まえがきは「言い訳」の場ではなく、「期待度調整」の場である。
小説家になろうでは、各話ごとに「まえがき」「あとがき」が存在しますよね。
これには作者と読者を繋げるという大きな役割があり、場合によっては作者自身へのファンを作り出すことも出来る。そんな力があると私は考えています。
しかし、私自身もそうでしたが……まえがきを「言い訳」の場にしてしまう人が多い多い。
これは非常にダメなパターンで、せっかく読者が次話を読もうとしている時に出鼻をくじくことになります。
なぜ言い訳をしてはいけないのか?
答えはとっても単純です。
「じゃあやれよ!」と思われるから。
まえがきで言い訳してるということは、それを作者も理解しているということ。なら直せよ、書けよ、ちゃんとやれよ……と言われるのは目に見えています。
もちろん10割の人がそう言うわけではありません。でも少なくはない。だからこそ、まえがきでファンを減らすような真似はしない方が賢明です。
じゃあ、まえがきって何に使えばいいのか?
私は「期待度調整」の場だと考えています。
作者として考えるべき「前話まで読んだ人は、次の話にどんな期待を持っているか」という読者の期待度。
そこを最後の最後に調整できるのが、まえがきです。
例えば現代恋愛もので、前話が「転校するヒロインの元へと駆けて、新幹線のホームでギリギリ会えた」というシーンで終わっていた場合、読者は何を期待するでしょうか?
主人公がヒロインへの想いを伝えたり、何かしらの努力が実を結んだり……そういった「会えたことに対する明確な結果」だと仮説が立てられます。(作品のジャンルや話の展開にもよりますが)
しかし今回の話が「主人公が想いを伝えられずにタイムリミットが来る」という結末の場合、さきほど過程した期待度を裏切る形になります。すると何が起こるかと言うと……最悪、読者は詰まらないと思って読むのを止めるでしょう。
こういった時にまえがきを上手く使えば、読者の離脱をある程度防ぐことが出来るでしょう。
先ほどの例であれば……
「この作品は2人の想いが届くまでの物語になります。しかしもっと2人の物語を掘り下げるため、ここでは終わらないことをご了承ください。」
といった形で前向きな意味合いを含めて、「言い訳」をするのです。
…………あれ、言い訳してますね?
そう、言い訳には「嫌われる言い訳」と「好かれる言い訳」というものがあるんです。
主に前者は「作者の勝手な都合」であることが多く、後者は「前向き」かつ「読者の考えや感情に寄り添うもの」が多いでしょう。
物語を書いていく中で「読者がどう感じるか、考えるか」を頭の片隅に置くことが出来れば、きっとあなたの作品はより良いものになります。
とはいえ全ての読者に寄り添うことは出来ませんので、深く考えすぎないことも大事です。
考えつつ、考えない。その塩梅を探りながら、読者に楽しんでもらえる「まえがき」が沢山生まれることを祈り、エッセイを終わらせていただきます。
最後にこのエッセイのタイトルを分かりやすく言い換え——
——まえがきは「嫌われる言い訳」の場ではなく、「好かれる言い訳」の場である。
皆さんの創作ライフ・読書ライフがより良きものとなりますように。
お読みいただき、ありがとうございました。