1-1.獣宿し
獣宿し。
それは、ある日突然、鋭い牙や爪が生え、獣のような姿となり、理性を失って暴れ出す。そして、三日三晩暴走したのちに息絶える、元人間だった化け物。獣を内に宿しているようだ、と、いつしか『獣宿し』と呼ばれるようになった――。
この桜の町に引っ越してきて2ヶ月。昔から友達を作るのは得意だった猿田雄吾は、難なくこの町の中学校に溶け込み、長年続けてきた空手を部活動に選んで汗を流していた。彼が所属している東中学校空手部は、全国大会常連とまではいかないものの、たまに全国大会に出場しては上位に滑り込む程度には強かった。3年生の4月に越してきて、いきなりレギュラー入りした雄吾は、普通であれば元々いた部員たちに顰蹙を買ってもおかしくはない。しかしながら、何故か文句を言う者は一人もおらず、むしろずっと一緒に活動してきた仲間かのような扱いを受けていた。それどころか「今年は君がいるおかげで、全国大会出場は確実だな」と大きな期待を寄せられているのだった。
そんなプレッシャーに負けることなく、夏の大会に向けてライバルである西中学校で練習試合を行い、珍しく完全勝利したその帰り道。雄吾は部活の仲間たちと寄ったコンビニで、彼の人生を変える出来事に遭遇した――。
持っていった水筒が空になり、小腹も空いた男子中学生3人組は、喉と小腹を満たすため、乗っていた自転車を駐車場の端に止めて店内へ入る。バスも通っていない田舎のため、移動は保護者の送迎、もしくは自転車であり、雄吾たちはもっぱら、体力作りも兼ねて自転車で移動していた。
店内はお昼時をだいぶ過ぎた時間のためか、客はまばら。それでも、まだ子どもとはいえ体を鍛えている男子中学生が3人もうろうろしていると、店内がなんとなく狭く感じる。3人は3人とも、そこまで大柄という訳ではない。雄吾はちょうど中学三年生の平均くらいの身長だし、同い年の部長はそれより少し高い程度。一つ下の後輩は、雄吾よりも少し低く、雄吾を真ん中にするとキレイな斜めラインになる。大柄ではないが、真面目に武道に取り組んでいる彼らの存在感は、そうでない者にとっては威圧感を感じることもあるのだろう。やんちゃ盛りの年頃だと、気を使っているのかもしれない。彼らとすれ違う客は、できるだけ身体を小さくして、道を譲ってあげていた。
「あ~どれにすっかなぁ…」
普段は即断即決の雄吾であるが、こと飲食物に関しては優柔不断になる。普段物事を即決できるのは、好みがはっきりしているからで、今現在優柔不断になっているのは、つまりはどれでも良いから。どの飲料もおいしそうに見え、なんならもう水で良いのでは?とも思えてくる。総菜パンの棚を見てみるも、これまたどれもおいしそうで、どれに決めてもハズレはないと分かっているから、決められないのだ。
「雄吾先輩、また悩んでるんっスか?」
すでに買うものを決めた後輩は、商品を持ってレジに並ぼうとしているところだった。
「お前、普段はすぐ決める癖に、食うものとなると決めらんないのな」
部長が笑いながら寄ってくる。これまたすでに買うものは決まったらしい。
「うっせぇなぁ・・・どれもウマそうで迷うんだよ」
これまでの人生で雄吾は、買い食いをほとんどしたことがなかった。というのも、近くにコンビニどころか、スーパーもろくにない、超のつくほどの田舎に住んでいたからだ。この町も大概田舎ではあるが、それでも自転車で走れば数件のコンビニには易々と着く。決して、数か月前まで住んでいた場所のように「トンネルをくぐらないと飲食店がない」というようなところではないのだ。そんなわけで、コンビニに売っている商品すべてが魅力的に見え、いずれは全制覇したいと思うほどであった。
全制覇のために一度も食べたことのないものを選ぶか、それとも以前買って大層おいしかった焼きそばパンにするか・・・・・・。悩みに悩んでいると、部長と後輩がレジを済ませて戻ってきた。
「まーだ悩んでたのかよ・・・」
「だってよぉ・・・・・・」
彼らが買ったものは想像ができた。部長はたぶん、メロンパンとコーラ。そして後輩はコロッケパンとお茶だろう。彼らと行動を共にするようになって、それらを買う彼らを、雄吾は何度か見ていた。
人間とは、どうしてこうも ”いつも通り” が好きなのだろう。
ふと、そんな疑問が頭をよぎった。しかし、次の瞬間には考えるのが面倒になり、雄吾はその ”いつも通り” を選択した。正確には ”いつも”という訳ではないが、過去の経験から同じものを選んだという点においては、似たようなものだろう。
「んー……やっぱ焼きそばパンと牛乳にするか」
決まってスッキリした雄吾は、ふと、入口付近から聞こえてきた客の出入りを知らせる音に意識を向けた。その数秒後には女子の小さく短い悲鳴が聞こえたが、それは決して恐怖からくるものではなく、どうやら歓喜の悲鳴らしかった。
「な、なんだなんだ・・・?」
部長も入口のただならぬ気配を察したようで、パンコーナーの上から頭だけ出して覗き込む。それにつられて雄吾も、身体をずらして横から顔を出した。そこには、4人組の男たちがいるのだが、どうも雄吾は違和感を感じた。違和感の正体が何なのか解明しようと、雄吾は男たちをじっと見る。
まず異質なのは、私服の大人三人の中に、制服姿の少年が一人いること。しかも、その少年を取り囲むように、大人が配置されている。一人が前、二人が後ろを歩いており、警護しているというよりは、護送中の犯罪者といった様子だった。さらに異質なのは、その少年の背がスラっと高く、モデルか何かのようだったことである。顔は良く見えないが、雰囲気からは醜くはないだろうことが想像された。長い髪を後ろで一つに束ねていることで、一見女性にも見えるが、着ている制服は明らかに男子のものだった。
「あれ…?あの制服、桜狩のじゃないスか?」
後輩もいつの間にか異質な集団を見ていたらしく、雄吾の後ろから入口を眺めていた。雄吾は聞きなれない単語が出てきたことで、後輩の方へ振り向く。
「あぁ、すぐそこの、能力者高校か」
部長も話題に乗ってきた。どうやら部長もその存在を認識しているらしい。
「……能力者…高校?」
雄吾の片方の眉毛がぴくりと動いた。
「あ、雄吾は県外出身者だから知らねえのか。このコンビニの裏手に学校が建ってるだろ?あれはこの辺…いや、関東では有名な高校なんだ」
良い意味でも悪い意味でもな、と、小さい声でコソッと続けた部長は、その高校にあまり良い印象を持っていないのか、雄吾に向けていた視線を例の四人組に戻した。それとは対称的に、後輩は羨望の眼差しを制服の彼に向けていた。
「桜狩獣高等学校、略して桜狩は、ソーマを持ってる人間しか入れない、能力者養成学校なんスよ!選ばれた人間しか入れない、超エリート校!カッコいいっスよね!」
後輩は、店の中であることを考慮してはいるが、興奮が収まらない様子で今にも叫びだしそうな勢いだ。
「まぁな。能力者がいないと、獣宿しが出たとき、一般人はどうしようもないからなぁ…」
部長はあまり興味なさそうに、一般論らしきものを述べる。
「猿田先輩、獣宿しは知ってますか?」
話を振られ、雄吾は返答に困った。どう返したものかと考えていると、後輩は知らないものと解釈したようで、勝手に解説を始めた。
「獣宿しっていうのは、ある日突然、獣みたいに全身毛だらけになって、暴れ出しちゃう人のことなんスよ。そんな人間が本当にいるのか?って思うでしょ?でもYoutubeにけっこう動画がアップされてるんスよ。俺も実物を見たことはないんスけどね」
後輩が説明している間に、例の四人組はふた手に分かれ、後ろにいた大人二人は入り口付近で待機、前を歩いていた大人と高校生は、お菓子コーナーに移動していた。高校生は、コンビニに入るのが初めてかの如く、遠慮がちではあるが物珍しそうにキョロキョロと周りを見回している。
「んで、能力者っていうのが、唯一獣宿しに対抗できる人たちで、普通の人間にはない超能力を持ってるんっスよ!運動能力が異様に高かったり、変なものを手から出せたり、ホント映画の世界みたいなんッスよ!!」
後輩の声がどんどん大きくなっていくのを聞いて、部長は慌てて静かにするよう指示を出した。部長から注意されたことで声を潜めたものの、後輩はまだ語り足りない様子で、小さい声で続けた。
「ちなみに、能力者は体内に ”ソーマ” っていう物質が流れているんですけど、ソーマを持ってても能力が出ない人もいるらしいッス。あ、そういえば猿田先輩も学校でやってますよね?ソーマ検査。全国共通でしょ?健康診断のときに必ずやりますもんね……あっ!!!」
今までマシンガントークをしていた後輩が、今度はいよいよ大きな声で叫び、店内の注目を浴びる。それに気づいた後輩は、多少萎縮し小さくなったが、懲りずに雄吾に話しかけた。
「あの三人、能力者ですよ!」
興奮のあまり、雄吾の肩を掴んで揺する後輩のされるがままになりながら、雄吾は一度後輩の顔を覗き込み、その視線の先にあるものを目で追った。
「ほら、見てくださいよ!腕に時計みたいなのしてるでしょ?あれは国営警備会社に所属してる能力者の証なんスよ!!」
「お前、目ざといな。なんか能力者オタクっぽくて気持ち悪ぃ…」
部長があきれた声で言うのを聞いているのかいないのか、いや、聞いていないのだろう、部長のセリフをすべて聞き終わる前に続けた。
「俺、好きなんスよ、能力者!俺もソーマがあれば、能力者目指したのになぁ」
「……そんなに良いもんか?能力者って」
これまで大人しく話を聞いていた雄吾が、後輩に疑問を投げかける。
「だって――」
そんなことを話している間に、例の長身高校生がパンコーナーにたどり着き、雄吾たち三人と並んでパンを選び始めた。部長と後輩は、なんとなく気まずいのか、そそくさと飲料コーナーに移動してしまい、雄吾はポツンとその場に取り残されてしまった。
雄吾はそこで、自分はまだ目当てのものを購入していないことに気付き、焼きそばパンと、後ろの保冷棚にある牛乳を手に取ってレジに並ぼうとした。
(能力者…ねぇ)
能力者高校に通っているということは、この高校生もいずれは能力者になるのだろう。
(将来、誰が何になろうと自分には関係ないけど、能力者とだけはお近づきになりたくねぇな)
雄吾は珍しいものでも見るかのような目付きで、パンを選んでいる高校生に目をやる。やはり雰囲気通り、容姿も醜くない。むしろ、「これが所謂美形というやつか」と納得してしまうような、整った顔立ちをしていた。大きな瞳を縁取るまつ毛は長く、鼻筋が通っており、他の年頃の男子と違い、ニキビ一つないきめの細かい肌をしている。自分の容姿を大して気にしていない雄吾ではあるが、「こんな顔で生まれれば、ただ立ってるだけで女子にモテるんだろうなぁ」と、わずかばかりの嫉妬心が湧かないでもなかった。
ちらちらと観察を続けていると、見えてきたことがあった。彼はどうやら、先程の雄吾と同じようにどれにするか相当悩んでいるようだ。そこで雄吾は合点がいった。この高校生は、自分と同じようにコンビニもない田舎の出身なのだろう。能力者になるために、わざわざこの町まできたのかもしれない。今まで、コンビニなんてシャレた(?)店に入ったことがないから、どれを選んだら良いのか分からないのだ、と。この町に引っ越してきたばかりの頃の雄吾も、きっと周りからみたらこんな感じだったのだろう。そして、ついてきた大人はイライラしているようで、態度が明らかに「早くしろ!」と言っている。高校生もそれを感じ取って焦っているようだった。
ついさっきまでの、能力者への嫌悪感や美形への嫉妬心はどこへやら。「なんだ、能力者だ、美形だっつったって、大した事ねぇじゃん」と、高校生に親近感が湧き、憎からず思えてきた。
仕方ない、助け船を出してやるか。
そう、無意識が考えたのかもしれない。
「これ」
先ほど手に取った焼きそばパンと牛乳を、高校生に差し出す。高校生は、自分が話しかけられていることに気付いて雄吾を見るが、状況を理解できずに目を瞬かせている。
「美味いぜ。牛乳と組み合わせると最高なんだ。食ってみろよ」
自分の持論を披露し、ニッと笑って見せる雄吾。なんとなく状況を飲み込んだ高校生は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐにパッと笑顔を咲かせた。その笑顔がまた綺麗で、譲ってやって良かったなぁと思う。「やっぱ美形って得なんだな」と、やはり少し悔しい気がしないでもなかった。
「そうなんだ。ありがとうございます」
そう言って素直にパンと牛乳を受け取る。いや、受け取ろうとした。パンは受け渡しが上手く行ったものの、牛乳を持つ雄吾の左手と、受けとる高校生の右手が触れた瞬間、弾かれたように高校生が手を引いた。彼が受け取ったものと思った雄吾は手を離してしまったため、牛乳は床に、ペチンと音を立てて落下した。
「あ、悪りぃ…」
雄吾は落ちた牛乳を拾うためにしゃがむ。季節外れの静電気でも来たのだろうかと思い見上げると、高校生は目を丸くして雄吾と自分の手を交互に見ていた。
「…大丈夫か?」
そんなに静電気が痛かったのだろうか?と声をかける。
「…え?あ、はい……ありがとうございます…」
雄吾に尋ねられ、自分が挙動不審になっていたことに気づいた高校生は、もう一度差し出された牛乳を慌てて受け取った。今度は雄吾の手に触れないように、気を使いながら受け取ったようだ。軽く会釈をして、高校生はレジへと向かう。すれ違いざま、高校生についていた大人が鋭い視線を寄越したが、雄吾は素知らぬふりを決め込んだ。自分は別に悪いことをしたわけではない。現に高校生は喜んでいた。と思う。睨み返しても良かったが、面倒ごとを起こしたら空手の大会に出られなくなる。気分は良くはないが、まぁ怒るほどのことでもない。雄吾はもう一度、焼きそばパンと牛乳を棚から取り、今度こそ自分もレジに並んだ。
高校生は、雄吾と同じ商品の会計を済ませて、例の大人、もといガンつけ男と外に出るところだった。入口付近で待機していた大人二人は、ガンつけ男に促され、飲料コーナーに向かった。高校生とガンつけ男は先に外に出るようだった。
雄吾は会計を済ませると、部長と後輩を探す。ほどなく見つけたが、どうやらマンガコーナーで立ち読みをしているところだったようだ。
「お待たせ~」
雄吾が声をかけるも二人はマンガに夢中で見向きもしない。待たせてしまった自分が悪いのだが、面白くない気分になるのは仕方がないだろう。そんな気分になるのは空腹も関係してるのかもしれない。そう思った雄吾は、さっさと店の外に出て、焼きそばパンにありつくことにした。
「先に外に出てるぞー」
それには部長が、マンガから目を離さずに片手をあげて了解の意を示したため、雄吾は来店のチャイムと同じ音のなる出口から外に出た。
駐車場がやけに広い。敷地が広いのはもちろんだが、今日は車が少ないようだ。自分たちは自転車だし、先程の高校生たちも、高校から歩いてきたのだろうか。
ふと、「高校から歩いてきた」という自分の思考に違和感を感じた。その違和感の正体はすぐに分かった。
「今日って、土曜日じゃん」
だから自分はわざわざ西中学校まで練習試合に行ってきたのだ。つまり学校は休み。ではなぜ、あの高校生は制服を着ているのだろうか。まぁ、休日に制服を着てはいけないということもないか、と思い直したところで、購入したパンに手を伸ばした。
再びふと何かを感じて顔を上げる。目に入ってきたのは、自分より先に店から出た高校生が白い車に乗り込もうとしているところだった。「あぁ、あいつら車で来てたのか」と思ったところで、高校生の後ろに立っていたガンつけ男が、高校生の頭に手を伸ばした。そしてそのまま、高校生の髪をまとめているゴムに指をかけ、ひっぱる。当然だが、高校生の髪の毛はパサッと広がり、背中に落ちた。
高校生は勢い良く振り返り、驚愕の表情を示す。確かに、突然人の髪をほどく行為は意味が分からないし、気持ちも悪い。だけど、高校生の驚き方はそんなレベルではなかった。
雄吾の胸はざわついた。
ニヤリ、とガンつけ男の口元がゆがんだのが見えた。
すると高校生が突然、胸を押さえて苦しみ出した。そしてすぐに、両手を胸の前でクロスし、自分を抱きしめるようにして必至に何かを耐えている。数メートル離れている雄吾からも、尋常ではないほどの汗と全身の震えが見て取れる。その姿を目の前にして、ガンつけ男はニヤケ顔を崩さず、してやったりと見下ろしていた。はた目から見ても、ガンつけ男のせいで高校生が苦しむことになったのだと分かる。雄吾は、自分が行ったところで何ができるわけでもないと、頭の片隅で冷静に考えながらも、それでもガンつけ男に一言、いや二言三言文句を言ってやらないと気が済まないのと、救急車を呼ぶくらいならできるだろうと、2人の方に向かって駆け出した。
「おいっ、大丈……」
大丈夫か?と問おうとして、雄吾は立ち止まった。高校生まであと1メートルというところまで来たのだが、彼のところにたどり着く前にガンつけ男が目の前に立ちはだかったのだ。立ちはだかったというよりは、雄吾を背中にかばうように立ち、まるで高校生が危険人物かのような扱いだった。
「きみ!危ないから下がって!!」
ガンつけ男が叫ぶと同時に、懐から、よくヤクザ映画などで見る小刀を出す。「お前以上に危ないヤツなんてこの場にいねぇよ!」と思う間もなく、その小刀はシュンッと音を立てて、日本刀くらいの大きさになった。正確には、小刀そのものが変わったわけではなく、青っぽい光が小刀の周りに集まり、実物以上に大きい日本刀の形を作っていたのだ。
ライトセーバー!?マジかっこいい!!
と、一瞬思ってしまった自分を恥じ、まさかそれを高校生に向けるんじゃないだろうな、と抗議しようとしたそのときだった。
「う…あ……っ」
高校生が呻き声を上げたと思うと、見る見るうちに姿が変わっていった。バサッと音を立てながら、腰あたりからはふさふさの獣の尻尾が、そして、頭部には尖った大きな耳が出現したのだ。下を向いていて良く見えなかった顔には、黒い模様が少しずつ浮き出てきており、ギリギリと音を立てている口元には、鋭い牙が見えていた。雄吾のパンを受け取ったときの、あの優し気だった瞳は影を潜め、怒りを宿しているかのように鋭く、まるで飢えた獣のようだった。
「獣…宿し……」
雄吾の口から、ぽろりとこぼれた。
「そうだ、『獣宿し』だ。だからこいつは殺処分しなきゃならない」
「いや、でもあいつ、さっきまで普通に……」
男にしては綺麗な顔をしていた高校生は、その面影を残しながらも、鼻の頭に皺を寄せて牙をむき出しにし、まさに獣そのもののようだった。
「それでも、今は獣宿しだ!」
明らかに、この男が彼の髪をほどいてからおかしくなった。高校生は、両手が地面に着くほど姿勢を低くし、臨戦態勢に入った犬のような唸り声をあげている。生えた尻尾はバサッ、バサッと神経質そうに上下に振っており、いつ飛び掛かってきてもおかしくはなさそうだ。
そうこうしている間に、周りがザワザワし始めた。不穏な空気を察してか、人が集まりだしたのだ。
「け、獣宿しだっ!!」
誰かが叫ぶと、一斉に騒ぎが大きくなった。叫び声を上げる人、腰を抜かして動けなくなる人、さまざまな反応の中、人間離れしたスピードで誰かが近付いてきた。
「これは…!大丈夫ですか、班長!?」
高校生に着いてきた二人組のうちの1人だ。そして、もう1人もすぐに合流する。
「髪がほどけている…いったい何が起こったんですか?」
あとから合流した男も驚いて高校生を見ている。班長と呼ばれたガンつけ男は、焦ったように早口で答えた。
「あいつが突然、自分で髪をほどいたんだ!」
ーーなんだって……?
「そんな!自分から封印を解くなんて、何でそんなことを…」
ーー何、言ってんだ?このオトナ……。
「分かっただろう?一度獣化した人間は、もう人間じゃない。獣なんだ」
『 獣宿しはただ、怖くて辛くて、助けを求めてるだけなんだよーー 』
――血のつながらない弟が、以前そう言っていた。
「どんなに上手く人間の皮を被っていても、所詮は悪霊が取り付いた化け物だ」
『 何なのかは僕にも分からない。でも、僕たちには見えない何かと、必死で闘ってるんだーー 』
――だからなんだっていうんだ?俺には関係ないじゃないか、とそのときは思ったんだ。
「理性の欠片もない野獣に、もう一度人間らしい暮らしをさせたいなんて、バカげてる!」
『僕たちと同じだね――』
――獣宿しなんて、別に関わりたくない。知らなければ、それで済んだのに・・・・・・。
「獣宿しの分際で!獣宿しが生きていて良いはずがないだろう!!」
雄吾の中で、何かがプツンと切れた。
「おい、おっさん……」
雄吾はガンつけ男に一歩近づく。
「少年!危ないからみんなと一緒に建物の方へーー」
獣宿しから一般人の少年を守ろうと、能力者と呼ばれる大人たちは働いているのだ。合流組の1人が、『獣宿し』から離そうと雄吾の肩を押す。しかし雄吾はそれを振り払い、さらにガンつけ男に近づき――
ボコッと鈍い音がした。雄吾がガンつけ男の左頬に突きを食らわせたのだ。
暴力で解決しようなんて前時代的過ぎる。むしろ、暴力が何かを解決するなんて思っていない。しかし、頭よりも先に身体が動いてしまった。あまりにも理不尽な言動に、オトナの汚さに、雄吾は怒りを押さえることを放棄したのだ。
「な、何をしているんだ、こんな時に!」
合流組のもう1人が叫ぶ。「とにかく捕縛するぞ!」等と話ながら、合流組2人は獣化した高校生に向き直ったが、ガンつけ男は自分の頬を殴った少年を見据える。
「あいつの髪ほどいたの、おっさんじゃねえか!」
青く光る鎖や縄を飛ばし、高校生の身体を素早く拘束した能力者2人は、雄吾の声が聞こえたようで、2人とも驚きの表情で顔を見合わせている。
「……ふっ、何を言ってーー」
ガンつけ男が最後まで言い終わる前に、強い風が雄吾の前を通り過ぎた。その次の瞬間には、10メートルほど離れた場所で、ドゴォッという大きな音と砂埃が舞っていた。
今、何が起こった…?
雄吾には、何も見えなかった。
砂埃が落ち着いてきて、見えて来たもの。それは、先ほど雄吾と対峙していた男が、高校生に頭を地面に叩きつけられ、押し付けられている姿だった。地面には穴が開き、ひびが入っている。グルル…という獣のような声を出し、男の頭をさらに地面にめり込ませる高校生の姿は、確かに獣のそれだった。苦しいのだろう、男のうめき声も聞こえてくる。こんな攻撃を受けて生きているのだから、『能力者』もまた獣宿し同様、人間離れした存在なのだろうが、獣宿しの比ではない。鎖や縄で高校生を拘束していたはずの2人は、高校生の勢いに吹っ飛ばされたようで、さっきの場所から数メートル離れた位置でそれぞれ倒れていた。
これが、獣宿しの力――
「き…キャアーーーっ!!!」
水を打ったように静かだったこの場が、突然、我に返った1人によって動き出した。
「の、能力者がやられた!」
「逃げろっ!!!」
我先にと逃げ惑う人々。逃げたところで、先ほどの高校生のスピードであれば、この場の数人をガンつけ男のように地面にめり込ませることはたやすいだろう。車に乗ろうにも、車に近付くということは獣宿しに近付くということ。みんな、獣宿しから少しでも離れようと、コンビニの裏手、高校がある方に走って行った。
自分も逃げなければーー
そう頭では考えているのに、足が言うことを聞かない。視線はガンつけ男を押さえつけている獣から離せない。さっきまで高校生だった獣は、ゆっくりとした動作で雄吾に視線を移した。
獣の両目が、昼間にも関わらずギラッと光った。おもむろに立ち上がった獣は、倒れているガンつけ男をそのまま捨て置き、雄吾の方へと向きを変えた。そして、体勢を低くし、唸り声を上げる。
ヤバいーー
分かってはいるが、足がすくむ。やっとの思いで一歩下がると、獣がピクッと反応した。
(ん……?)
こんな緊張マックスの状態で大したものだと思う、いや、緊張感が高いがゆえだろうか。雄吾は獣の様子がおかしいことに気がついた。
(もしかして、俺を怖がってる……?)
普段、空手で対戦するため向かい合ったとき、相手が自分に怯んでいるのか、それとも勝てる気でいるのか、何となくだが察することができる。今、目の前の獣は、もしかすると自分に怯んでいるのかもしれない、と雄吾は感じたのだ。そう思ってよく観察してみると、確かに、頭の上の大きな耳は後ろにペタンと倒れており、尻尾はキュッと足の間にしまわれている。それでも、今にも飛びかからんばかりに構え、唸り声をあげているところを見ると、「怖いけど立ち向かわなければ自分が殺られる」と覚悟をしている状態なのかもしれない。こんなに強い獣に、なぜ自分が怖がられるのか全くもって分からないが、その可能性は十分にあった。動物程ではないだろうが、もともと野生の感は働く方なのだ。
『獣宿しはただ、怖くて辛くて、助けを求めてるだけなんだよ』
なるほど、確かにその通りなのかもしれない。雄吾は理解したが、だからといってこのピンチがどうにかなるものでもない。怖いなら来なきゃ良いのに、と思ったところで、相手は今にも飛び掛からんばかりの勢いだ。
こっちもお前が怖いんだから、お互い様だ。
そんな思いが獣に届くはずもなく、雄吾はどうすればこの場を乗り切れるか、その大して良くない頭を使って考えていた。不思議と、諦めるという選択肢は浮かんでこなかった。そして数秒後、獣はさらに体勢を低くした。
来るーーっ!
先ほどは獣の動きなど何も見えなかったが、今度は彼の初動が見えた。もともと運動神経は良く、部活で鍛えた動体視力があるからなのだろうか。目の前の獣の動きに、この数秒間で慣れてしまったのだろうか。さらに手のひらが見えたことで、自分を掴もうとしているのだろうと雄吾の頭は勝手に考えた。しかし、その動きに反応できるかと言えば、それは別問題だ。かろうじて顔の前で腕をクロスし、頭部を守る。
「玉藻っ!!」
誰かが叫んだ声が聞こえた。
(ーー!?)
声が発せられたのとほぼ同じタイミングで、獣に腕を掴まれた。それは分かったが、それと同時に起こったことを雄吾は理解が出来なかった。
腕が掴まれた瞬間、身体から、ものすごい勢いで力が抜けていく。一瞬と言っても過言ではないその勢いに抗うことができず、雄吾は意識を手放した。