第三章 ハーゲンダッツラムレーズン その五
【ハーゲンダッツ事件 その三】
呪物。
常ならざる縁故由来によって、超自然的な効果や周囲への影響力を発揮するもの。
聖人や偉人に由来すれば奇跡をもたらし、たいして悲劇や悪鬼羅刹の類によるものならば災いを呼び込むと言われ、宗教的な儀式やまじないなどに用いられることが多いが、時に呪物そのものが信仰の対象となることもある。
「でも、そんな大それた物には見えないような気もしますが」
風前 灯は、自分のアイフォンに表示された件の人型のものを眺めながら頬に手をあて、首を傾げた。
緑色の粘土みたいな物と、木の串でつくられた不格好な人形。
これが灯の家の天井裏から見つかったのでなければ、特に気にするような代物ではないように思える。
「ですよね。なので母も、どちらの可能性もある、と」
コーヒーのカップを両手で持って、ちびちびと口をつけながら、れいは灯に視線を送った。
「本当に強い力をもった呪物だと、写真でもわかるみたいです」
つまり、少なくとも強い呪物ではない、ということになる。
れいの言葉に、灯は安堵のため息をついた。
灯はもともと、こういうオカルト的なものにそれほど興味はなかった。同年代の少女たちが好むような占いやおまじないにも特に関心はなく、ジンクスやゲン担ぎといったものに対してもどちらかと言えば冷ややかだった。
常に高い実力を要求され、しかしながら実力だけがあっても他より上に行くことが難しい、どこまでも現実的なアイドル界に身を置いていた灯ならではの感覚でもある。
星の数ほどのグループがしのぎを削り合う。
それどころか同じグループの中でさえも少しでも上に、前に、と毎日寝る間も惜しんで努力を重ねてきたところに、突然の病魔が灯を襲った。
それは、神の試練か、それとも悪魔のいたずらか。
いずれにしても、その時から灯は運命や偶然といった言葉で済ませるにはあまりに非情な、目に見えない力や存在のようなものを信じるようになった。
芸能界の引退と、高校留年。
傷心のあまり一時期は自暴自棄にも陥ったけれど、家族の勧めによって心身を療養するのに環境のよい田舎に移り住むことになり、少しは前向きになれるかと思ったその矢先、新居の天井裏から不気味なことこの上ない謎の人形の発見である。
恐怖と不安でぎりぎりの精神状態だったけれど、たまたま学校で仲良くなったりんことれいが、こういったオカルト現象に通じているらしいと知って、まさに藁にもすがる思いで相談を持ち掛けたのだった。
「よかった、本当に」
灯は手の震えを抑えるようにそっと重ね合わせると、ゆっくりと肩をなでおろした。
そして、リップクリームが塗られているであろう、しっとりと濡れたようなつやのある唇でストローをぱくりとくわえると、イチゴオレをこくりと静かに飲み込んだ。
「あの、風前さん。その人形は今どこに?」
緊張をといてすっかり脱力したような灯に、いまだ真剣な面持ちのれいが問いかける。
「え? えっと、私の部屋にありますけど」
すでに安心して、半ば興味を失いつつある様子の灯。
喉の渇きを潤そうと、イチゴオレをちゅーちゅーと吸っている。
「念のため、私のお母さんに見せてみませんか」
そう言って、れいは母からことづかった内容を思い出しながら灯に伝えた。
力が弱いとしても、もし呪物だった場合は多少なりとも危険があるかもしれない。
呪物ではなく、儀式やまじないに用いられる呪具のような物だった場合、何かの拍子に意図せず儀式が発動することがあり、やはり危険がある。
処分するにしても、どこかそのへんに埋めたり、ましてや一般ゴミと一緒に捨てるというわけにもいかないだろう。
一方、何ら霊的な存在とは関係ないただの不細工な人形だというのなら、別にそれで構わないのだ。
「それは助かりますが、ご迷惑ではないでしょうか」
灯は、その形の良い眉を申し訳なさそうに寄せると、思案するように口元に手を添えた。
「お母さん、たぶんもう最後まで見届けないと心配で眠れなくなっちゃいますし。それに、うち喫茶店なので、気軽にお茶しながらでも大丈夫なので」
れいは、母が「あらあらまあまあ」と慌てる様子を思い浮かべながらくすりと笑った。
そのやわらかな表情につられて灯もほほ笑んだ。
「それでしたら、是非ともお願いします。その方が安心ですし、それに、れいさんのご実家の喫茶店にもお邪魔したいです」
きっとアットホームで素敵なお店なのだろう、と灯は心を躍らせた。
まだ引っ越してきたばかりで、この街で馴染みの店と言えばこのコンビニエンスストアくらいである。このコンビニに別だん不満はないけれど、知っている店がコンビニだけと言うのではあまりにも寂しい。
「よかった。それじゃ、こんどの日曜日にでも……」
れいがスケジュールを確認しようとスマホを取り出すと、そのまだ何も表示されていない真っ黒の画面に、りんこの姿が反射して映った。
「うわ、びっくりした」
れいが小さく声を漏らす。いったい、いつからいたのか、りんこがきょとんとした顔で背後に立っていた。手に提げているビニール袋は、まだ半分ほどハーゲンダッツのカップが詰まっている。
(もう半分も食べたのね)
灯は、ニコニコとほほ笑みながら、心の中で呆れていた。
「行くの? れいちゃんのおうち? 今度の日曜日?」
りんこが真剣な表情で、れいに詰め寄る。
れいは、この時、内心でしまったと後悔していた。
りんこは外のベンチにいるものだと完全に思い込んでしまっていた。
「やったぁ! りんこもずっと行ってみたかったし!」
問いかけにれいがかすかに頷くと、りんこは顔をぱぁっと輝かせた。その喜びようは、言葉通り、まさに跳び上がらんばかりだった。
その様子に、灯はりんこがまだれいの家に行ったことがなかっただろう事を知り、少なからず意外に感じていた。
聞いた限りでは、中学校一年生のころからの付き合いとの事だし、傍目から見てもとても仲が良いふたりなのだから、当たり前のようにお互いの家に行き来しているものだとばかり勝手に思っていた。
まあ、それでも、これほど喜んでいるのだから、これはこれで日曜日が楽しみだと灯は思ったのであるが、次にれいの口から出たのは、これまた意外すぎる言葉であった。
「りんこはダメ。つれていかない」
灯は一瞬、自分の耳を疑った。
しかし、ああ、またいつものように冗談を言って、りんこをからかっているのかな、と思いいたる。
しかし、れいは誰の耳にもわかるくらい冷ややかな口調で、さらに言葉を続ける。
「うちには風前さんと二人だけで行くから」
突き放すような言葉。
はじけるように笑っていたりんこの顔が、見る間に曇っていく。
「なんで、なんで、そんなこと言うの! ひどいよ!」
店内に、りんこの声が響き渡った。
レジカウンターの奥で、外国人の店員が驚いたようにイートインコーナーに目を向ける。
「そうやって、りんこのことのけ者にして! さっきだってふたりだけでこそこそ相談してさ!」
「あんたは美味しそうにアイス食べてただけでしょ!」
りんこに対し、れいも自然と声が大きくなる。
灯は、れいの思惑がわからず、ただ困惑したように二人の様子を交互に見比べるばかりだった。
「れいちゃん、りんこよりあかりちゃんの方がすきになったんだ」
ビニール袋を力いっぱい握りしめながら、りんこは声を震わせている。れいは、りんこが何を言っているのか理解できず、呆れるを通りこして少し苛立ち始めていた。
れいには、りんこを自宅に連れて行かない明確な理由があった。
それは、今はコンビニの大きなガラス越しに駐車場からこちらをじっと見ている、アレのせいだった。
髪の長い少女のような形をした真っ黒い闇のかたまり。赤いワンピースを着ているように見えるその存在は、遭遇して数年が経過した今も、いまだその正体が何であるかわかっていない。
ただ、常にりんこの周囲にいて、ただひたすらに驚異的な恐ろしい霊気をばら撒いている。
アレを母に会わせたくない。
れいよりいくぶん強い神通力をもつ母は、れいよりアレの影響を激しく受けるだろう。年々、身体が弱っている母にどういう影響があるか分からない以上、ぜったいに会わせたくない。
りんこはかけがえのない親友であるけれど、これとそれとは別の問題だ。天秤に乗せてはかる以前の問題である。
だから、強い言葉で、冷たい言い方で、りんこを突き放してしまった。
「なんでそうなるのよ、わけがわからない。馬鹿じゃないの」
りんこの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「バカはれいちゃんじゃない! りんこがいなかったら、おともだちなんかできなかったくせに! 今でもずっといじめられてたくせにっ!」
りんこは、そう言い放ってから、自分でも驚いたような表情を浮かべ、ハッと口をおさえた。
「なに、それ……。そんなふうに、思って、いたんだ……」
れいの胸の中に、名前がわからない感情が溢れていく。
怒りなのか、悲しみなのか、寂しさなのか、あるいはそれら全てなのか。
ただ、れいの目にも涙が浮かび、こらえ切れずに零れ落ちていった。
りんこの目にうつる、大好きな親友れいちゃんの涙。
その涙の原因が自分であることに、りんこは耐えられなかった。頭が真っ白になり、わけもわからず、ただ、この場所から逃げ出した。
自動ドアの開閉する、この状況に似つかわしくない軽快な電子音のメロディがむなしく響いていた。
つづく