第五章 星のピノ、ハートのピノ その三
【約束、それってすなわち死亡フラグ? その三】
「あれは、まひるちゃん、まひるちゃんだよ。オバケになっちゃったの?」
暗闇の向こうから、じっとこちらを見つめる筑波祢 真昼だったもの。
その変わり果てた姿に、りんこが大きくかぶりを振った。
「あんな、あんな姿だなんて、あんまりです」
灯も動揺を隠せず、れいの腕にしがみついていた。
れいは、震えて膝から崩れ落ちそうになる身体を懸命に支えながら、りんこと灯を抱き寄せる。二人の小さく華奢な身体が小刻みに震えていた。
すでに、れいは確信していた。
筑波祢 真昼の、血と怨念にまみれたあの異様な姿。
死してなお、強い意志を感じさせる狂気を宿した瞳。
そして、りんこと灯にもはっきりとみえているその姿。
―――あれはマモノだ。筑波祢 真昼はすでにマモノと化している。
れいが母・五十鈴川 浄から聞いた、霊には種類やランクのようなものがあるという話。
他人の傷を引き受けるという異能を生まれ持ち、多くの人の命を救った果てに命を落としたルゥナーの魂が、今はおそらく神聖な方へと昇華して精霊や妖精といった存在に近づいているとするならば、狂気の衝動のままに幾人もの命を奪い、世界への怒りと恨み、ありとあらゆる怨念の限りを抱いたまま無念のうちに絶命した真昼は、邪悪な方へとその魂を堕とした末に、マモノと呼ばれる存在に変わり果てた。
マモノとは、肉体や実体こそ持たないものの、生物や他の物質に対して物理的に干渉できるほど濃密に凝縮された悪意のかたまり。それはもはや、幽霊などと呼べる代物ではなく、人に害を為す怪物や化け物の類、まさに『魔物』であった。
昨日の夜、夜道でアレに遭遇して全員無事だったのはとても幸運な事だったのだと、れいは全身を支配する震えと悪寒から、いま身をもって実感していた。
基本的に、精霊やマモノといった高位の存在に、生身の人間ができる事は何もない。
代々、神通力と呼ばれる異能を操った五十鈴川家の当主たち、つまりれいの祖先の中には、身体から光の刃を作り出し悪鬼羅刹の化け物ですらうち滅ぼしたという、本当か嘘かもわからない、まるでおとぎ話のような伝承も残ってはいるけれど、生憎と衰退の一途をたどった末に一家離散の憂き目にあった当代のれいには、そんな芸当は望むべくもない事だった。
「あれはなに? чудовище(化け物)?」
幽霊、もとい精霊のルゥナーが目を丸くしてそんな事を言う。
「本当に、本当に、何も知らないのね」
ルゥナーの側にいた美咲が、そっと目を閉じて小さく首を左右に振った。その表情は苛立っているようにも、悲しみに沈んでいるようにも見える。
「あれはね、ルゥナー。あれは、あれが真昼ちゃんよ。あなたがずっと待っていた、あなたのподруга(愛しい人)」
美咲は、ネイティブ・スピーカーかと思わせるくらいに流暢な発音でルゥナーの母国語を交えてそう言うと、真昼の方に向き直った。
その額を嫌な汗が伝う。
(今の私に、今の真昼ちゃんをどうにかできるでしょうか)
心の中でつぶやく美咲。
静かに、左の義手を包み隠した黒い革手袋と、右の腕で抱きかかえるように携えた白布の長包みを交互に見比べる。
「ああ、重いなぁ。こんなものをあんなに振り回していたなんて、やっぱり真昼ちゃんはすごいね」
美咲のお世辞にも逞しいとは言えない細い右腕に、白布に包まれた金属のずっしりとした重みがのしかかる。ただでも重いうえに、美咲の左手は、ここに至ってはおそらく何の役にも立たないだろう。
「でも、私が何とかしないとね。あの子たちを無事におうちに帰さないとだし。それになにより、ふふ、私、せんせいだしね」
美咲は小さく「がんばるぞー」と自分自身に声をかけ、両手をむんっ! と握りしめた。義手のガチャリという冷たい金属音が静かに響いたけれど、それは誰の耳にも届かなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あれが、マヒル? そんなわけ……」
駐車場の外からじっとこちらを見つめるセーラー服姿のчудовище(化け物)。
たしかに背格好は似ているかもしれない。
しかし、あんな全身から負の瘴気を放つ死臭まみれの怨霊が、今日来るか、それとも明日来るかと待ちわびた愛しい人であるはずがない。
ルゥナーは美咲の言葉を一笑に付そうとしたけれど、しかしそれでも万が一と思い立ち、ふらふらと吸い寄せられるようにその化け物の方に歩いて行った。
そもそも、自分はいつからここにいるのだろう。
いつから、ここでマヒルを待っているのだろう。
マヒルと手をつないで訪れた、あのクリスマスの夜は、いったいいつの事だったろう。自分が今のような姿になったのは。あれからどのくらいの年月が過ぎているのか。
そして。
そして。
―――どうして、マヒルは来ないのだろう。
そんな当たり前の疑問を、今の今まで考えもしなかった。
もう心臓も肺もないけれど、それでも、鼓動が早まり呼吸が苦しくなっていく。
冷静になろうとすればするほど、落ち着こうとすればするほど、次々と頭の中に疑問が浮かび上がっていった。
「そんなわけない。そんなはずがない」
自分に言い聞かせるように繰り返すルゥナーの足は次第に早まり、やがて駆け足になっていた。
そう。マヒルが来ないはずがないのだ。
だって、約束したんだもの。来年もまた一緒に来ようね、って。
例え、自分が次の日の朝にはこの街にいないとしても。
そうだ。思い出した。
自分の飼い主だとか主張するあのХуй(●▼野郎ども)に、内乱や紛争が絶えない地域に連れていかれ、どうせろくでもない、それこそ死んだ方がましなくらいのひどい目にあわされるのなら、愛しいマヒルの腕の中で最後の瞬間を迎えよう。
マヒルが暮らすこの街の人を救えるだけ救って死のう。
そうすれば、こんな悲惨な事故があったって、犠牲者が一人も出なければ、きっとまた来年には、たとえ来年が無理でもその次の年になれば、きっとクリスマスマーケットは開催される。
そうすれば、またマヒルはきっと来てくれる。手をつなぐことはできなくても、お互いのぬくもりを感じることはできなくても、それでも会いに来てくれる。
どことも知れない牢獄みたいな場所で、奴隷みたいな日々を過ごした挙句、むごたらしく野垂れ死ぬくらいなら、そのほうがどれだけ幸福だろう。
自分がもういないとしても、愛する人との約束が胸の中にあれば、魂に刻まれていれば、それはとてもとても幸福ではないか。
そう、思って、あの時、自分は、自分がどうなるかわかったうえで、この傷を引き受ける能力を使ったのではなかったか。
「いやだ! いやだよ、こんなのあんまりだ! マヒル―――!!」
静寂に包まれた駐車場に、ルゥナーの慟哭が響き渡った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ついに駐車場の出入口までたどり着いたルゥナー。
しかし、その先へは、まるで見えない壁でもあるように、一歩たりとも進むことができない。
ルゥナーは真昼との約束を果たすために精霊となってこの地に残った。それは、言い方を変えれば、この場所に縛られている、という事でもある。
そして、それは真昼も同様で―――。
ルゥナーの姿を認めたのか、マモノと化した真昼が静かにゆっくりと足を前に進める。真昼が一歩踏み出すたびに、その足もとで黒いローファーが血だまりをはねるビチャリという気味の悪い水音がした。
一歩、一歩。ビチャリ、ビチャリ、とルゥナーに歩み寄る真昼。
そして、あとほんのわずか、もう数歩というところで、真昼がルゥナーに右手を伸ばした。
「マヒルッ! マヒルッ!」
ルゥナーも見えない壁に手を当てて、必死に呼びかける。
お互いの手のひらがもう少しで触れ合う、その瞬間。
「ゥガアアアアアアアァァァァァ――――――!?」
真昼の口から、獰猛な獣の咆哮のような、苦痛をあらわす悲鳴が発せられ、その真っ黒な闇をまとった右腕が青白い焔につつまれて激しく燃え上がった。
深い闇の中、真昼の周辺だけが昼間のように明るくなる。
「どうしたの? なによこれっ? マヒルッ!?」
慌てふためくルゥナー。
懸命に駆け付けようとするが、見えない壁にはばまれて、その境界線からは一歩たりとも前には進めない。
「Не будь глупым (ふっっざけんなっっ)!! なんなの!? なんなのよコレ!!」
ルゥナーは、駐車場と外との境界に張り巡らされた目にはみえない結界を、その小さなこぶしで殴りつけ、その細い足で蹴りあけた。
一方の真昼もその身体を青い焔に焼かれながらも、なお前に進もうとし、より一層激しく燃え上がる。
たかが、あとほんの数センチメートル。
たったそれだけに過ぎない距離が、真昼とルゥナーの間では、どんな断崖絶壁よりも困難な、そして強固に二人を隔てる壁となっていた。
「なんで? れいちゃん、なにがどうなってるの?」
りんこがれいの手を激しく揺さぶる。
「こんな、こんなの、ひどすぎます」
反対の腕にしがみついた灯は、呆然と涙を零していた。
「もしかしたら、りんこが言ってたあれかもしれない」
れいが険しい顔でつぶやいた。
生花店ラストーチカで、りんこが口にした言葉。
『まひるちゃん、あそこには来ないと思うなー』
『うまく言えないんだけどねー? あの駐車場は、すごーく空気がきれいだから。わるい真昼ちゃんは自分から入らないと思う』
空気がきれいだから。
悪い真昼ちゃんは入らない。
「そう、ここは精霊であるルゥナーの結界です。汚れた魂の持ち主であるマモノが立ち入る事はできません」
いつの間にかそばに立っていた美咲が、りんこたち三人にそう告げた。
れいは、その言葉の意味するところに気がついて、強い眩暈をおぼえた。
真昼との約束を守るため、魂だけになってもこの場所に居続けようとした結果、精霊となり、その代わりにここから離れられなくなったルゥナー。
たとえそれが間違いだったとしても、ルゥナーの復讐のために無差別殺人という罪を犯した結果、その魂が汚れてマモノとなって、精霊が作り出した清浄な結界に入る事が許されない真昼。
お互いが相手の事を強く思い、愛しぬいた結果が、こんな、こんな結果を生んだというのだろうか。
りんことれい、そして灯の三人は、泣き叫ぶルゥナーと焔に焼かれる真昼を、ただ茫然と見つめ、打ちひしがれることしかできなかった。
つづく