11.売られた聖女は初仕事を終える
夕刻。
終業の鐘が鳴り、朝と同じくエーリク事務官に伴われて、私は滞在先の客室へと移動していた。
今日は実りの多い一日だった。
エーリク事務官のつけていた記録によると、今日だけで既に三十人近い人数を見ることができたようだ。
休憩時間の雑談では、サムエル医務官とお互いの薬や薬草の知識を交換もした。
どうやらフェーグレーン国ではエヴァンデル王国と医療に対する姿勢が違うようだ。
エヴァンデル王国は薬効が強い薬草が豊富だからか、即効性を持たせた薬が多い。
しかし、フェーグレーン国では、病に対する即効性よりも、個人の体の力を上げ、治癒に導くような薬が一般的だった。
時間が足りなかったために、具体的な調合方法などは交換できていない。
それに関しては、騎士団の浄化と治療が落ち着いた後に、もう少しまとまった時間を取る予定だ。
「体調はいかがですか?」
「まったく問題ありません。心配なさらずとも、無理はしていませんよ」
「そう言われましても、ロセアン様は平気で無理をされる方だと伺っておりますので」
エーリク事務官の声音には心配がにじんでいる。
これ程までに心配されると逆に申し訳なくなるが、本当にまだまだ平気だった。
そうして、滞在先の部屋につながる廊下を曲がったときだった。
廊下の反対の方向から、こちらに向かって歩いてきているフェリクス陛下の姿が見えた。
後ろに従者の方が一人ついてきている。
隣にいたエーリク事務官を見ると、彼はいつの間にか頭を下げていた。
私もエーリク事務官に習い、端により頭を下げた。
フェリクス陛下の気配が私たちの前で止まった。
「二人とも、礼は不要だ」
その言葉に、姿勢を正した。
近くで目にするフェリクス陛下の表情は穏やかだ。
陛下は、おそるおそるという感じで顔を上げたエーリク事務官に話しかけた。
「そなた、宰相のところのエーリクか」
「はい」
「宰相から話は聞いている。今日はご苦労だった。セシーリア嬢は私が送るから今日はここまでで良い」
「承知いたしました」
その言葉を聞き、フェリクス陛下は頷いた。
「では、行っていいぞ」
陛下が許可を出し、エーリク事務官が『失礼します』と一礼して去って行く。
そして、陛下は私に向き直った。
「今日が初仕事だったろう。様子を見に来た」
「特に問題なく、無事に終わりました」
「そのようだな。元気そうだ」
一呼吸分の間を置き、フェリクス陛下が口を開く。
「疲れているようなら断ってくれてかまわないが、あなたを夕食に誘っても良いだろうか?」
伺うように聞かれるが、私に断る理由もない。
「もちろんでございます」
「そうか、なら、ぜひに。あなたと食事を共にしたいと思っていたのだ」
「光栄です」
フェリクス陛下が安心したように微笑む。
そして後ろに付いてきていた従者に『支度を頼む』と指示を出していた。
従者は一礼すると、廊下を反対方向に向かって連絡にいった。
「支度に少し時間がかかる。庭を見てから参ろう」
「かしこまりました」
フェリクス陛下は当然のように私の手を取った。
触れたところからフェリクス陛下の温もりが伝わってきて、それが少しばかり気恥ずかしい。
元婚約者とは手をつなぐことなどなかったから、フェリクス陛下の積極的な行動に戸惑ってしまう。
動揺は伝わっているだろうに、フェリクス陛下は私の手を離すことはなかった。
私も自分から振りほどくことなどできない。
困って、フェリクス陛下を見上げた。
けれど陛下は笑みを深くするだけで、目元を楽しそうに細めると、そのまま私を庭へと連れ出した。
「さぁ、こちらだ」
連れてこられたのは、この間とはまた違う庭だった。
小高い丘の上に水路が引かれ、その両脇に草花が茂っている。
エーリク事務官が言っていた噴水の庭とは別の庭のようだ。
よく見ると草花は薬草で、水路は睡蓮の庭の方へと続いていた。
夕方の少し冷気を含んだ風が吹き、散策にはちょうどいい気候だ。
護衛もついているのだろうが、見渡す範囲にその姿は見えない。
広い庭園に二人きりで、どこか気安い雰囲気が流れていた。
お互いにあまりしゃべらないが、沈黙が心地よい。
フェリクス陛下はゆっくりと庭を進んでいく。
手を引かれていなくても、ついて行けるスピードだ。
重ねられた手の力も弱く、少し力を入れれば引き抜けそうだった。
けれど、いざ手を引き抜こうとすると、陛下の手にも力が込められ引き抜くことは許されない。
私は、足を止めた。
すると、陛下も足を止める。
「あの、」
「なんだ?」
見上げると、フェリクス陛下の青銀の瞳が楽し気にきらめいていて、いたずらな行動は意図してのものだと悟った。
言おうとしていた言葉とは別の言葉がするりと出てくる。
「私で遊ぶのはお控えいただきたいのですが」
「遊んではいない」
「では、なぜ――?」
「セシーリア嬢のことを、もう少し知りたいと思ったから」
まるで私のことを試すような物言いだ。
フェリクス陛下が何を考えているのかわからない。
私は素直に聞くことにした。
「それで、何かわかりましたか?」
「そうだな。セシーリア嬢は、意外に意志がお強い方のようだ」
からかうように言われて、反射的に陛下を見つめる視線がきつくなる。
すると、フェリクス陛下は小さく笑いをもらした。
「そういうところだが、自覚は?」
「ありませんっ」
フェリクス陛下の余裕が気に入らなくて、勢いよく手を引き抜き、陛下に背を向けた。
今度は引き留められることなくするりと手が離れる。
手に残った温もりが風にさらわれ、なんとなく心もとない。
(気分を害してしまわれたかしら)
いくら気安いやりとりを許されているとしても、さすがにやりすぎたかもしれない。
おそるおそる振り向くと、甘さを含んだ声が耳をくすぐった。
「あなたにも、私のことをもっと知ってもらいたいのだが」
フェリクス陛下の手が伸びて、いつの間にか一筋だけ落ちてきていた髪の毛をすくわれる。
陛下は手に取った髪に口づけると、するりと指を滑らせていった。
婚約者でもないのに、なんということをするのだろう。
頬が熱を持ち、きっと私の顔は真っ赤にそまっているはずだ。
一歩だけ離れた距離に居るフェリクス陛下の瞳が、私のことをまっすぐに見ている。
背を向けるのは簡単だが、この瞳をそらしてはいけない気がした。
夕方の光が陛下の金色の髪を輝かせ、風がはらりとその髪を乱した。
気がつくと、私も陛下の青銀の瞳をじっと見つめていた。
吸い込まれそうなその姿に、私は息さえも止めていたようだ。
私の中の何かが警鐘をならした。
本能のままに、一歩、後ずさろうとしたところで、フェリクス陛下の方が視線をそらし、夕陽を見つめた。
陛下の視線が離れたことにほっとするのと同時に、どこか名残惜しくも感じてしまい、私はあわててその思考を打ち消した。
(私ったら何を考えているの)
心を落ち着けている間に、フェリクス陛下からは先ほどの空気は霧散していた。
遠くを見ていた陛下が、私の方を見て眼下に広がる町なみを指さす。
「そろそろ日没だ」
言葉の通り、徐々に落ちていく夕日が影を投げかけ、町の家々の陰影が濃くなっていく。
対照的に、王宮は夕日に赤く輝いていた。
「……きれいですね」
他の言葉が出てこない。
「これを、見せたかった」
静かにフェリクス陛下の声が落ちる。
そのまま、お互いに無言で夕日を見つめ続けた。
太陽はゆっくりと地平に沈み、やがて、完全に日が落ちて星が瞬き始めた。
「さて、戻ろうか」
どうやら帰りもエスコートしてもらえるようだ。
自然と手を取られ、足を踏み出す。
「暗くなってきた。足下に気をつけてくれ」
「気をつけます。あの、連れてきていただき、ありがとうございます」
「私も、セシーリア嬢が私の好きな風景を気に入ってくれたようで嬉しい」
今度の言葉にからかいの色はなく、優しい響きを宿していた。
私はただ黙って頷き、手をひかれるままにフェリクス陛下についていった。
素晴らしい夕日を見たお陰か、今度は手を取られても抵抗しようとは思わなかった。






