第四章 雪見だいふく その七
【月と太陽 その二】
その時、くぐもった排気音とともに、タイヤとアスファルトが擦れ細かい砂利を跳ね上げる音が聞こえ、ヘッドライトの光が駐車場にゆっくりと入ってくるのが見えた。
りんことれい、灯の三人は入ってきた自動車の方に目を向けた。
その赤いレトロ感のある自動車は、停める場所を悩むようにふらふらと彷徨った後、少し離れた道路側のフェンス沿いに、たどたどしくバックで駐車した。
「あ、あれ? るーなちゃん?」
りんこの怪訝そうな声が聞こえ視線を戻すと、先ほどまでそこにいたルゥナーの姿が音もなく消えていた。
「どこかへ、行ってしまいましたね」
灯は残念そうに、それでいて少しほっとしたような微妙なニュアンスでつぶやいた。
その隣りでれいは、灯よりももっとあからさまに安堵する。
けっこう、ヤバかったと思う。
危うくルゥナーの記憶に取り込まれるところだった。
実際、今でも全身の皮膚が裂け、骨が砕ける嫌な感触が生々しく残っている。
「……ん?」
れいは、ルゥナーがいた辺りに何か落ちているのに気がついた。
それは、手のひらに乗るくらいのサイズの人形だった。
木製のパーツを細い編みこみの紐で連結した作りで、丸い頭に四角い胴体、手と足の先は四角で肱と膝は丸い木が用いられている。
頭部には可愛らしい顔や耳、髪の毛が描かれ、胴体部分にはドレスのような意匠が施されていた。
あまり馴染みのないその人形は、どこか異国の情緒が感じられた。
使用感はあるけれど、丁寧に扱われていたように見え、とても大切なものであるように感じられる。
考えるまでもなく、ルゥナーが遺していった物だった。
しかし、れいはそれよりも、もっと違う視点でその人形にくぎ付けになっていた。
―――似ている。
材質は違うし、作りはもっと雑で、不格好きわまりなかったけれど、灯の家の天井裏で発見された、あの人形に雰囲気がとてもよく似ている。
『あれ? あなたたち、こんなところで何してるの?』
不意に、そんな声が聞こえた。
声が聞こえた方を見ると、懐中電灯の強い光がまぶしくて、れいは顔の前に手をかざし目を細める。
そして、とっさにルゥナーの人形を鞄の奥にそっとしまいこんだ。
「あ、美咲さん」
灯の声が聞こえた。
「美咲さんだー。こんばんはー」
りんこの声が続く。
「あ、ごめんなさい。まぶしいよね。ちょっと待って」
そう言って、懐中電灯の明かりが消えると、そこには何故か生花店ラストーチカの店員、佐倉 美咲が立っていた。
「あなたたち、もしかして、お、おおお、お酒とか」
美咲がなにやら慌て始めた。
その視線が、りんこ、れい、灯それぞれの目の前の地面に向けられている。
「あっ!? これは、そういうのじゃないです!」
れいは美咲が何を見て飲酒を疑ったのか瞬時に察し、慌てて手を振って誤解をとこうとした。
三人の前には、先ほどルゥナーの記憶にあてられて、そろいもそろって戻してしまった吐しゃ物があったのである。
困った、どう説明したものだろう。
「み、美咲さんはどうしてこんなところへ?」
れいがどう話を切り出すか悩んでいると、灯が機転を利かせ先手をうった。
「えっ!? あ、あああの、わたしはべつに、とくになんでもないと言うか」
自分に話題をふられたとたん、急に慌て始める美咲。
何だろう、ずいぶんと慌てているように見える。
少なくとも、話題を逸らすのには成功したようだった。
「りんこたちもう帰るところだったから。そうだ、美咲さん、おくってってよ! ほら、もう暗いからあぶないでしょ? クルマなら安全だよね」
動転している美咲に、りんこが畳みかけるように言った。
厚かましいにもほどがある物言いだけれど、不思議と相手にそう思わせないのがりんこマジックだ。
「ぴゃ? あ、あ、うん、そうだよね。夜道は危ないよね。乗せていってあげようか?」
「わー、ありがとー。美咲ちゃんすきー」
しれっと美咲ちゃん呼びになっている。
りんこは美咲にそれ以上なにも言わせず、さらに腕に抱き着くようにして歩き始めた。
「りんこちゃん、相変わらずのコミュ力オバケぶり、ぐっじょぶです」
灯が、りんこの小さな背中に称賛をおくる。
「いろいろ後で話し合わないといけませんが、とりあえず私たちも行きましょう」
そう言って、手を差し出す灯。
れいは灯に礼を言い、その手をとって立ち上がる。
そして、前を歩く美咲の背中をじっと見つめた。
れいの中で、いろいろな欠片がうまくはまりつつある。
しかし、まだ、何かが、何かの欠片が足りなかった。
「わー、美咲ちゃん、かわいいクルマだねー」
りんこが大げさにはしゃいでいた。
「ミニクーパーですね。さすが美咲さん、よいご趣味です」
灯がりんこに便乗するように、さらに褒めると、美咲は少し気恥ずかしそうにしながらも、まんざらではなさそうだった。
みにくーぱーっていうんだ、このクルマ。
自動車にまったく詳しくないれいは、遠目から美咲の車を眺めていた。
車体が赤いのに何故か屋根だけが白い。
実際の寸法はけっこう大きそうなのに小さく見える、目の錯覚みたいな不思議な形だった。
丸くて大きいライトはちょっと可愛いな、とれいは思った。
「えへへ、ごめんね。ちょっとせまいんだけど、どうぞ」
年下の若い子たちに愛車をべた褒めされて、美咲はふにゃっとした笑顔を浮かべている。
りんこは無意識。灯はたぶん狙ってやっている。
これがコミュ力か、とれいは感心しきりだった。
「わー! せまーい、すごくせまいよー」
美咲が開けた助手席側のドアから、りんこが後部座席に乗り込んだ。狭い、と文句を言っているのに不思議と褒めているかのように聞こえる。
「すてきな室内空間ですね。色使いもステキだし、おしゃれな美咲さんにぴったりです。あ、このゴミ箱って、美咲さんが選んだんですか?」
一方、灯はネガティブな部分には一切触れず、目に入る長所をひたすら褒めまくっていた。
小柄な二人が後部座席、長身のれいが助手席に座った。
美咲の運転で赤いミニクーパーが走り出した。
街灯の少ない暗い夜道を、ヘッドライトの光が照らして進んでいく。
途中、闇の中にあの黒い中学生の幽霊の姿がほんの一瞬だけ見えたような気がした。
クリスマスマーケットの会場の方を見つめるその姿は、どこか寂しそうに、そして悲しみにくれているように見えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
れいと灯は、れいの家である喫茶店、夜想曲の前で一緒に車をおりた。
二人は美咲にお礼を言い、りんこの事を頼むと、深々と頭をさげて見送った。
りんこは姿が見えなくなるまで後ろの窓から手を振っていた。
「寄ってく? 佐久間さんに何か温かい飲み物でも淹れてもらおうか?」
れいがそう声をかけると、灯はゆっくりと首を左右に振った。
「とても魅力的なお誘いですが、もう遅いですし。それに、今日はさすがに疲れました」
力なく笑う灯。
「そっか、そうだね。それじゃ、送るよ」
夜想曲から灯の家まではそう離れていない。それでも、見るからに疲弊しきっている今の灯をひとりで歩かせるのは気がひけた。
「ふふ、ありがとうございます。でも、いいんですか? こんなに弱っている時に優しくされたら、わたし、れいさんのこと好きになっちゃいますよ?」
冗談が言えるのなら体調は心配なさそうだね、とれいが話すと、灯は少し拗ねた顔をした。
「冗談じゃなかったんですけどね。まあ、別にいいです」
仕方ないですね、と笑う灯は、月明かりに照らされてとても綺麗に見えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
灯を家まで送り届けたれいが夜想曲に帰ると、母と佐久間が神妙な顔で待っていた。
なんだろう。
あらかじめ伝えておいた帰宅時間までは、まだ少しあるはずだけれど。
「ただいま……」
れいは何となく気まずさを感じて、おずおずと二人の顔を見た。
「おかえりなさい」
母は、いつもと変わらない調子でそう言うと、れいにカウンターに座るよう促した。
「おかえりなさいませ、おひぃさま」
佐久間は恭しく言い、湯気のたつコーヒーカップをれいの前に置いた。
「ありがとう。ところで、どうしたの? 何かあった?」
れいは、コーヒーにふぅふぅと息を吹きかけると、火傷しないように気を付けながら一口すすった。
胃の中がぽぅっと温かくなり、ようやく緊張がとけた気がした。
「ふむ、それがですなぁ。この店の十年来の常連客で、私の友人でもある男がおりまして」
佐久間にしてはなにやら歯切れが悪い。話をもったいぶる事はあるけれど、こういうのは珍しかった。
「彼は、おひぃさまが通っていた中学校で、事務員のような、雑用係のような事を長年やっておるのですが」
佐久間の言葉に、れいはおぼろげに記憶に残るその人物の姿を思い浮かべた。たしか、佐久間と同じくらいの初老の男性だったと思う。
学校内の清掃をしたり、蛍光灯を取り替えたり、植物の手入れをしたり、校内のどこかで毎日必ず見かけていた。
「最近、学校の屋上で奇妙なものを見つけたと、夕方相談を受けましてな」
その時、奇妙な既視感を感じた。
―――『えっと、これ、なんですけど。どうでしょうか?』
れいの脳裏に、いつぞやの灯の声がよみがえる。
「えっと、ちょっと待って、それって……」
眉を寄せるれいの前に、母が静かに置いたものは、あの見覚えのある新聞紙の包みだった。
れいが恐る恐る新聞紙を広げると、そこにはまさにあの時とほぼ同じ、奇妙としか形容できない、オアシスと木串で作られた不格好な人形があった。
「うそでしょ、なんでこれが、中学校の屋上? なんで?」
わからない。
額に手を当て考え込むれいに、母が話しかける。
「清ちゃん、あのね……」
――――――筑波祢 真昼って子、知ってる?
母の口から、思いもよらない名前が飛び出し、れいは軽いめまいをおぼえた。
まただ。またその名前だ。
しかし、その後に続いた言葉は、いまだれいが知らなかった新しい情報だった。
「その筑波祢 真昼という生徒が亡くなっていたのが、中学校の屋上だったそうなの。その、遺体があったまさにその場所に人形が置いてあったみたいで」
母が眉を寄せてそう言った。
「……ったく、どこまでも関わってくるのか筑波祢 真昼」
筑波祢 真昼。
会った事も話した事もないけれど、すでにあたしはあんたが大嫌いだ。
れいは心の中で舌打ちをした。
かすかな怒りと、背筋に寒いものを感じながらも、れいは努めて冷静に考えをまとめようとした。
はっきりした事がひとつある。
この人形は、警察が言うように灯をねらったストーカーによる嫌がらせなどではない。
まちがいなく、筑波祢 真昼に関係したものだ。
れいは、鞄の中にしまってあるルゥナーが落とした人形に、無意識に手を当てていた。
つづく