第三章 ハーゲンダッツラムレーズン その三
【ハーゲンダッツ事件 その一】
「やっほー、きたよ」
教室の入り口から、りんこがぴょこっと顔をのぞかせた。
おかっぱ、いや今どきはボブと言うのだろうか。
見るからに手入れの行き届いた光沢のある艶髪が、さらさらと揺れる。
何の抵抗もないように揺れ動くりんこの髪を見ていると、あれを手や櫛ですいたらどれほど気持ちが良いだろうか、などと、ついどうでも良いようなことを考えてしまう。
「ん。おつかれ」
窓際に立つれいが、りんこのそれとはまるで異なる、自分の腰まであるパサついた長い髪を指でくるくると弄びながら、小走りに駆け寄ってくるりんこに対し、事も無げに声をかける。
最近になって、りんこから勧められたシャンプーやトリートメントなどを使用するようになったのだけれど、如何せん長年にわたるほったらかしが災いして、さらさらになるどころか、改善の兆候すら未だ表れてはいなかった。
「りんこちゃん、いらっしゃい」
れいの隣りにはしゃんと立つ灯の姿があった。れいとはペットボトル一本分くらいの身長差がある。
穏やかな笑顔で白い可憐な手を小さく振って、最近できたばかりのこじんまりとした友人を迎える灯の、りんこに負けず劣らずお金と手間がかかっていそうな美しい白金色の髪が、窓から入るわずかなそよ風に撫でられて、音もなくなびいていた。
灯の髪から、花のような良い香りがかすかに漂い、れいの鼻をくすぐった。りんこの甘く爽やかな何となく美味しそうな匂いとはまた違う、控えめで、でもそれでいて印象には強く残る慎ましやかな香しさだった。
以前はホームルームが終わると、れいがりんこを迎えに行くことが多かったのだけれど、最近はこうして灯と話しているところにりんこが合流することが増えている。
周囲の他の生徒たちは、三人の方を気にしながらも関わったりしないようにと、ひとりまたひとり、足早に教室を後にしていった。
三人が並ぶと、なかなかどうして存在感がある。
学年いちの長身で、最近では表立っていやがらせを受けることは少なくなったけれど、いまだ裏では幽霊女と陰口を言われている、れい。
逆に学年いちの背の低さと、ぶかぶかの制服姿でちょこまかと学校中を走り回る神出鬼没なコミュ力おばけのマスコット、りんこ。
そして、外国人との混血なうえ、かつてはアイドル活動をしていたほどの美少女で、深刻な病により一学年留年している転校生、と属性もりもりの灯。
よくも悪くも目立ってしまうこの三人が、行動をともにするようになって、喜んでいるのは本人たちだけではなかった。
学校の教職員も、また他の生徒たちにとっても、どうせなら厄介者どうしで仲良くしてくれて、まとまって一か所にいてくれた方がなにかと都合がよかったのだ。
「それで、この前のアレのことなんですけど」
三人それぞれが近くにあった適当な椅子に腰かけると、れいがそう切り出した。
なんとなく、お互いに顔を寄せて、ひそひそと小さな声で話す。
「おかあさん、なんて言ってたのー?」
りんこがちょっぴり目を輝かせながら、机の上にぐいっと身を乗り出した。
「近すぎ。あんた、なんでちょっと嬉しそうなのよ」
りんこのおでこを手のひらで押し返す。
まったく、外見だけでなく中身まで子どもなんだから、とれいは呆れた。
「あの、いいですか?」
灯が遠慮がちに小さく手をあげた。
りんことれいは、黙って灯に視線を向け、無言で続きをうながす。
「あ、その、れいさんが幽霊とか、そういう物がみえるということは、やっぱり、お母さまも?」
真剣なまなざしで、食い入るようにれいを見つめる灯。
その澄んだ瞳に映ったれいとりんこが、何かを思い出したように口をぽかんと開ける。
二人そろって、「あ~~……」と消え入りそうな、ため息みたいな声をもらした。
「あー、なんか、すみません。いろいろ説明していませんでしたね」
れいは、長い前髪を無造作にくしゃくしゃっと搔きむしった。
「ちゃんと話すと長くなっちゃうので、ちょっと端折りますけど」
そう言って、れいは自分の生い立ちについて、かいつまんで話し始めた。
数百年つづいた由緒ある家の出自であること。
歴代当主が生まれもったという超常の異能「神通力」のこと。
母と自分は、もうみることくらいの異能しかもっていないこと。
「れいちゃんは、おひめさまなんだよ!」
なぜか、りんこが得意げに自慢する。
れいは、その話はやめて、とりんこの口を手でおおった。
りんこはもごもごと何か言い続けている。
「はぁー、すごいんですねー」
両手をぺちり、と合わせて感嘆の声をもらす灯。
本当のことしか話していないとはいえ、このような突拍子もない話をあまりにもあっさり信じた灯のことを、れいは少し不安に感じた。
「みえる力はそんなに変わらないんですけど、お母さんは実家にいたころ古文書? とか、文献? とか、そういうの読んだことがあるので、あたしよりずっと詳しいんです」
れいは当時、あまりにも幼かったこともあり、実家のことはほとんど覚えていない。
「なるほどです! すみません、お話を続けて下さい。それで、お母さまはなんて?」
真剣な表情の灯にうなずき、れいが口を開こうとすると―――
れろぉ~~~ん。
りんこの口を押さえていたれいの手のひらに、生暖かい、ぬるっとしたやわらかな感触が伝わった。
「ひぃっ……、きゃああああぁぁぁぁ!!」
れいは言葉通り、跳びあがって悲鳴をあげた。
全身に鳥肌がたち、ぞくぞくとした悪寒が身体中を駆け巡る。
へなへなと情けなく床に座り込んだれいが涙目で見上げると、りんこが小さな可愛らしい舌をぺろっと出しながら嬉しそうに笑っていた。
「あんたねえぇぇ!」
「はにゃっ、れいひゃん、ひはい、ひはい」
れいは両手でりんこの両側の頬をつまむと、思いっきり左右に引っ張った。
りんこは悲鳴をあげ、両手をばたばたと振り回す。
「なんてことすんのよ! 汚いっての!」
「きたなくないよー! れいちゃん、おトイレのあと、ちゃんと手をあらってるでしょ」
大声で言い争いを始める二人。
「当たり前でしょ! そっちじゃないっての! あんたのベロが! 汚いって言ったの!」
「えー!? ひっどーい! きたなくないもん」
やいのやいの。
急に賑やかになった教室を、廊下を歩いている生徒たちが何事かと通りすぎざまに覗いていく。
(これは、なかなかどうして、お話が先にすすみませんね)
灯は、膝の上に手を乗せ姿勢よく座ったまま、二人の様子をニコニコと満面の笑顔で見守りながら、胸の内でつぶやいた。
つづく