第四章 雪見だいふく その一
【彷徨える雪の妖精 その一】
―――ふふ、雪見だいふく。せんせいにもいっこあげるね。
楽し気な声が聞こえた。
それは、なんだかとてもとても懐かしい、遠い遠い過去の記憶。切なくて切なくて、胸が締め付けられるような、深い深い悲しみが掘り起こされる。
涙なんてものはとうに枯れ果ててしまっている。
もう泣くことすら許されないこの胸の中には、大きな大きな、暗い暗い、闇のような穴がぽっかりと口を開けていた。
「んっふふー。雪見だいふく、れいちゃんにもいっこあげるねー」
楽し気な声が聞こえた。
ふと、気づいたように目を開けると、よく見慣れたいつもと同じ光景が目に映る。
同時に、様々な花の品種の良い香りが目覚めたばかりの鼻腔をくすぐった。
狭い店内、アンティーク調に統一された装飾が施された空間に、ところ狭しと並べられた色とりどりの花たちが、まるで自分の事を見てほしいと主張するように、その自慢の香りを振りまいている。
どうやら、いつの間にかうたた寝をしてしまっていたらしい。
仕事中に眠ってしまうなんて、初めての事だった。
自分でも気がつかない間に疲労がたまっていたのだろうか。
無意識に顔に右手をやると、その指先がわずかに濡れた。
涙。
少し驚いた。
涙なんてものは、とっくに枯れ果てたものだとばかり思っていたからである。
―――佐倉 美咲は、涙のあとを確かめるように右手で顔にふれたまま、しばらくの間、呆然としていた。
「いいの? じゃ、遠慮なく」
再び声が聞こえた。
それは、店の奥にあるサンルームから聞こえてきた。
生花店ラストーチカ。
春になると訪れる、幸運を呼ぶという渡り鳥の名を冠した、その名の通りの小さな可愛らしい店である。
美咲がいる店舗部分の奥には、大きなガラス窓のサンルームがあった。
大きなフラワーアレンジメントやスタンドを作製する作業や、ときおり開催されるワークショップの会場などに使用され、平常時には休憩スペースともなっている。
広さは店舗部分の三倍ほどもあり、広々とした明るく暖かな、まるで温室のような部屋だった。
美咲は手もとに置いてあった、洗い立てのふかふかの白いタオルを右手にとると、顔をこしこしと拭いた。
そして、壁にかけられているアンティークの鏡をのぞきこみ、顔や、髪に汚れや乱れがないかを入念にチェックする。
途中、同じ動作を何度も繰り返してしまうあたり、美咲はあまり要領の良いほうではないようだった。
肩よりも少し伸びた軽いウェーブのかかったふわっとした栗色の髪を、手櫛でささっと整える。
整えるのだけれど、ところどころぴょんぴょん跳ねてしまうのは、おそらくは昨晩からの寝ぐせであろう。
きちんと柔軟剤を使用していると思われるやわらかそうな白いニットのセーターに、ベージュ色のジャンパースカート。足もとは丸みをおびた歩きやすそうなスニーカーだった。
愛用のツバメ柄のエプロンがよく似合っている。
穏やかそうと言えば聞こえは良いが、どこかぼんやりしていると言うか、おっとりとして見える。
その顔立ちといい、服装といい、お世辞にもあか抜けない、どこにでもいる少し地味でおとなしめな普通の二十代女性といった風貌である。
変わったところと言えば、彼女の雰囲気にそぐわない、なぜか左手だけにはめられた黒い革手袋。
それだけが、異質と言えば異質だった。
美咲が、とてとてと歩き、奥にあるサンルームの入り口から静かにそぉっと顔をのぞかせると、広い部屋の中、大きなテーブルと、その周りに並べられたたくさんの小さな丸椅子が視界に入った。
そして、なかなかに広いスペースにも関わらず、ぎゅぎゅっと身を寄せ合って座る三人の女子高生の姿があった。
更科りんこちゃん、そのお友だちのれいちゃん、そして同じく風前 灯ちゃん。
れいだけがれいちゃんなのは、りんこが美咲にそう紹介したからである。
それが、まったく本名でもなんでもないとは美咲は夢にも思わないだろう。
少し前から、頻繁に、と言うか毎日のように店を訪れるようになった三人組である。
特に花を買うでもなく、それほど花やアレンジメントに興味があるわけでもなく、ましてや店や美咲に用事があるわけでもない。
学校帰りに、お菓子や飲み物を手に立ち寄り、しばらくおしゃべりして帰っていく。
以前、どうして毎日ここに来るのか尋ねたら、こんな答えが返ってきた。
『だって、コンビニのベンチ寒いんだもん』
そう言って、いちばん背が低い子は、にしし、と何やら猫みたいな顔で笑っていた。
うん、そうだよね。
クリスマスも近いし、コンビニエンスストアのベンチは寒いよね、と納得するも、どこか腑に落ちない美咲である。
腑には落ちずとも、客でもないりんこたちをすっかり受け入れているあたり、相当なお人好しだと言えよう。
詐偽に遭わないか心配になるレベルである。
「あかりちゃんにもいっこあげるねー」
りんこは、ピンク色の小さなピックに刺した雪見だいふくをれいに手渡した後、反対側に座る灯に向かって笑いかけた。
「えっ? それではりんこちゃんの分が無くなってしまいますよ」
灯は驚いた表情を浮かべ、遠慮するように手を振った。
「んっふふー。実はもういっこあるのです」
りんこは、二個入りの雪見だいふくをふたつ購入していた。
もうひとつの雪見だいふくをレジ袋から取り出し、得意げに披露する。
ぺりぺりとふたを剥がすと、れいにしたのと同様にして雪見だいふくをひとつ灯に差し出した。
「わぁ、ありがとうございます。せっかくなので、遠慮なくいただきますね」
灯はニコニコと笑いながら、手のひらをぺちりと合わせた。
りんこの手もとには、片方が無くなって一個だけになった雪見だいふくのトレーがふたつ置かれている。
はむはむと雪見だいふくを頬ばっていたれいが、不思議そうに問いかけた。
「それなら、あたしと灯さんで分ければよかったのに」
何も、それぞれを開けてわざわざ一個ずつ取り出さなくてもよかったのに、と、れいは思った。
どうせりんこは一人で二個食べるのだから、その方が手っ取り早い。
「えー、それじゃ、りんこがはんぶんこできないじゃん」
唇をとがらせるりんこ。
相変わらず変なところにこだわるなあ、と、れいは呆れた。
「それに、りんこ二個もたべないよ。いっこは美咲さんにあげるんだー」
そう言って、それぞれ一個だけになっていた雪見だいふくを器用にひとつの容器に移し替える。
そんなに、半分こしたいのか。
まったく分からないわけではなかったけれど、れいはそんな手間をかけてまでしたいとは思わない。
「あげてくる、ね……?」
くるり、と振り返ったところで、りんこは部屋の入り口から顔だけ出してのぞいていた美咲と目が合った。
「ぴゃっ!?」
のぞき見していたのがバレて驚いたのか、美咲は口をあんぐりと大きく開けていた。
「あ、ち、ちが、こ、これはちがくて」
両手をぱたぱた振って、しどろもどろになる美咲。
見ている間にも顔が真っ赤に染まっていった。
「ふふ、へんなの。ちょうどよかった、いっこあげるね! はい」
りんこはててて、と駆け寄ると、雪見だいふくのトレーを美咲に差し出した。
「えっ? あ、ありがと、う……」
訳もわからずお礼の言葉を口にし、受け取ろうとりんこの手もとに目を向けた美咲から、表情が消えていった。
「あ、これ、雪見だいふく」
ぽつりとつぶやく美咲。
不意に、先ほどみた夢の光景が思い出された。
―――ふふ、雪見だいふく。せんせいにもいっこあげるね。
目の前に立つりんこに、同じおかっぱ髪の、別の少女の姿が重なる。
それは、少し日に焼けた肌の、はつらつとした太眉の活発そうな女の子。少し、ほんの少しだけ、りんこに雰囲気が似ていた。
つぅっと、美咲の目から一筋の涙が頬を伝った。
「あ、あれ? ご、ごめんなさ……」
美咲は自分でも驚いたのか、慌てて両手で顔を覆い隠した。
「あ、あれ? 雪見だいふく、きらいだったの?」
りんこも、何かいけない事をしてしまったのかと、オロオロとしながら助けを求めるようにれいと灯の方を見ている。
「これはたぶん、いわゆる地雷を踏んだ、という状態ですね」
そうつぶやいて、静かに席を立つ灯。
「れいさんは、りんこちゃんと一緒にいてあげて下さい。美咲さんはわたしが」
れいがうなずくのを見て灯はほほ笑み、美咲を連れて部屋から出て行った。
不安そうに見上げるりんこの肩にそっと手を置くれいの背後、大きな窓の向こうでは、季節としてはまだ早すぎる、真っ白い雪が音もなく高い空から舞うように降り始めていた。
つづく