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告解の序幕





誰にでも、大切な人がいる。


一緒にいればそれだけでいい。


でも、もし


大切な人が、耐えようも無いほどの絶望に苛まされた時。


――あなたはその人の思いを、忘れさせられますか?



自分は信じていた。この仕事が私の生き甲斐だと。

手紙は、人を幸せに出来るとそう思っていた。

幸せの象徴だと思った。

でも、違った。

私には、いつまでも忘れさせる事しか出来ない。


私は一日のこの時間を何よりも大事にしていた。




     告解の序幕


チリンチリン

自転車のベルを鳴らす。


「こんにちは」


「あ、ごくろうさまです」


少し立ち止まり、軽い挨拶と会釈をしてまた走り始める。

私は、坂本彰。郵便配達員をしている。この仕事を始めてもう七年になる。

今、私は自転車に乗ってこの付近を配達していた。

この付近の郵便配達件数は一日に約百数件。それを三人の配達官で分担している。

中央で一括して集められた手紙がこのしがない末端の郵便局まで流される。

そこから各々私達が自転車を使いこの地域を配達していた。

この街の名を箍野(たがの)。都心から離れた片田舎である。

田舎で道が舗装されていないので、自転車で配達するのは辛い。

もっと、配達に便利なものはないだろうか、と時に思うこともある。

配達には根性が必要だった。

自動二輪車のような移動機械、そんな身近な機械など、この田舎に有る訳がなかった。

やっとの事でこの本国も欧米の文化が流入し始めたのに。

それがいまや発展どころか…

今、この本国は戦争していた。

原因は小さないざこざだったのに。

国民どころか、関係のない他国までが巻き込まれてしまっている。

この箍野も例外じゃない。すでに目ぼしい若者は赤紙によって呼ばれていた。

もうこの付近には前みたいな活気は殆ど無い。

それでもこの町の人たちは、一所懸命に頑張っていた。

子は戦争。親は子の帰りを待つ。それしか出来なかった中で。

徴兵された子供の帰りを待って、残された人たちは笑って生きていくことを決めあった。

いつか来る未来の為に。

もう少し私も若ければ赤紙に呼ばれていただろう。

舗装されていない砂利道を走ること十分。

私の目の前に古ぼけた駅の待合場みたいな建物がやっと見えた。

ボロボロの瓦に所々、木が腐っている一軒家。もとは廃駅を利用した建物だ。

さっさと自転車を止めて、私は一直線に同僚が待っているところへ行った。

そう、この古ぼけた一軒家こそが私達の仕事場。

箍野郵便局だった。



「坂本さん、ちょっといいですか?」


私を含め三人のうちの同僚、山本拓が呼んだ。

頭は丸く剃っていて坊主みたいだが、顔は案外しっかりとしている。

彼は、まだこの仕事を始めて三年。私達の中でも一番年齢が若かった。

もちろん赤紙規定の年齢に準じている年齢である。

だが、彼は生まれつき体が弱かったため、特別兵役免除だった。

そのためこの付近唯一の青年とも言えた。


「なんだ?」


「来週の件なんですが…僕は都心の病院へ行かなくてはいけないので、私の地区の配達をお願いしたいんです」


「ああ。その話なら聞いている。…わかった。気をつけて行ってこいよ」


「ハイっ。ありがとうございます」


山本が一礼して自分の机に戻っていった。

事実、二つの地区を配達するのは辛い。

だが仕方がないのだ。この田舎の郵便局にこれ以上の人手は割けないのだから。

私は窓から見える青く透き通る空を見た。そこには一筋だけ。雲が流れている。まるで飛行機雲みたいな雲。

この青い空に消えないたった一つの雲。

なぜだかその雲が消えないのが私には不思議に思えた。

         



この街で郵便配達をし、いろいろな発見が私にはあった。

それはこの仕事でしか味わえないような、大切なものだった。

私は信じている。この仕事が人を幸せに出来る事を。

遠く離れたあの街に住む家族が、こんな田舎まで手紙を送る。

ただそれだけなのに、その手紙には言葉で言い表せない宝石が詰め込まれていた。

もちろん戦争も然りだった。徴兵された人が家族に、生きている幸せをその手紙に詰め込む。

それには人間の想いがたくさん詰まっている。

そう思っていた頃、私はとある家に行った。

山本拓の代わりに私が彼の地区を配達している時だった。

その家は常緑樹の垣根が綺麗に整えられていて、庭には杜若、末摘花、など

私の知らない花もあったがそこは一種の桃源郷にさえ見えた。

此処だけ、外界から隔離されているような平穏な時間が流れていた。

なにか心の奥底が揺さぶられる、そんな感じだった。


「ごめんください―― 郵便です」


声をかけるとその直後、奥から一人(老婆)がでてきた。

外見から見るともう70歳は過ぎてそうな皺だらけの老婆だった。


「すいません。水原――綾芽さん?のお家でしょうか?」


私はつい聞いてしまった。この人が「綾芽」という可愛らしい名前とは失礼ながらにも思えなかった。どちらかと言うと「フネ」とか「ハナコ」みたいな古臭い感じがした。

もしかしたら私が間違えてしまったのだろうか?


「はい〜 そいです〜」


訛りが掛かった、嗄れた声だった。

普通の人が見れば名前と姿のギャップに幻滅してしまうだろう。

私はそのまま老婆に手紙を渡した。

老婆はその手紙の宛名を見るなり、目を広げ幽霊にでも遭ったかような驚きを見せた。

そしてそのまま老婆は私に目をくれず、奥に早足で引っ込んで行った。


「?」


私は何がなんだか解からいまま呆然と立ち尽くした。

あの手紙は何か不幸の報せだったのだろうか?

そうなると私自身、気が重い。

手紙は人を幸せに出来るのだからその逆も当然在りうる。

かくいう、私も何度かそういう場面に出遭った事があった。


(悪い事をしてしまったかな……)


私は家の人に声をかけずそのまま玄関を後にした。

ただこの家の中は……一瞬だけかもしれない、柔らかな白梅香の匂いがした。




その後私は病院から帰ってきた山本にあの家について聞いた。


「ああ、坂本さんも行ったんですか。本当に綺麗ですよね、あの家……」


私もそうだなと呟いて、あの家のすばらしさを思い浮かべる。

そしてふと、思い出した事があった。


「そういえば、水原さんという人は面白い老婆だな……」


「えっ?」


山本の顔が強ばった。私がなにか見当はずれの事を言ったみたいな。

山本の顔が急に精気が無くなったように暗くなった。


「……坂本さん…… 知らないんですか……?」


「うん?」


一体私が何を知らないと言うのか?

そう言う山本の顔が余計に空しく悲しそうになった。


「あの家の水原綾芽さんという女性は、まだ僕より若いんですよ……」


「――っ?」


「坂本さんが見たのはきっとお手伝いさんですよ。確か…フネさんとか言う名の」


確かにあの老婆には似つかわしくない近代的な名前。

そしてあの花壇はもっと若い人が考えたような植え方で。そこにはなにか初々しさと言うものが漂っているように感じた。


「若い女性? 私は見なかったが……」


「水原さんは僕と同じように……病気らしいんですよ…。だから、お手伝いさんが来て身の回りの事をやってもらっているらしいんです。もちろん毎日ではないらしいんですけど」


そうか……、そうだったのか。


「山本……おまえはその人を、見たことがあるのか?」


「数年前に見たことが……。とても綺麗な人で近所でも噂だったんですよ。少し前に好きな人ができたらしくて。でも」


「でも?」


まるで蝉のような儚さを醸しだして山本は黙った。

花瓶の花が暑さで枯れて死んでいた。


「少し前に結構話題になったんです。その恋人が、結婚を前提にした恋人が、軍隊に強制召集されたそうです。赤紙によって。これからが……幸せという時期だったらしいですよ」


なんと言うことだ。ここにも戦争の被害者がいたのだ。

やっとのことで掴めそうな幸せが……訳の分らない物に奪われる。

そんな理不尽な事が人の意思に関係なく、各地で起こっていた。

一瞬、手紙を渡した時の老婆の姿が頭の中に思い浮かんだ。


「? それなら…… もしかして、あの手紙は」


「ええ、徴兵された恋人からですよ」


私はその時のことを思い返した。確かに、あの時の老婆はギョッと驚いて奥に引っ込んで行った。もちろん私を無視して。

……きっと、その手紙にも。

二人の間の言葉では云えない気持ちで溢れていたのに違いない。

生きている喜びを二人で分ち合ったのだ。


「そうか……知らなかった……」


あの一種の桃源郷に思えた所にそんな事情があったなんて。

私は刹那、言葉を失っていた。


「それで、水原さんの病気は?」


「生まれつき視力が極端に弱いみたいで、今はもうほとんど、見えないはずです。だから白紙も免除になったそうですよ」


白紙規定。

こうした紙の種類は三種類あった。赤紙、白紙、黒紙。

これらの紙の規定では赤紙は強制召集令状、白紙は国民の強制軍事産業投入。

そして黒紙。別名、万歳紙と呼ばれ、それは兵の死亡通告を示す。

これを受け取った家族は「本国万歳」と叫んで、泣きながら万歳三唱する事に由来している。

そして、白紙規定の軍事産業とは末端の兵器部品工場や織物工場で働く事である。

確かに目が見えなければこの仕事は不可能だ。


「そう言ったら、僕も同じなんですけどね。でも――」


「でも?」


山本の表情が苦悶を浮かべた。


「やるせないですよね。いくらなんでも……」


「……」


山本自身も何となく分かっていたみたいだった。自分の中に渦巻く得体の知れない感情を。


「だって、僕たちがこうやって配達しても、いい事ばかりじゃないんですから」


その言葉が私をひどく揺さぶった。確かに【黒達】(一斉黒紙速達郵便)命令は、私たちまでも家族から恨まれる事もある。

ジリジリと、蜩が喉に物を詰まらせたような声で鳴いていた。


「そうだな。だけど、戦争中にそんな事言ってられないだろう?」


「そうですけど……」


まだ山本は、納得がいかない表情を見せていた。

だけど、それも現実だった。

それは免除者に対する世間の眼でもよく分かった。

自分の息子は赤紙に呼ばれ、死んでいく。

それなのに兵役不向きという理由で、戦場には送り込まれずそのまま日常を過ごせるのだから。それが規定者家族にとってどんな辛い事か山本も重々承知していた。


「もういい。早く、仕事に戻れ」


「はい……」


私は山本が仕事机につく姿を目で追う。

誰もが戦争など嫌っている証拠をまざまざと見せ付けられたのだ。

正直、自分も――何度かそんな事を思った事があった。

できるなら私も争いのない世界を望みたい。

でも、未だそんな世界は実現されていない――



            3


それから私は、ある思いに駆られる様になった。水原綾芽本人を一目でも見てみたいと、そう思った。水原さんの家の事情があるからかもしれなかった。

あれ以降、私は向こう配達区域まで配達する機会が無かった。

でも、私には興味があった。変な言い方かもしれないが、彼女がどのような思いで愛する人を待っているのか。それは辛い事に変わりないかもしれない。でも恋人を待つにはその環境は辛いはずだった。そんな気持ちを知りたかった。


「山本……」


「はい?」


配達記録をまとめていた山本がペンを置いてこっちを向いた。


「なんですか?」


「………」


私の気持ちは変わらない。一度でいい。一度会って、恥ずかしいけれど、何か自分に役に立つ事がないのかと思っていた。兵役にも規定外でみんな頑張って生きているのに私だけ取り残された気分を振り払いたいが為に。なんでもいい。私の出来る事を――


「今度から配達区域、変わってもらえないか?」


私の思わぬ丁寧な提案に山本は一瞬驚きの表情を見せた。


「えっ――」


「頼む、山本」


「……い、いいですけど、僕の配達地域は遠いですよ。いいんですか?坂本さん」


「…………あ」


何を言っているんだ私は……


「?」


「……………すまん。もういい、仕事に戻ってくれ」


「?……はあ。じゃあ、今度から配達区域を変わればいいんですね」


「……」


私は見逃すような軽い相槌を一回打った。そのまま山本から視線を外す。

ラジオからは本国の戦線状況が絶え間無く流れていた。

本国は東南系大陸を占領。

大勝。連戦連勝。

そんな言葉が流れてきた。

それがなんだか私にとって馬鹿げた事にしか聞こえない。

例え、本当に勝っていてもそこには儚くも犠牲者がいるはずなのだから。

それに比べれば、私達は幸せ者に違いない。

でもこの辛さは何だろうか、私には全く分からなかった。

この言いようが無い不安感が自分を襲った。

まだ、戦争は終結しそうにもない。



初めて配達区域が変わり、新鮮感が漂うが、今の私にそれを感じる余裕なんてなかった。

ついに会えるかもしれないのだ。

水原綾芽に。

いつもより急ぎ調子になってしまい、配達も少し雑になった。さらに挨拶をされても気付かずに通り過ぎて、近所の人に不信がられた。

私は緊張している事が目に見えた。誰も私のこの高ぶる心を静められないだろう。

私は水原さんの家に着いた。自転車を止めて、家の外観を見る。

垣根の犬黄楊は帯白色の小花を咲かせ、花壇には花。そこには蝶が飛び交う。

ここだけ何か時間が切り取られているような、既視感を感じた。

それほどゆっくりとし優しい場所だった。


「水原さん、郵便です」


私は玄関の前に立ってあの老婆(フネさん)が来るのを待った。

またあの訛り声で迎えてくれるはず。

だが、人が来る気配がしなかった。


(留守……?)


「水原さん、郵便です!」


知らぬまに声が大きくなっていた。

だが、やはり声は返ってこなかった……


「ごめんください、水原さん?」


私は無意識の内に玄関の扉を開けていた。

鍵が閉まっていると思われたドアは抵抗なく、開いてしまった。


「?」


玄関の中から冷たい空気が流れ出していった。

人の気配が無い。まるで冷たい機械のような感じがした。


(いないのに、鍵が開いている?)


「水原さん!郵便です!」


本来ならここまで呼んでいないなら、諦めてポストに手紙を送入して配達に戻るはずだった。

でも私は諦められなかった。

どうしても、一目でも見てみたい。

諦めろ!諦めるんだ!

心の中でそう誰かが叫んだ。それに私は苦しくなって、拳に力を入れた。

その時だった。


「あの、郵便なら……中庭の方へ――」


 ?


確かに小さい声がここまで聞こえた。家のずっと奥から。後の方の言葉がよく聞こえなかったが、やはり誰かいたらしい。

私はその声に惹かれるように玄関を出て、桃源郷のような花壇、木々を横に見ながら中庭の方へ回りこんだ。

そこは玄関の方からは見えない一角だったが、玄関付近よりも綺麗に花々が咲き誇っていた。

夕顔、橘、牡丹、などなど。夏の風物詩ともいえる花々が色鮮やかに咲いていた。

私はそのまま花壇の方から、家のほうへ眼を移す。


「!」


何枚もの戸があって、縁側の戸が開いていた。すぐそこが縁側の廊下。

そしてその奥に障子を隔てた部屋の中にひとつのベッド。

そこには一人の人がベッドの中で上半身を起こして本を開いていた。

その女の人は髪が艶やかで長く、肩口で合わせてあってリボンで纏められていた。顔は例えるなら柔和な聖母のような誰でも見惚れてしまうような美しさ。まるで欧米でいう『もでる』(よく意味が解からないが)というものなのだろう。格好は掛け布団で見えなかったが、花柄の寝間着を着ているようだった。 

その姿に自分が声を失っている事に私は気付いていなかった。


「?」


女性が音に反応して読みかけの本を閉じた。そして、こっちの方へ視線を向ける。

綺麗でゆっくりとした動作で。しかしそれは眼を瞑ったまま。


「郵便ですか?」


綺麗な澄み切った声だった。


「え、あ、はい。郵便です……」


「それなら、申し訳ありませんが、私は眼が不自由なので、そこに置いといて頂けませんか?」


「……は、はあ」


その後、一瞬の空白が二人の間があった。

そしてその女性は疑問を持った表情で首を傾げた。


「? あの、いつもの人と違うんですか?」


私は驚いた。


「分かるんですか?」


「ええ、声の質や話し方がいつもと違いますから。それに足音もいつもの人とは違います……」


 自分の体中に稲妻のような戦慄が駆け巡った感じがした。目が見えない彼女の感覚は常人よりも鋭かった。呆然と彼女を見つめてから、ふっと自分が抱えていた疑問を思い出した。


「あの、今日は……あのお婆さんは、いらっしゃらないのですか?」


「フネさん……ですか?それならちょっとの間、身内の方へ……」


 そう言って、水原さんは突如、言葉を切った。

 確かに普通、見知らぬ人間に理由を言うのは少し躊躇うだろう。

 その突然の話題切りに、場の雰囲気が重くなった。私はそんな雰囲気が嫌いだった。だからわざと間違えるように言った。


「腰を痛めたのですか?」


「はい?」


「いえ、フネさん、年配の方だからもしかしたらと……」


「…………くすくす」


「……違いました??」


 水原さんは右手を口元に持っていき、清楚に笑った。

 その姿が、本当に端麗で綺麗だった。


「あっ、申し遅れました。私は郵便局の坂本彰と言います」


「水原綾芽です。坂本さんは面白いお方なんですね……いつもの人は、たまにしか会った事がないですが、どこか臆病な感じがして、少し頼りない感じがありました。規律はしっかりしていたみたいでしたが……」


 たぶん山本の事らしい。確かに彼は仕事には真面目なのだが、やはり戦役免除者なので配達時には緊張して行動していたのに違いない。


「今日はその人ではないのですね、病気なのですか?」


「いえ、ちょっと事情がありまして。今後、彼と配達区域を代わってもらいました」


「そうなんですか……」


 実際は私の我儘だったが、本当の事を言える自信が無かった。なんでも人のせいにしておきたかった。きっと私の性分なのだろう。


「手紙はここに置いておきますね」


 縁側に手紙を置いてひとまず踵を返した。


「ちょっと待って下さい、あの……その手紙、もしかして【黒い】ですか?」


「?」


 突如呼び止められ、振り返る。彼女の顔は本当に何かに対して心配しているような表情で今にも泣きそうにも見えた。そしてその心配はどう見ても彼女の恋人に対してであるのだ。

 彼女も心の奥底で願っているのだ。黒紙ではなく恋人からの生の手紙が来る事に。


「いえ、ただの手紙ですよ……」


 水原綾芽は誰にも気付かれないような小さな安堵の溜め息をついた。私はそれを見てしまった。心からの安堵。きっと彼女の心の中では今思っているのだろう。

 まだ生きてくれている、と。


「良かった……」


「そ、それじゃ…、失礼します」


 私は走ってその場を後にした。水原さんが何か声を発していたが私にはまるで聞こえなかった。

 なぜなら、今私は彼女の恋人に対する実直さに背中を向けているのだから。



          4


 その日の夜、久し振りに故郷の友人から電話が掛かってきた。

 私は戦争による郵便局の異動でここに勤務している。しかし本当の故郷は箍野ではないのだ。

 私の故郷は辺境地、夕日島。


「もしもし。如月??」


「何を言っているんだ、忘れたのか?私だよ。如月忠光だ」


「ああ!久し振りじゃないか、どうしたんだ?」


 夕日島で一番の親交があった友人だったが、実際こうやって話すのは十年ぶりぐらいだった。


「いや、昔の夢を見て、それで君の事を思い出したんだ」


 ??


「ああ、元気にしているのか?」


「…………ああ」


 一瞬の間がそこにはあった。


「?」


「元気だ……」


「……何かあったのか、忠光?」


 また、数秒の間が空いた。

 その後、意を決したのか忠光は、暗い声で口を開いた。


「……なあ、彰」


「?」


――――お前は、「罪」を忘れたいと思うか?


「?」


「絶望があって、どうしても、苦しいとき。お前は、お前は…それを忘れたいか?」


 何かの宗教勧誘を受けているようにも思えた。だが、それにしては真剣味がある。


「う、あ……ど、どうしたんだ?」


「もし、この世に全てを忘れさせるモノがあったら、お前はそれを使うか?」


 話の筋が良く分からないが、論理が飛躍しすぎている。だから、私は冷静に応えた。


「忠光?そんなもの、この世にあるわけ無いだろ。だって――」


――――あるんだ。


「  あ  」


「あるんだよ、悲しみを消すモノが」


「な、何を、言ってるんだ? そんなのあるわけ無いだろ、そんなのがあったら大騒ぎになる」


 全うなことを言ってみたが、受話器を持つ、私の手が、無意識のうちに小刻みに震えた。


「……悪い、すまん。突飛も無い話をしてしまった」


「……」


 自分の思考がうまくまとまらなかった。唇が乾いてうまく言葉にさえできなかった。

 ただ、鵜呑みにするしかなかった。頭の中で感覚的に忠光の言葉が、ぐるぐると廻っていた。

 そして最後に、聞き取れないぐらい小さな声で、


――――もし、忘れたいのなら、お前にそれをやるよ――


「……今、何て言った」


「いや、何でもない……気にしないでくれ。また気が向いたらお前からも連絡してくれ。じゃ、切るから」


「おい、ちょっと!待て――」


 何とかひき(・・)止めようとしたが、そのまま切れてしまった。

 たったそれだけの電話だったが何となく不気味で気持ちが悪かった。

 それはたったそれだけの電話なのに十年ぶりの友人が電話をしてきた事だ。

 そして何より。

――――全てを忘れさせるモノがあるんだ。

 その言葉がどうしても、頭から離れなかった。

 現実にそんなものなんて無い。そう判っていても、心がそれをどこか認めない。

 心は空想を追い求めやすいからか?


(どうしたんだ? 忠光……)


 しかし、今の私がそんな事を考えても、分かる訳が無かった。

 夕日島にいる友人の事が心配だったが、明日の配達の為に早く床に入って寝た。

 その夜はいつもの夜とは違って、何度も眼が覚めてしまった…

 あの言葉が消えないせいで。



           5


 次の日の配達、私はいつも通りに郵便物を配達していた。

 今日も、配達物に黒紙はない。

 それどころか【黒達】命令もない。

 外の世界がどうなっているか分からないが、若者のいないこの町、箍野はすこぶる平和だった。

 どれだけ戦争が人を殺しているのか知らなくても、ここだけは平穏だった。

 私はなるべく早く配達を終えると、その足で郵便局に戻らず、そのまま水原綾芽の家に赴いた。

 昨日今日ではそうそう人の気持ちなど代わらないかもしれないが、少しでもあの人と親しみを持ち合いたかった。

 それは、あの人の辛さを慰めたいとか、人道的立場から言っているわけではない。

 ただ、自分のため。何かできることが無いか模索している自分のため。

 水原綾芽に少しでも、役に立てるならそれで良し。できないならまた次。

 要は自分が誰かのために役に立ちたいと思っているだけ。

 私の基本的な行動理念はそれだけだった。

 私は水原家につくと玄関の呼び鈴は鳴らさず、フネさんがいない事を知っていたので、そのまま、一直線に綺麗な花壇をぬけ中庭に向かった。

 そして、そこには昨日と同じように水原綾芽がベッドに寝ていて、上半身起き上がって焦げ茶色の表紙をした本を読んでいた。


「こんにちは」


 私の声に気づくと、一瞬、不安そうな表情をして、眼を瞑ったまま、私のほうに振り返った。


「こんにちは、坂本さん。郵便ですか?」


 その声にはつい先ほど見せた不安そうな感じは見られなかった。

 まるでその声の主が誰だか分かったような表情で、慎ましく笑った。


「いえ、配達ではないんです。この近くを通ったので、よければ少しお邪魔してもよろしいですか?」


「ええ、どうぞ。フネさんは居ないのでお茶も出せませんが……」


 そう言って、苦痛に満ちた笑顔をみせた。私の来訪した理由が配達ではなかったことに気づいたのだろう。

 詰まるも、何か大好きなものを目の前で取られてしまったような喪失感。

 なにより、彼女の瞳は赤く腫れていた。

 それに気付いたが、私は何も言わなかった。


「ええ、構いませんよ」


 私は縁側に近寄り、ゆっくりと腰を下ろした。


「フネさんはいつ頃、お戻りになるのですか?」


 一息ついて、水原さんに聞いてみた。


「明日の今頃には戻ってくるとは言っていましたけど…」


「お一人では、不便ではないですか?」


 ビクッと、水原さんの体が強張るのが分かった。

 何か触れてはいけないものに触れてしまったようなそんな感じの。


「……い、いえ。眼が見えなくとも、この家の中ならば、生活の最低限度の場所には、見えなくても、ちゃんと行けますから」


 苦笑いでそう、言っていた。


「……手紙」


「!?」


「手紙は……出しているのですか?」


「? い、いえ」


「手紙を待つだけでは、長い時間でしょう。彼に手紙は出さないんですか?」


「……知っていたんですか。私の恋人が兵役招集にかかった事を」


「ええ。失礼とは思いましたけど、風の便りで……」


「そうですか……。私からは……手紙を出さないんです。彼からの手紙を待つだけ」


 首を横に振りながら彼女は、違う、と言った。


「彼が帰ってくるのを待つだけです。どんなに長くなろうとも」


「……」


「それしか出来ないんです、私には」


 そう決意した表情で言っていた。

 その後、何かしら世間話を楽しくしていたが、ほとんど頭に残らなかった。半刻ほど、他愛も無い話をして、彼女が疲れ顔だったので、私は一先ずそこから離れた。

 帰り道、ずっと頭から離れなかったのは、彼女の決意した顔だった。

 決意して「帰ってくるのを待つ」といった彼女の顔には、一切の迷いは無かったようにはっきりしていた。

 そんな事を考えながら、水原さんの家から出て少し経った所で、私は郵便帽を忘れた事に気付いた。

 急いで引き返し、あの郵便帽が置いてあるだろう縁側へ向かった。

 縁側には私の郵便帽が置いてあった。

 確かにそこに置き忘れていたようだった。彼女はすでにお昼寝モード全開なのか、すやすやと眠っていた。起こさないように引き返そうときびすを返した時、あるものが私の眼に映った。

 それは彼女がいる部屋の畳の上に散らばる、何枚もの紙切れ。

 黄ばんだ古そうなものから真っ白い新しいものまで。

 見るから無造作に、その紙がこの部屋に据え落ちていた。


「これは?………」


 注視すると、それには縦書きの文字羅列でぎっしりと埋め尽くされていた。

――それは、手紙だった。

 恋人からの、何枚にも亘る彼女への手紙。

 まさしく、二人の生きる宝物といえるもの。

 水原さんに気付かれないように縁側から上がり、その手紙を引き寄せて確かめてみた。

 確かに手紙は、綺麗な書体で、しっかりとした文章で、書かれている。

 その内容を確かめようとして、じっと……


「う、ん……」


 突然の彼女の声に、私は思わず振り向く。

 確かめると水原さんはまだ、寝ている。

 ほっ、と安堵。

 安らかな寝息が聞こえる中、罪悪感を覚えながらも、それをよく観察してみる。


(――え?)


 そのどれもが、くしゃくしゃだった。

 他の何枚か確かめて見ても。

 どの紙も儚く崩れていた。

 まるで、泣きながらその手紙を力強く抱きしめたみたいに。

 文字すら、滲んでよく読めない。

 かろうじて読めるのは、恋人の名前だけ。


「――――君か……」


 ぽそりと、その名を読んでみる。

 気丈にも、いつも笑顔を見せていた水原綾芽。

 しかしやはり、その辛さには耐えられるものではなかったのだろう。

 もし万が一、仮定の話だがこの恋人が亡くなったら、彼女はどうなってしまうのだろう。

 私には耐えられない。

 そんな経験をした事が無いから解からないが、それ以前に自分の心が壊れてしまうだろう。

 待つだけの焦燥感。

 その募る思いは誰にも分からない。

 どれだけその人を愛していても、もしかしたら戻らないかもしれないという恐怖には勝てないだろう。

 きっと彼女は心の中では、悩み苦しみ続けているのだ…



        6


 郵便局に入ると、重々しい雰囲気が漂っていた。

 暗い影みたいなものが部屋中にさしているかのように見えた。


「どうしたんだ?」


 山本と他の同僚が無言のまま、机の上に仕分けされてある郵便物を見て固まっている。


「坂本さん、来たんですよ。例のあれが……」


 例のあれ?

 その郵便物を確かめるために、同僚を押しのけるようにその机へと向かう。

 そこには一枚の書類と…黒紙の束。


「こ、黒達命令か!?」


 その一枚の書類には黒達命令と書かれている。黒達命令とは一斉黒紙速達郵便命令の事。

 黒紙は本来一枚一枚配達されるものではない。戦死した者の家族にはすぐに戦死が伝えられるわけではないのだ。軍部が一定量に達するまで作戦部が集め、保管し、ある一定量に達すると政府の指令書とともに一斉に各地の郵便局に軍部から流されるのだ。単独で来る黒紙は、裕福な軍部のエリートぐらいのものである。箍野付近でそんなエリートが存在するはずもない。

 私が経験する中でこの黒達命令は過去二回経験している。

 つまりこの命令で三度目。

 当たり前だが、いい気なものではない。


「何枚ぐらいありそうだ?」


「この量からすると、二十枚はありますね……」


 山本が沈んだ面持ちをして黒紙を見ている。

 今にも吐きそうな顔色の悪さで、耐えていた。


「山本、しっかりしろ! 配達するのは私たちの仕事だ!」


「は、はい……」


 この配達は山本には荷が重過ぎることは間違いない。

 兵役免除者が黒紙配達など、自殺行為に等しい。戦死家族に罵倒されるレベルではない。

 それはるかに超えた仕打ちが山本を待っているはずだ。

 それほど兵役免除者には風当たりが強い。

 それでもこの量は箍野全域に広がるから、どうしても三人で配達しなくてはいけない。

 山本には辛いが頑張ってもらうしかなかった。

 私は自分の配達地域に仕分けされた黒紙を受け取る。


「配達に出てくる。」


 私は他の二人より早めに郵便局を後にして、悲しみの配達に向かった。



 その夜。

 私は珍しく書斎で、白い便箋と格闘していた。

 万年筆を使い、紙に書いては失敗し、屑入れに投げ捨てる。

 それを何度も繰り返した。

 書いては捨て、書いては捨て。

 何度も文章を推敲した。

 今日あった黒紙の配達を思い出す。その配達の住所が書かれた中に、彼女の住所が明記されていた。配達途中にそれに気づき、目を疑った。

 急いで、自分が配達しようとしていた黒紙の宛名を見て、脱力してしまった。

 その一枚には、こう書かれていた。

 彼女の住所と、宛名の水原綾芽という名前。殉死者は――――殿、と。

 運命の悪戯なのか、この世に救いが無いのか、何で水原綾芽にこんな現実を突きつけるのか、彼女に何と言えばいいのか、今なにを考えればいいのかさえ、分からなくなってしまった。

 あの黒紙のせいで今までとこれからの平穏が、泡のように壊れてしまった。

 最期の黒紙を持って渡す段階になった時、水原さんにその黒紙を渡すことは躊躇われた。

 だから私はその黒紙を隠して、彼女には恋人が死んだ事を伝えなかった。

 郵便局員としてあるまじき行為とも言えなくはない。

 その代わりとして、私が彼の幽霊作家になり手紙を書くことにした。

 明日、この手紙を読み聞かせるために。

 少しでも希望を持って欲しいために。

 彼女をただ守りたかった。


「体の調子は、いかかですか……と」


 書き慣れない書体で、一枚の手紙をこっそりと借りて、その文調を真似る。

――違う。そう失敗しては紙を丸め、簡単に捨ててしまう。

 それを延々と繰り返して……私は書くのを止めた。

 椅子の背もたれに寄りかかり、染み汚れた天井を見上げる。


「どうして……こんな事になってしまったんだ……」


 誰も居ない一人の書斎に空しい後悔が響いた。

 そしてまた筆を取る。

 出来るだけ自分の思いを彼の想いに近づけて。

 それが例え代用品だとしても、この手紙には手が抜けない。出来るだけ似せる。

 自分の気持ちを無視して、あの恋人になりきって手紙を書き続けた。

 彼女が望んでいるのは完璧な彼の手紙なのだから。

 私の徹夜はこれからも続くのだろう……





さらに悲劇は加速していく


坂本は、どうやってこの苦しみから彼女を助けようとするのか


理由の間幕へ

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