6.売られた聖女は名を呼ばれる
「それでは、聖女殿、お手を」
エスコートの申し出を受けるとは思わなかったので、思わず陛下を見上げる。
私のためらいをどう受け取ったのか、陛下は小さく笑いをこぼし、私の右手をすくい上げ、淑女への礼を捧げてくれる。
「そういえば、自己紹介もまだだったな。フェリクス・フェーグレーンだ。以後お見知りおきを」
「セシーリア・ロセアンです。あの、陛下には、お世話になっております」
まさかこのような丁寧な扱いをされるとは思わず、かろうじて挨拶は返せたものの固まっていると陛下がさらに言葉を続ける。
「私的な場だから遠慮は不要だ。聖女殿にはどうかフェリクスと呼んでほしい」
陛下がものすごく好意的で、戸惑いしかない。
どう返すのが正解だろうと考えるけれど、正直に言ってわからない。
けれど、一つだけ、どうしても伝えておかないといけないことがある。
「私のことは聖女以外の名で、お呼びください」
「どうしてだ?」
意外なことを言われた、とでもいうように陛下は青銀の瞳をまたたかせた。
「私はすでに聖女の身分を失っています。
こちらで私が聖女と呼ばれ、訂正もせずその名が広まれば、それは聖女の名を汚す行為となりましょう」
「そうか。あなたは、能力が高いだけでなく、高潔なのだな」
「高潔、ですか?」
「あなたは、この国の最高の医師でも治療することができず、死を待つばかりだった私をあっと言う間にここまで快復させたのだ。
この国の誰もが、その奇跡を聖女の御業というだろう。
それなのに、エヴァンデル王国の聖女ではないという理由でそう呼ばれることを好まないとは、高潔といわず何という?」
真面目な顔をして、説明されたけれど、私にはいまいち納得できない。
それは、ごく当たり前のことではないのだろうか。
「どうやら、陛下は私のことを高く評価してくださっているようですね。
ですが、本当にそういうことではないのです」
不敬になるかもしれないと思いながらも、先ほど遠慮はいらないと言われたことを思い出して伝えると、陛下はわずかに顔をくもらせた。
「そうではないのだがな。だが、セシーリア嬢のそういうところもまた、好ましく思う」
「えっ……?」
言われた言葉の内容もだけれど、私の名が、陛下の口から出たことにも驚いてしまう。
「ん? 聖女以外であれば、どう呼んでもかまわぬのであろう?」
私の驚きを、さも以外だとでもいうように陛下は告げる。
「セシーリア嬢は、私のことをなんと呼ぶのだったか、覚えているか?」
「おぼえて、いますけれど」
「なら、呼んでみてほしい」
笑みを深める陛下に見つめられ、意図せず頬に血が上るのがわかる。
からかわれているのだろうか。
「陛下。おたわむれは、おやめください」
「違うだろう?」
「……フェリクス陛下」
「そうだ」
うっすらと笑みをたたえたフェリクス陛下に『よくできました』とでも言うように頷かれる。
「それでは、セシーリア嬢。改めて、エスコートさせていただけるかな?」
今度は返事をする前に手を取られ、庭の奥へと導かれる。
強引さはないのに有無を言わせない動きに、思わず誰にでもこうなのかもしれないと、心を引き締めた。
「ん、どうかしたか?」
「いえ、なんでもありません」
考え事をしていることがわかってしまったようで、フェリクス陛下に尋ねられてしまう。
エヴァンデル王国にいた頃は、このようなことなかったのに。
少し気が緩んでいるのかもしれない。
フェリクス陛下が、思い当たったとでも言うように続ける。
「あぁ、さすがに私も誰にでもこのようなことはしないよ。
それに、婚約者もいないから、安心するといい」
どうして私が安心するのかと思うものの、陛下の瞳はいたずら気に微笑んでいる。
どうにも陛下にてのひらの上で転がされている気がするけれど、太刀打ちのしようがない。
私の機嫌が傾いたのを察したかのように、陛下は話題をずらした。
「セシーリア嬢の故郷のエヴァンデル王国からは遠いからな。私のことはどれくらい伝わっている?」
「五年前に王座につかれたということしか。申し訳ありません」
「謝らずともよい。そうか、なら、私の年齢などもわからぬだろう。今年で二十三だ」
ということは、十八になる私とは五歳差になるのか。
「私の即位が急だったもので、婚約者候補はいたが、それどころではなくなってしまってね」
「そうなのですか」
即位して五年もとなると、話が上がってない方が不思議だ。
でもどうして、私にわざわざその話をされるのだろうかと考えていると、建物が見えてきた。
「こちらから中に入れる」
導かれるままに進むと、蔦の這う壁の先に小さな石造りのアーチが見えてきた。
そこをくぐり中に入ると、ここでは貴重であろう水がたたえられた池が見える。
ちょうど建物の影が落ちていることと、塀の外には高い木が植えられていることから、庭にいるときよりも少し涼しい。
「心地よい場所ですね」
「気に入ってくれたようで何よりだ」
池の中央付近には、睡蓮の葉が伸びている。
手入れされた居心地のいい庭に、自然と足がとまっていた。
「セシーリア嬢」
「はい」
呼ばれるままに見上げると、私のことをまっすぐ見つめる青銀色の瞳と目があう。
「私の命を救ってくれたこと、礼を言う」
「私は、私のやるべきことをしただけです」
「それでもだ。セシーリア嬢、あなたがいなければ、今私はここにはいない。
それに、私のために力を使いすぎて、倒れたと聞いている。
そうまでして私を救ってくれたことに、感謝しかない。ありがとう」
こうして誰かから直接、お礼を言われるのは初めてで、どう答えていいのかわからない。
身を縮めていると、真剣なお顔をされていた陛下の目元がゆるんだ。
「誰にもできないことをやってのけたのだ。
どのような方だろうと思っていたが、セシーリア嬢はかわいらしい方だな」
「お、おやめください」
先ほど『高潔だ』と褒められたとき以上に顔が赤くなっているのが自覚できる。
「褒めているだけだ。そうだ。何か褒美をとらせたいが、希望はあるか?」
またも投げられた言葉は、難しいものだった。
結論は決まっていたが、どう答えるか少し考えた末にいう。
「褒美はいりません。私をここに呼ぶ対価に、大金を支払われたと伺っています。
私は、その分の働きをしたにすぎません」
「……見解の相違だな。私は、特に優秀な働きをしたものには、特別な配慮がされるべきだと思っている。
不要と言われるなら、私が個人的に何か用意しよう。それならば断るなどとは言わぬだろう?」
そうまで言われてしまえば、断ることはできない。
私は『承知しました』と返すほかなかった。
「さて、もっと話していたいが、そろそろ時間だ。
私はもう行くが、セシーリア嬢はどうされる?
ここが気に入ったようなら、もう少しここを見られていてもよいが」
「では、お言葉に甘えます。こちらのお庭をもう少し見てみたいです」
「そうか。なら、ここにいつでも来られるように許可を出しておこう」
そういうと、フェリクス陛下は一人王宮の方へと戻っていった。
私は睡蓮の庭に残ったけれど、結局、風景を堪能するよりも、気がつくとフェリクス陛下のことばかり考えてしまっていた。