第五章 星のピノ、ハートのピノ その十五
【りんこにあったちょっと怖い話☆その三】
りんこが、またおかしなことを言いだした。
りんこがおかしなことを言うのはいつものことだけれど、今回はいつにも増して訳が分からない。
れいは、りんこの言葉の意味が理解できず、大きく頭を振った。
「どうして、この時女とかいう怪異を殺すと、りんこが死ぬのよ。寿命? 止まっていた時間? 何を言っているのか分からない。ぜんぜん、分からない」
れいは、ぜんぜん分からない、という部分の語気を無意識に強めていた。
それは、わずかながらに思い当たる節がある事実を、あえて忘れようと、否定しようとするかのようだった。
「えー? いつだか、れいちゃんには見せてあげたことあったでしょ。忘れちゃったの?」
りんこが可笑しそうにころころと笑う。
その様子になんら違和感はない。
「りんこが、小学校五年生のときの記憶だよ」
りんこに言われるまでもなく、れいははっきりと覚えている。
忘れる事などできるはずもない。
だってそれは、中学校の入学式の日の出来事。
りんこと初めて会った、りんこと仲良くなるきっかけにもなった、とても奇妙で、とてもとても大切な思い出でもある出来事だったから。
れいの頭の中に、あの日みた不思議な夢の映像が再上映される。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
―――夕暮れ時、逢魔が時とも呼ばれる、古くから魔に出会いやすいとされる時間帯。
カーテン越しに差し込むオレンジ色の光に照らされて、鮮血をぶちまけたみたいに紅い朱い色に染められた病院の一室。
清潔な真っ白のシーツが敷かれたベッドの上には、身体のあちこちにたくさんの管や配線が取り付けられ、口もとに呼吸器が装着された、今と違ってまだ髪が長かった頃のりんこの姿。
他には誰の姿もなく、ベッドの傍に置かれた四角い箱から規則正しく発せられる冷たい電子音と、白く曇った酸素マスク越しに漏れ聞こえる、尋常ではないほど高まった熱を伴う苦しそうな息づかいの音だけが、静まりかえった室内に、まるで広がる染みみたいに響いていた。
朦朧とする意識の中、うっすらと開いた目に映ったのは、りんことは逆さまの向きに宙に浮いて向かい合う、なんとも不気味な、見た事のない少女の姿だった。
今なら、れいにも理解できる。
この少女が、『時女』。
りんこにとり憑いている、赤いワンピースの怪異の正体だ。
およそ体温などないかのような青白い肌。
浮いているのに垂れさがる事無く、空中で蠢くように漂う艶のない真っ黒な長い髪。張り付かせたような笑みを形作る口角のつり上がった口もと。
そして、赤と黒がぐるぐる、ぐるぐると渦を巻き続ける奇妙な瞳。
その黒に満ちた小さな世界の中、小柄な身を包む赤い赤い、気味が悪いくらいに赤いワンピースだけがむやみやたらに鮮やかで、吐き気を催さずにはいられない。
その身体つきも、髪の長さも、なにもかもがよく似通った二人の少女。
―――かわいそう。あなた、もうすぐ死んじゃうね。
張り付いた笑顔のまま、口も動かさずに話す時女。
―――あと九回、お日様が昇ったら死ぬ。でも、安心して。それまではけっして死なないよ。どんなに苦しくても、どんなにつらくても、それこそ死んでしまうほどの痛みに襲われても、その日が来るまではぜったいに死ねない。わたしにはわかるの。だって、わたしには未来がみえるから。
張り付いた笑顔のまま、時女はりんこに避けられない死の訪れと逃れられない苦痛の継続を告げた。
れいはこの時、はっきりと感じた。
りんこの心に、絶望の闇が広がっていったのを。
今、こんなに苦しいのに、こんなにつらいのに、まだ上があるのか。まだ先があるのか、と。
そして、りんこは強く強く思った。
死にたくない、と。
―――苦しいよね? つらいよね? かわいそうに。でも安心して。わたしなら、きっとあなたを助けてあげられる。ううん、病気は治してあげられない。私は人間の医者じゃないし、そういう怪異でもないから。
―――あなたが私のお願いをひとつ聞いてくれるなら、私はあなたのお願い事をひとつ叶えてあげられる。むずかしい言葉で等価交換って言うんだけれど、わからないよね。これは、世界でいちばん古くからある、いちばん単純で、いちばん強い契約のかたち。だいじょうぶ、あなたのお願い事はぜったいに叶うから。
この時のりんこは、瀕死の状態で、藁にも縋る思いだったけれど、朦朧とする意識の中で、それでも真剣に考え、たしかに自らの意思で答えを導き出した。
そう。
けっして時女の言葉に踊らされたわけではなく、自分で決めたこと、だった。
れいには、りんこの選択が正しかったのか、それとも間違っていたのかは分からない。
今さら、意見を言うことは許されないし、ましてや過去を変えることなんてできない。
だから、ただ黙って静かに、この夢の終わりを見届けた。
―――じゃあ、お互いのお願いを、せーの、で言いましょう。いい? 一度きりの恨みっこなし、だからね。
りんこが、かすかに頷いた。
―――せーの……。
―――せーのっ!
りんこと、時女の声が重なる。
そして、契約の瞬間が訪れた。
―――死にたくない。
―――人間として、生きたいっ!
ふたつの願いは、とてもよく似ていて、まったく異なるものだった。
そうして源初の契約が発動し、ふたつの魂は混ざり合い、そして再びふたつに分かれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「んふふ、思いだした?」
りんこが期待に満ちたような眼差しで、れいの顔を上目づかいでのぞきこんだ。
「りんこはねー、りんこの身体はまだあの時のまま、なんだよ。あと九回お日さまが昇って朝になったら死んじゃう、あの時のまま」
病気を治すことはできない。
夢の中で時女が言っていたことだ。
「時女は時間を止めたり動かしたり、そういうことができる怪異なの。すっごーい! でしょ」
りんこが得意気な顔で、にしし、と笑う。
「だから、時女を殺したら、止まっていた時間が動き始めて、りんこはまた病気になって死んじゃうんだよ」
理屈はわかる。
わかるけれど、れいはまだ納得ができないでいた。
「それじゃあ、りんこはこの先どうなるの? ずっと時間が止まったままって、それって……」
れいは、りんこの頭の旋毛を見下ろしながら問いかけた。
出会って以来、りんこの身長は一ミリメートルたりとも伸びていない。
ふたりで一緒に撮った星の数ほどの写真を並べて見ても、季節や場面によって服装や髪型こそ違えど、その背丈や体型、顔かたちはどれも同じ。
中学校では結局、卒業するまで制服はぶかぶかのままだったし、高校でもそうなのだろう。
―――高校では伸びるよ。
―――来年には、れいちゃんと同じくらいになってるかもね。いや、もっとかも。
―――背も伸びるし、おっぱいも大きくなる。
いつか交わした、他愛もない会話が思い出された。
今、りんこが話している内容が本当なら、背は伸びないし、おっぱ、胸も大きくなったりなんかしない。
れいは、言葉では言い表しようのない焦燥感のようなものにかられて、目の前のりんこを問い詰めた。
「そうだねー。たぶん、ずっとこのままかな? あ、でも、もしかしたら、おっぱいは大きくなるかもよ?」
自分の胸に手を当てて、胸のサイズが大きくなるような仕草をするりんこ。
れいちゃんみたいにはならなくても、灯ちゃんくらいにはなるかも、などと何の根拠もない持論を展開する。
「ふざけないでっ!」
れいが語気を強める。
りんこの小さな身体が見てわかるくらい、びくっと跳ねた。
「りんこ、あたし知ってるんだからね! あんた、アレだってないんでしょ?」
れいは薄々気がついていた。
自分は特にけっこう重い方だから、日ごろからりんこを見ていて、なんとなくおかしいと感じていたのだ。
女性として心身が成長する過程で、ある一定の時期を迎えると誰にでも起こる身体的な変化。
女性特有の、『生理』とか『月経』と呼ばれる現象が、りんこには起きていない。
それはたぶん、初潮を迎える前に時間が止まってしまったから。
そして、れいは、生理とは別のある事実に気がついてしまった。
くらくらとした眩暈に襲われる。
「れいちゃん、怒らないで。ふざけたりなんかしないから。ね? でも、れいちゃんもさっき見たでしょ? 時間が止まっているおかげで、りんこは死なないんだよ。そうじゃなかったら、今ごろ大変だよ」
りんこには、れいが何故、何に対して苛立っているのか分からない。ただ、おろおろとするばかりだった。
「りんこ、りんこ、あんたわかってるの? どうして分からないのよ。死なないって、ずっと今のままだって、それって、それってさあ。いい? あたしたちは年をとるんだよ? あたしも、灯も、いつかおばあちゃんになって、そして、いなくなっちゃうんだよ? あんただけ、いつまでもそのままって、そんなの、そんなのっ!」
れいは、最終的に自分が何を言いたいのかまとまらないまま、感情のままに言葉を吐き出した。
「れいちゃん、わかんないよ。じゃあ、どうしたらいいの? どうしたらよかったの? あのまま、病院のベッドの上で死んじゃったほうがよかったの?」
「そんなの―――」
りんこの、ちょっとつり目がちの大きな目が涙で潤む。
れいはその顔を見て、はっと口をつぐんだ。
「そんなの、あたしにもわかんないよ」
消え入るようなれいの言葉。
「ごめん、言い過ぎた。あの、悪いんだけど、本物のりんこと話をさせてくれない? いつものりんこと」
れいは顔を手のひらで覆い隠しながら空を仰いだ。
頭を冷やして、少し冷静にならなければいけない。
しかし、この時、れいはまだひとつ大きな勘違いをしていた。
てっきり、これまでの様子から、りんこはいわゆる二重人格のような状態なのだと考えていた。通常、人間のりんこが表に出ていて、時折おかしなことを話しているのは怪異の方の人格なのだと。
今、会話しているのは、りんこにとり憑いている『怪異』の方で、本当のりんこの意識は眠っているとか、隠れている状態なのだと、そう勝手に思い込んでいた。
「ん? だから、りんこはりんこだよ? もともとは怪異の時女だけれど、今は人間の更科りんこ。いつものりんこはりんこでしょ? 本物の、っていうとむずかしいんだけど、えっと、もともとのこの身体の持ち主の、人間だったりんこはあっち」
りんこが身振り手振りを交えながら、困ったような顔で説明する。
そして、最後に怪異『時女』の方を指さした。
「え? ときどき入れ替わったりしてるんでしょ?」
ぽかんと、呆気にとられたような表情でつぶやくれい。
りんこは、れいが言っていることがよく分からないといった様子で首を傾げた。
「なんで? してないよ? りんこは、もうずっと前からりんこのままだよ」
「ずっと、って、いつから?」
れいの思考が、また事実に置いてきぼりにされる。
「いつからって、契約したときから? あの瞬間、魂が入れ替わったの。だから、れいちゃんが知っているりんこは、初めっから今までずっと、りんこのことだよ」
無邪気な笑顔を見せるりんこ。
―――もうホームルームも終わっちゃったよー。もうみんな帰っちゃったよ、ごじゅうすずかわさんってばー。
―――おー、よく知ってくれてたねー。いすじゅがわさん、りんこの隠れファン?
―――更科りんこだよ。よろしくね。
―――入学記念もあるけどー。ふたりの、おともだち記念でしょ!
―――じゃあねぇ、幽霊がみえるかられいちゃん!
―――にしし。
出会ったときから。
最初から、りんこは怪異だった。
りんこの中身は怪異で、本物のりんこはあの赤いワンピースの怪異の方。
出会ってから今まで一緒に過ごしてきた時間や思い出の数々が、ぐるぐるとれいの頭の中を回っている。
にしし。にしし。にしし。にしし。にしし。にしし。にしし。にしし。
口もとに手を当て、おかしな笑い方をする小憎たらしい親友の姿が、なんだか恐ろしいものに感じられた。
「あ、灯―――」
咄嗟に灯に助けを求めようとして、彼女がこの場にいないことを思い出す。
助けて。
誰か。
灯。
お母さん。
佐久間さん。
美咲さん。
ルゥナー。
真昼先輩。
駄菓子屋のおばあちゃん。
商店街のおじさん、おばさんたち。
この際、学校の先生でも、大嫌いなクラスメイトでも、誰でもいい。
誰か、誰でもいいから、助けて。
れいの心は限界だった。
何が正しくて、何が正しくないのか。
何が大切で、何が大切ではないのか。
何を拾い上げて、何を捨てるべきなのか。
りんこと、時女を交互に見比べる。
れいの、不偏の太刀を握るその手に、ぎりりと力が込められた。
つづく