第二章 昔なつかしアイスクリン その五
【過去編:ふたつの出会い その一】
春 花の咲きの盛りの山の辺に、爽爽と風吹き渡りて天向かい
舞いちらむ様、いと儚き、いと美しきなり
やわらかな日の光が差し込む体育館。
びっしりと整然と並べられたパイプ椅子。
かわいらしい花の飾りをつけられた初々しい制服姿の新入生たち。
壇上では、入学式と記された大きな看板の下で、学校長が希望あふれる未来や楽しい学校生活、勉学や運動に励む意義などについて語る一方で、それ以上の熱量をもって、御来賓の町長やら、教育委員会やら、ナントカ議員などの労を、汗をかきかきねぎらっている。
そんな大人の社会の話には些かも興味はない。
この入学式はいったい誰のための式典なのかとうんざりした。
それに加えて、周囲から自分を嘲り笑うひそひそ声が漏れ聞こえてくると、また別の意味でうんざりだった。
幽霊女、幽霊女、幽霊女……
こんな記念すべきハレの日に、他に考えることはないのだろうか。
こいつらの親の顔が見てみたい。いや、今まさにその親たちが一堂に会しているのか。
他人をとやかく言えたものではないが、この連中を見ていると、希望あふれる未来や楽しい学校生活はどうした、おとなしく勉学や運動に励みやがれ、と言ってやりたくなる。
(お母さん、来られなくてよかったかもしれないな)
今朝の、申し訳なさそうな、残念そうな母の顔が思い浮かぶ。
少し、泣きそうだった。
慣れていても、傷つくものは傷つくのだ。
入学式が終わると、れいを含めた新入生は教師につれられて、ぞろぞろと連なって教室へと移動した。
周囲よりも頭ひとつ、いやそれ以上に背が高いれいは、どうしても目立ってしまう。
無意識に猫背になる。その長い髪が垂れる様子を見て、ほら幽霊みたいだと、またくすくすという笑い声が聞こえた。
出席番号順、つまり名前の五十音順に教室に入り、席についていく。れいはわりと順番が早いので、先に座ってぼんやりと後につづく生徒の列を眺めていた。
この街には、ふたつの小学校に対して中学校はここだけ。
半分は知っている子。あと半分は知らない子だった。
その時、ひときわ背丈の小さい女子生徒が入ってきた。
つい先日まで、みんな同じようにランドセルを背負っていたとはいえ、彼女はことさらに小柄だった。
背中の中ほどまである艶やかで、しなやかにさらさらとなびく黒い髪。
色白だけれど、血色よく健康的な張りのある肌。
わずかにつり目がちでキラキラと輝く大きな目に、小さめでつんと形の整った鼻。ふっくらとした淡い桜色の唇。
制服のサイズが大きいのか、ぶかぶかで袖から手が出ていない。しかし、《《しゃん》》と伸びた背筋にまっすぐ前を見る誇らしげな表情。
うまく表現できないが、そう、生命力に満ち溢れている感じとでも言うべきだろうか。
無意識に惹きつけられ、目で追ってしまう。
(あっ、なんかいいにおいする)
彼女が目の前を通り過ぎると、ふわっといい香りがした。
シャンプーか何かだろうか。ミントっぽいような、フルーツっぽいような、爽やかで甘い、なんとなく美味しそうないい香り。
何もかもが、れいと違う。れいには、彼女がうっすらと光を放っているようにすら見えた。
それは見たことがない子だった。たとえわずかでも目にしたことがあれば、けっして忘れないだろう。
あわてて胸につけられた名札に目をやる。
かろうじて、『りんこ』という名前が見えた。
視線を動かし、りんこの小さな背中を追おうとした、その瞬間。
―――生まれてから、この瞬間にいたるまで、一度たりとも感じたことがない、とてつもなく恐ろしい気配を感じた。
りんこのすぐ後ろ、彼女に続いてナニカが教室に入ってきた。
りんこと同じくらいの大きさの、ヒト型の、もっと言えば女の子のような形状のナニカ。
シルエットこそヒトであるが、その内側は黒く、真っ暗な闇のようだった。
長い髪の毛のような部分があるが、どこからが身体でどこからが髪なのかはわからない。
それは、風など吹いていないにもかかわらず、うねうねと気味悪く蠢いていた。
唯一、人間で言えば胴体にあたる部分が、ちょうど少女が着るワンピースのような形に赤く赤く染まっていた。
それが服なのか、ただその部分がそういう色なのかはわからない。
そのナニカは、まるでりんこの後をついて行くように、ゆっくり、ゆっくり進んでいった。
明らかに人間ではない。
けれども、れいが知っている幽霊などとも違う。
母から聞かされたことのある怪異のどれとも違う。
れいは全身の毛が逆立ち、鳥肌がたつのを感じた。心臓を鷲づかみにされたように胸が苦しくなり、呼吸がうまくできない。唇は戦慄いて、身体が勝手に震えだす。
教室の他の生徒たちは、この得体の知れないナニカがこの場所に存在していることにすら気がついていないようだった。
れいが、悲鳴をあげないように、ぶるぶると震える手で必死で口もとを押さえていると、不意にそのナニカが立ち止まった。
時が止まる。
比喩ではなく、本当に時間が止まってしまっていた。
周囲の生徒たちも、みな凍りついたように固まり、時計の針すら動いていない。
ゆったりとした緩慢な動きで、れいに顔を向ける。
目を逸らしたいのに、身動きがとれない。指の一本すら微動だにできなかった。
自分の心臓の音が聞こえる。荒く激しい鼓動が耳鳴りのように頭に響いた。
そして、そのナニカが、ゆっくりと『目』を開いた。
闇のような黒い空間の中にぽっかりと現れた目のような孔。孔の内側には、赤と黒がぐるぐると渦をまいていた。
――――――――――――!?
ぶつん
音をたてて、まるでテレビの電源を引っこ抜いたように唐突に、れいの意識は途絶えた。
つづく