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反障害者障害  作者: 蠍戌
2/2

打ち上げ話

 もしもし。もしもし。

 作者です。

 打ち上げ話をしたいと思います。


 この物語を書こうと思ったときには、テーマだけは定まっていました。

 簡潔にまとめるならば、「障害者を受け入れられない自身の器質とそれに基づく罪科を、障害である故に宥恕され免責される主人公の惑乱」といったところです。

 彼の心境としては、「障害者を受け入れられない障害者である俺が、障害者としてその存在を認められるならば、俺が受け入れることのできない障害者は、存在を認められないということなのか」といったところでしょう。

 矛盾した仮説の袋小路で乱反射する主人公の思考から、むしろこの物語は誕生したわけです。


 はじめは一人称や三人称で展開する普通の小説のように描こうと考えましたが、いまひとつうまく描けない気がして、すぐに却下しました。

 その後で、自首をした主人公が警察を相手に、その半生とつい先ほどの出来事を話して聞かせるという構成が浮かんだのですが、こちらも五十歩百歩。いまいちしっくりきませんでした。

 それから長いこと塩漬けにしていました。特に思い返すこともないまま時間が過ぎていきました。


 そんなある日、太宰治の『駈込み訴え』を初めて読んだときのことを、ふと思い出しました。

 語り手でもある主人公の男が錯乱していることもあり、はじめは何が何だかわかりませんでしたが、誰がどういう状況で何の話をしているのかが次第にわかってきて、嘆息したものです。

 あの男があの人に対して抱いている歪な感情は、ちょっとクリエイターを目指した程度の有象無象ならどうにか思いつきそうなものですが、それを描き出すために用いた巧みな構成には、やはりひとかどの著者の片鱗をまざまざ見せつけられたようで、全身が打ち震えるような感慨を抱いたものでした。

 僭越ながら、この作品にもその構成を拝借しようと思ったわけです。

 そうなると、かの名作と同様の出だしとして、その作品舞台の頃には存在しなかった電話という道具を使うことにしようと考えたところ、いみじくもその冒頭と同じ趣旨の言葉から始められることに気が付き、その符合に羽を与えられたように、一息にまとまっていきました。

 後には、条件によっては突然途絶えることがあるというその道具の特徴を活かすことも思いつき、結びとすることができました。名作が明かすことで終えるのに対し、拙作は明かせぬまま終わる。ここに符合に似たものを感じるのは、些か度が過ぎるという自覚はありますが、ついつい悦に入ってしまっています。


 そもそも主人公は女性にする予定でしたが、このタイミングで性別変更を断行しました。

 当初予定していた設定では、一人の女と、それに想いを寄せる男が登場します。男は女の歓心を得ることも目論みつつ、自身の正直な本心として、己にも障害者を受け入れられない性質があることを告白し、そのために女に処断される。残った女はその罪を贖うべく自首する。おおよその展開は同様なわけですが、今思えばこの女は事後も落ち着き払っており、その姿はどこか恍惚としていたようにさえ思います。今となっては、なぜ女なんだと、当時の自分の創造に首を傾げるばかりです。

 性別変更は我ながら良い判断でした。作者自身の性別になぞらえているせいか、短絡的な暴力を伴う異常性を描くための形代は、やはり男のほうがしっくりくる気がするのです。そしてやはり、しっくりきました。それはさながら、まるで我がことのように描けるほどでした。


 主人公の男の性質は複雑です。

 障害者を受け入れられない差別性。

 暴力にまで訴えてしまう短絡性。

 そんな自分を恥じ、恐れ責め苛む社会的正常性。

 あるいはそれらすべてが錬成されて完成した、人間的異常性。

 その性質が障害のためだから仕方ないという免罪符を、その一員でありたいと願う社会から与えられたことによって、彼の混乱はかえって深まります。

 全てに目を瞑り視線を逸らし、利己的で平穏な日常を手にしたのも束の間、愛する女をただ愛したために、当然の帰結としてその女を懐胎させ、社会に存在するべきでない自分と同じような生命を誕生させるかもしれないことへの大罪に慄然とするあまり、女に堕胎を求め、その理由として己の過去とその根源となった障害を告白し、一人姿を消す。

 もうこれ以上の罪を重ねるまいと、自分自身を裁こうとしたところに女が現れ、彼を慰め支えるために告げた言葉により、彼の混乱は極まり、ひとつの結論とそれを実行するに至るわけです。


 迷ったのは、どのように締めるかです。

 愛した女を自分と同様に、人として生きる価値のない存在であると断罪して手にかけて、その罪を贖うために警察に連絡を行うというのが、当初の予定でした。

 しかし、遅ればせながら女に続いて自裁するという展開や、世人もまた自分や女と同じように生きる価値のない存在であると悟ってその殲滅のために次なる行動を移すという展開を思いつきました。

 通底するものは同じでも、発現するものは全く異なる終末。

 彼ならばどのように動きどこに向かっていくのかを探るために、何度も彼の中に潜行しました。それは誰あろう、自分自身の内奥だったのかもしれません。あるいは、彼が愛した女の真意に、とことんまで想いを馳せたのでしょう。

 やがて、彼とともに発見したのは、紛れもなく彼を愛していた女が、愛する彼のためについた嘘と、その真実。そこから彼は、自分と最愛の女との間の共通点さえ見出すようになり、しかしそれでもなお自分を拒絶するという決断を下します。

 そしてそれこそが、障害者を受け入れられないことなど許してはならないという、正しい人間であることを求める彼が導き出した、彼なりの最適解であったわけです。


 ところで、正しい人間とは、なんでしょうか。

 太宰治の『人間失格』もまた、私の心に重石を残した作品ですが、多くを語る気はありません。同作の新潮文庫に収録されている奥野健男の解説にある、「現代において真に人間的に生きようとすれば、その人間は人間の資格を剥奪され、破滅せざるを得ないというおそろしい真実を描いている」という評価に勝るものはないでしょう。

 ただ、あの失格した人間こと葉蔵青年が、今少し他罰的であったならば、別の展開もあり得たのではないでしょうか。

 そもそも、誰よりも人たろうとするもそれが叶えられない嘆きは、人たろうとなどしてすらいない世人に対する怒りの裏返しです。嘆きは自分を罰するものですが、怒りは他者に向くものです。

 本作も同様です。主人公であるこの反障害者障害の男が、もしも望みどおりに罰せられていれば、彼はこの社会とそこに生きる人々を愛し続けることができたでしょうし、その愛する社会や人々を傷つけたかどで罰せられる自分のことをも、愛することができたでしょう。

 しかしこの作品で描かれている社会は、人々は、障害者を受け入れられない彼の障害を、反障害者障害として許容し、その障害者たる彼の存在を、容認しました。

 自分の望むように罰せられなかった。換言すれば、望むように愛されなかった彼が、愛するものに愛されなかった自分を愛することなど、到底できなかったわけです。これは葉蔵も同様だったように思えてならないのです。

 ひとつ言えることは、望むものや求めるものを得られないことは、それがどのようなものであったとしても、得られないという一点においては、不幸なことだということです。望むものや求めるものが自身の破滅だとしても、それを得られることこそが幸福だということです。得られない不幸を理不尽なものだと捉えれば、その理不尽を解消するための思考を招き、それに基づいた行動を起こすこともあるのです。

 もっとも、破滅を望み、求める人に、それを与えることを、世人は、そして社会は、良しとするのかどうかです。

 ここでもうひとつ言えることがあります。もしもそれが与えられていれば、そのような人たちは幸福を得られただろうということです。

 もしも葉蔵が誰かから「お前は人間失格だ」と告げられていたら、彼はどれだけ救われたでしょうか。この男が社会から「障害者を受け入れられないお前は人間ではない」と断罪されていたら、彼はどれだけ安堵したでしょうか。

 ここでさらに問題となるのは、それを彼らの周りの人たちは、ひいてはこの世界は、良しとするのかどうかということです。そして良しとしたとして、誰が彼らにそれを伝えるのか、ということも問題です。

 おそらく、誰も伝えません。

 遠巻きにして背を向けて、葉蔵のように姿を消すのをただ待つか、この男のように誰かを襲い掛かるようになったところで、襲われるのが自分ではない誰かであることを願うだけです。

 それが、大多数の人間の在り方なのです。数が多ければ正しいという価値観に拠って立つ世の中であればこそ、それこそが正しい人間の在り方なのです。

 それでは、葉蔵が実在しない世界、反障害者障害という障害も架空のものである社会は、どうでしょうか。

 それはそこに生きるあなたもよくご存知のはず。わざわざ取り上げることもありますまい。


 次にどこに行き、誰に会うかですか?

 さて、どこにしましょうか。

 もはやこれ、予告としての体を成していないこともあるんですよね。

 適当に続き物の続きをアップロードして茶を濁そうかしら。

 あるいは、原始時代の最初の死者の発見者に会いに行くかな。

 それとも、細々と書き続けている、神と宗教と信仰に対する闘争をどうにか描き切って、作者のまたひとつの形代である、破戒を繰り返すシスターに会いに行こうか。

 いずれにしても、最近のわたくしは、作品のプロモーションを試行しているところです。粗筋や文章化したテーマが羅列されていくだけの簡素な動画をプレゼンテーションソフトで作り、背景には主に画像生成AIに作ってもらったイラストをあて、そこにDTMによる自作の曲をあてがう。それを動画投稿サイトに投稿し、「なんだこのおっさん(の書いたもの)!?」と興味を持ってもらえるようにする。あくまでも作品を読んでもらうための、その取っ掛かりとしてのプロモーション。

 そのプロモーションからお越しいただいたかたがいれば、とても嬉しいことですし、そのプロモーションを見てみたいというかたがいれば、これまた嬉しいことです。やはり創作物は、見られてこそ。文章以上に(文章もか?)拙いプロモーションでも、無いよりはマシかなと思って始めたことですが、意外や作るのが面白いものでもあります。

 今しばらくはこの一連に注力することになりそうですが、肝心の執筆をおろそかにする気もありません。文章を紡ぐ面白さは、動画作成や曲作りとはまた違うものなのです。

 私、東京の、南のほうにいます。また、ふたたびお目にかかりましょう。

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