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苦手な方はご注意ください。

貴方の主張なんてどうでもよろしくてよ

作者: 猫本

「ロレアータ・マリアーナ・モルダーリ!」


 声高に呼ばわれてわたくしは足を止めました。

 扇子をパチリと広げて護衛官を制止します。彼らはよく心得ているので、内心を隠し静かに控えてくれました。

 グランフェール王立学院の昼下がり、学生食堂と教室棟を結ぶコリドールの周辺は多くの耳目に晒されています。食堂でランチを取るにも、中庭でピクニック気分を味わったり、食後の運動をしたりするのにも通らなければならないところですから。

 今日は天気も良く、ちょうどランチを終えて中庭や食堂のテラス席でくつろぐ生徒が多くいます。

 それをわかっていての騒動なのでしょうね。そのうち何かしでかすだろうと思ってはいましたが、このような形でというのは少々意外でした。

 騒動の気配に気付き、学院の警備兵がこちらへ歩み寄ってきます。

 護衛官だけでなく彼らのことも視線で制し、わたくしは冷めた声で我が婚約者にしてグランフェール王国の王太子、オーギュスト・アルベリク・グランフェール殿下に相対しました。


「一体何事ですの」


 彼は怒りに燃えていました。正義を体現したような清らかな瞳でわたくしを睨んでおられます。

 その後ろには近い将来殿下の側近となられる宰相閣下の御令息ミダール様、騎士団長の御令息ダンデス様、魔法師団長の御令息リュカ様、財務大臣の御令息サシャ様が控えていました。

 彼らの中心にはいたいけな少女が一人。恐怖に震えるようにわたくしを見ています。

 なかなかの演技派ですわね。5名の殿方に囲まれた状態で演技と悟らせないのですから。


「ロレアータ! 我が婚約者であることを笠に来て貴様がこの純真で心優しいマリーを虐げたことはわかっている! 貴様のような悪女な、ど……っ、ヒイィ!」


 芝居役者のような身振りで口上を述べていたオーギュスト殿下がその身をのけぞらせ、わたくしに突きつけた指を反対の手で握り込みました。


「メダルドったら」


 わたくしは後ろに控える護衛官を軽く嗜めます。爪を立てた子猫に対するようなもの、ですが。


「平伏せよ、下衆どもが」


 メダルドはわたくしの前に出て彼らに剣を突き付けました。


「き、貴様! 王太子殿下の指を斬り落とすとは! ええい、警備兵! 何をしている。こやつを捕らえよ!」


 ミダール様が叫ぶとあちこちから小さな悲鳴が上がります。そのように物騒な物言いですと、御令嬢などは倒れてしまいかねませんわね。

 殿下は真っ青な顔でただひたすら指先を握り込んでおられました。

 学院内を巡回している警備兵たちは動かず静観しています。それもそうでしょう。ミダール様の指示に従う必要はございません。

 舌打ちしたダンデス様が腰元に手をやります。そこには存在するはずのない実剣がありました。

 おかしいですわね。学内で帯剣できるのは警備兵と、わたくしの護衛官であるメダルドだけですのに。

 それに気付いた警備兵が俄に色めき立ちます。

 わたくしの侍女にして護衛官を兼ねるドロテスが笑い混じりに警告します。


「これは親切心で言いますけれど、腕を切り落とされたくなかったら抜剣するのはおやめなさい」


 彼女は指先に止めていた青い蝶を空へと放ちました。

 なぜこんなところに蝶がいるのか、それどころではないからでしょうか。誰からも指摘はありません。

 軽い様子のドロテスとは真逆に、地を這うような声でメダルドは唸ります。


「ドロテス。警告は正確にせよ。小僧、抜剣すれば敵対の意思ありとしてこの場で切り捨てる。そうでなくとも我が姫の御前で帯剣するなど、利き腕を切り落とされても文句は言えない所業だ。お前の右腕がまだそこにぶら下がっているのは、姫様の美しい眼に汚物を映したくはないというただそれだけの理由に過ぎない。一族連座での斬首は覚悟せよ」


 ダンデス様は冷や汗に濡れた顔を白くして、その場にガクリと膝をつきました。息は荒く、大怪我でも負ったような様子です。

 睨み合いだけでどれほど消耗するものなのか、剣の才能のないわたくしには残念ながらわかりません。

 間に入ろうとしていた警備兵たちも足を止め、顔色を無くしていました。

 無理もありません。メダルドは祖国でも一、二を争う剣士です。様々な事情でわたくし付きとなっておりますが、彼の能力で護衛官など役不足極まりないのです。


「これでおわかりになられたでしょう。メダルドが私の前で血を流させるわけがありません。もう一度御自分の手を確認なさってはいかがですか」


 扇子の影であからさまに息を漏らします。彼の実力を侮られたようでなんだか面白くありません。

 それを聞いた殿下は恐る恐る指を包んでいた手を開かれました。

 わたくしの言葉通り、一滴の血も流れておりません。あくまで牽制、わたくしに対する無礼を咎めただけのことです。指を斬り落とされたと感じるほどの恐怖を味わったというのなら、メダルドの怒りがそれほどだったということです。

 事実を確認した殿下の顔は白く、悪魔でも見るかのような眼差しをこちらへ向けてきました。

 衆目の前ではありますが、わたくしは扇子を閉じてにっこりと笑いかけます。

 最近は慌ただしい日々が続いたため、二人きりでお茶会を開くこともありませんでした。このようにお顔を合わせるのは久しぶりのことです。

 殿下はわたくしの笑顔に見惚れます。この方はわたくしの顔が大好きなのです。最後に笑顔を見せて差し上げる程度の慈悲はありました。

 わたくしが全く靡かないことに拗らせているのは承知していましたが、生憎とわたくしにも好みというものがあるものですから。

 その袖を必死に少女が引いたことで我に返られたようでした。


「この状況から推測しますに、わたくしがそちらの御令嬢を虐めていた、とでもおっしゃりたいのかしら? 彼女が殿下の寵愛を得ているから……つまり嫉妬心によるものだと? それで婚約破棄? まるでお芝居のようですわね」


 わたくしは再び扇子を開き、品を損ねない範囲でクスクスと笑います。

 企んでいたことを全て言い当てられたから、でしょうか。殿下の顔が赤く染まりました。

 お顔だけはよろしいのよ、この方。お母君が器量を見初められて王妃となった男爵令嬢ですものね。

 当時は随分と醜聞になりました。王家による印象操作の甲斐あって婚姻時こそ民には真実の愛の物語として受け入れられ、貴族も表立っては祝福する他なかったようですが、心中お察しいたします。

 言い換えれば現在の状況は殿下のお母君が招いたことです。

 この御様子ですと殿下は理解なさっておられないでしょうけれど。


「どうでもよろしくてよ」


 わたくしは無関心に告げました。

 好きの反対は無関心とはよく言ったもので、わたくしはオーギュスト殿下御自身には関心がありません。

 彼は屈辱と言わんばかりに顔をしかめます。

 本当なら罵声のひとつも浴びせたいのでしょう。

 けれどわたくしの前で油断なく構えるメダルドの姿にどうすることもできないようです。


「いじめていたとか、嫉妬に狂ったとか、どうでもよろしいの」


 意味を計りかねるように殿下もその側近候補たちも、わたくしの様子を窺っています。

 常々国王陛下や宰相閣下、各大臣に講師たち、およそ殿下に関わる全ての大人たちからわたくしとの婚約の意味は聞かされていたはずです。

 それは側近候補の皆様、いえ、学院に通う全ての生徒も等しく学ぶはずのことでした。

 そのためにこの学院は設立されたと言っても過言ではありません。

 全貴族の子弟を集めた、全寮制の貴族学院。その設立は10年前です。


「だってそうでしょう? わたくしは別に殿下でなくとも構わないのですもの。ねぇ、そこの貴方」


 わたくしは突如はじまった騒動に立ち去ることも割り入ることもできず、壁にへばりついていた男子生徒にそう言いました。


「っ! ハッ、ハイ! 皇女殿下におかれましては御機嫌麗しく……」


 自分で言っておきながらこの状況で麗しいはずがないと気付いたのだろう。彼は顔を青くする。


「ええ、悪くはなくてよ。少し時勢が変わるだけですもの。風が吹くようなものです。それで貴方、ディドロ子爵家の方でしたわね。わたくしがオーギュスト殿下にこだわる必要のない理由はご存じでしょう。だっていつも成績優秀者として表彰されてらっしゃいますもの」


 わたくしがそう言うとディドロ家の御令息は一瞬無表情になり、すぐに歓喜で顔を染めました。

 毎回試験の結果は掲示されます。上位に名前を連ねる生徒の名前と顔は把握しておりました。いずれこの国を支える一人となる可能性が高いからです。

 今にも拝み出しそうな様子で指を組むと、彼はハキハキと発言しました。


「グランフェールの次期国王はモルダ帝国第一皇女、ロレアータ・マリアーナ・モルダーリ皇女殿下と婚姻する者とマラチエ条約により定められております。王族の血統を残すため国王陛下から7親等以内という縛りはありますが、それは高位貴族の中から自由に選ぶ権利があると言っても過言ではありません!」

「ええ、その通り。よく学んでおられますわね」


 予想以上の回答にわたくしは目を細めます。

 とうとう膝をついて祈りを捧げはじめた彼をドロテスが鼻で笑いました。


「ああ、姫様の子羊がまた1匹」


 失敬な。誰彼構わず増やしているわけではありませんのよ?

 ドロテスのことは無視してわたくしは殿下に視線を戻します。


「おわかりいただけました? 別にわたくしはオーギュスト殿下でなくてもよろしいの」

「う……うそよ!」


 穏やかに告げたわたくしに反発したのは殿下ではなく、その背に隠れていた少女でした。

 彼女とわたくしの間で激突音と閃光が炸裂します。


「メダルド、顔はおやめなさい。売値が下がってしまうわ」


 メダルドの裂帛の一撃を、ドロテスの結界魔術が受け止め、霧散した結果でした。

 少女はヘナヘナとその場に崩れ落ちます。どなたも彼女に手を貸そうとはしません。むしろ無関係とばかりに必死で視線を逸らしています。

 ほんの少し前まで宝物のように守っていたのに、現金なものですわね。


「それに、売女にはこれで十分よ」


 ドロテスがローブの中から短杖を取り出します。彼女が小さく呪文を唱え、杖をくるりと一回しした途端少女の姿は消え、少し遅れて服だけがその場に落ちました。


「マリー!」

「バカな! 人を消す魔術だと!?」


 さすがに見過ごせなかったのでしょう。サシャ様が悲鳴を上げ、リュカ様が恐怖の眼差しでドロテスを見ます。


「ああ、違いますよ。私が使ったのはただの変化魔術です。売女に相応しい姿に変えただけですよ。その性根に相応しい姿に、ね」


 彼女は何でもないように言いますが、それだって高等な魔術に違いありません。しかも彼女は独自の略式詠唱を用い、発動するまで何者にも術式を悟らせないのです。

 ドロテスの言葉を肯定するようにもぞもぞと少女の服が蠢き、その下から何とも言えず下品な色合いのカエルが姿を見せました。


「ゲコ」

「ヒッ!」


 足元に飛んできたカエルに嫌悪を露わにした殿下は、容赦なく蹴り飛ばします。

 カエルはひしゃげた声を上げて中庭に飛んでいきました。


「あーあ。カエルを力一杯蹴り飛ばすとか、殿下の言う愛って軽いんですね」


 ドロテスに嘲笑されて殿下は顔色をぐるぐる変えます。

 無礼を咎めたい、反論したい、けれど自分もカエルにされるかも知れない。何より正論をぶつけられて返す言葉もなかったのでしょう。

 それに、これまでドロテスは極めて慇懃に振る舞っていました。現在のドロテスが生来の気性なのですが、これまで傅かれてきた殿下が驚かれるのも当然でしょう。


「治癒魔術をかければ何とかなるのではなくて? 警備の方も確保に向かってくださいましたし」


 わたくしはカエルを追って走っていった警備兵の姿を扇子の角で示します。


「もしかして姫様、欲しかったですか?」


 ドロテスが首を傾げます。それを聞いた皆様がギョッとした様子で目を見張られました。カエルを愛玩する趣味があるとでも思われたのかも知れません。


「いいえ、いらないわ。最初は見所があるかと期待していたけれど、あの方の特技は愛されることのみのようですから」


 マリー様、いいえ、マリア様でしたかしら? それともマリアンヌ様?

 最初は期待していたのです。うまく教育すれば良い諜報員になるかも知れないと。

 ですが、残念ながらあの方は殿方を籠絡するばかり、贅を極めようとなさるばかりで失望しました。

 贅を極めることが目的ならば、もっと確実になさるべきです。中途半端に寵を得て、わたくしを蹴落とそうとするだなんて悪手中の悪手です。


「ですよねぇ。股を開くだけなら誰にでもできますから」


 ドロテスがカラカラと笑いますが、あけすけな物言いにはさすがにわたくしも顔を扇子で隠す他ありません。


「マリーはそのような!」


 咄嗟に反論しようとした殿下ですが、メダルドが殺気を放つと大きく震え、言葉を呑んでしまわれます。

 その様子にはわたくしも呆れ果てました。一度は立太子なさったのです。彼我の実力差が大きくとも、もう少し気概を見せていただけないものでしょうか。


「10年前の方がまだ王族らしくいらっしゃいましたね。ええ、オーギュスト殿下。異論はございませんわ。婚約破棄、結構でしてよ」


 事実無根のいじめを信じたのか、信じたかったのか、利用しただけなのか、真意はわかりませんしどうであったとしてもかまいません。

 殿下がわたくしとの婚姻を厭うのならば、解放してさしあげるのが慈悲というものでしょう。

 その結果は殿下も御存知のはずです。そこまで覚悟の上ならば、わたくしに否やはありません。


「な、何事ですか!」


 警備兵から報告があったのでしょうか。バタバタと音がして教師が数人走ってきます。中には学院長もおられました。


「皇女殿下、一体これは」


 かつて栗色をしていた御髪は、この10年ですっかり白くなられました。

 この国に生きる大人は激動の時代の生き証人です。

 学院長もそのお一人で、窓際の歴史学教師から学院長まで祭り上げられた方でした。

 本来目立つようなタイプではありませんが、その博識さ、公平さは尊敬に値します。

 あと少しで定年という学院長に更なる御苦労をおかけするのは申し訳ない気持ちもございますが、このように人目のある場所ではじまったことですもの。終わらせなければなりません。


「学院長。わたくしは女領主となることにいたしました。つきましては婚約者の選考に御協力くださいませ」


 わたくしの発言を理解できたのは学院長はじめ、大人たちだけでした。

 あるいは一部の優秀な生徒、先程のディドロ子爵令息なども推測から限りなく正解に近いところへ辿り着いたようです。


「そ、れは……もうお決めになられたことで?」


 学院長は青褪め、震えながらも全教師を代表して尋ねられました。


「姫様のお言葉を疑うか」


 メダルドが剣の柄に手をかけますが、その後頭部をドロテスが小気味よく叩きます。

 芸人が見せる夫婦漫才のようなそれを微笑ましく思いつつ、わたくしはうなずいて見せました。


「殿下から婚約破棄の申し出がありました。マラチエ条約に基づきグランフェール王国を

モルダ帝国へ帰属、皇位継承権第二位のわたくしロレアータ・マリアーナ・モルダーリが帝国領の一部として統治することになります」


 学院長は諦観したようにただ頭を下げられました。

 その他の教師たちもわたくしへの礼を示し、一方で殿下へは憎悪の眼差しを向けています。

 わたくし、いえ、わたくしの背後に控えるメダルドやドロテスを恐れはしても、学院の教師に睨まれることは看過できなかったのでしょう。


「貴様ら、私を誰だと」


 唾を吐き怒りを露わにする殿下を無視して学院長はわたくしの前に膝を折りました。


「光輝なる守護者、モルダ帝国第一皇女殿下。殿下の御心のままに」


 学院長に続き、教師たちが膝を折ります。

 マラチエ条約を学習した高学年の生徒たち、独学で学んだのだろう一部の優秀な生徒も、青い顔で跪きました。

 下の学年の生徒たちは困惑しながらもそれに続く者、ぽかんと立ち尽くす者と反応は様々です。試金石には十分ですわね。


「結局、お兄様のおっしゃる通りになってしまいました」


 私は苦笑しました。

 その視界にヒラヒラと金色に輝くものが映ります。

 それは黄金の蝶でした。熟練の職人が繊細な彫金を施したような、無機質で、それでいて美しい、薄い羽根の蝶でした。

 手を伸ばしますと蝶は迷わずわたくしの指先に止まり、羽根を休めます。

 次の瞬間、眩い光が放たれました。

 不意の輝きに目を焼かれたのでしょう。離れた場所からも悲鳴が聞こえてきます。

 わたくしはドロテスの魔術に守られて無事でした。

 彼女は片手間に学院長らもその庇護下に置いたようです。彼らはもはや平伏し、ただその威容をおそれるばかりでした。


「な、なにが……! 誰だお前は!」


 意外にもドロテスは殿下のことも守ったようです。相変わらず状況を理解できていない彼は、感情的に喚き散らすばかりですが。

 わたくしは小者に関わることなく、光の中から現れた方を見つめておりました。


「アティ」


 腰が痺れるほど甘い声。黄金を溶かしたかのように輝く御髪。最高級の翠玉も霞むほど煌めく瞳に、この世の美を全て集約したような極めて整った容貌。鍛え抜かれた肢体は女性ならば誰もがうっとりと見惚れるものです。

 その上賢く、気高く、お優しく、人外と慄かれるほど強大な魔力と帝国一と讃えられる剣の腕前を併せ持つ、非の打ち所がない完璧な御方。

 わたくしとて帝国の宝玉と称賛されるに相応しい美姫であると自負しておりますが、同時にこの方の廉価版でしかないのだと思い知らされます。

 だからこそ、愛し、敬い、憧れてやみません。


「お久しゅうございます。ロレアータはお兄様にお会いできてとてもうれしゅうございますわ」

「それは私も同じことだよ。私の愛おしいアティ」


 この方はモルダ帝国皇太子、ラディアズ・エフィーリオ・モルダーリ、わたくしが敬愛してやまない実の兄です。

 お兄様はわたくしの指先に、手の甲に、手のひらに、と次々にくちづけなさってから、守るように肩を抱き寄せてくださいました。


「それで、愚かな王子がどうしたって?」


 ドロテスが放った伝令を聞きつけていらしたのでしょう。わたくしを想う心が嬉しくて、このような状況にも関わらずついつい笑みを浮かべてしまいます。


「たいしたことではありませんのよ。愛する方と出逢われたようで、わたくしとの婚約を破棄したいとおっしゃるの。もちろん快諾しましたわ。それで、やっぱりお兄様は正しかったと思い直していたところですのよ。救済策など必要なかったのですわ」

「なるほど。アティが自由になったことは喜ばしいが、我らが帝国が侮られたことは不愉快だ」


 お兄様は笑顔でしたが、その声は冷たく凍えていました。

 オーギュスト殿下は覇気に当てられて、ダンテス様はメダルドを恐れて、リュカ様は苦もなく転移魔術を成し遂げた才能と無尽蔵の魔力に慄き、ミダール様とサシャ様はわたくしがお兄様と呼んだことを理解したようで、もはや放心して頽れています。

 警備兵が捕らえたカエル、いえ、発端となった少女は粘ついた視線をお兄様に向けていました。オーギュスト殿下などよりよほど好物件に思えたのでしょう。お兄様は素敵ですからね。その点のみ同意します。

 さておき、いい加減に場を収めなくてはなりません。


「お兄様。午後の授業が押してしまいますわ」


 わたくしが扇子の影で囁くと、仕方ないとばかりにお兄様は苦笑されメダルドに目をやりました。


「モルダ帝国皇太子殿下の御前である。頭が高い。平伏せよ」


 意を得てメダルドが発します。

 未だ突っ立っていた生徒たちは驚き、慌てて平伏したのがわかりました。

 正しく学んでいる者ならば、モルダ帝国の皇太子、そして第一皇女がこの国にとってどんな意味を持つのか十全に理解しているはずです。

 不敬を働く者がいるのならば将来的に害となる可能性が高く、例えばわたくしの婚約者であったオーギュスト殿下……いえ、もはや罪人オーギュストですわね。彼やその取り巻きなどには相応の罰を与えなければなりません。


「我が妹は聡明かつ公正だ。このような愚かしい企てにも必ず詳細な調査を行い、真実を詳らかにするであろう。その結果妹の立場が変わることも、新たな婚約者を定めることも、将来の国政を担う者が一新されることも、学院で学んだ諸君らは正しく理解できるはずだ」


 お兄様のお言葉をメダルドが代理で告げます。お兄様ほどではありませんが、彼も堂々たる美声の主です。

 帝国の皇太子に直答できる者などおりません。罪人と警備兵以外はただ平伏し、そのお言葉を受け入れています。


「学院長、そなたの献身と忠誠は妹から聞いている。これからもよくロレアータへ仕えるように」

「はっ! 身命を賭して」


 学院長は平伏したままメダルドに向けて答えます。

 この場ではメダルドが侍従の役割を果たすしかありません。確かに聞こえた言葉をメダルドがなぞる、それだけのパフォーマンスがお兄様のお立場には必要なのです。


「ロレアータが次代のこの国を担う人材を自らの目で見極めたいと言うから許していたが……。可愛い妹が侮辱されるとは何とも腹立たしいものだな」


 お兄様は顔を寄せて嘆かれますが、そう言われてしまうとわたくしにも反省点はありました。


「ごめんなさい、お兄様。けして侮られるような態度を取ったつもりはありませんの。ただ、その……これまであのような方と接したことがありませんでしたから、どこまで増長するものかとついつい観察してしまって」


 そうなのです。あの少女がオーギュストや側近候補を籠絡していることも、彼らがわたくしを悪と憎んで何やら画策していることも、気が付いておりました。


「だって、想像もできないではありませんか。敗戦国の王子が、わたくしの温情で首の皮一枚繋がったことを理解していないだなんて」


 困ったように言うと、生徒たちからは同意の、オーギュストたちからは驚愕の気配が返ってきました。


「まさかとは思うが……本当にわかっていないのか? 我が妹が発案した、平和のための条約を」


 お兄様は呆れた様子で手を振り、メダルドに話せと命じました。



――――――――――



 今から10年前のことです。

 グランフェール王国には強欲な王妃がおりました。

 彼女は男爵令嬢という身分でありながら当時の王太子を籠絡し、正当な婚約者である公爵令嬢を陥れ国外追放にまで追い込んだのです。

 公爵家は王家を見限って離反。領土を接する我がモルダ帝国に恭順しました。

 当初王妃は公爵家の離反を気にも留めておりませんでした。

 厄介者がいなくなって清々したとでも思ったのか、王妃として贅に溺れていたのか、両方だったのかも知れません。

 国庫はあっという間に傾き、民には重税が課せられ、国境線を帝国と隣接する領地は公爵家に続く形で離反しました。

 夜会が開かれなくなり、ドレスも宝石も手に入らなくなってやっと、王妃は現実に気付いたのです。

 その頃にはあちらこちらで内乱の火が燻っており、あろうことか王妃は帝国による侵略が原因だと話をすり替えました。

 そうなれば帝国側も黙っておりません。

 わたくしの父であるモルダ皇帝ドメニコ4世は親民を愛する立派な方です。グランフェール王国から相次いで離反する領地を受け入れたのも、損得勘定だけではありませんでした。

 現に追放された公爵令嬢を皇弟殿下の妃として迎え、名誉の回復を支援なさったそうです。

 皇弟妃殿下は陛下の御厚情に深く感謝し、御夫妻仲睦まじく国民のため尽くされる日々です。

 そもそもグランフェール王国はここ数代凡庸な王が続き、肥沃な大地と資源を持ちながらも停滞していました。

 そんな国が栄華を極めるモルダ帝国と事を構えようなど、無茶無謀以外の何者でもありません。

 グランフェール王国からの奇襲、その後の宣戦布告という卑劣な戦の幕開けでした。

 現在ではその戦は一刻戦争と称されています。

 一刻で全ての決着がついたからです。

 それは類稀なる魔力を持ってお生まれになったお兄様、齢17歳の皇太子がくり出した無限とも思われる転移魔術の結果でした。

 王宮内に直接転移される帝国の精鋭兵。間を置かず5人、10人と増えていくそれにどうすることができたでしょうか。

 玉座は制圧され、わずか一刻で戦争は終結したのです。

 当時7歳のわたくしは決着がついた後、皇帝陛下の名代としてグランフェール国王の前に立ったお兄様に伴われておりました。

 そこで尋ねられたのです。ロレアータならばどのように始末をつけるか、と。

 わたくしはまだ子供でしたが、嫁ぎ先は他国の王族か国内の高位貴族と定められておりました。

 そのため様々な教育を受けており、まるで試験のように難しい問題を振られることがありました。


『国庫を傾け、戦争の引き金となった王妃は罪状を詳らかにした上で斬首がよろしいかと思います。幽閉や蟄居では国民の感情がおさまらないことでしょう。かといって一度は王族の立場にあった者を嬲り殺すわけにもまいりません。ですので、公開での斬首が適当かと』


 自分の息子ほどの娘が告げた残酷な結末に王妃は醜く顔を歪めました。罵声を発しなかったのは沈黙魔術がかけられていたからです。


『なるほど。国王と王子はどうする?』


 面白そうな御様子のお兄様に、わたくしは諦観した様子で捕らえられている国王と、何もわかっていないのかキョトンとしている王子に視線を向けました。


『そうですわね。まず、グランフェール王国を存続させるか否か、で変わってくるかと思いますが』


 視線で両方答えなさい、と促され、わたくしは手に合うように作られた小ぶりの扇子を開きました。


『まず、ここを仮にモルダ帝国グランフェール領としますなら、国王は引責による蟄居か毒杯を呷るかですわね。国民とまともな貴族の意見を十分に聴取して決定する必要がありますわ。王子は幼く開戦に関わっていないことから生涯幽閉、あるいは去勢を施して王族籍を剥奪、でしょうか。その場合は一代限りの男爵位でも叙爵なさればよろしいかと』

『なるほど、妥当な判断だ。だがそうなると国として残す必要性は薄いように思えるけれど』

『それは対外的なアピールですわね。王家はこの豊かな大地をうまく管理できていなかったようですが、周辺諸国から見ると十分に魅力的な国土です。それをモルダ帝国が侵略したと言いがかりをつけられるのも面白くありません。実際に戦や経済制裁を仕掛けようとするほど愚かな国はいないと思いますが……ああ、グランフェールは例外でしたわね』


 そうだね、と同意してお兄様は楽しそうに笑われました。


『結論として、グランフェールは敗戦国として処理すべきかと。停戦条約を結び、帝国から管理官を派遣して国政を建て直しましょう。その上でモルダ帝国の皇位継承権を持つわたくしが嫁ぎ、実質的な支配を行えばよろしいのでは? 同盟を結ぶための婚姻という形でしたら周辺国も横槍を入れることは難しくなるでしょう』


 そこまでお話しするとお兄様はにこやかなお顔を硬直させ、慌ててわたくしの傍に膝をつかれました。


『いや、いくらなんでもそこまでする必要はないだろう? アッティ、其方はモルダ帝国の皇女だ。しかも第二位の継承権を持つ。いくらなんでも身分が釣り合わない。グランフェールは帝国の領土とすればいい』


 わたくしとしては最適な回答をしたつもりでしたので、お兄様の慌てぶりが理解できずに首を傾げました。


『我が国にはお兄様という立派な皇太子がいらっしゃいますわ。わたくしはお兄様の治世を盤石にするため、政略結婚をするのが役目と決まっております。グランフェールは帝国と領土を接し、それなりの農地と鉱山資源を有していますもの。穏便に支配できれば帝国の利にもなりますわ。それでなくとも今は東方の情勢が不穏ですもの』

『それはそうだが!』


 当時帝国は東方で圧政を敷いていたニニギエ王国を併呑したばかりでした。あちらは旧王家筋の一族が優秀で、横暴な新王家に対しクーデターを起こしたのです。

 しかし国力が落ちた状態で他国からの侵略を避けることは難しいと判断し、旧王家一派はモルダ帝国に属することを願い出ました。

 新王家一派は処断されましたが、それでもそこかしこに火種は燻っていたのです。

 そのような情勢で西方に位置するグランフェールが騒ぎを起こしたのですから、正直なところ迷惑と言う他ありません。


『それに、グランフェールでしたらさほど遠くもありませんでしょう? 同盟国であれば婚姻後の行き来も可能ですわ。下手に遠い国へ嫁ぐよりもお兄様とお会いできる機会は多そうですもの』

『アッティ……』


 お兄様は感無量という様子でわたくしを抱き上げ、頬擦りなさいました。

 いくらわたくしが子供と言えど、皇族に相応しい振る舞いではありません。

 けれどお母様はお兄様を御出産されたあとより体調が思わしくなく、10年ぶりに宿った子供が女児とあって、家族一同から猫可愛がりされておりました。

 二歳下の弟、三歳下の妹が生まれてからもそれは変わりません。お兄様にとってわたくしは、そして弟も末の妹も、等しく溺愛の対象なのです。

 お兄様の反対という意外な横槍はありましたが、グランフェールは国として存続することになりました。

 それでもお兄様はオーギュストがわたくしを裏切った場合に備え、マラチエ条約に一筆書き加えたのです。

 わたくしも条約には口を出させていただきました。

 それは、貴族の子弟を集めた全寮制の学院を設立すること。これからの統治に役立つ人材を育てることはもちろん、人質を押さえたのです。

 その間、グランフェールは徐々に作り替えられていきました。

 今となっては、わたくしの配偶者が誰であっても大きな問題はないのです。



――――――――――



 メダルドが少々おおげさに語った過去を聞いたオーギュストたちは言葉もありませんでした。

 学院長はじめ教師方はただ平伏するばかり。わかっておられるのです。お兄様やわたくしに逆らうことが、どのような不利益をもたらすか。


「この10年で東方も落ち着きましたし、他国が騒ぎ立てようとどうということもありませんでしょう?」


 和平路線を捨てても問題がなくなったことを強調すると、オーギュストの瞳には絶望が浮かびます。

 今更ですわね。もう少し自分の立場というものを理解していれば、表向きは国王としてそれなりの生活を送れましたのに。

 停戦条約を結び表向きには同盟国と扱われておりますけれど、すでにグランフェールは帝国の犬といっても過言ではありません。今更自立して歩むことなど不可能です。

 このような出来事を起こしたオーギュストの座る椅子など、どこにもないのです。


「それでアティ、この愚か者はどうする?」


 お兄様はわたくしの頭を撫でながら汚物でも見るかのように殿下を一瞥します。

 生殺与奪の権を握られたオーギュストは怯え、縋るようにわたくしを見ました。


「去勢して放逐なさればよろしいのでは?」


 けれどわたくしには関心も感傷もありません。

 オーギュストの喉が小さくなりますが、それだけでした。ドロテスあたりに沈黙魔術でもかけられたのでしょう。

 そんなことはどうでもよく、わたくしはお兄様を見上げました。


「それよりお兄様、お仕事は大丈夫ですの? お茶くらいはご一緒できて?」


 期せずしてお会いすることができたのです。これ以上つまらないことに時間を費やしたくはありません。

 甘えた顔で見上げますと、お兄様は優しく破顔なさいました。


「執務中に飛び出してしまったが、なに、私の側近は優秀だ。多少の穴埋めなど造作もなかろう。ここは少々騒がしい。アティ、場所を移そうか」

「それでは王宮の四阿に参りましょう。わたくしの好きな花ばかり植えていただいておりますのよ」


 ドロテスが魔力で蝶を生み出します。それはヒラヒラと飛び立って、不意に消えました。再出現先は王宮の侍女頭の元でしょう。すぐにお茶の用意が整うはずです。


「ではアティ、座標を」

「はい、お兄様」


 わたくしはお兄様の魔力に身を委ねようとして、ハッと気付いて周囲の方へ目を向けます。


「皆様、お騒がせいたしました。どうぞ楽になさって。また明日から学友として親しくしてくださいませね。それではごきげんよう」


 カーテシーを披露するも平伏なさった皆様からは衣擦れの音しかわからないでしょう。

 例外は泣きそうな顔でこちらを見ている元婚約者だけですが、もはや意識に留めるのも無駄な存在です。

 今度こそわたくしはお兄様に身を寄せ、そのお美しい姿だけを目に映しました。

 肉を打ちつける音が聞こえ、ほんの少しだけ考えました。

 国を滅ぼしかけた母と、滅ぼした息子。果たして正しく刑は執行されるでしょうか。

 どうでもよろしいですわね。私刑で命を落としたとして、それもあの方がなさった選択の結果ですもの。

 瞬きほどの間に芳しい庭園へ転移して、わたくしはそれきり思考を切り替えます。

 国名を廃して領地の名を考えるのも、新しく婚約を結ぶことも、考えるのはまた後日。

 今はお兄様との一時を楽しむことにいたしますわ。

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