視線
カタカタと、PCのキーボードを打つ乾いた音が室内に響く。本来ならその音がそこらじゅうから聞こえてくるはずなのだが、今はその音も一箇所からしか聞くことは出来ない。
有沢俊樹は、必死に立ち上げているPCと睨めっこしながら、今日中に仕上げなければならない文書を作成している真っ最中だった。
時刻は既に午後11時をまわり、この会社にはおそらく警備員と有沢しか残っていないはずだ。もしかしたら有沢以外にも残業している社員が居るかもしれないが、少なくとも同じフロアにはいないだろう。そう実感させるほど、この室内、ひいてはフロアが耳の痛くなる静けさに包まれていると言うことだ。
―――ただその事実が、有沢の不安を大いに駆り立てた。
おそらく、30分ほど前からだろうか。有沢は、背後からの視線を感じていた。
誰も居ないはずの室内。有沢と最後までいた同僚も、つい一時間前に帰ってしまった。もしかしたらその同僚がイタズラのつもりでずっと睨んでいるのかという幼稚で稚拙な思考が脳裏をよぎったが、だとすると30分も物音一つ立てず、有沢を見ていることになる。さすがにそれはおかしい。
かといって、同じフロアには誰も居ない。なら誰なのか? 分からない。
気のせいではとも思ったが、まるで射殺さんばかりのその視線の針は、到底気のせいなどで生み出せるものではない。
おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい……
振り返りたい衝動に駆られる。元々有沢は、幽霊や心霊現象などといった非科学的な出来事は、一切信じない方だ。その手の特番などをTVで見かけるたび、こんな下らない特番を放送するくらいなら、その金をもっと政治的なものに当てろと心底思っていた。
だが、今の状況はどうだ。まだ確かめたわけではないが、背後からの視線はそこに誰かがいるということを訴え続けている。何度も言うが、このフロア、この室内には、有沢以外誰もいないはずだ。
不安と恐怖ばかりが募り、そして振り向こうとする有沢の意思を抑え込む。
振り返ってはいけないと、本能のようなモノが働いているのだ。
だがもし、この視線が気のせいだとするならば、不安のせいで一向に仕事がはかどらず、残業時間も長くなってしまう。それだけはなんとしてでも避けたかった。
有沢自身は、この視線が気のせいだと信じている。信じたかった。
しかしそれを上回る恐怖心が、気のせいだと無理やり自分に言い聞かせている有沢を嘲笑うかのように肥大していく。恐怖心が、振り向こうという勇気をねじ伏せる。
とすれば、この視線が消えてなくなるのを待つしかない。という結論に至ったのは、それからたっぷり数十秒後のことだった。
有沢は強く目を瞑り、静かに時が過ぎるのを待った。
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どのくらい時間が経ったのだろうか。感覚的には、一時間ほど経ったように思える。有沢は視線をPCの時計に向ける。
PCのデジタル時計は、23:05を指していた。つまり、アレからまだ5分しか経っていないということだ。
しかし、気が付けば既に視線は感じなくなっていた。
それにより、恐怖心が薄れる。有沢はゆっくりと背後を振り返った。
誰も居ない。
当たり前といえば当たり前だが、その事実が確認できたことに、有沢はふぅと胸を撫で下ろす。
「なんだ、俺の気のせいか……」
誰にとも言わず、有沢はそう声を出す。声を出したことで、一緒に不安や恐怖といったものを出て行ったように感じた。
なんとも無いということを確認し、有沢は正面を向く。さっさと文書を完成させなければ。
―――その瞬間、有沢は凍りついた。
目と鼻の先に、ナニカがあった。ナニカと、表現するしかできなかった。
人の顔のようにも見えるし、しかし石のような無機物なモノのようにも見える。真っ黒で、歪な球体だ。
すぐ目の前にあるせいで、そのナニカの全体像を掴むことができない。目線を動かせば何か分かるかも知れないが、驚きと緊張、突如沸いてきた恐怖心により、有沢は動くことすら出来ない状態だ。
「ヤットミテクレタ」
ナニカが、突如言葉を発した。男とも女とも取れるその声は、静かに、室内に響いた。
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「あれ? まだ誰か居るんですか?」
この会社に勤める警備員の男性は、まだ灯りの付いている部屋を見つけ、誰か居るのかと声をかけた。
しかし、返事が返ってくるどころか、人の気配さえない。
念のため室内に入ると、部屋の中央付近にあるデスクのPCの電源が付けっぱなしだった。
男性は深いため息をつき、そのPCの元へ向かう。疲れと呆れの両方の感情が男性の顔にしわを作り、日に日に増していくストレスに、こんな仕事を黙々とやる自分が滑稽に思えてくる。
「まったく。何もかもやりっぱなしで退社なんて、いいご身分ですねぇ」
このデスクの主は知らないが、その誰かに向かって精一杯の皮肉をぶつける。そうすることで、僅かでもストレスを発散させようとしたのだ。結果的にあまり効果は感じられなかったが。
PCの電源を消し、室内の電気も一緒に消そうと室内の入り口のところへ戻る。
ふいに、背後から視線を感じた。