第二章 昔なつかしアイスクリン その十
【過去編:ふたつの出会い その六】
帰り道。
れいは学校というものに通うようになって以来、おそらく初めて上機嫌で帰宅の途についた。
これまで、クラスメイトからほとんど毎日のように何かしらの嫌がらせを受けてきた。
ある日は涙にくれ、またある日はやり場のない怒りに身を震わせ、それでも母や佐久間を心配させまいと努めて平静を装う日々を過ごしてきた。
それが、今日はどうだ。
自分でもよくわからない鼻歌を口ずさみ、いつも足もとの地面ばかりに向けられていた視線は、どこまでもつづく澄んだ大空を仰ぎ見て、大手を振って歩いている。
人生最良の日と言ってもよいくらいだった。
それもこれも、すべてあの変な笑い方をする仔猫みたいな同級生の仕業である。
自分を嫌わず、蔑まず、あまつさえ幽霊扱いすることもせず、それどころか『おともだち』だと言う。
「また明日、だって」
れいはぽつりと呟いて、顔をほころばせた。
それは、老婦人の雑貨屋を出てからしばらく歩き、いよいよ通学路がふた手に別れるという時に、りんこが大きく手を振りながら言った言葉だった。
―――またあした。
本来、それほど特別な意味をもつ言葉ではないのだけれど、この時のれいにとってはこの上なく心にひびく優しい言葉だった。
気持ち悪い。
近よらないで。
もう、来なくていいのに。
あー、幽霊女じゃん。通学路いっしょなのマジサイアク……
同級生からそんな心ない言葉しか与えられてこなかったれいに、りんこはまた明日も会いたいと言ったのだ。
明日、また会える。
明日、また話ができる。
まさか、学校に行くのが楽しみな日が訪れるなんて、夢にも思わなかった。
今、自分の心をこれほどまでにあたたかくしている感情の名前を、れいはまだ知らない。
この胸の高鳴りの前では、
たとえりんこが世にも恐ろしい怪異にとり憑かれていようが、
通学路のバス停に幽霊が出ようが、
今朝までいなかった心霊があちこちにみえていようが、
それらすべてがほんの些細な問題だった。
あれ? なんかいつもより多くない?
ふと、思った。
駅の近くの踏切。
商店街にほど近いアパートのごみ置き場。
喫茶店に向かう道の途中にある小さな公園にある街灯の下。
あの赤いワンピースの怪異のような危険な心霊ではないけれど、今までみえたことのない様々な場所に、いわゆる幽霊と呼ばれる者たちが、じっと静かに佇んでいる。
実のところ、あの恐ろしい怪異にきわめて近く、また濃密に触れ合ったことが要因となり、れいがもともともっていた『心霊をみるちから』が刺激されて強まった結果、今までみえていなかった霊がみえるようになったのだけれど、そんなことれい本人は知る由もない。
バス停に立つコート姿の幽霊とおなじで、ただそこにいるだけ。ただ悲しく、ただ寂しい、それだけの存在たち。
れいは、なるべくそちらをみないようにして、足早に通りすぎていった。
日はすでに傾きかけている。
目に映るものすべてが徐々に夕日に染まり、長くのびた影法師が、れいの周りを取り囲み始めていた。
「お店、手伝うって言ったのに」
すでに多忙なランチタイムは過ぎている。今さら急いでもしかたがないのだけれど、母と佐久間への申し訳なさから自然と足早になっていった。
駅前から商店街の通りをぬけ、間もなく閑静な住宅街に差しかかろうという少し手前、人通りもまばらな一画に、ひっそりと小さな喫茶店がある。
もともと昔からあった地域の消防団の詰め所を改装した建物で、駅の向こうに立派で近代的な消防署が建てられた際に役目を終え、払い下げられたものだった。
二階建ての簡素なつくりで、それほど大きな建物ではない。
一階の喫茶店部分は、もとは消防車両の車庫だった。
コンクリートが打ちっぱなしの武骨極まりない部屋だったけれど、改装により現在はレトロ感とモダンさが絶妙に混ざり合った、なかなかに落ち着く空間に生まれ変わっている。
二階には消防団の会議室や宿直室などがあり、トイレや風呂なども備えつけられていた為、それらを居住スペースとして活用した。
佐久間が、昔どこかの古い洋館が取り壊される際にもらってきたという、なんとも趣のあるウォールナットの扉に、ふくろうをあしらったデザインの小さなプレートがかかっている。
普段は営業中を知らせるプレートだけれど、今は『本日、貸し切り』と書かれていた。
扉の隣には、扉とおなじく天然木で設えた西洋風の立て看板と郵便受け。
看板には、短く、こう記されている。
―――喫茶 夜想曲。
それが、佐久間の営む喫茶店の、そしてれいの住む家の名だった。
狭いし、日々の暮らしにおいて不便な点も多いけれど、れいにとっては愛着のある我が家である。
建物の側面にまわれば、2階に直通の外階段があるにもかかわらず、れいはいつもわざわざ店の中を通って、狭く急な内階段から出入りするのが習慣になっていた。
初めてここを訪れたときの、言葉では言い表せないほどの安堵感が今でも胸の奥に残っている。
はっきり言ってしまえば、れいはこの喫茶店が、家が、たまらなく好きなのだ。
もっとも、あまりに気恥ずかしくて、それを口にすることはないけれど。
「ごめんなさい! 遅くなっちゃって」
扉を開けるやいなや、謝罪の言葉を口にするれい。遅れて、扉の上部につけられた小さなベルが軽やかに鳴り響く。
控えめな照明の室内に、心地好いクラシック音楽が静かに流れている。
佐久間が特に好きだというフレデリック・ショパンの夜想曲第二番。
店と同じ名前のその曲は、ゆったりとした旋律で耳触りがよく、ただよう芳醇なコーヒーの香りとともに落ち着いた癒しの空間をかたち作っていた。
「あら、おかえりなさい」
出迎える母の声。
客席の片づけをするエプロン姿の母は、床にふせていた今朝と比べてずいぶんと顔色もよくなっていた。
カウンターの奥で佐久間が静かにほほ笑んでいる。
「入学式、行けなくてごめんなさいね」
母は申し訳なさそうにそう言って目を伏せた。そのいつも通りの様子に、れいはほっと胸を撫でおろした。
「店はもう閉めました。これからお祝いの支度を致しますので、おひぃさまは先にお着換えでも……」
腕によりをかけて、と佐久間は腕まくりをしてみせる。
そんな二人の顔を交互に見比べて、そして、れいは大きく、深く息を吐いた。二人に対して、あるお願いをするために。
ここで三人で暮らすようになって以来、れいの方から二人に何かをねだるということは、終ぞ無かったことである。
れいは緊張した。唇をかみしめ、手をぎゅっと握りしめる。拒否されるかもしれない。よしんば受け入れてくれたとしても、迷惑をかけてしまうかもしれない。
二人に迷惑をかけないことを、幼いころからずっと心がけてきたれいにとって、それはまさに千尋の谷を駆け降りるかのような、多大なる勇気と決断が必要な行為だ。
でも、それでも、れいは意を決して二人に願った。
「あの、あのね、あたしね、スマホが、スマホがほしいの!」
れいの上気した顔と、その短い言葉だけで、母と佐久間はすべてを察した。
れいが初めて口にしたわがまま。
それが、誰か他人とのコミュニケーションを図る道具であったことに二人は驚き、同時にこの上ない喜びを感じた。
この日、喫茶・夜想曲では夜遅くまで三人の楽しそうな笑い声が響いていた。
りんこにあったちょっと怖い話☆おかわり
第二章 昔なつかしアイスクリン
おしまい
◇◇◇◇◇◇
第三章 ハーゲンダッツラムレーズン
につづく……