾いた音。
続けて腹を蹴り上げられ、マリナの体が地面を転がった。
「やめてよサイラス兄!!」
ベラが声を荒げる。
マリナは血の味を感じながらも、必死に首を振った。
(ダメ……ベラ、動かないで。あなたまで巻き込まれる)
止まりかけた息を押し戻し、震える手で地を支えて起き上がる。
サイラスの靴が、今度は背中を踏みつけた。
「反逆者の分際で口答えとは……。これは減点どころでは済まんな……ククク」
体重をかけて押し潰し、そのまま首元に足先を滑らせて喉を締め上げる。
「ッ……は……」
視界が滲む。
それでもマリナはサイラスを睨むことだけはやめなかった。
「その目だ。王家に牙をむく目だ」
サイラスの口元に嗜虐的な笑みが浮かぶ。
彼はマリナの胸倉を掴み、片手で引き上げると、喉元へ指を押し当てた。
「よく耐える。それなら——これはどうだ?」
バチッ。
稲妻が肌を焼き、筋肉を痙攣させる。
マリナの身体がびくりと反り、息が乱暴に漏れる。
それでも、悲鳴は上げない。
そのとき、低くうめく声が聞こえた。
「……マ……マリナ……?」
気を取り戻したファブリスが、縛られたまま顔を上げる。
その視線の先で、「最強」と信じる女が一方的に蹂躙されている。
あのマリナが……ファブリスには信じられない光景だった。
「マリナ様っ……!」
エマの声も震えていた。
その姿は彼女の知る“誇り高き主”から余りにかけ離れていたが——
マリナの瞳だけは、確かに同じままだった。
サイラスはそれに気付く。
喉の奥で笑い、もう一度、さらに強く電撃を流し込む。
「まだ折れんか。しぶといな」
マリナの体が崩れ、膝をつく。
髪は土と血で乱れ、頬は腫れ、呼吸も荒い。
それでも、決して命乞いもしないし、ベラにも仲間にも、視線でさえ助けを求めなかった。
ベラは唇を噛み切りそうなほど強く噛む。
(マリナ姉……あたしたちを、守って……)
理解した。今ここでサイラスに逆らえば、自分も、森も、仲間も巻き添えにされる。
マリナはそれを分かって、自分一人で矢面に立っている。
暴力で口から血がこぼれる。
それでも、マリナの瞳だけは燃えていた。
誇りだけは失っていない。
「サイラス兄様」
よく通る声が森に割り込んだ。
サイラスが顔を向けると、そこには部隊を従えたナタリー。
その傍らには、縄で縛られたルルの姿があった。
「任務が終わったのですね。お疲れさまです。反逆者マリナ・フォスター、その従者エマ、勇者ファブリス、そして対象ルル。これで全員拘束済み、ですね」
ルルの姿を見て、エマの顔から血の気が引く。ファブリスは悔しさに歯を食いしばり、マリナはわずかに目を見開いた。
(ルルまで……)
サイラスは鼻を鳴らす。
「ああそうだな。後はこの森を焼いて——」
「それは不可です、サイラス兄様」
ナタリーの声は静かだったが、一切の感情を感じさせない硬さがあった。
「ここはアルセィーマ大陸、ディエレント帝国の影響圏内です。この規模の焼却行為は必ず調査対象となります。調査が入れば、グレイトバース介入の痕跡を隠し通すのは困難です。父上は“開戦の口実”を与えることは望んでおられません。反逆者とその一行の捕縛という目的はすでに達成されています。これ以上の長居は不利益です」
サイラスはしばし黙り、ナタリーを見下ろす。
その表情にはわずかな苛立ちと、しかし理屈としては正しいと認める色が浮かんでいた。
「……チッ。相変わらず口うるさい妹だ」
だが理は通っている。
彼はつまらなさそうにマリナから足を退けた。
「全軍、撤退する!」
サイラスの号令に、兵たちが一斉に動き出す。
マリナは崩れ落ちるように地に手をついたが、その眼差しだけは上を向いていた。
ルルは縛られたまま、必死に首を振る。
「マリナちゃん……ごめん、捕まっちゃった……」
その目から涙が零れる。
「……謝らないで、ルル」
かすれ声でそれだけ返し、マリナは立ち上がろうとするが、ナタリーが兵士に指示して彼女の腕を掴ませた。
エマとファブリスも引き起こされ、荒々しく縄を引かれる。
ベラはふらふらと立ち上がり、倒れそうになるマリナの影を、ただ歯を食いしばって自分も歩き出すしかなかった。
「乗せろ。こいつらは“敗北者”として連れ帰る」
サイラスの命で、小舟へ、そして待機する戦艦へ向かう列が作られる。
夕暮れが近づく空の下、四人は縄に繋がれたまま船へと乗せられていく。
マリナは最後に一度だけ森を振り返った。
グランローズの蔓、その奥に立つクーロンたちの影。
——この地をこれ以上巻き込まなかったことだけが、せめてもの救い。
船が森を離れる。
風が頬を撫で、焦げた土の匂いが遠ざかる。
(必ず戻るわ。わたくしの意思で。誰の道具でもない、わたくし自身として)
かすかな炎が、折れかけた心の奥でまだ燻っていた。
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