俺と母ちゃんの富士五湖修行 9話
※100日チャレンジ16日目
カララン。
レトロなドアの鐘が鳴る音が聞こえる。
その瞬間に、お店という空間に入ったのだと一気に気分の切り替えが行われるのを感じる。
「いらっしゃいませ。」
店に入ると、60を超えたダンディーな男性がこちらを迎えていた。
「2人で。」
「2名様ですね、席へご案内致します。」
俺たちは老人に奥の席に案内される。
「直輝?座らないの?」
「母ちゃん……奥の席に座っていいよ。」
「お〜?遂に直輝もレディーファーストできるようになったか。舞衣ちゃんには感謝だね!」
「まあ……そうだな。」
俺の彼女、佐倉舞衣は結構厳しい。
基本的に道路沿いを歩いて欲しいし、食べに行く時は上座に座りたがる。
案外、女性とお付き合いするってマナーの小さな努力が必要だと感じた。
そのおかげで、俺は無意識に母ちゃんにレディーファーストができたのだ。
「はっはっは、若いのに……しっかりしてますね。」
マスターは優しそうな糸目の目尻を上げて、ほうれい線にシワを作って静かに笑っていた。
「でしょー!自慢の息子なんですよ!」
「ははは……!自分の子どもの成長は嬉しいものですな。ではこちら……お冷でございます。」
マスターはいつの間にか水を差し出してくれた。
水はしっかりと冷えているのか、グラスが少し霜が立ちそうになっていた。
俺たちは、グイッと水を飲むと……それだけで驚愕をしてしまった。
「この水……めちゃくちゃ美味いですね!なんというか……めちゃくちゃ舌触りが滑らかで水道水に比べて甘いように感じます!」
「はっはっは!お見事ですね。実はこの水……ここで取れる湧き水を使っていて、ミネラルが含まれていんだよ!」
マスターは、水にもこだわっていることに気がついて嬉しそうだった。
それだけ、この水は美味いのだ。
「凄いですね……これで飲んだコーヒーはさぞ美味しいでしょう。」
「ええ……大事なのは素材の良さと、どう活かすかの2つだと考えています。」
「すごいな……長年やってきた賜物ですね。」
「ははは、お若いのにお口が達者ですな。さて、このコーヒーのオススメブレンドをご用意しているのですが……いかがかな?」
「「是非お願いします!」」
俺たちの期待値は上昇する。
これで飲むコーヒーがまずいわけが無い。
「承知しました。フードメニューはどうされますかな?」
「じゃあ……私はこのベーコンレタスサンドで!」
「俺は……こだわりのビーフカレーで!」
「承知しました。それではご用意致します。」
マスターは綺麗な角度のお辞儀をすると、こちらに尻を向けずゆっくりと歩いていった。
「え!直輝……!ここ当たりじゃない?」
「すごいよな。どこ探しても店に埃もかんじない。清掃が行き届いてるってことだよ。」
お店は確かに年季をかんじる。
俺が生まれるより前にできたお店なのだろう。
しかし、こんなに山奥なのに蜘蛛の巣ひとつ無いし、照明も新品同様、作業場も整理整頓されている。
これだけでもこの店の技量が伺えるのだ。
すこし、トイレに行って用を足したのだがトイレもピカピカだ。
ウォッシュレットも完備されていてトイレに対しての先行投資もしっかりと行っている。
この店は……お客さんに喜んでもらいたい一心で成り立っているのだ。
席に戻ると、そのタイミングで料理を持ったマスターが出る。
「お待たせしました。こちらビーフカレーです。焦がした玉ねぎをベースに、じっくりとデミグラスソースと合わせて煮込んでみました。お米も地元産のお米に五穀を混ぜています。」
コトン……。
静かに、そして丁寧に俺の前に運ばれていく。
「続きまして、ベーコンレタスサンドです。こちら八ヶ岳からベーコンを仕入れました。燻製をしっかりと聞かせていて、チーズはスライスチーズと隠し味にパルミジャーノ・レッジャーノというハードチーズも加えております。レタスもロメインレタスをつかってあて、歯ごたえと旨みが抜群です。」
丁寧にマスターは説明をしながら母ちゃんのテーブルに料理を運ぶ。
そして、メインのコーヒーだ。
「そしてこちらが当店ブレンドのコーヒー。
敢えて流通の多い酸味が特徴のアラビカ種と……苦味が特徴のベトナムロブスタ種を8:2の割合でブレンド致しました。」
出されたコーヒーの匂いは、市販のものとは比べ物にならず、コーヒーの本質とは香りなのだと認識させられる。
普段ブラックなんか飲まないのに……口に運ぶと、水のまろやかさがコーヒーを引きたてている。
普段飲むコーヒーは酸っぱいのだけど、程よい苦味も混ざっていて、頭がよりスッキリするのを感じた。
そして、次にカレーに口を運ぶ。
野菜をしっかりと煮込んでいるおかげで野菜の旨みがこれでもかと入っていて、ほんのりと甘く感じる。
しかし、1つ違和感を感じた。
「牛すじ……?これ、牛すじですよね?」
ビーフカレーなのに、何故か牛すじがほとんどだった。何故だろう、こんな時は牛肉の良い部位を使うと思ったのに……物価高のせいかな?
「ははは、お客様……本当に良い舌をおもちだ。これは……敢えてそれにしているのです。美味いカレーと美味い牛肉だと味が喧嘩して、何が美味しいのか分からなくなるのです。それに、このカレーは本当によく煮込んでいるので他の部位だと崩れてしまうんですよ。だからこその……牛すじなのです。」
俺はその言葉に腑に落ちてしまった。
たしかに、このバランスも絶妙である。
美味いものだけで掛け合わせるだけでなく、敢えて引くというもの……。
これはカフェに留まらない本場のプロそのものだった。
母ちゃんも、サンドイッチが美味しすぎて絶句している。
どうやら細部にこだわりがあるみたいだったけど、お互いにシェアするのを忘れて食べきってしまった。
そして、最後にこだわりの水で締めて俺たちの贅沢なモーニングは終わりを迎えた。
カラン!
「ありがとうございました。良いお旅を。」
最後までマスターの動きは洗練されていて、好きな事をやり続けた人間の美しさを物語っていた。
まだ別れるには早い。
「すみません、マスターってお幾つなんですか?」
最後に……ちょっと失礼な質問をしてしまった。
何年やってきたのだろう、どうしてこんなに幸せそうなのか疑問が湧いたのでつい聞いてしまった。
するとマスターは、はははと笑って続けた。
「私……今年で80になるんですよ。」
「80!?」
もっと若いのかと思った。
受け答えはしっかりしてるし、背筋も曲がっていない。
きっと頭をちゃんと使っているのだろう。
「多分……私は死ぬまでここのマスターとして現役で行くかもしれないですな。君もそれだけ打ち込めるものを見つけるといいよ。」
「……ありがとうございます!また来ます。」
カラン……
今度はちゃんと店を出た。
一足先に母ちゃんがエンジンをかけていた。
「いい店だったね。」
「うん、俺もいつか……ああやって好きなことに打ち込めるようになりたいな。」
「見つけましょ、まだまだ若いんだから。」
「うるせえ、16しか変わらないっつーの。」
車が流す曲は……[ALEXANDROS]のワタリドリ。
美しく高い歌声は……この青い空を渡る鳥たちのように爽快感と勇気に溢れる曲だった。
俺達も、羽ばたくワタリドリのように進んでいく。
その先にある自由を信じて……どこまでもどこまでも