1話
これは、僕が本物の魔王に出会い、インターネット文化に染め上がるまでの記録である。
「それはね、鬱って言うんだよ」
「ウツ、ですか」
釈然としない僕と向き合って指を指してくるこの女性は僕の同僚で、西田リカだ。
彼女とはこうして会社の近くの喫茶店で昼食を共にする程度の仲であり、それ以上でもそれ以下でも無い。入社して半年経った今となっては同期である彼女に韋駄天の如く差を付けられてしまったため、僕はプライドを捨てて、ほぼ毎日彼女に悩みを相談している。
口の横に付いたパンくずを紙ナプキンで拭きながら、西田はこう続けた。
「死にたいとすらも思わないし、何とかしようとも思わないんでしょ」
「まぁ、そうですね」僕はコーヒーを啜る。
「夢とか無いの?」
「寝るときに見るぐらいです」
「眠れてるの?」
「眠れてないです」
「どれぐらい?」
「入社して1ヶ月経ったあたりから」
「軟弱な現代人」
そう吐き捨てる彼女に対して「同い年だろう」と喉まで出かけたが、コーヒーと一緒に流し込んだ。
「……僕は、ウツなんですかね。ウツになったら何かしないといけないんですか」
「そりゃあ治療とか……」
「でも僕は治そうと別に思わないんですよ」
「それが問題なんだよ。治そうとすら思わないのが」彼女は紙ナプキンを何度も畳みながらそう言う。
「でもそれって、主観の押し付けじゃないですか」
「どういうこと?」
「僕は別に不幸でもいいし、ウツでも何でもいいんです」
「じゃあ」
彼女は少し言葉に詰まってゆっくり息を吐くようにこう続けた。
「じゃあ、なんで生きてるの君」
なかなか無礼な言葉遣いだが、彼女はこの堂々たる振る舞いが周囲の評価を呼んでいたのかもしれない。しかしながら哲学的な問いであるが、僕の答えはそうはいかない。
「理由が要らないからです」
「理屈っぽい男は嫌われるよ」
「空も草も、このコーヒーの渦にだって、理由はないけど存在はしています。原因があるだけです」
「きみ、理系?」
「どちらかといえば、そうですね」
「じゃあ医学に頼りなさいよ」
それはそうだ、と思ったので、僕は「検討します」とコーヒーを啜った。腕時計を見た彼女が「おっと」と席を立ち、察した僕も席を立って伝票に手を伸ばした。しかし電光石火のごとく僕よりも先に彼女が伝票を取って、「あ」と僕が声を漏らすと「奢る。浮いた金で睡眠薬でも貰ってきな」と彼女はレジに向かった。確かにここ最近、あまり眠れていない。ヘドロのような疲労感が常に付きまとい、すべてに対して無気力になりつつあった。
彼女の指摘は実際のところ正しくて、社会生活に支障を来すレベルにまで僕は到達しているのだろう。おそらく然るべき治療を行い、健康的な生活を送るべきだ。しかし堕落した生活習慣は病とはまた違い、僕にまとわりついてくる。心から治療の意思と決意がなければ僕は根底から何かを変えることなど出来ないのだと、僕は悟っていた。喫茶店のドアのベルが鳴り、僕と彼女は外に出る。湿った空気の薄暗い曇天だ。重い足取りで会社へと戻る。
「そういえば、寝てないときって何してるの」
彼女が思い立ったように、歩きながら訪ねてきた。
「ネットしてますね」
「動画とか見てるの?」
「まぁ」咳払いをして、「そんなところです」
実際のところ、僕はここ最近VTuberと呼ばれるインターネット上で活動している人たちの動画や放送を見て夜を過ごしている。熱烈なファンというわけではなく、誰か特定の人を応援しているわけではないが、万全と波に身を任せて浮き輪を浮かべるように漫然と眺めている。しかし、僕はその時間が好きだった。世界中のどこかで出会うことも無い誰かの声が聞けるなんて、不思議で奇妙な興味をそそられる。ただの退屈しのぎではあるけど、他に趣味もないから、僕はそれに没頭していた。
僕の歯切れが悪い回答に何かを察したのか、彼女は「ふぅん」とだけ声を漏らし、赤信号で止まった。横で並んで歩いていた僕もそこで立ち止まる。
流れる車たちを眺めながら、僕は少しだけ気まずさを感じていた。変な気を遣わせてしまったかもしれない。
「西田さんって、あまりネットとかしないんですか」
「私も動画とかは見るけど、たぶん君とは趣味が違うよ」
「どういうのですか?」
「海で拾ったものを掃除したりする動画」
「は?」
「ほらね」
信号が青になった。僕らは歩き始める。
「その動画って」僕は会話を続ける。「どういうのですか」
「だから、海で拾ったものを掃除したりするんだって。錆びたスマホとかが海岸に捨てられてたりしたら、動画の投稿者が持って返ってキレイにするの。新品ぐらいピカピカに。それをずっと見てる動画」
「なんていうか、ニッチな動画ですね」
「意外と人気あるんだよ。現代人は考えることや無駄な情報に疲れちゃってるから、そういうシンプルな動画を見てしまうんだよ」
「あぁー」少し間抜けな声を出す。「それはちょっとわかるかもしれません。僕も疲れたときは猫の動画を見るときがあります」
「猫とは違うんだよ。君はわかってないね」
駅前に着いた。この先を数分歩いた先にあるビルの中に会社はある。だからこの駅を見るたびに、僕は少しだけ暗い気持ちになる。ただでさえ朝の駅前は幽霊の葬列のようだから、余計に気が滅入る。
「今!日本は駄目になっています!!」
駅前で演説をしている政治家の声が僕らの耳をつんざいた。彼女は少ししかめっ面になり、怪訝な目でその政治家に目をやる。
「ご苦労なこったね」彼女は小声でそう吐き捨てた。
マイクを握りしめて、つばを飛ばしながら演説をしている政治家は目もくれない通行人に助けを求めるかのごとく演説を続けていた。
「私はね!!このままじゃ駄目だと思ってます!!皆様もそう思っているでしょう!!少子高齢化や年金問題!!アメリカにどんどん差をつけられて日本は貧困なる先進国になっております!!」
「じゃあそれ後進国じゃん」彼女は小声でつぶやいた。
「でもそれでは!!!それではいけないんです!!!革命的に何かを変えないと!!世界を変えるぐらいの気持ちで命を賭けないといけません!!」
「命、ねぇ」僕の顔を見てきた。「なんですか?」と尋ねる。
「君さ、今の政治家の言葉、どう思う?」
「どう思うって、熱心だなぁと思いましたけど」
「可能な話をしていると思う?」
「当選すれば可能なんじゃないですか」
「私は無理だと思うな」
「何故ですか?」
「世の中を変えるってさ、もちろんそんな単純なことじゃないと思うんだよ。戦争とか革命とか、そういうきっかけが無いと人々は同じ方向を向かない。だって複雑なシステムの中で私たちは生きているんだし」
「じゃあ変える事自体が無理だってことですか」
「いや」彼女はふと政治家に目をやって、「変な言い方をしちゃうと、常識とかに囚われない暴力的なほどの力があったら皆は従わざると得なくなるだろうね」
「独裁者ってことですか」
「まぁそこまで行かなくてもいいとは思うけど、結局誰かの顔色を伺う人や批判される覚悟が無い人なんて何も変えられないってわけ」
「うーん、それってやっぱり独裁者ってことになると思うんですけど、独裁者が治めた国ってろくな末路を辿らないじゃないですか」
「じゃあ、独裁者は駄目だね。なんだろう」彼女は顎に手をやって、ブツブツと言葉を選び始めた。そして、ハッとした面持ちで顔を上げ、晴れた声でこう言う。
「魔王」
「は? マオウ?」
「圧倒的な力とカリスマがある、魔王が必要だよ。この世の中」
「急に突飛な話になりましたね。ファンタジーですか」
「もちろん例え話だよ。でもさ、今の世の中に魔王がいたらどう思う?」
「魔王って、RPGとかに出てくる魔王ってことですか?」
「そうそう」
「魔王……」
僕はそうつぶやいて、ゲームに出てくるような典型的なラスボスを想像した。主人公を圧倒する力を持ち、自らの部下に慕われ反乱も起こされないような実力とカリスマを備えた魔王。もし、今そんな魔王が現代にいたらどうなるだろう、と。悪の世界になってしまうのだろうか。しかし現実だった政治の汚職問題やカネの問題は尽きないし、犯罪だって起こっている。もしかしたら魔王がこの世を支配したとしても、大きくそこまで変わらないし、魔王という存在があるがゆえに恐怖心から法を超えた秩序が生まれるかもしれない。かなり馬鹿げた話だが、あまり悪いイメージは沸かなかった。
「いいかもしれませんね」
「でしょ?」
僕と彼女は会社に着いた。