第五章 星のピノ、ハートのピノ その六
【美しき風の花 その二】
「うぅ、またもらしちゃった」
りんこが泣きべそをかきながら、悔しそうに唇をかみしめている。かなり我慢していたらしく、足もとには小さな水たまりができていた。
「大丈夫。大丈夫ですよ、りんこちゃん。ほら、落ち着いて。はぁい、ゆっくり深呼吸。そう、大丈夫ですよ。きっと大丈夫ですからね」
握りしめたこぶしを震わせるりんこの小さな身体を優しく抱き寄せ、灯は羽織っていた淡いピンク色のダッフルコートを手早く脱ぐと、りんこの濡れそぼった腰から下を隠すように纏わせ、両袖を縛って固定した。
「ううぅぅ、あかりちゃん、ありがとうぅ」
「どういたしまして。りんこちゃん、歩けますか?」
涙声でお礼を言うりんこ。
灯はいつもと変わらない穏やかな表情で笑いかけた。
強張ったりんこの表情がほんの少し和らぎ、灯の問いかけに、うんと答える。
でも、これは、まずいですね。
いったい、どうしたら。
灯は穏やかな笑顔の裏で、泣き出し、叫びだしたくなる心を必死に抑えていた。
もともと、灯はオカルトや超常現象などという物に、これまでまったく縁が無かったこともあり、耐性も無ければ、心構えのようなものも全く持ち合わせていなかった。
今だって、けっして丈夫ではない心臓が異常ともいえる早鐘を打ち、眩暈と吐き気をこらえるのに必死だった。
りんこを支える傍ら、自らの胸に手を当て、飛び出しそうな心臓を押さえている。
その海外の血が混じった透き通るような肌の白い手の指先に、そっと、静かに、見えない誰かの手が重なった。
誰にも見えないけれど、その手はいつでも灯のそばにいる、誰かの手だった。
―――大丈夫。大丈夫だよ。落ち着いて。ゆっくり息を吸って、吐くの。そう、そうだよ。きっと、大丈夫だから。大丈夫。
灯の頭の中に、名前も知らない誰かの声が響く。
不思議と心に安らぎを与えるような、その口調、その言葉使いは、りんこにかけた灯自身のそれによく似ていた。
「れいさん、何かお考えがあったりしますか?」
幾分、落ち着きを取り戻した灯が、美咲を背負ったれいに囁きかけた。
その視線は、獲物を選んでいるかのような筑波祢 真昼の血塗られた足もとをしっかりと見据えている。
れいは隣りに並び立つ、この一歳年上の同級生の、その可憐な外見からは想像もできないような肝の座りように、素直に憧憬の念を抱いていた。
灯のおかげで、自分もなんとかパニックにならずに済んでいる。
「正直なところ、決め手になりそうなものはなにも」
れいの額から冷たい汗が、つぅっと流れ落ちた。
いま、この瞬間にもあの化け物が襲い掛かってきてもおかしくない。れいは気持ちばかりが焦り、考えが上手くまとめられないでいた。
「と、いう事は、です。決め手になるか分からないアイデアならあるんですね?」
灯が人差し指をぴんと立てて言った。
「さすがですよ、れいさん。私は何も思いつきません。なので、その案でいきましょう」
ぺちり、と両手の平を合わせる。
「ぷっ」
灯のあまりにも短絡的な物言いと、普段通り過ぎる仕草に、れいは何だか可笑しくなってつい吹き出してしまった。
「なんですか? なにかおかしな事いいました、私?」
いきなり笑われて、灯が拗ねたように頬を膨らませる。
「いや、ごめん。よくあたしに何か考えがあるのが分かったな、と思って」
困ったように眉を寄せるれいの言葉に、灯は普段とは違うまったく飾り気のない笑顔を見せて言った。
「だって、いつも見ていますから」
すっきりとした、自然な笑顔。
それは、れいが初めて見る灯の素顔だった。
「お忘れですか? 私はれいさんの彼女ですよ」
いつもの、にこやかな表情と悪戯っぽい口調。
「だからー、りんこも彼女だってばよ!」
れいが背負った美咲の身体を支えていたりんこが、背後からひょこっと顔をのぞかせた。
それで、れいは先ほどまでの緊張が、すっかりどこかへ飛んで行ってしまったように感じた。
「はいはい、みんなで無事に帰ったらね」
吹っ切れたような涼しい顔で、りんこを軽くあしらう余裕すら生まれている。
「れいさん、それ死亡フラグですよ」
灯が形の良い眉を八の字にして、心配そうにたしなめる。
そして、三人はお互いに顔を寄せ合い、ごにょごにょと囁き合った。
いわゆるひとつの、作戦会議というやつだ。
決して勝てる戦いではない。そもそも勝つことが目的ではないし、何よりも戦いですらない。
これは、みんなで明日に進むための、失った過去を取り戻すための、そのための作戦会議だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
気を失ったまま未だ目が覚めない美咲を、灯とりんこに託す。
れいは、真っ直ぐに真昼の方を向き、しっかりと両足で立っている。もう、膝は少しも笑っていない。
「それじゃ、美咲さんをよろしくね、二人とも」
れいの言葉に、りんこと灯が大きく頷いた。
「れいちゃん、ぜったいだいじょーぶだよ!」
「れいさん、ご武運を」
れいは、二人に小さく手を振って、数歩まえに足を進めた。
それだけで真昼からの霊圧が大きく強まり、れいの長い髪が大きく後ろへなびいていくほどの強風と化していた。
真昼のぎらぎらとした暗い瞳が、れいに向けられる。
「オバケの対処法そのいち。けっして目を合わせないこと」
れいがぶつぶつとつぶやく。
母に幼いころから聞かされていた、オバケの対処法。
それは、すでにりんこと灯にも伝えてある。
「オバケの対処法、そのに。オバケの気になるお話は、できるだけしないようにしましょう」
れいは、大きく息を吸い込んで、今までの人生で一度も出したことがないような、大きな声で叫んだ。
「筑波祢 真昼! こっちに来い! ルゥナーは! おまえのподруга(愛しい人)はこっちだ――――――!!」
そして、れいは、先ほどまでれいたちがいた方、クリスマスマーケット会場の入り口に向かって走り出した。
その叫びに、真昼は誘われたようにれいの後を追って、ゆっくりと進み始めた。
腕が無いため身体のバランスがとり難いのか、ふらふらと定まらない足取りで、びちゃり、びちゃり、と血だまりを踏みしめながら。
れいの足はお世辞にも速くはなかったけれど、追いかける真昼の歩く速度はさらに輪をかけて遅い。
その差は、徐々に広がっていった。
「はあ、はあ、あった!」
れいが走ったその先には、不偏の太刀が美咲が飛ばされてきた時のまま置き去りになっていた。
それを通り過ぎざまに拾い上げる。
いや、拾い上げようとしたけれど、そう上手くはいかなかった。
「な、なにこれ!? おっっも!?」
れいは片手で拾おうとして、その予想外の重量に思わず舌を巻いた。仕方ないので両手でなんとか持ち上げる。
れいちゃんの、なんとなく考えたアイデアその一。
美咲さんの不偏の太刀で、筑波祢真昼をやっつける。
これは、もうすでに、と言うか最初から難しそうだった。
そもそも、たとえ不偏の太刀を振るえたとしても、美咲が勝てなかった相手に、れいが勝てるはずもない。
「まあ、いいや。とりあえずおとり作戦はせいこう!」
落ち着いてはいるものの、悪寒と冷汗は止まらない。
全力で走ったこともあり、その額には玉のような汗がいくつも浮かんでいた。
とにかく、まずは美咲を車の中まで連れていく。
それが最優先だった。あのままの状態で屋外に放置したら、低体温症で命を失いかねない。
「とりあえずもなにも、後は本当に行き当たりばったりなんだけどね」
自分自身に呆れてしまう。
分の悪い賭け、どころの話ではない。博打にすらなっていなかった。
とにもかくにも、今は時間稼ぎだ。
最悪、夜が明けるまで逃げてやる。
れいは不偏の太刀を半分引きずるようにして、真昼が来るのとは反対側へ走った。
金属製の切っ先がアスファルトに触れて、金切り音とともに小さな火花が飛び散っていく。
しかし、れいを含めた全員が、このマモノと化した筑波祢真昼という化け物のことをよく分かっていなかった。
「にぃ がさない よ」
くぐもった声で真昼が言った。
そして、次の瞬間、その身体が宙を舞う。
「――――――!?」
驚くれいの目前に、大きな水音をたてて真昼が降り立った。
そのまま、れいに掴みかかろうとして、両腕が無い事に気がついたのか、真昼はなにやら可笑しそうにケラケラと笑いだした。
「ア、あははっははハハアははっはははははハハハハはははハはっはあっははははははハハはははははあっはあhh」
無くなった腕でお腹を抱えるようにして笑い続ける真昼の姿は、まさに狂気そのもので、見る者に恐怖と、そして悲しみの感情を植え付けた。
走り疲れた上に、真昼の狂気にあてられて、れいはその場に尻もちをついて座り込んでしまう。
そのれいの顔の目前に、真昼がぬぅっと顔を寄せてきた。
真っ黒い闇に包まれた少女の顔。腐臭が鼻をつき、れいは吐き気をもよおしてしまう。
「それで ど こに るぅがいる って?」
笑みのない、真剣な表情の真昼。
その顔に、その声には、愛しさと哀しさが混在しているかのようだった。
れいは、慌てて肩提げの通学鞄の中を手探りで探る。
「あ、あれ? ない! なんでっ!?」
れいが困惑の声をあげた。
そこに確かにあったはずの、ルゥナーの人形が、無かった。
「ど こに るぅ がいるってえーーー!?」
赤く赤く血走った眼で、れいの顔をのぞき込む真昼。
その声に嘲りと共に怒気が混ざり始めた。
れいちゃんの、なんとなく考えたアイデアその二。
ルゥナーの人形を見せれば、きっと成仏してくれる。
これも、失敗に終わりそうだった。
作戦そのものは美咲も考えていた内容だったので、上手くいきそうだったのだけれど、肝心の人形が無いのでは話にならない。
れいは鞄を逆さまにして確かめたけれど、やはりルゥナーの人形は影も形もなかった。
「いないんだ? じゃあ、アナタはもういらない。さよなら」
突然、それまでとは打って変わり、流暢な言葉で、真昼はれいに冷ややかに告げた。
そして、驚くべきことに、切断された両腕が瞬時に再び生えた。
言葉を失い、れいは恐怖のあまり気を失いそうになる。
そのれいの顔を真昼は両手で挟むようにつかみ、顔をのぞき込んだ。
お互いの瞳に、相手の姿が映りこむ。
恐怖にひきつるれいの顔。
悦楽に歪む、真昼の顔。
視線に囚われ、れいはもう微動だにできない。
指の一本すら、動かすことができなかった。
真昼は満足そうな笑みを浮かべると、れいの手に握られていた不偏の太刀をその左手でとって、切っ先をれいの右目に向けた。
冷たい金属の刃が、れいの眼球に触れようとした、まさにその時。
れいの耳に、灯の叫び声が飛び込んできた。
――――――りんこちゃん! だめですっ!!
え? りんこがどうしたの?
れいが呆然とする中、背後から駆け寄る軽い足音が聞こえ、真昼がれいを掴んでいた手を離して立ち上がる。
――――――りんこちゃんっっ!!
聞いたことが無いほど、悲痛に響く灯の声。
だから、りんこがどうしたって……?
『れいちゃん! にげてっ!!』
すぐ近く、頭のすぐ上で、りんこの声がした。
それとほぼ同時に、ばしゃばしゃという激しい水音が聞こえ、れいは頭から水をかけられてずぶ濡れになった。
そして、れいの左右に、りんこの身体が倒れこんで、そのまま動かなくなる。
何が起こったのか。
何が起きているのか。
れいの頭はすでに理解していた。
でも、思考がまったく働かない。
考えたら、その瞬間、きっと自分は壊れてしまう。
ふと自分の手を見ると、真っ赤な血に染まっていた。
手だけではなく、全身が、バケツで赤のペンキをかけられたみたいに、真っ赤に染まっていた。
恐る恐る地面に転がるりんこの顔を見ると、ちょっとつり目な、くりくりとした大きな目と視線が合った。
その、いつもきらきらと輝いていたきれいな瞳は、すでに光を失っていた。
―――死亡フラグ。
そんな冗談が、頭の中をぐるぐると回り続ける。
月が照らす大地に、れいの、灯の、血をはくような絶叫が響き渡った。
つづく